Someday 4
海の唇は炎のそれから僅かに離れ、顎を掠めると首筋へ落ちていった。湯に暖められてはんのりと色づいている炎の肌を確かめるように唇を這わせていた海は、扉をノックする音にびくりと動きを止めた。途端に炎は海の腕を振り解いて後退さる。 「電話鳴ってるよお、何今時分風呂なんて入ってんの」 扉の向こうから聞こえてきたのは若い女性の声で、海はハッとして応えた。 「すぐに出る。出ておいてくれ、ナギサ」 「時間に忠実な兄貴にしては珍しいから、聞いて上げる。少しは自由な精神を受け入れたって事かな」 くすくすと笑って声は去っていった。扉から視線を炎に移して海は僅かに困ったような表情を浮かべ、後暫く湯に入って暖まっておけと言い置き、風呂から上がっていった。 海の姿が風呂場から消えると炎ははっと大きく息を吐いて再び湯船に浸かる。確かめるように指先で自分の唇を辿り、炎は真っ赤になってぶくぶくと湯船に沈み込んでしまった。 「……キス…しちまった…」 真剣な海の表情に捕らわれて逃げることもできなかった。あの一瞬だけ海を怖いと思ったけれど、嫌ではなかったということは、やっぱりもしかして自分はこんなことをしてもいいくらいには海のことを好きなのだろうか。 炎は他にもっと考えなきゃいけないことがあるだろうと、自分を責めつつもどうしてもさっきの一瞬に想いが戻ってしまいぐるぐると頭の中にそれが駆けめぐっている。 「エン、着替えを置いておく」 「あ、ああ」 かたりと音がして聞こえた海の声に、炎は湯船からあがった。湯あたりとさっきの出来事でぐらぐらする頭を冷たい水で顔を洗うことで冷やし、漸く用意されたスエットに着替えて出た炎は、居間のソファに正座して電話の子機を目の前にじっと考え込んでいる海に首を捻った。 「何してんだ?」 「今、ヨクから電話が入った。シンはヨクの家にいる、無事だそうだ」 「えっ?ほんとか! そうか、良かった」 海の言葉にほっとして炎はソファに腰を下ろした。自分たちの家に戻るのは危ないと、森は翼の家に転がり込んだらしい。多分こっちに来ているだろうと電話を掛けたとのことだった。しかし、雷はどうなったのだろうか。 「そういやライのサイドカー、壊れちまったな。弁償金いくらなんだろ」 「奴らは、お前のことは良く知っていても、われわれのことまでは調べていないだろう。暫くここから動かずに何か善後策を考えなければ」 炎が海の家に、森が翼の家に居るならば暫くは見つけられずに済むかもしれない、けれど調べる方法はいくらでもある。いつかはここに居ると判ってしまうだろう。 「山海市を離れて身を隠すか」 「冗談じゃないぜ。こそこそ隠れて逃げ回るなんて趣味じゃねえよ」 「冗談などではない。身の安全のためには」 「いやだ!」 「エン!」 立ち上がり、怒りも露わに拳を握りしめる炎に、海も声を荒げて諫めようとする。その険悪な雰囲気に割って入ってきたのは、さっきの女性の声だった。 「なになに?喧嘩?」 「ナギサ…」 現れた少女に炎は目を見張った。顔立ちは可愛くてお嬢様っぽいのに、髪は金髪に染め耳にはピアス、指にマニキュア衣装は渋谷を練り歩く子ギャル風という感じだ。渚と呼ばれた少女は、じろじろと炎を眺めにっこり笑うと挨拶した。 「カイの友達にしちゃ、なかなかまともね。私はナギサ、よろしく」 「ああ、俺はエン。よろしく……ってカイの妹?」 あまりに違う兄妹の姿に…といっても、そう言われてみれば顔はそっくりだ…炎は驚いて二人を見比べる。にこにこ笑顔の渚に比べ、海は苦虫を噛み潰したような顔でいた。 「友達の家に泊まると言ってなかったか?」 「ああ、あれね…気が変わったの。いいでしょ、自由で」 ふふんと鼻先で笑い、炎にごゆっくりと言うと渚は居間から出ていった。ぽかんとして見ている炎に、海は軽く溜息を付き、とにかく食事をしてから考えようと自室へ案内する。整然と整理された本棚や部屋に、炎は海らしいと苦笑した。 「やっぱ、ただじっと待ってるってのは、嫌だな」 「しかし、相手の力は相当な物だ。迂闘に近づけば奴らの思い通りになる」 食事が終わって海の部屋に落ち着いた二人は、腕を組んで考え込んだ。黙り込んで考えているような炎に、海はふと目を向け微かに眉を琴めた。 「エン、眠るのなら客間に行け」 「んー……ふあぁ、駄目だぁ、普段考え付けねえから眠くって……」 こてんとその場に横になる炎に、海は慌てて手を掛け揺り起こした。 「こら、こんなところで寝たら風邪を引く。客間に布団を敷くからそこで寝ろ」 ゆさゆさと動かしてもクッションを抱えたまま動こうとしない炎に、海は軽くため息を付き、その耳元に囁いた。 「…ここで寝るということは、どうなってもかまわないということか…」 がばっと炎は起き、冷や汗を浮かべながら海の顔をそっと見つめる。至極真剣な海の表情に、炎は引きつった顔で笑みを返した。 「客間に行きます……」 うむと頷き、にこりと笑って立ち上がる海に、炎は大きく溜息を付いた。外からちらりと見ただけでは判らなかったが、海の家は実に広い。廊下を暫く歩き、角を曲がって扉を開け、再び廊下を歩いた先に立派な八畳間があった。まるで日本旅館みたいな家だなあと感心してきょろきょろ見回している炎を後目にさっさと布団を敷くと、襖を閉めて海は出ていこうとした。 「あ、と、カイ」 「何だ?」 海を呼び止めて炎は暫く口ごもっていたが、顔を僅かに赤く染め、そっぽを向きながら小さく礼を言った。 「サンキュ。色々迷惑かけてごめん」 「私は自分のしたいようにしているだけだ。気にしなくて良い」 にっこり笑い、ゆっくり休めと言って海は襖を閉める。炎はごろりと高価そうな布団の上に横になり、ぼんやり天井を見つめて考えた。このままここに居ては海に迷惑を掛ける。迷惑どころか命だって危ないかもしれない。奴らは炎のことを殺したりはしないだろうけど、じゃまな奴を排除するのは躊躇わないだろう。 本物の勇者なら、悪者を簡単にやっつけられるはずだ。なのに自分はこんな事で右往左往している。力など無い、守られてばかりいる勇者なんて世間に居やしない。 「俺が本当に勇者なら」 『人を、動物を、地球を…守り戦うことができるのか……』 何と戦い、何を守れと言うのだろう。自分の身さえ守れないひ弱な自分が…。 「あ…やば……」 目頭が熱くなってきた。炎は自分の情けなさに拳で目元を押さえると、起きあがった。落ち込んでいるだけなのは性に合わない。 そっと襖を開け左右を確認し、炎は足を忍ばせて元の方向へ歩いていく。だが、途中でどっちに行けばいいのか判らなくなり、首を捻って考え込んでしまった。 「エン」 「誰だっ? え、リュウ?」 廊下に面した庭の立木の側に、影のように竜が立っていた。何でこんな所にと驚いて見ている炎に竜はスニーカーを放って寄越す。着いてこいと言うように顎をしゃくる竜に慌てて炎はそれを履くと後を追った。 庭を取り囲む塀を乗り越え外に出ると、竜は足音もなく歩き始める。横に並んで歩き出した炎は、その方向が学校だと気付くと竜の顔を確認するように見た。 「ライか?」 「ああ…」 前を見たまま炎の問いに短く応え、竜は足を早めた。炎はちらりと海の家の方を向き、心の中で謝って竜に追いつくべく走り出した。 「済みません、迎えにいけなくて」 学校の裏山にある洞窟に案内された炎は、こんな場所がここにあるのかと驚きながら入っていった。入り口は狭くても中は意外に広く、ぼんやりと明かりがともっている。そこで待っていた雷ににこやかに挨拶され、炎はじろりと睨み付けた。 「お前は何者だ」 「あれえ、言いませんでしたっけ?僕は勇者を守る者です」 「だから、それは何だって訊いてんだ。何で勇者のことを知ってる?奴らの目的は何なんだ、勇者をどーしようってんだ。こんな…何の力もないのに」 困ったように首を竦める雷に怒鳴るように言っていた炎は、次第に声を落とし自分の手を見つめた。そんな炎の手を取り、雷は真剣な表情で首を横に振った。 「あなたはまだ本当の勇者を知らない。力がある、無いは関係ないんです、勇者というのは」 「ライ」 「僕を信じてください」 炎の手に雷はそっと口付けた。びっくりして目を見張る炎ににっこりと雷は微笑み掛ける。どぎまぎして手を離し炎が頷くと、雷はじっと黙って立っていた竜に目を向けた。 「ありがとうございました。暫くこの場所を貸してください。奴らの本拠地を探し出して根を絶つまで」 「別にこの場所は俺の物と言うわけではない。好きなだけ居たらいいだろう」 ぽつりとそう言って竜は炎を見つめた。何かを探っているような見出すようなきつい視線に炎も思わず睨み返してしまう。 「森も山も、お前を受け入れている。……不思議だな、勇者か」 独り言のように呟くと、竜は踵を返して洞窟から出ていった。きょとんとして竜の後ろ姿を見ていた炎は、一つ欠伸をして洞窟の壁に寄りかかった。 「で、信じるとして、説明はしてもらえんのか?」 「はい。あなたのお祖父様が亡くなられた時の事は覚えてますか?」 炎の向かい側に腰を下ろし、雷は話し始めた。頷く炎に、続いて語り始める。 「あの時は不覚にも奴らに先手を奪われて、救うことができませんでした。奴らは彼が勇者ではないと見切ると、証だけでも奪おうとして執拗に狙っていたのです」 勇者の証を幼い自分に託し故郷へ戻っていた祖父が、殺されたと聞いたのはいつだったか。薄暗く雨の降る異国で、両親と共に墓に参ったとき現れた奴ら。丁寧な言葉で両親と話をしていたが、ぞっとするような嫌な感じを放っていた。 拉致され掛かった三人を誰が救ってくれたのか…徐々に記憶が蘇ってくる。淡い髪の色、翠緑の瞳、優しい笑顔… 「…! お前、あの時居た」 にっこり笑って雷は驚きに見開かれた炎の目を見つめた。 「奴らは勇者の力を欲しています。ここ何百年かは単に傀儡となる顔のために勇者の血筋の者を探し出して組織の頭としていたのですが、今回は様子が違うんです。もしかすると、奴らはジェノサイドを蘇らそうとしているのかもしれません」 ジェノサイドという言葉に、炎は訳も分からず背筋にぞくりと悪寒が走り抜けた。 「ジェノサイド…?」 「はい。地球と一つになって世の中から不平等、不公平という概念をなくせる存在、と言われていますが」 そんな良い存在ならこんな気味の悪い感覚は何なのだろう。悪寒の後にふつふつと熱く怒りと反発のようなものが湧いて出てくる。 「それはあれの本質ではありません。奴らは都合良く利用しようとしていますが、そんな甘い存在じゃないんです。蘇ってしまえば、意識も存在もすべてがジェノサイドのものとなります」 「そいつを蘇らせるのにどうして俺が必要なんだ?」 「勇者は、餌です、極上の…最初の封印の記憶が血に流れています。それを嗅ぎつけて食い破り出てこようとするんです」 げっと炎は顔を顰めた。自分を噛みちぎり、食い破るジェノサイドというのは一体どんなものなのだろう。どおりで悪寒がすると思った。 「はあ、なんかもうSFつーかファンタジーな世界だな。RPGじや勇者はそういうの倒すためにダンジョンの奥まで突っ込んでいくってのが普通だけど、現実の勇者さまはこんな所でこそこそと隠れてるって訳か」 苦々しく呟く炎に、雷は僅かに眉を曇らせて顔を避けた。 「まだ奴らの目的が本当にそれなのか判っていません。単なる傀儡を設えたいのだったら、僕らの力でもやりようがありますが、もしジェノサイド絡みだとすると、真なる勇者の力が必要になります」 「奴ら…?」 はっと口を押さえ、雷はごまかすように笑みを浮かべる。じと目で炎は雷を睨み、ずいと近づいていった。 「まだ何か隠してんじゃねーだろうな」 「か、隠してるなんてそんなことないですよっ!それより、明日まで寝てください。僕が見張ってますから」 疑わしそうに見ていた炎は、雷がそれ以上口を割りそうもないことを見ると、溜息を付いてごろりと地面に横たわった。途端にさっきの海の家の暖かくて柔らかい布団が思い出される。自分の家のベッドで眠れる日は来るのだろうか。 「カイの奴、心配してっかな。シンも」 「済みません。迂問に関わると、危険ですから」 「解ってる」 今までは関わってるとしても、まだ大丈夫だと思った。けれど、ジェノサイドのことまで聞いてしまったら抜き差しならなくなる。そんな危ない目に大切な人たちを巻き込みたくはない。 でも、また一人になる。仕事で留守がちの母親の居ない家にいつも一人で居た炎には、森と二人暮らしていた賑やかな生活はとても楽しかったのだ。 ぼんやりとカイの顔やシンの顔を思い浮かべながらいつしか炎は眠りに落ちていった。 |