天界の闇 -3-



 期末考査が近付き、秋亜人は再び麗牙に家庭教師を受ける羽目になった。
 今では凱と居る事にも大部慣れ、微かに不安感はあるものの、一緒に稽古などしていると、ずっとこうだったんじゃないかという位しっくりと息が合う。一緒に勉強をしないかというお誘いを受けたが、前から麗牙に言われていたのでそれを断り、だが、変わりに同じマンションに住む凱の所へも顔を出すということで納得してもらった。
 試験まで後一週間、学校の帰りに二人連れ立って帰る。家には寄らないで真っ直ぐ麗牙の所へ勉強しに行く秋亜人は、途中のコンビニエンスストアで食料品をしこたま買い求めた。
「ほら凱、これ」
 ぽんと凱にコーヒー缶を放って、自分も同じものを飲む。凱はその荷物を呆れたように眺めた。
「有り難う。でもそれどうするんだ?」
「料理の材料。俺が作るの、授業料の代わりさ」
 肩を竦めて言う秋亜人に凱は目を見張る。
「そうか、得意だったものな。僕も呼ばれたいもんだ」
 最初の言葉は呟きで、秋亜人の耳には届かなかった。ん? と凱を見て、秋亜人は笑って頷いた。
「いいぜ、凱も来いよ。どうせ今夜は鍋物だから、人数多いほうが沢山作れて経済的だ。麗牙も良いって言うだろうし」
 麗牙の部屋まできてベルを鳴らす。現れた麗牙の機嫌の良い顔は、後ろの凱を見ると一変した。
「あら、凱…」
「一緒にいいだろ? 凱は一人暮らしなんだと。夕飯一緒に食べた方が美味しいもんな」
 麗牙の表情には気付かず、秋亜人はずかずかと入っていった。凱を中に入れる時に、二人の間に僅かに火花が散る。にっこりと凱は笑って、お邪魔しますと中に入っていった。
「ほんとに、お邪魔だわよ」
 ぶつぶつと麗牙は言ったが、取り敢えずお茶を出して、秋亜人が用意するのを邪魔する事がないように、居間に退散していった。
 準備を終えて二人を呼ぶと、何故かよそよそしい様子に、小首を傾げる。
「何か…あったのか?」
「何でも無いわよ。まー美味しそう。秋亜人ちゃんたら良いお嫁さんになれるわね。あたしが貰っちゃおーかな」
 さっそく箸を付けながら麗牙がそう言うと、凱は剣呑な光を目に浮かべた。
「馬鹿言うなよ、結婚なんて出来る訳無いだろ」
 呆れたように秋亜人は言った。
「従兄弟どうしなら結婚出来るわよ」
「そーいう問題じゃなくて」
「秋亜人、このたれ、とても美味いけど、どうやって作るんだ?」
 強引に凱が話題を変え、巧みに話を操って秋亜人の関心を自分へと持っていってしまう。麗牙は眉を顰め、小さく歯噛みした。
 それから毎日、凱と一緒に帰り、マンションへ行く日々が続いた。当然夕食は三人仲良く食べている。最後の日、自分の部屋へ戻ろうとした凱に珍しく玄関まで麗牙が送り、出ていく時にぽつりと言った。
「今日が最後だしい、そろそろあたしの限界も切れそうだわ」
 それには応えず、強く険悪な光を目に乗せ、凱は麗牙を睨み付ける。引きつりながらも余裕の笑みを返して、麗牙は扉を閉めた。
 試験が終わって漸く自由の身となった生徒達は、それぞれクラブやら遊びやらに繰り出していく。それなのに秋亜人は生徒全室に閉じ込められ、与えられた仕事にぴーぴー泣いていた。
「なーんで、俺がこんな事やんなきゃならないんだよー!」
「試験で人手がなかったからな。一杯溜まってしまったんだ。これを今日中に片付けなければ、夏休みに出て来させるぞ」
 日向の頑とした言葉に、秋亜人はがっくりと書類の山に埋もれてしまう。苦笑する龍馬はもう三年で引退した身だが、手伝いにきているのだった。
「俺は生徒会の役員じゃない! 夏休みは始めから合宿があるんだぞ」
「ここに入り浸っているのがいけない。立ってるものは親でも使う。それがここの信条だ」
「鬼だJ
「何とでも。ほらほら、崩れるぞ」
 慌てて書類を掻き集め、秋亜人は大きく溜め息を付いた。今日中にこれを終わらせるったって、できるのだろうか。
「終わったら、何でも奢ってやる」
「わーい」
 見えない尻尾をばたばたと振ってから、又これで釣られてしまったと、落ち込むのだった。
 漸く書類を片付け、教室に戻る頃には夏の始めの長い陽でも沈みかかっている時刻だった。早く鞄を取って、日向に色々奢らせてやると考えていた秋亜人は教室の扉を開けた途端、そこに人影を見出だしてびっくりした。
 こんな時間まで残っている人間など居ない筈なのだ。
「凱…」
「生徒会の仕事、終わったのか」
 凱は自分の鞄は机の上に置き、手には秋亜人のそれを持っていた。
「おっどろいた、今まで、まさか俺を待ってたのか?」
 凱は肯いて立ち上がり、鞄を秋亜人の方に差し出す。だが、秋亜人は自分の意思に反して足を動かす事ができなかった。いつもの凱とは微妙に違っている雰囲気が、秋亜人の神経を逆撫でする。
「ああ。今日も麗牙の所に行くんだって? もう試験は終わったのに」
「打ち上げやろうって。あ、が、凱も来れば……」
 一歩凱が近付くと、じりっと秋亜人は後退さる。それを繰り返す内に、とうとう壁際まで追い詰められてしまった。
「どうしたの…?僕が、怖い?」
 凱の笑みは普段と同じなのに、瞳が違う。あの闘いの時に見た、血のように赤い瞳。夕日が窓から差し込んで、凱を後方から照らし出す。朱に染まった凱の綺麗な髪と姿が徐々に近付いて来たと思った時、唇を塞がれていた。
 それが凱の唇だと知り、茫然としていた意識を無理に引き戻し、秋亜人は逃れようと身を捩る。だが、凱の腕は秋亜人の肩と手首を捕らえると、壁に張り付け、逃そうとはしない。
 舌が唇を割って入り込む。滑るその感触に秋亜人はぎゅっと目を瞑って堪えていた。凱の舌は秋亜人の舌を捕らえて触り、吸い上げる。思ってもみなかった行動に、目を開くと、凱の瞳とかち合った。
   吸い込まれそうな赤。この彩……俺は知っている…

 凱の舌は何時までも秋亜人の柔らかい口内を楽しんでいたが、やがてゆっくりと離れていった。ほうっと息を継ぐ秋亜人に、再び口付けようと寄ってきた凱を思い切りひっぱたく。
「こ…の…馬鹿野郎!」
「…御免……。でも秋亜人にキスしたかったんだ。僕は秋亜人が好き…だから」
 壁に縫い付ける力は弱まったものの、秋亜人を離そうとはせずに、顔を肩に乗せ呟く。びくっと身体を硬直させた秋亜人は暫くそのまま立っていた。
 夕方とはいえ気温は未だ高い。どきどきと鳴る鼓動に合わせて吹き出した汗が背中を流れ落ち、シャツを張り付かせた。
 凱からも微かに汗の匂いを嗅ぎ取って、秋亜人は少し安堵する。凱は、汗もかく人間なんだと。何故そんな風に思ったのか疑問が残ったが、完璧な凱が同じように汗を流しているのが、可笑しく思えた。
「俺も、お前の事、好きだけど。こんなのは変だ。お前らしくないよ。凱」
「ん……御免。もう、しないよ、秋亜人が嫌なら」
 あっけないほど簡単に凱は離れ、落ちた鞄を拾って秋亜人に手渡す。自分の鞄を持ち、秋亜人に笑い掛けると、そのまま外へ出ていった。
 ぼうっとそれを見ていた秋亜人は慌てて飛び出し、後を追う。校門の所に日向や龍馬の姿は見付けたが、凱の姿は無かった。
「どうした、秋亜人。慌てて」
「が、がいっ、見なかった?」
 息を切らせて駆けてきた秋亜人に、不思議そうに二人は訊く。秋亜人の言葉に顔を見合わせ、見なかったよと首を横に振った。
「凱がどうかしたのか?」
 龍馬が心配そうに尋ねる。秋亜人は、息を整えると、何でも無いと首を振った。
 去っていく秋亜人達を、凱は赤い瞳で隣の教室の窓越しに、何時までも眺めていた。

 各教室から喚声が上がる。やっと一学期が終り、明日から嬉しい夏休みなのだ。勿論成績票の憂いはあるが、そんなもの忘れて騒いでしまう。
「秋亜人、どこか行く予定あるのか?」
 クラスメイトの一人が尋ねる。
「クラブの合宿。那須高原でね」
「え、そんじゃ、俺達と一緒じゃん」
 柴山がそう言った。と言う事は、剣道部も柔道部も一緒だということか。この二つの部は大抵いつも同じ行動をする。責任者が吊るんでいるからかもしれない。
「でも、那須ったって広いからなあ。な、凱」
「ああ」
 あれから秋亜人はぎこちないながらも、凱との関係を壊したくないと、努めて平気にしてきた。凱の方もあれから秋亜人に迫る事は無く、普段のやりとりをしている。それでも、周りはなんとなくそれを嗅ぎ付け、仲がいい様を美女と野獣などと噂立てるのだった。
「ま、会えたら宜しくな」
 親指立てて片目を瞑ってみせる。柴山はああ、と頷いたが、凱の鋭い視線に合って嬉しい笑みを引きつらせてしまう。
「どっちが野獣なんだか」
 ぼそっと言った言葉を別のクラスメイトが聞き答め不審そうに眉を顰めた。
 高原の空気は流石に涼しい。秋亜人は車から降りると大きく伸びをして息を吸い込んだ。
「秋亜人、荷物持っていきなさい。あたしはこれから日向達を送っていくんだから」
 窓から麗牙が顔を出して怒鳴るのに、秋亜人は舌を出して顔をしかめた。
「どーせ、すぐ隣の貸し別荘じゃねーか。この背中合わせの所だぜ、そんなに怒鳴るなよ」
 ぶつぶつ言う秋亜人と反対に、凱はトランクから荷物を取り出すと、ぺこりと麗牙にお辞儀をしてさっさと歩き始めた。
「あ、凱待てよっ」
 慌てて後を追いかけ、別荘の中に入っていく。麗牙は頭を引っ込めて中に居る二人に声を掛けた。
「この配置は、仕組んだの?」
「武術クラブへ話して聞き出した」
「凱が無茶しなければ良いのだが。無理に思い出させる事になったら、秋亜人は又辛くなる」
 腕を組んで龍馬が言うと、日向も頷いた。麗牙は車をスタートさせると、道を一本違えた所へ入っていく。他の部員はバスで地道にやってくるだろう。しかし、一時間でも凱と秋亜人を二人切りにさせておくのが不安だった。
「良い所だなー」
 窓を開け放ち、目を細めて空を見上げる秋亜人に、凱も嬉しそうに言った。
「この近くに僕の家の別荘もあるんだよ。もし暇があったら行ってみないか?」
「へー、凱の家ってほんと金持ちなんだな」
 緑を敷き詰めたような景色は、秋亜人の心、奥底の琴線に触れる。柔らかい光、澄んだ空気、豊かな緑の樹木……。
「秋亜人」
 後ろからそっと肩に手を置かれ、秋亜人はハッと我に返った。そう言えば、今この場には凱と二人切りだ。未だ他のメンバーが来るには時間が在る。それを認識して、秋亜人の頬に血が上る。
「さ、散歩にでも行くか」
 くるりと振り返って明るく言うと、凱も頷き、歩き始めた。秋亜人はほっとすると同時に散かな失望も感じて微かに戸惑った。
「秋亜人、散歩か?」
 茂みから日向達三人が姿を表す。あんまり唐突に現れたので、見張ってでもいたのだろうかと秋亜人は考えた。事実その通りで、このまま出て来なかったら押し掛けていこうと日向達は考えていたのだ。
「あ、あれ」
 暫く歩く内に道路に出ると、剣道部や柔道部、武術クラブのメンバーがてくてくと歩いてくる。秋亜人は手を振りながら、その方へ駆け出した。


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