天界の闇 -2-



 凱は日が経つに連れファンが多くなっていき、もう案内する所も無いので、一緒に居る事も少なくなった。しかし、何故かいつも凱の瞳が自分に向けられている気がする。自意識過剰なのかとも思ったが、ふと流した視線の先に必ずあの赤茶の目が在るのだった。
 それがどうしてだか、苛立たしくていつも判る程にぷいと逸らしてしまう。それでも視線は張り付いたまま動かない。いたたまれなくなって教室を逃げ出す事もしばしば在った。
 逃げ出す先は生徒会室で、仕事があるのが幸いだったりした。日向に頼まれた仕事をてきぱきと片付けつつ、昨日龍馬に言われた事を考え、溜め息を付いてしまう。
「何、溜め息を付いてるんだ?」
「体育大会の模範武儀か、俺一人でやれないことはないんだけど」
 そう、どこにも属していない秋亜人をメインとして生徒会では、模範武儀を行う事にしたのだ。前座として日向と龍馬が剣道、柔道の立ち会いを行い、ついで秋亜人が幼い頃より覚えし技を披露する。
「お前なら大丈夫だよ。俺達に一歩も引かなかったじゃないか」
 そういえば、初めてクラブに誘われた時、自分に勝てば入らなくても良いなどと勝手な事を言われ、見事に二人とも討ち果たしたという記憶がある。
「ええ、まあ……」
 それと、一人で観衆の前でやるというのとは違うと思うのだ。何となく、凱の事が思い出され、秋亜人は日向に尋ねた。
「黒木は剣道部に入りました?」
「いや、多分入らないだろうな」
 本人でも無いのにはっきりと言われ、秋亜人は驚いた。日向は秋亜人に微笑み掛け、資料を手渡した。
「断ったんですか?」
「そうではないが、凱は俺の所には入らない。判るよ」
 尚も問おうとした秋亜人の視線を避け、他の資料をまとめ始めた日向に、訝しげな顔をする。それにしても、一度しか会ってないのに、もう名前を呼び捨てにするなどとは、もしかして知り合いなのだろうか。それを問うのも憚られ、秋亜人は仕方なく資料に目を通していった。
 家に戻ると華やかな笑い声が台所から聞こえてくる。一つは母親のものだったが、もう一つは。
「秋亜人、お帰り」
「げっ……」
 にっこり笑顔で現れたのは麗牙だった。そう言えば今日から無理矢理家庭教師に来てくれると言っていたっけ、と秋亜人はげんなりしてしまう。足音も荒く階段を上がって自分の部屋に入ると、鞄を放り出し、そろーっと窓を開けてそこから出ようとした。
「どーこ、行くの?秋亜人君」
 窓枠に足を掛けた時、背中に声が掛けられる。猫撫で声のそれに、秋亜人はくるりと振り返って、ごまかし笑いを浮かべた
「あ、へへ、いやーその、く、空気が悪いからいれかえよーかと思って」
「ふうーん。そうそ、道場の方へは今日は勉強の特訓をしますからって電話入れておいたから、休んでも平気よ。これで心おきなく勉強できるわよね」
 にこにこにこ、はっきりくっきり裏のある笑顔で麗牙に宣告され、秋亜人はすごすごと机の前に座った。
 それから間に夕食の休憩を入れて約六時間、夜がとっぷり更けるまで特訓は続き、漸く教科書参考書を閉じた時には、秋亜人はぐったりと机に伏してしまった。見掛けによらず麗牙はとっても厳しい先生だったのだ。決して秋亜人は頭が悪い訳では無いし、麗牙の教え方も心得たものだったので、結構先の方まで進んでしまい、止めようが無くなってしまった。
「今日はこのへんで終りにしようか。良く頑張ったな」
 ぽんと頭を一つ叩いて部屋を出ていく麗牙の足音を聞きながらも、机から頭が上げられない。数式やら化学式、年表、単語に接続詞…等々、頭上に繰り広げられるラインダンスを振り払い、ぼんやりと疲労感に身を任せる。

   黒木 凱……か。どこかで、会ったような。

 でも会ってる筈無いし。それに、あの何とも言えない感じ、懐かしさの様な感情はあの笑みからくるものだろう。でもそれと同時に来る…絶対認めたくは無かったが、恐怖というもの……。
 何が怖いのだろう。クラスにすっかり溶け込んでしまった凱は、優れた頭脳、運動神経もばっちりという天が二物を与えたもうたか、というくらい非の打ち所の無い奴なのだ。それだけ揃っていれば嫌味にもなろうかと思うが、優しげな美しい顔に、誰もがぽうっとなってしまう。
「好きにはなっても、怖がるなんてこと、俺くらいだろーな」
「何々? 誰が好きで怖がってるんですって」
 呟いた言葉に返されて、秋亜人は机から頭を上げた。麗牙は、コーヒーカップを二つ手に持って、じっと秋亜人を見詰めている。口調はからかい気味なのに、目は真剣だ。
「誰…って」
「はい、眠気ざまし。といっても今日はもうお終いだから、これから後は人生相談でもしてあげるわ」
 それから後は黙ったまま時が流れる。コーヒーを啜りながら、秋亜人はほのかな湯気を見詰め、話し出した。
「こないだ転校してきた奴がさ、目茶苦茶格好良くて、頭良くて綺麗でってほんと凄い奴で」
「それじゃ、あたしみたいなのね。何よ、何でこけるの」
「……で、皆奴の事が好き…憧れてるってのかな。俺も嫌いじゃないんだけど……何だか、ね」
 口ごもる秋亜人に、麗牙は目を伏せ、コーヒーを飲んだ。
「そいつが怖いのか?」
「判んねえ。でも近付いちゃいけない……なんて、ふっと思うんだ。何も考えてない時に、こんなのは違うって、出てくるのはやっぱ変だよな」
「近付くな、違う……か。秋亜人、あまり難しく考えるな。普通のクラスメイトとして付き合う分には、それくらいは支障ないでしょ。さ、もう寝なさい坊や」
 麗牙は飲み終わったカップを片付けながら、秋亜人の頭をくしゃりと撫でた。秋亜人は子供扱いされた事に腹を立て、反論しようと口を開いた。が、既に麗牙の姿は扉の向こうに消えていた。
「何でえ、麗牙の奴子供扱いしやがって。ま、考えてもしゃーねーな。やめやめ、とにかく、普通のクラスメイでやっていこう。うん」
 確かめるように大きく頷き、秋亜人はパジャマに着替え始めた。
「ただのクラスメイトで我慢出来るかしらねえ、あいつが…」
 マンションに戻った麗牙は、ふと上を見上げて呟いた。

 体育大会の当日、あちこちの場所でそれなりの催しが行われている。日く、一、二年生対三年のバレーボール、同じくバスケット、サッカー、ラグビー、球技系の派手さに比べ、剣道やら柔道などはかなり地味である。だが、今年は体育館の一部をバスケット戦からもぎ取って、模範武儀の会場とした。
 しかも、現会長の日向や、前会長の龍馬が出るというので、結構人が集まって来ている。そんな中、秋亜人は着替え終わって様子を伺うと、何故か裏方があたふたとしていた。
「どうしたんだ?」
「それが、お前の相手する苦だった部員が居なくて」
 同じクラスで剣道部員がおろおろしながら言った。
「うっそ! 俺、一人でなんて時間持たせられないぜ」
「仕方ない、俺が相手になるか」
 日向が呟く。探しにいった龍馬は未だ戻ってない。一人で型をとっても、あまり面白いものでは無い。やはり相手との組み合いが白熱して観客を呼ぶのだ。どうしたもんかと頭を悩ませていた時、扉を開けて凱が入ってきた。
「凱…」
「僕で良かったら、相手をするよ。話は聞いた。少しなら心得があるから」
 にこりと微笑む凱に、秋亜人はいきなり突きを入れた。それを軽く躱して腕を取る。秋亜人はにっと笑うと、腕を引っ込めた。
「なるほど、これなら大丈夫かもしれないな。手加減するから、良いよな、日向」
「……ああ」
 不承不承頷く日向を残し、二人は会場へと出ていった。日向は溜め息を付き、丁度入ってきた龍馬に軽く首を振る。
「やられたよ、あっちで伸びてた。怪我はさせてないようだったが」
「そうらしいな。今出ていった。まったく、見境い無くしてるよ。焦れてるらしい」
 うむ、と頷き龍馬は日向を促して会場を覗きに行った。中から感嘆のどよめきが漏れ聞こえてくる。それに誘われたのか、他の会場から、いや、未だ終わっていない他のクラブの連中までもその場へやってきていた。
 手加減すると言っておきながら、秋亜人はそれをすっかり忘れるほど闘いに熱中していた。これまで武術クラブですらこれ程の使い手には会った事が無い。むくむくと闘志が湧いて来る。
 最初は一方的に自分に攻撃させ、凱は守るばかりであったのに、疲れてきた秋亜人に今度は息をもつかせぬ撃を繰り出してくる。
 凱の動きは無駄が無く、風が流れるような美しいもので、見守る群衆はうっとりと息を吐いた。だが、対する秋亜人の方はまるで炎のように激しく、突く拳は光の軌跡の様である。
 見とれていた日向と龍馬は、ぽんと肩を叩かれてはっと振り返った。
「はぁーい、お二人さん、お久し振り」
「レイガ」
 にっこり笑って麗牙は頷いた。闘う二人の方に目を移して、短く溜め息を付く。
「これで、どうにかなるかしら」
「さあ、な。秋亜人のガードは堅い」
 白熱していく闘いに、秋亜人にはもう観客も、日向も龍馬も見えてはいなかった。ただ、目の前の凱だけを見繕めている。拳を技を繰り出しながら、それと別の意識が囁き掛ける。

   いつか…これと同じ事があった……?

 驚くほど鮮明な既視感……凱の赤い瞳が食い入るように己を見詰めている。
 赤? 凱の瞳は明るい茶色で……
「たぁーっ」
「うぐっ!」
 秋亜人の蹴りが凱の腹に決まり、音を立てて倒れる。秋亜人は慌てて倒れた凱に駆け寄った。
「凱っ、大丈夫か? すまん、手加減できなくて」
「大丈夫だ。腕を上げたな、秋亜人」
 服をはたいて立ち上がり、笑って握手を求める凱に、ほっと秋亜人も手を握り返す。周りからは割れんばかりの拍手が湧き起こった。
「凄かったわよ、秋亜人」
「麗牙、どうしてここに、二人と知り合いなのか?」
 戻ってきた秋亜人は、日向や龍馬と親しげに一緒に居る麗牙に吃驚したように声を掛けた。ぎくりとする二人に比べ、麗牙は余裕で応える。
「あら、知らなかった? あたしはここのOBよ。中学、高校とここを出て、アメリカへ留学してったんじゃない。忘れたなんて、はーんとボケたわね、秋亜人」
「…そう、だっけ…」
 何となく釈然としないが、麗牙がそう言うならそうなのだろう。麗牙はちらりと凱に目を走らせ、秋亜人を抱き寄せた。
「ちょっと遊びに来たの。秋亜人、さっそくだけど案内してくれないかしら」
「ここのOBなら今更案内する必要は無いのではありませんか? それより、汗を流した方が良いよ、秋亜人」
 秋亜人は頷いて麗牙から離れた。だが、待っている凱の方へも行かずに、さっさとシャワー室の方へと歩いて行く。凱も後を追おうとして、ちらっと麗牙を見やり二人に一礼をすると駆けていった。
「見た? あの目。ったく、この分じゃ先が思いやられる」
「だが、秋亜人の方が」
「ああ、未だ怯えているな」
 あーあ、と伸びをして腕を頭の後ろに組み、麗牙は大きな溜め息を付いた。
 シャワーで汗を流しながら、秋亜人はさっきの闘いを考えていた。あの時、何故あんな風に感じたのだろう。何時もよりずっと熱くて夢中になってしまった。そのくせ心のどこかに、何かが引っ掛かっててもどかしい。
「秋亜人、タオル置いておくよ」
「サンキュー」
 五、六個あるシャワーの蛇口は個別にしきられてはいるが、身体の中半分を隠す程度でしっかり見渡せる。その扉の部分に凱はタオルを乗せ、そのままじっと秋亜人を見つめた。
 後ろを向いてシャワーを浴びていた秋亜人は、その視線に振り返りびくっと身を疎ませる。
「な…に…?」
「いや、今日はとても嬉しかった。僕は僕と同じ位の使い手に会ったのは初めてなんだ。だから、どの部にも入らなかったんだよ。もし良かったらこれからも時々僕の相手をしてくれないかな。秋亜人と同じ武術クラブに入っても良いし」
 秋亜人に笑顔でそう言う凱は、どこも不自然な所など無い。秋亜人はびくびくしている自分が馬鹿に見え、頷いた。
「良かった。僕は君に嫌われていると思ってたよ。でもこれでもう本当の友達だね」
「勿論さ。そ、それじゃ今日終わったら一緒に武術クラブの方へ行ってみようか?凱程の腕前なら、一発で入門OKだと思うぜ」
「うん。じゃ、僕もシャワー浴びよ」
 隣に入る凱の白くて細い身体に、傷跡一つ無いのを見て、秋亜人は不思議に思った。確かにあの時、腹に蹴りが決まったと筈なのに、それほどの決まり方では無かったのだろうか。あの感触なら、痣が出来てても良いくらいだ。
 首を傾げつつ、凱の持ってきてくれたタオルで水気を拭き取り、外へ出ていく。その後ろ姿を凱はじっと見送っていた。


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