天界の闇



 門を潜った瞬間、周りの全てが目に映らなくなり、ただ一点に吸い付けられた。満開、否もう既に咲き切ってはらはらと花びらを撒き散らしている桜の大木が、一本だけそこに在る。
 まるで風にピンク色が付いているように見える程、舞い狂うその下へ秋亜人はゆっくりと歩いていった。

   何だろう……どこかで、見た……

 後で良く考えてみれば、これがいわゆる既視感というものかと思う。それにしては、何かが一つ足りないような気がしたけれど。
 あの時母親に呼ばれなければ、何時までもそれを見つめていただろう。

 学校生活にも大部慣れた今はもう五月、私立遼西高校では五月病になるような者も居ないようで、健全な男子高校生達が青春を謳歌している。その中の一人、日高秋亜人は色欲でなくもっぱら食欲を発散していた。
「おい、今日転入生が来るんだってよ」
 どこのクラスでもこういう情報通が一人は居るものである。寝坊して朝食を食べ損ない、さっそく購買部でパンを買ってぱくついていた秋亜人は驚きの声を上げた。
「今時?何でだ」
「何でも最近ヨーロッパから帰って来たんだと。にしても良く入れたよなあ、この時期に」
 編入生は夏休み後の二学期あたりから入ってくるのが普通だと、首を捻っていたクラスメイト達は扉が開く音に慌てて自分の席に付いた。
 先生の後に続いて入って来た人影は、背が高く髪は青みがかった銀髪で、長いそれを背中で一つにまとめている。横顔は繊細な彫刻のように美しく、冷たく感じられた。
「あー、もう知っている者も居るだろうが、転入生を紹介する。黒木…自己紹介を」
「はい、今度父親の都合で西ドイツから戻って来ました、黒木 凱と言います。日本は五年振りなので、ちょっと戸惑っていますが、どうぞよろしく」
 冷たいほど整った顔に笑みが浮かぶと、一転して柔らかく優しい表情になる。ペコリとお辞儀をした彼は、一通り教室を見回し、秋亜人に目を止めるとそこでぴたりと止めた。
 先生が入ってきた時には最後の一片を口に入れた後で、彼の姿を見た途端、噛む事も忘れて呆然と見ていた秋亜人は彼に見詰められて慌ててそれを飲み込んだ。
「日高、ちゃんと朝食は家で食べて来い。黒木、あのボケの隣が空いているからそこへ座ってくれ。教科書は日高に見せてもらって、判らない所は……ああ、編入試験オール満点だったな、お前さんは。心配ないか」
 呆然と黒木に見とれていた皆はその言葉にどよめいた。この高校は私立とはいえ、結構レベルが高い。学力だけでなく、何がしかの素質が認められれば中学から推薦で入学する事も可能だが、それにしても試験の結果は現れる。
 足音も立てずに秋亜人の隣の席に座った黒木は、にっこりと微笑み掛けた。
「よろしく…日高秋亜人…君……」
「あっ、ああよろしく。つ…机くっつけるか」
 がたがたと机を動かしてくっつけ、教科書の用意をし始めた秋亜人は、黒木が何故か自分の名前を知っているという事実に気付かなかった。
「えっと…黒木君、これで判る?」
「凱…と呼んでくれないか。向こうではそう呼ばれていたから、その方が良い。僕も君の事を秋亜人君と名前で呼ぶから」
 間近に在る美しい顔に、どぎまぎしながら話しかけた秋亜人は言われるまま頷いた。
「俺も秋亜人で良いよ。それなら……あれ?」
 その時になって漸く凱が自分の名前を知っている事に気付いたが、深くは考えず、自分が話したのだろうと考えた。
「ま、いっか」
 秋亜人の呟きに、凱は深い微笑みを浮かべる。
 休み時間になると、凱の周りに人垣が出来た。特に昼休みの時なぞ隣のクラスからもやってきて凱の話を聞こうとする。あまりの凄さに弁当をもって他の場所に避難した秋亜人は、食べ終わってさあ昼寝でもしようかと立ち上がった。
「秋亜人、良かったら学校内を案内してくれないか?」
 突然声を掛けられて、秋亜人はびくりと身体を疎ませた。はんなりと微笑を浮かべた凱が直ぐ隣に立っている。ほっと息を付き、秋亜人はちらりと周りを見た。
「え、クラス委貞の柴山の方が、良いとおも…」
「僕は君が良いんだ」
 表情の割にきっぱりと言う凱に、秋亜人は頷いた。その様に周りで見守っていた連中から溜め息が聞こえる。皆この新しいクラスメイトを連れて他の連中に見せびらかしたいと、少なからず思っていたに違いない。
 秋亜人はあちこちを案内しながら、やつばり柴山にこの役をさせれば良かったと思っていた。皆が凱を振り返る。それは構わないのだが、中には露骨にウィンクなどして誘う者も居る。
「あのさ、ここ男子校だから、あーいう連中には気を付けろよ。お前綺麗だし力なさそうだから危ないぞ」
「大丈夫、気を付けるよ。有り難う」
 にっこり笑って頷く彼は、本当に判っているのか警戒心のかけらも無いように見える。一通り案内すると昼休みは終ってしまった。
「僕の為に、昼休みを潰させて悪かったね」
「いんや、気にすんなよ。隣のよしみさ。そういや、家はどこなんだ?」
 告げられた番地は、秋亜人の家の斜め右手にある最近出来た大きなマンションだった。その偶然に感心したように声を出す秋亜人を、凱は謎めいた面持ちで見詰める。
「一緒に、帰ろうか」
「え?」
 その顔と、声にぞくりと背中を撫で上げられるような感触を覚え、秋亜人は一瞬硬直した。だが、次の瞬間にはまるっきり普通に微笑む彼が居る。秋亜人はぶるっと首を振ると、今日は用事があるから、と断ってしまった。
 別に嘘を付いた訳では無い。今日は母親に従兄弟を羽田まで迎えに行くようにと言い付かっているのだ。学校が終われば、一目散に電車に飛び乗らねば指定の時間には間に合わない。自分で行けばいいのに、と言ったらすかさず小遣い値下げを言い渡され、行けばボーナス出すわよ、などと言われてしまった。この人あしらいの上手さはさすが母親だと感心しつつ、そんな訳で群がるクラスメイト連に後を任せ、秋亜人は学校から走り出ようとした。
「秋亜人! さぼる気か」
 だが、校門の所でいきなり襟首を掴まれてしまう。訝しげにその手の主を見上げ、一時秋亜人の心の中を何かが通り過ぎる。
「……龍馬先輩?」
「そうだ、誰だと思ったんだ。今日は俺の部に顔を出す日だったろう。どこへ行くつもりだ」
「俺の…部」
「何寝ぼけてるんだ。柔道部に決まっているだろう。そろそろ部員になってほしいな」
 漸く襟を離されて、ほっとした秋亜人は腕を組んで話し始めた龍馬をほっぽって駆け出した。
「すみませーん、今日はちょっと用事があるんです。今度行きますから!」
 何か後ろで怒鳴っている声が聞こえたが、それに構っている暇は無い。走りながら、まるで海の底から記憶が湧き出してくるように彼の事が出てきた。
「あれは、柔道部の龍馬先輩…何で、一瞬でも判んなかったんだろう」
 今日凱を見た時と同じような衝撃を受けたのが不思議だった。凱の方は今日初めて会ったのだから当たり前だが、龍馬先輩とは入学式で目を付けられて以来、柔道部へ入れとお誘いをうけているのだ。
 秋亜人は自分の頭を叩き、くすりと笑いを零す。羽田へ着く頃には、もうすっかりそんな事は忘れてしまった。従兄弟に出会った時に、三度目の奇妙な既視感を感じる事になろうとは露ほども思わずに。
「秋亜人くーん、お出迎えサーンキュ」
 きょろきょろと待合室を見回していた秋亜人は、後ろから抱き着かれてぎょっとした。従兄弟とは何年も会っていない。今どんな格好をしているのかも知らされていなかった秋亜人は、現れた彼に驚いて口も聞けなかった。
「なーに、会えた嬉しさに声も出ないのかしら」
 今年から東京の大学に進学した彼は、漸く落ち着き先の宿を決め、出てきたのだ。その仮の家が凱と同じマンションである。
「麗牙、その…髪」
「綺麗でしょ、染めたのよ。さあさ、早く行きましょ」
 彼の髪は金髪で毛先は緑がかっている。ばっちり決めたファッションに周りから、モデルだろうかという囁きが聞こえてきた。
 彼に腕を取られタクシーに乗り込む。
「母さん、驚くぞ。にしても、本当に麗牙?」
「何? あんまり綺麗なんで見違えた?」
 ぶつぶつと言った言葉を聞きとがめたのか、麗牙は秋亜人を抱き寄せると顔を間近に寄せてにっこりと笑った。凱とは又違った美貌に、眩暈がする。
「お、男が綺麗だからって自慢にはなんねーやい」
「でも醜いよりは美しい方が良いわよ。大丈夫、秋亜人はちやんと可愛いから」
 顔を朱に染めてから、秋亜人は反論した。
「可愛いなんて言われて喜べるかよ、俺は男だぞ」
「いーから、いーから、それよりこれから宜しくね。あ、そーだ、叔母さまに頼んでみようかしら、秋亜人の家庭教師のアルバイト。格安にしておくからって」
「冗談じゃなーい!」
 怒る秋亜人の声と、明るく笑う麗牙の声は何時までもタクシーの中に響いていた。
 次の日も凱は秋亜人に案内を頼んだ。今度は学校が終わった後のクラブ活動を見学したいと言って。秋亜人は本当は断りたかったのだが、別にクラスの連中の目が嫉妬めいた昏さを持ち始めているのに、気付いた訳ではない。ただ、凱と居ると身の置き所が無いような、あの目に見られるとむず痒い何かが背筋に走って息が詰まりそうになる。
 断ろうとする前にさっさと先に歩かれて、仕方なく案内する。
「凱は何かやってたのか?」
「趣味で、剣を構えた事はある」
「んじゃ、剣道部か。丁度いいや、俺、今日は剣道部へ顔出す日だったんだ」
 ふと、訝しむような顔で凱は秋亜人を見た。
「剣道部に入っているのか?」
 その言い様は、間違っているとでも言いたげな物だ。秋亜人は僅かに吃驚しつつ首を振って応えた。
 「いや、今はどこにも入ってないよ。小さい時から、町の武術クラブで修行してっからな。クラブやる暇ねーんだ。でも頼まれて、柔道部と剣道部にはたまに顔を出してる」
「へえ、凄いんだな」
「んな事ねーよ」
 道場への扉を開けながら、秋亜人は否定した。開けた途端、怒鳴り声が投げ掛けられる。首を竦めてそっちを見ると、生徒会長でもある剣道部長、葛城日向が木刀を構え立っていた。
「遅いぞ!秋亜人、又遅刻だな」
「今日は転入生を連れてきたんだぜ。そんなに怒鳴るこたねーだろ、……日向先輩」
 相手が先輩だろうと生徒会長だろうと、秋亜人は卑屈な態度は取らない。が、怒鳴り返した後、昨日龍馬に対して感じた戸惑いを目の前の彼にも感じていた。
「転入生? 今頃」
 日向は視線を秋亜人から凱に移した。僅かに眉が顰められる。しかし、直ぐに元に戻ると、うむと頷いて木刀を引っ込めた。
「剣道部に入るも入らないも自由だ。暫く見学していくがいい。それから秋亜人…」
「へ?」
「この前の分と龍馬の分、今度の体育大会の準備を手伝ってくれれば帳消しにしてやる」
「俺は、生徒会の役員でも何でも無いんですよ!どーしていつも手伝わなきゃ、ならないんです」
 秋亜人は、にやりと笑った日向に唾を飛ばして抗議した。が聞き届けられる訳が無い。
「俺達はお前を気に入ってるんだ。お茶くらいは奢るぞ」
「ラーメンとぎょうざと、チャーハンで手を打ちましょう」
「ははっ、判った」
 秋亜人に笑い掛け、日向は稽古に戻っていく。暫く二人はそれを見て、その後、違うクラブを回っていった。
 体育大会は、秋に行う体育祭とは違って、体育系クラブ中心の発表会のような物である。この学校は文武両道を目指しており、頭のみならず体育系でも優秀な生徒が多い。それまでクラブに入らなかった生徒も、これを見て憧れ、入るものも多いのだ。


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