同人活動Memorial LOG−1− 


Part.1
イベント等
1980年春 ◇コミックマーケット14/5月(川崎市民プラザ)
◇ミニコミフェア?回(多分2回めだったかと/四谷公会堂)
   
   この前の年に入った某少女漫画家FCが参加するということで、川崎まで行ってみた。
 梶ヶ谷という渋谷から田園都市線で約20分の所、そこからさらになーんにも無い道を15分ほど歩くと、高い煙突が見えてくる。その隣に延々と階段があり、そこに並ぶ人の群れ。なんて人が沢山来るイベントなんだー、というのが初めての感想。
 実際には今からは比べ物にならない程少ない一般参加者だった(サークル数380、一般6千人 コミケ公式発表)が、5月の大変良い天気の中、一人で並んでいるのは非常に辛かった。
 初代ガンダムやヤマトなどのアニパロは1室に隔離されており、とても混んでいて何を買ったか覚えていない。FCの代表の方に差し入れを渡して早々に逃げ出した。
 ミニコミフェアは今は無き「東京文芸出版」という印刷会社が始めたイベント。のちに赤ブーブーと合同でコミックシティを立ち上げるのだが、この頃はまだまだ小さいイベントだった。
 やはり初代ガンダム系サークルが目立ち(とはいえ、パロばかりでなく真面目な考察、メカ本などもかなりあった)買ったのもその手の本。その中に「シャアをネタに遊ぼう会」さんの本が在ったことが、のちの同人人生を決めてしまうのだった(笑)
Part.2
イベント等
1980年秋 ◇コミックマーケット15/9月(川崎市民プラザ)
   
   2度目のコミケ。やはり長ーい列が階段に延々と出来ていた。当然その列に並んだのだが、この時某FCで友人になった人と共に行列の先頭を見に行こう、ということになり行ってみる。スタッフが忙しげに働いているのを見ていると、そのFC会長さんがやってきて売り子が足りないから入ってくれ、と言われた。
 勿論売り子の経験などないが、バイト経験は有りだったので興味もあってOKし、サークル参加者として入場したのだった。
 はっきり覚えていないのだが、この時サークルチケットってあったかなあ?無かったような気がする。確か、何のチェックも無かったので、入り放題じゃないかと思った記憶がうっすらとある。
 ともあれ、初めての売り子は何とかクリアし、終了後の打ち上げにも呼ばれて参加したのだった。で、何を買ったかとか、どんな事があったかなんて覚えてない(笑)もう夢中で売り子してたからねえ。
 その後何だか会長さんに信頼されたらしく、そのFCでの専属売り子決定してしまったのだった。
   
1980年冬 ◇コミックマーケット16/12月(川崎市民プラザ)
   
 

 サークル参加として朝早くから入場。机、椅子を設営する。そう、この頃は当日朝やっていたのだ。サークル数400程度で、ぺら1枚の紙に片面注意書き、もう片面サークルリストというものがカタログがわり。
 やっとイベントに慣れてきて、市民プラザのあちこちに目を向けることが出来るようになった。この会場は名前のごとく市の施設なので、一般の人もやってくる。1階と2階があり、真ん中は吹き抜けになっていてテラスがあった。そのテラスではおでん屋さんが営業しており、テーブルと椅子があってそこで食べたっけ。1階の入り口脇に別室があって、島流しのようにサークルが配置されていた…ような気がするけど、原画展とかだったかな?
 2階の別室がアニメ関係のサークルで、入場規制があった。中に入ると満員電車のような人混みで、ろくに見ることもできなかった。
 ガンダムブームとアニパロブーム(ただし、まだやおいという言葉は生まれていない)、そしてロリコンという言葉を初めて耳にする。

Part.3
イベント等
1981年春 ◇コミックマーケット17/4月(川崎市民プラザ)
   
   コミケ参加1周年。市民プラザにも慣れ、周辺駅の乗り換えにも慣れてきた。梶ヶ谷とか溝の口とか、千葉県民の自分にはこんなことでもなければ全く知ることはなかっただろう。後、渋谷で乗り換えてたので、帰りは渋谷でお茶&食事というのも田舎者には嬉しかったり(笑)
 今(2002.3年)コミケで女性の話題服といえばゴスロリだが、このころLENE服(自分は着なかったので名前はうろ覚え)とかいうピンクハウスのようなレースひらひら服が流行っていた…。ただ、もしかしたら自分の周囲だけだったかもしれない。
   
1981年夏 ◇コミックマーケット18/8月 2日間(横浜産業貿易ホール)
   
 

 漸く慣れた市民プラザを離れ、中華街や山下公園側の横浜へ。2日間になってサークル参加の落選は少なくなった模様。繁華街にも駅にも近くて便利な会場だったけれど、一番の問題はトイレに行くのに会場を出てホールにあるものを利用しなければならなかったこと。
 つまり、出口でトイレに行くのにいちいち外出チケットを受け取らなければならなかった……あれ?チケットなしで揉めたような覚えがあるんだけど、どうだったかなあ。
 本を買うのに今のようなきちんと並んで待つというルールがなく、人気サークルの前は団子状態だった。殺伐としてました。

   
1981年冬 ◇コミックマーケット19/12月(晴海国際貿易センター2F)
   
 

 唐突にコミケが分裂したとの話を聞く。一部離反し、別に開くとの情報にFCとしては、取り敢えず両方出てみようということになった。で、本家?は晴海へ(こっちに自分)元祖?は川崎市民プラザへ。連絡を取り合うのに公衆電話を駆使する(携帯なんて無かったもんねえ)。受話器の送受話口を逆にして電話同士で話し合うとかね(笑)
 というわけで、ばたばたしてたくらいしか初晴海の思い出はないのだった。

Part.4
イベント等
1982年春 ◇コミックマーケット20/4月(晴海国際貿易センター 南館2F)
   
   コミケの申し込み書に付いている年鑑では雨だった模様。でも、覚えてないなあ。
 この頃自分でサークルを作って本を出そうと決意。理由は「自分好みの本が無かった」から。無いなら自分で出せ、というのは同人の基本だよね? 当時九州に住んでいた某FC仲間の高宮嬢と意気投合しサークルPARTNER結成
   
1982年夏 ◇コミックマーケット21/8月 2日間(晴海国際貿易センター 新館2F)
   
 

 コミケカタログ初発行(記念にまだ持ってる)。PARTNER初参加。ジャンルはよろず(笑)メインは【マーグ×マーズ】の小説とかギャグ漫画。…そう、当時ゴッドマーズが大人気だったのだが、一番人気カップリングはマーグ受け。というわけで、これが書きたいがためのサークルだったり。
 一番始めに買ってくれたのが男性だったのが不思議でよく覚えている。
 ちなみに当時女性向け人気のジャンルは「J9」「ガンダム」あたりかな。まだ攻め×受けという書き方や「やおい」という言葉は浸透してなかったと思う。男性向けはやっぱりロリコン系。うる星やつら人気が上がって来たのはこの頃らへん。

   
1982年冬 ◇コミックマーケット22/12月(晴海国際貿易センター 南館1.2F)
   
 

 雨だったのは覚えている。しかも大風邪引いてて声が出なかった。
 これだけじゃつまらないのでこの頃の話かどうかうろ覚えだが、書いてみる。
 まだ宅配便で搬入という物はなかったので、みんなカートなど自力で会場まで運んでいた。申し込みは普通為替で返信用封筒も自分で作って入れるという、通販形式。当然書き間違いなんかもあったりしたが、まだまだおおらかな時代だったせいか、そのくらいでは落ちなかった。あー、前日設営っていつ頃からだったのかなあ。もうこの辺ではやってないと間に合わない気がするからやっていたんでしょう。有明までは結構自分設営に行ってました。

Part.5
イベント等
1983年春 ◇コミックマーケット23/4月(晴海国際貿易センター C館)
   
 

 コミケの申し込み書に付いている年鑑を見ると、コスプレ規制が厳しくなったとのこと。ということで、コスプレについての思い出など。
 実は若気の至りでコスプレしたことあります。多分この頃、一度で懲りたけど。やったのは某まんがのキャラ。当時のコスプレは肌の露出も制限されてなかったし、巨大なロボット系(ガンダムとか)の張りぼてなんかも闊歩してました。長物も有りでパフォーマンスを通路でする迷惑なレイヤーも沢山いました。
 その迷惑なのが高じて、今の細かいルールが出来たんですよね。でも、ユニークで面白い愛のあるコスプレが殆どでそれを見るのは楽しかったです。

   
1983年夏 ◇コミックマーケット24/8月(晴海国際貿易センター 新館1F・B館)
   
 

 PARTNER2冊目発行。内容はマーグ×マーズと、相方の金パロ(当時人気の高かった「太陽にほえろ」「必殺」など金曜日に放映していたドラマをパロったもの)というまさによろずな代物。
 この頃からかなりのサークルが落選となる。人が増え始め、初めてロープを使い列を作って販売した(某FCでの話)

   
1983年冬 ◇コミックマーケット25/12月(晴海国際貿易センター 東館) サークル配置図
   
 

 初めてのガメラ館に戸惑う。丸いので感覚が掴みにくかった。天井を見上げて感動した覚えがある。
 たまにはコミケ以外のイベントの話でも。
 ミニコミフェアは順調に年3,4回行われていた。四谷公会堂や蒲田の産業センター…って名前じゃなかったような。今は取り壊されて無くなっているけれど、その後暫くオンリーイベントのメッカとなった場所。当時スペースの場所を申し込み順に自由に選べた。今からは考えられないけど、その頃は創作少女漫画のとなりにアニパロ、その隣にロリコンなんて並びも当たり前だったのだ。いつまでそうだったかなあ。申し込み後にスペース配置決定会議みたいなのがあって、わざわざ行ったっけ。

Part.6
イベント等
1984年春 ◇この年から春にコミケは開催されなくなった
   
 

 今回はコミケから分派したコミックスクエア(以下スクエア)の話など。
  本家が晴海に移った後、暫くは川崎市民プラザで開かれていた。一番印象に残っているのは、突然MIO(ザブングルやエルガイムの主題歌歌ってる人)のライブが行われた事。あんな場所にステージがあるなんて思いもしなかったっけ。
 その後どこかのアホがたばこを始末しないままぼやを出し、ここはイベント会場として使えなくなってしまったのだ。浜松町の都立産業貿易センターに会場を移して数年やっていた。自然消滅してしまった模様。設営の時に使う会場用の机が大きくて大変だった。
 この頃のスクエアで始めてC翼同人に触れる。ギャグだったのだが、やおい(当時は八割とか××本とか呼ばれていた)もあって、『あの絵で男同士ができるのかっ!』とかなりショックだった。しかし、アニメが中学生編に入ると自分もごろごろと転がって(その頃ジャンル変更の事を転がると言っていた)しまったのだった。

   
1984年夏 ◇コミックマーケット26/8月(晴海国際貿易センター 新館1F・2F・B館)
   
 

 PARTNER3冊目発行。内容は他のジャンルも混じっていたが、ほぼC翼オンリー。徐々に周りでもC翼に転んでいき、大きなジャンルになりかけていた。
 コミケでもボールを持ったキャプ翼キャラが闊歩し始めてました。春頃にはキャプ翼でやおいなんて凄い、と感心していたのにもう出していたという…(笑)

   
1984年冬 ◇コミックマーケット27/12月(晴海国際貿易センター 東館)
   
 

  この時のカタログに載っていたまんレポは数枚。まだまだ浸透してなかった。
 今回は搬入の思い出を少々。
 今は宅配便や印刷所直接搬入があるけれど、この頃はまだなかったのでみんな自宅から直接搬入していたのだ。カート(別名カラコロ、キャリー)に積んで一所懸命会場まで引いていった。荷物の多い人は赤帽などに頼んでいたこともあるらしい。
 新刊は当日朝、印刷所スペースに自分たちで取りに行っていた。印刷所によっては、遅刻して来たりして朝ははらはらどきどきしていたものだ。



Doujinへ戻る メモリアルトップ