同人活動Memorial
■今までの同人活動を覚えてる範囲で書き留めておこうという企画です
■PARTNER、きさらぎ理生としての活動よりは、参加してきたイベント、
 主にコミックマーケットでの出来事を思い出しながらつらつらとアップしています
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Part.13
イベント等
1991年春 ◇コミックシティという名前は赤ブーブー通信社と東京文芸出版で使っていた
   
 

 それは最初はこの二つの企業が共催していたから。この後も5月のスーパーコミックシティでは一緒に開いていた。何故分裂したのか…確か名古屋でどちらかの企業がライブと共催したから、だったと思う。がうろ覚えなので違ってたらごめん。色々大人の事情もあったのでしょう。
 東京文系のイベントはミニコミフェアの方が長いのだけど、こっちはオリジナル系統が強かったような覚えがある。それでイベントのスタッフはおそろいの青い法被を着ていたのが印象的。現在コミケの申込書に付いてくる冊子を編集している横○某氏はここのスタッフだったような記憶が…。

   
1991年夏 ◇コミックマーケット40/8月16.17(晴海国際貿易センター2日間 全館)
   
 

 4月下旬に届いたコミケからの封書、しかも白ラベル!(ちょっと前まで落選の代名詞でしたね)ときてびびりながら開けたそれは、8/9.10に幕張メッセで行われる予定だったのが一週間後の晴海に変更になったというお知らせだった。
 理由は「男性向け同人誌の中に、青少年には絶対見せたくない破廉恥きわまりないものがある。そんな本を頒布しているイベントをここで開かせる訳にはいかない」と千葉県のお偉いさんが言ったため。幕張メッセは千葉県の公共施設なので、その鶴の一声で追い出されてしまった訳です。
 そのお偉いさんの所にご注進したのはPTA役員だとか何だとか、はっきりしませんが、追い出されてしまったのは仕方なく、元の晴海に舞い戻ったのでした。
 中には変更を知らず、一週間前に幕張に行って呆然としてしまった人もいるとか。ちなみに、その時大打撃を受けたのは漸く出来てきた近辺ホテルと飲食街、JR等。勿論、メッセもドル箱を逃してしまったのですね。ほんと何億ってお金が動く場なのにねえ、コミケって。後でとっぷり後悔したらしいです。赤字続きだし、あの施設。

 さて、コミケの話。カタログ背表紙はJ9のキッド。特筆すべきは『A館体制』長い行列の出来る大手をA館(及び、この回は南館も)に集め、トイレのフォーク並びと同じように館に入るまで巨大な列、入ってからはそれぞれのサークルに並ばせる、というもの。(実は一度もA館へ並んだ事がないのでちょっと違うかも)A館への長い長い列がC館、さらには駐車場まで延びていたっけ。
  トルーパーが相変わらず強く、グランゾートやワタルなども目立ち始めた頃。PARTNER9冊目発行。ジャンルは銀英伝と創竜伝。自分はシュラトで熱帯の新館2Fで茹だってました。男性向けではナディア多し

   
1991年冬 ◇コミックマーケット41/12月29.30(晴海国際貿易センター2日間 全館)
   
 

 カタログ背表紙はミンキーモモ。ジャンルで目立つのはサイバーフォーミュラとゲーム。ドラクエやスト2など。自分はシュラトでまたもや新館2F…晴海での新館2F率えらい高いんですよ、選んだジャンルでは。グランなんかも多かったしなー。新館で一番困ったのはトイレ。個室3つしかないんだもの。

 冬の晴海の思い出は、設営が終わった後の夕闇に浮かぶ巨大トラックの群れ。そしてそこから下ろされる梱包のピラミッド。西村謄写堂とかこの頃使うのはステータスだったような。高知からの直送トラックが凄かったねえ。机が並ぶ館の中を印刷所の軽トラやワゴンがまるで教習所のクランクのように走り回っていたっけ。
 設営後には『幸せの黄色い封筒』(今で言う『青封筒』)が貰えたので、かなり設営に協力者が多かったです。前日設営の後、前日受付というものがあって、それが長い列となってました。噂として前日受付していた方が当選率が上がるとか。優先封筒貰えなくても、受付だけはしてたサークルも多かったです。
 今はこの制度無くなってしまったのですが、いつ頃しなくなったんでしょう。



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