The night when it noyiced love -3-

 
 昼休みになって食事が終わると、生徒達はそれぞれ教室から散っていく。教室に籠もっている者は珍しく、大抵外で軽くスポーツをしたり友人同士でお喋りに余念がない。
 たまに教室に残っている者も居るが、復習などの勉強のためではなく机に突っ伏して寝ている者が多かった。
「あれ、どっか行かないの」
 弁当を食べた後、大石に借りた教科書を返すため出ていた菊丸は、教室に戻ると窓際に腰を下ろしている不二に声を掛けた。
「何見てるん」
 窓の外を見詰めている不二の横に立つと、菊丸は視線を向けた。
 校庭では元気の有り余ってる一年生達がサッカーもどきをやっている。そんな中にあまり乗り気ではなさそうなリョーマが居た。
 それに気付いて菊丸は一歩身を引いた。そっと不二の表情を窺うと、この上なく幸せそうに微笑んでいる。
 いつもと同じ顔なのだが、幸せ度という物があるなら、それはいつもより何十パーセントか増しているようだった。
 先日見たノートの文字を思い出して、菊丸はこっそり溜息を付く。まだ今一つ信じられないが、この顔を見たら納得せざるを得ないような、したくないような。
「気持ちいいね」
「え、え?」
「風が。春って感じだ」
「あ、ああ、うん、そかも」
 もしや見るのに夢中で自分に気付いてないのでは、と思っていた菊丸はいきなり不二に話しかけられて焦った。
 不二は菊丸の方を向かず、まだ校庭の方を見続けている。
「可笑しいよね。ほんとに自分でもびっくりだ。どうしてなんだろ」
「あー、えと、春だからさ。恋する季節だってことじゃない」
「やっぱり見たんだ」
 漸く振り返った不二の目に、菊丸は硬直してしまった。あのノートに記された文字をうっかり見てしまったのが運の尽き。慌てて否定しようとしたが、菊丸は直ぐに諦めて項垂れた。
「ゴメン。見るつもりじゃなかったんだけど」
 菊丸は引きつった笑みを浮かべ、あっさり謝った。不二は直ぐにいつもの表情になると菊丸の方に向き直った。
「いいけど。相手が越前だってこと、どう思う」
 直球で来た不二の質問に菊丸はたじろいだが、同時に酷く驚愕した。不二が自分のことについて誰かに質問するなんてこと、今まで無かったことだ。
 相手に尻尾を掴ませず、穏やかで優しげな表情を保ち本当の自分を誰にも見せない。
 それは同じクラス同じ部の菊丸相手でもそうで、多分不二の真の感情を見た者はあまり居ないだろう。
 その不二が僅かとはいえ、菊丸に対して感情を露わにしている。
「いいんじゃない。おチビ憎たらしいけど可愛いし。惹かれる気持ちも解るよ、オレもどっちかというと好きだし」
 菊丸は素直に言葉にした。途端にぞくりと寒気が背中を走る。不二の目が眇められ、菊丸を凝視していた。
「お、オレが好きってのは、弟が居たらこんな感じかなっていうか、特別な意味ないから。いくら可愛くてもあいつ男だし」
 菊丸の言葉に不二は真剣な表情で頷いた。
「男同士で相手はまだ子供。しちゃったら犯罪だね」
 しちゃうって何をだ、と菊丸は心の中で突っ込んだ。怖くて口には出せなかったが。
 そのまま不二は視線を外し、顎に手を当て机に肘を突くと目を閉じてしまった。
 予鈴が鳴り、校庭に出ていた生徒達は校舎内に戻っていく。教室にもみんな戻ってきて、菊丸は不二のことを気にしながらも自分の机に戻った。
 不二は授業を受けながら、先ほどの菊丸との会話を思い返して目頭を押さえ苦笑した。
 あそこまで言うつもりは無かった。ただ、菊丸がどこまで知ってるのかということと牽制のつもりで言ったのに、いつのまにか感情を洩らしていた。
 はっきりしない想いが確実なものに変わったのは、不動峰との戦いの後だった。ずっと見ていたから気付いたリョーマの変化。
 それまで、勝つことが当たり前すぎるリョーマのテニスには感じられなかった何かが、コートの向こうから感じ取れるようになった。
 強くなりたいという情熱と欲がリョーマの端々から感じ取れる。何故変わったのかと訝しんでいたが、どうやら手塚と個人的に試合をしたらしいと察して不二は納得した。
 手塚に負けたことでリョーマの闘志に火が点いたのだとしたら、それは青学テニス部としては喜ぶべきことだろう。けれど不二の心には重い凝りが蟠っている。
 あの瞳の先に居るのが自分でなく手塚だということが、許せない。
 もし自分が先に戦って勝っていたら、リョーマの目は自分にだけ向けられただろうに。
 そう思った時、不二ははっきりと気付いたのだ。自分はリョーマに恋している、彼が欲しいのだと。
 そういえば、寝ているリョーマの唇を奪ったことがあった。その時はまだこの感情は形を作らず、もやもやと心の底で燻ってるものを掴めずにいた。
 あの時から、変わったのはリョーマだけではない、不二も同じだった。
 不二は知らずに噛み締めていた唇を緩めると、吐息を付いた。今まで女の子に告白されたことはあっても、自分から告白したことはない。マニュアル通りのやり方でリョーマと恋仲になれるとは到底思えないし、攻略ポイントが見つからない。
 素直に告白したらリョーマはどんな表情をするだろう。訳がわからないと不審がるか、あからさまに変態とののしられるか、もしかしたらもう既に好きな人がいるかも。
 不二は、最後に辿り着いた考えに怒りが湧いてくるのを覚えて拳を握り締めた。
「不二、授業終わったよ」
 肩を軽く叩かれて不二ははっと顔を上げた。複雑な表情を浮かべた菊丸が不二を見下ろし、目が合うと笑いかけてくる。
「何?」
「ん、いや。なんかさ、変わったなーって」
 何かを問いたそうな顔に不二が訊くと、両腕を頭の後ろに組んで菊丸は呟きながら背中を向けた。
 鉄面皮手塚と対を張るポーカーフェイス笑顔な不二が、それと判るほど表情を変えている様は、普通の人間なら百面相に匹敵する。
 さっきからこっそり不二の顔を窺っていた菊丸は、いつまでもそれを面白く眺めていたかったが、気付かれたら後で何をされるか判らないと声を掛けたのだった。
「恋って字は変って字に似てるからね。人を変えさせるものさ」
「…真顔で言われても」
「安心してよ。別に英二に恋の相談しようなんて思わないから」
 にっこり笑って英二に言うと、不二は鞄に教科書を仕舞い教室を出た。

 レギュラー陣の練習は普通の部員と違って乾の特別メニューがある。パワーアンクルを足首に巻いたまま、普通の練習の倍は動かされて、流石のレギュラー達も一通り終わった時には全身に汗を掻いていた。
 ベンチに置いてあったタオルを取ろうと手を伸ばした不二は、同時に手を伸ばしてきたリョーマの手に触れぎくりと動きを止めた。
「あ」
 リョーマもタオルを手にしたまま、驚いたように不二を見詰めている。目と目が合って一瞬後、リョーマは視線を逸らしタオルで顔を拭き始めた。
「越前、顔、なんか赤いぞ」
「暑いっすね、今日」
 同じように隣で顔を拭いていた桃城が訝しげに話しかけると、リョーマは軽く手で自分の顔を仰ぎ答えた。その会話を聞いて不二はじっとリョーマの後ろ姿を見詰める。
「ほへー、これぞ青春ってか」
 菊丸がそんな二人を見て呟くと、不思議そうな表情で大石は見返した。
「不二も、顔が少し赤くなってないか」
「うん、だから青春。ってか、うっそみたい」
 まさか、あの不二が手が触れただけで赤くなるなんて、そんな初々しい反応を返すのが信じられない。
 リョーマの方も何となく不二を意識しているような感じがするのは、気のせいだろうかと菊丸は、お気に入りのファンタを美味しそうに飲んでいるリョーマを見た。
 不二も自分に戸惑っていた。今まで何気なくにしろ故意にしろ話しかけたり触ったり、あまつさえキスまでしてるというのに、今の反応は何だ。
 それにリョーマの反応も気になる。以前から不二の視線を気にしているのは、うざいと感じているだけだと思っていた。
 他のみんなの視線と同等くらいでしかない、いや、もう少しは自分だけ気にしてくれてるかなと不二は僅かに自惚れていた。
 それが、顔を赤くするということは、もっと自惚れてもいいかもしれない。
 不二は笑みを深くすると、それを隠すためにタオルで口元を覆った。目敏い菊丸が、驚いたように不二を見詰めている。確かにこんな自分に我ながら驚くよ、と心の中で不二は呟いた。
「いつまで休憩しているつもりだ」
「あっ、手塚部長」
 委員会で部活に出ていなかった手塚が姿を現し、ダレている部員達に活を入れる。
 途端に部員達全員に緊張感が走り、今まで取り仕切っていた大石は苦笑を浮かべた。
「やっぱり手塚が来ると違うな。空気が締まる」
「んにゃ、別の意味で緊張感ばりばり」
 菊丸の謎の言葉に大石は疑問符を顔に浮かべて見た。菊丸は不二と、その前方にいるリョーマをじっと見ている。
「越前は、まあ解るとして、何で不二が」
「春だしねえ。でも新鮮でいいね」
 まだ今の三年生が一年の頃、手塚と不二の実力は今以上に接戦だった。二人とも顔や態度には出さなかったが、ライバル意識は周りの者たちにひしひしと伝わってきたものだ。
 そのうちタイプが違うプレーヤーに育って、目立った対立もなくなり緊張感も無くなってきた。
 まだ手塚は不二の態度に気付いていないらしい。一方的に不二がライバルとして手塚を見ているということか。
 だが、リョーマの隣で何かと構う桃城相手にはライバルというより、ただのお邪魔虫くらいにしか考えてないなと、菊丸はにやりと笑った。
「なんだ、にやにやして。気持ち悪いぞ」
 訳の解らないことを言い、笑う菊丸に、大石は不気味そうに言う。
 普通のことならこんな楽しい話…所詮人ごとだ…ペアを組んで長い大石に真っ先に言ってしまうのだが、菊丸は暫く心の中に秘めておくことにした。
「ライバルは少ない方がいいし」
 呟いた後、あれ?と菊丸は首を傾げた。不二の為にライバルが少ない方がいいと思ったのか、それとも別の意味があるのか。
 考えていくと、何となく心がざわついてきて、菊丸は慌てて首を振り、練習に戻っていった。

 不二は、手塚を見続けているリョーマを見て、僅かに握り締めた拳に力を込めた。
 今まで顔を赤くするほど自分を意識していたのに、リョーマの心は直ぐに手塚に向いてしまう。
 強い者に惹かれる気持ちは解る。不二だとて、真剣に手塚に勝負を挑み負けて悔しく思うと同時に惹かれもした。
 けれど、リョーマの心がそれ以上のものになってしまったらという焦りに、不二は身を固くする。
「手塚、お願いがあるんだけど」
 それぞれコートに入りサーブ&ボレーの練習を始めようとした時、不二は手塚に向けにっこり笑って言った。
「何だ」
「越前君と試合させて欲しい」
「駄目だ」
 いつもの堅い表情を更に硬くして、手塚は不二の笑顔に向け答えた。
 コートの中の温度が一気に下がる気配に、レギュラー陣は冷や汗を流して二人の様子を窺っている。普通の部員達は動くことも出来ず岩のようになって静止した。
「俺はいいスけど」
 ボールをラケットの側面で跳ね上げながら、リョーマは挑戦的に不二を見詰めた。
「駄目だ。今はまだその時期じゃない」
 これ以上の意見は無用と、手塚は踵を返し固まってる部員達に指示を出していく。漸く張り詰めた空気が動き、不二もそれ以上は何も言わず練習に戻っていった。
「でもさー、不二先輩とお前との試合、ちょっと見てみたいよな。まあ、勝つとは思わねーけど」
 部活が終わった後コート整備を終え、いつものように堀尾がべらべらと喋っている。
 実際に、不二が真剣な実力を出した対戦を見たことのない一年生達は、もしかしたら勝つかもと堀尾に反論した。
「ねえ、越前君。手塚部長とも試合してみたいんじゃない」
「…まあね」
 本当はもう既にやっていて負けているのだと、リョーマは言えなかった。何となくあの試合のことは誰にも言いたくなかったのだ。
 二人だけ…実際には大石も居たが…の共有した時間は自分にとって大事な気がしたから。
 負けるだけなら毎度父親に負けている。それを倒すためだけにテニスを続けてきたとも言える。そんな自分の気持ちが手塚と戦って初めて崩れた。
「不二先輩も強いらしいよ。ずっと手塚部長と張り合うほどだったって」
「お先」
 まだ続きそうな堀尾のお喋りを後に、リョーマは部室を出た。
「越前君、ちょっと待って、忘れ物だよ」
 扉を閉めようとした時、加藤が慌てて声を掛ける。振り向いたリョーマに加藤はタオルを差し出した。
「これ、君の」
「ああ、サンキュ」
 礼を言って受け取ろうとしたリョーマは、さっきのことを思い出して顔を俯けた。
 不二と偶然手が触れた時、何故心がざわめいたのだろう。視線に慣れた次は接触にも慣れなければいけないのか。
 最近では時折視線を感じるものの、以前のように苛つくことは無くなってきていた。
 不二もあまり自分に構わなくなってきた所で、今日の申し出は久しぶりにわくわくするものだったのに。
 待て待て、とリョーマは自分の思考にストップをかけた。今自分を構わない不二が物足りないと思わなかったか。
 そんな馬鹿なと、リョーマは目だけで空を見上げ、顎に手を当てる。
「どうしたの、越前君。そんなところで立ち止まって」
 着替え終えて出てきた加藤達が、入り口の所で突っ立ったままのリョーマに不思議そうに問いかけた。
 リョーマは首を振ると、両肩を竦め歩き出した。
「まだまだだね」
 リョーマは誰に向けて言ってるのだろうと首を捻りつつ、加藤達も帰宅するため歩き始めた。

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