神様が降りてきた朝 -3-


 食事が終わり、食器を片付けて…ちなみに自分で使った食器は自分で洗う…リビングに戻ったリョーマは、ローテーブルの上に置いてあるリモコンを取り、スイッチを入れた。
 広いリビングに似合う48インチワイドテレビが付き、ニュースを映し出す。チャンネルをあれこれ変えていたリョーマは、見慣れぬ別のリモコンに気付いて手を伸ばした。
「何これ」
「そりゃケーブルテレビのリモコンじゃねえの」
 ひょいと桃城がリョーマの手元を覗き込み、テレビの下を指さした。ビデオの上に小さい機械が乗っていて、赤い光が点滅している。
「このへんは電波が届かないから契約してるんだ。でも、東京のケーブルと違って、ここのはせいぜい16チャンネルってところかな」
 不二の言葉に、リョーマはリモコンをオンにする。東京のチャンネルとは別のものに合わせると、昔懐かしいアニメが映し出された。
「おおっ、なつかしー。これ見たことあるか?」
 桃城が大きな声を上げ、リョーマの肩を抱いて訊いた。リョーマは首を振り、揺さぶってくる桃城の腕から逃れようとする。
「桃、越前君が壊れるよ」
 さりげなく、だが断固として不二はリョーマの肩から桃城の腕を外した。代わりに肩を捕らえようとする不二の腕を躱すと、リョーマはダイニングテーブルまで来て腰を下ろした。
 隣では手塚がいつもと同じ気難しげな表情で本を読んでいる。どんな本を読んでいるのかと、表紙を覗き込もうとしたリョーマの目の前でそれは閉じられ、脇に寄せられてしまった。
「遊びに来た訳じゃないぞ。一段落したら勉強だ」
 手塚の言葉に、リョーマを始め菊丸や桃城、海堂の顔が一斉に曇り、抗議の声が挙がった。
「まあまあ、今日くらいはゆっくりしてもいいんじゃないか。明日午前中は試験勉強な訳だし」
 な、と取りなすように大石が手塚に言うと、暫く考えていた手塚は、まあいいだろうと頷いた。
「それじゃ、二人ずつお風呂に入って。お湯は源泉から引いてあるから、いくら流してもいいよ」
「ほいほいっと、んじゃ、入ろうか」
 ぐいと腕を引かれ、リョーマはびっくりして菊丸を見上げた。にっこり笑顔で、菊丸はぐいぐいとリョーマの腕を引っ張っていく。
「良い度胸じゃない、英二」
「善は急げってね」
 ふふん、と不二の凍った笑顔にせせら笑いを返して、菊丸はリョーマの腕を抱き込んだ。
「おチビ、俺とお風呂入ってくれるよねー」
「やだ」
 一言の元に否定され、菊丸は笑顔のまま固まった。不二は喉の奥で笑い、リョーマに手を差し伸べる。
「おいで」
「…やだ」
 同じく拒否されて不二の背中に冷気が漂うと、リョーマは菊丸を盾にしてその背中に避難した。元々アメリカ育ちのリョーマには、誰かと共に風呂に入るという習慣は無い。温泉だって、日本に来てから一度家族で行っただけだ。
「いい加減にしておけ。越前、お前は最後に一人で入れ。どうせ二人ずつなら一人余る」
 手塚が呆れたように言うと、不二は素直に手を引っ込めた。始めからそのつもりでいたのに、菊丸が余計なちょっかいを出すからいけない、と睨み付ける。
「え、英二、風呂行くぞ」
 これ以上被害を拡大しないために、大石はまだ固まっている菊丸の手を取り、風呂場へ向かった。リョーマはほっとして再びダイニングへ向かう。
「和室の布団を敷いてくる」
「あ、俺も手伝うよ」
 リョーマが隣に座ると、それを避けるように手塚は立ち上がり和室へ向かった。続いて河村も立ち、乾も出ていった。
「上級生に布団を敷かせて、君たちはテレビ鑑賞かい」
 リビングのソファに座って今までのやりとりを呆然と見ていた桃城と海堂は、不二の言葉に慌てて和室へ向かった。
「やっと二人きりになれたね」
 椅子の後ろに手を掛け、不二はリョーマの耳元に囁いた。びくりと肩を竦め、リョーマは冷や汗を浮かべ上目遣いに不二を見上げる。
「そんなに怯えなくてもいいよ」
「怯えてなんか…」
 くすっと笑って言う不二に、リョーマはむっとして睨み付けた。どうも不二に手玉に取られているような気がして、リョーマは不愉快な気分になる。
 それに、不愉快なだけじゃなく、今まで知らなかった心がざわついて、居たたまれなくなるのだ。思い通りにならなくても、いつか必ず勝ってやると誓って生きてきたが、この先輩相手には通じない。
「やっぱ、ムカツク」
 視線を外して俯き呟くリョーマの隣に、不二は腰を下ろした。にこにことただリョーマを見詰めているだけの不二に、次第に苛々が募ってくる。
 といって、今席を立つのは負けて逃げるみたいで、リョーマは二律背反に悩まされた。
「何見てるんすか」
「気になる?」
「別に」
 結局リョーマは立ち上がって不二の視線から逃げた。悔しいが、今は仕方ない。人生逃げるが勝ちということわざもあることだし。
 リビングに戻り付けっぱなしだったテレビの前に陣取って、もう絶対意識しないと思いつつリョーマは古いアニメを見始めた。
 不二はリョーマの刺々しい拒否の滲み出た背中を、溜息を付いて眺めると、鞄の中から本を取りだして読み始めた。
 テレビを見ながら、リョーマはつい意識が背中の向こうに行くのを止められなかった。気にしないようにしようと思う度に、返って気にしてしまう。
「あー、良いお風呂だった。ほーら、ほっかほか」
 意識が半分ダイニングの方へ向いていたため、リョーマは抱きつかれるまで菊丸が風呂から出てきたのが分からなかった。
「うわっ」
「次は誰だい。みんなは部屋?」
 風呂上がりの石鹸の香りがする菊丸の腕を、何とか解こうとするリョーマを助け大石が苦笑しながら訊ねた。
 大石にリョーマから引き剥がされて、頬を膨らませながら菊丸は立ち上がった。不二は頷いて再び本に目を落とす。
 大石はまだ未練たらしくリョーマを見ている菊丸を引きずりながら、リビングから出た。それと入れ替わりに乾と河村が風呂へ向かう。
「広いっすねえ、この別荘」
 続いて布団を敷き終わったのか、桃城もリビングに戻ってきて感心したように言うとリョーマの隣に座り込んだ。
 何故か海堂も桃城とは反対隣に座り、リョーマを挟み込む形になる。
「おい、何でそこに座るんだよ。狭いだろーが」
「うるせえ、お前が別のとこに座ればいいだろ」
 リビングにあるソファは大きい物ではない。リョーマが小さいからさほど窮屈に感じられないが、二人は狭いだのなんだのと口喧嘩を始めた。
 いつもの事だが、自分の頭の上で喧々囂々と騒がれては堪らない。リョーマは耳を両手で押さえ、暫く無視してテレビを見ていたが、やおら立ち上がった。
「あ、おい、越前」
「二人で好きなだけやってれば」
 慌てて声を掛ける桃城に冷たく言い、リョーマはリビングから出た。玄関ホールの隣に階段、トイレがあり、風呂場はその先にある。
 その向かい側には和室が二部屋あって、その一つを覗き込むと、敷いた布団の横に胡座を組んで手塚が本を読んでいた。
 視線を感じたのか手塚が顔を上げる。
「何だ」
「去年もここに?」
「ああ。夏冬の合宿には使えないが、連休があると良く来るな」
 慣れてくつろいでいる様子の手塚に訊ねると、そんな答えが返ってきた。みんなで来るのか、それとも手塚だけなのか、リョーマはちょっと気になって問おうとし、口ごもる。
 何故気になるのか。不二と手塚だけでここで過ごしたからといって、自分には何の関係もない。拳で口元を覆い、眉間に皺を寄せて考え込んでいるリョーマに、手塚は訝しげに視線を向けた。
「越前?」
「…何でもないっす」
 ぷいと踵を返して一歩踏み出したリョーマは、誰かの胸にぶつかって止まった。鼻を押さえて見上げると、不可思議な彩を浮かべた瞳が見下ろしていた。
「ごめん、大丈夫?」
 不二は微笑むとリョーマに謝り、和室の中に声を掛ける。
「手塚、風呂空いたから」
「わかった」
 出てきた手塚に先に行ってくれと言うと、不二は再びにっこり笑ってリョーマを見た。
「お風呂、一番後で平気? なんなら三人で入る」
 音を立てる程強く首を横に振り、リョーマは不二の提案を辞退する。残念だなあと呟く不二に、今見た瞳は気のせいだったかと、リョーマは急いでリビングに戻った。
 リビングでは残りのみんながテレビを見ていた。リョーマを覗き、ガタイの良い男ばかりで広いリビングも狭く感じる。リョーマは溜息を付くと、二階へ上がっていった。
 手前の洋室の扉をノックすると中から返事があり、大石が顔を覗かせた。
「越前と不二は隣の部屋だよ。もう風呂入ったのか」
「いや、下に居ると煩くて」
「おチビー、暇ならここで遊んでかない」
 大石の後ろから菊丸が大きな声でリョーマを誘う。何をして遊ぶのか、多少興味はあったが昼間のことやさっきまでの態度を見ていると、いらぬいざこざを起こしそうでリョーマは首を横に振った。 大石は苦笑を浮かべ、まだ声を掛けている菊丸を宥めながら扉を閉めた。
 隣の部屋は角部屋で、ベッドが二つ、サイドテーブルが一つある。他には作りつけのクローゼットがあるだけのシンプルな造りだ。
 リョーマは荷物を隅に置くと、取り敢えずベッドに横になった。途端に眠気が襲ってくる。まだ寝る時間には早いが、朝も早かったし電車ではあまり寝ていられなかった。
 ちょっと目を閉じるだけと思っていたリョーマは、あっという間に暗闇の中に引き込まれていった。
 何か胸が苦しくて、リョーマは手を上げ首の下辺りを夢うつつのまままさぐった。たまにカルピンがそこに寝ていることがあるのだ。
 リョーマの手はさらさらとした手触りの物を探り当てる。いつものふわふわな感触と違う手触りに、リョーマはぼんやりと目を開いた。
「お風呂、入らないの」
「うわっ」
 胸に乗っかっているのは不二の頭だった。ベッドの上に肘を突き、にこやかに不二はリョーマの顔を見上げる。
 爆発しそうな心臓の辺りを握り締め、リョーマは呆然と不二を見詰めた。
「あんまり静かに寝てるから、息してるのかなーって確かめてた」
「…そ、そうすか」
 ほんとにそれだけなのか、とは怖くて訊けなかった。リョーマはふらふらと起きあがり、着替えを持って部屋を出る。下に降りると、リビングの方は静かになっていた。
 和室の襖は閉じられ、みんな寝てしまったのか灯りも漏れていない。今何時なんだろうと、リョーマはリビングに向かった。
「ん、まだ起きてたのか」
 リビングのソファには乾が一人で座り、ノートパソコンを操作していた。入ってきたリョーマに気付くと眼鏡を押し上げ、訝しげに見返す。
「今、何時」
「十一時を回ってる。明日の朝も早いから、さっさと寝た方がいい」
 確かリビングを出た時はまだ九時頃だった筈だ。二時間も寝ていたのかとリョーマは知って、吐息を付いた。
 踵を返し、風呂場へ向かう。服を脱いでゆっくり風呂に浸かっていると、ふいにさっきの不二の言葉を思い出した。
 不二は何時部屋に来たのだろう。どれくらい、リョーマの寝顔を見詰めていたのか。
 色々考えているうちに時間が経ち、漸く上がった時には逆上せてしまった。真っ赤になった顔と熱い頭を冷やそうと、水を浴びてから風呂から出る。
 部屋に戻ると不二はベッドに腰を掛けて雑誌を捲っていた。リョーマが自分のベッドに腰を掛けると、サイドテーブルの上に雑誌を起き、卓上ランプの紐を引っ張り付ける。
 立ち上がって部屋の扉まで行きスイッチを消すと、小さな灯りだけが枕元を照らし出した。
「冷たい…、ちゃんと拭いた? ドライヤー備え付けてあった筈だけど」
 戻ってくる不二をなんとなく見ていたリョーマは、いきなり髪を触られてびくりと身を引いた。逆上せた頭で急いで出てきたせいか、ドライヤーまで気が付かなかった。
 不二はリョーマの肩にまだ乗っていたタオルを掴み、頭を柔らかく丁寧に拭き始める。自分で拭こうとリョーマが手を伸ばしても、不二は手を止めずに拭き続けた。
 仕方なくリョーマは不二にされるがまま、大人しくしていた。頭を拭く動作が眠気を誘い、つい瞼が閉じてしまう。
 いつしか不二の手が止まっていることにも気付かず、リョーマはこっくりこっくりと首を傾け半分眠りに入った。
「越前君…」
 名前を呼ばれ、うっすらと目を開くと、リョーマの目の前直ぐに不二の顔が在った。近付いて来るそれに直ぐ反応できず、唇に軽くキスされて、リョーマは焦って頭を引いた。
 そのままベッドに倒れ込んだリョーマの上に、不二は覆い被さるように身を乗り出す。卓上ランプの小さい灯りだけでは不二の表情は影になって良く見えない。
「…不二先輩…退いてください」
 強い視線で睨み付けると、不二が微笑んだ気配がした。
「おやすみ……と、その前にもう一度おやすみのキス」
 不二はリョーマの額に口付け、身体を起こすと、何故か壁を拳で強く叩いた。かなり大きな音が響き、壁に掛けられた絵が振動する。
「壁に耳あり障子に目あり、ってね」
 くすりと笑うと不二はリョーマから離れた。どういう意味なのか解らないまま、リョーマは布団を被って不二に背を向ける。今襲って来ないなら今晩は大丈夫だろう、多分、とあまり強くない確信を持ちながらリョーマは眠りに入っていった。

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