神様が降りてきた朝 -2-


「部長」
 段ボール箱を抱えて入ってきた手塚の、滅多に見ない私服に目を見張ったリョーマは、続いて後ろから表れた見覚えのある女性に気付いて、小さく声を上げる。
「いらっしゃい。途中で会ったから拾ってきたの。それと差し入れ」
 拾われた手塚は箱をキッチンへ置くと、改めて由美子に頭を下げた。
「ありがとうございました」
「いいえ、ついでだったし。大会と試験頑張ってね」
 男ばかりの中に華やかな女性の香りを振りまいて彼女は去っていった。呆然としていたみんなはほっとして、手塚の周りに集まった。
 経緯を聞いているみんなの横を通り過ぎ、リョーマは玄関に向かった。不二と由美子が話している場へ足を進める。
「あら、リョーマくん。あなたも来てたの」
「こないだは、どーも」
 珍しく礼を言うリョーマに、不二は訝しげに目を細めた。由美子は気にした風でもなく、不二に話しかけた。
「大丈夫とは思うけど、羽目を外さないでね。私がこの別荘の監督管理なんだから、本当は子供だけで合宿なんて拙いんだけど、この先の友達の所に居るから、何かあったら直ぐに連絡してね」
「解ってるよ、姉さん」
 さっさと行ってくれというように背中を押す不二に、由美子は苦笑を浮かべながら振り返ってリョーマを見た。
「君も気を付けて。怪我、しないように」
 『怪我』という部分に必要以上の意味が込められている気がしたが、リョーマは深く考えずに頷いた。不二は眉を顰めて由美子の車を見送ると、リョーマを見下ろした。
「珍しいね、君が自発的にお礼を言いに出てくるなんて」
「おねーさん、知ってるのかと思って」
 何を、とは不二は訊かなかった。ふむ、と腕を組み、不二は走り去っていく車の姿を見詰めた。
「知ってるかもしれないけど、言わないよ、多分。そういう人だから」
「アンタと同じ」
 ぼそりと呟くリョーマに、不二は苦笑して肩を抱いた。
「ほんとは君だけ招待したかった」
「ヤダよ。餌食になりに来るようなもんじゃん」
「なってくれないの」
 切なげな表情を浮かべた顔を近付けてくる不二に、リョーマは僅かに頬を染めて顔を逸らした。だが、不二は両手でリョーマの頬を押さえ、自分の方を向けさせる。
「センパ…」
 リョーマが不二から逃れようと身を捩った時、玄関の方から大勢の人間が飛び出してきた。筆頭で出てきた桃城は、靴を履くのもそこそこに不二とリョーマの間に割って入った。
「危ねえ、危ねえよ! 越前、不二先輩の毒牙にかかっちまったか」
「不二っ、お前イタイケな子供に淫行するなんて、そういう奴だったのか、いやそういう奴だけど」 桃城も菊丸も、興味の無さそうだった海堂すら外に出てきてリョーマを守るように不二の前に立ちはだかった。
「何大騒ぎしてるんだい。僕は越前君の目に入ったゴミを取ってあげただけだよ」
 静かに心外そうに言う不二に、嘘付けとみんなの怪しむ目が集中する。そして、その目はリョーマに移った。
「そうっす。ちょっとゴミ入って…それより菊丸先輩、インコーってどういう意味?」
 目を擦りながらリョーマは不二の言葉を肯定し、ついで菊丸に訊ねた。訊かれた菊丸は、始め呆然としていたが、リョーマに覗き込まれて顔を真っ赤に染めた。
「淫行とは、主に淫らな行為を行うことを言い、刑法上では…」
「うわあっ、乾、説明しなくていい!」
「みだらなこと?」
 首を傾げ、更に訊こうとするリョーマの腕を掴み、菊丸はダッシュで別荘の中に戻っていった。唖然として見ていた桃城と海堂も、続いて中に戻っていく。
「随分古典的な言い訳を使うんだな」
 そう言って自分の目を指さす乾に、不二は真面目な顔で言った。
「本気で逃げる訳じゃないから、嫌われてはいないと思うけど、つい、ね」
「焦っていると」
 答えない不二に、珍しい物でも見たように乾は僅かに目を瞠った。とにかく戻ろうかといつもの表情で言う不二に、乾は頷き歩き始めた。
 リビングではまるで自分がこの別荘の主のように、手塚がソファに座りゆったりと本を広げて読んでいた。その周りではさっき由美子が持ってきた差し入れとやらの分配が始まっている。
「サンドイッチに飲み物、鶏の唐揚げとおにぎり、卵焼きって凄いね、これみんな不二のお姉さんが作ったのか」
 感心したように次々出てくる食べ物を見て言った河村に、不二は首を横に振った。
「ケーキは得意だけど、料理はあまりしないよ。ケータリングもやってる喫茶店で作ってもらったんだと思う」
 中から美味しそうな物を取って、不二はリョーマに手渡した。リョーマは先ほどの事を露程も出さず、ども、と頭を下げてそれを受け取る。
「じゃあ、これをありがたく昼食としていただいたら、午後は練習だ」
 大石の言葉にみんなが雄叫びを上げ、各自思い思いの場所でサンドイッチなどを食べ始めた。
 午後から三面あるテニスコートで練習が始まった。しかし、いつもなら球拾いをしてくれる一年生は今回は誰も居ない。そのため、外に飛び出してしまったボールは打った当人が探し出すことというルールが出来ている。
「あ」
 海堂相手に思い切りドライブボレーを打ち込んだリョーマだったが、弾みが付きすぎてボールは柵を越え遙か遠くまで飛んでいってしまった。
 やれやれと思いつつ、海堂の方へ向かいその後ろの扉を開けて外に出る。途中海堂と擦れ違った時に、舌打ちの音が聞こえたがまるっきりリョーマは気にしなかった。
 林が周りを取り囲んでいるといっても、下は整備されているのか前が見えないほどの下草や藪となっている訳ではない。ボールを探して辺りを見回していたリョーマは、肩を掴まれて驚いてそっちを見た。
「…向こうだ」
 いつも怒っているような低い声で海堂が左前方の木立を指さす。一緒に探してくれたのかと驚きつつ、リョーマは足早にそこに向かった。
 ボールを拾い、顔を上げたリョーマは再びぎょっとして身を引いた。何故こんな近くに居るのか、海堂の顔が目の前にある。
「何?」
「不二先輩と、付き合ってるのか」
 海堂がそんなことを訊くとは全く思っていなかったから、一瞬何を言われたのか、リョーマは理解出来なかった。
 答えないリョーマに焦れたのか、海堂は肩を掴んで木の幹に身体を押しつけた。マムシとあだ名されるこわーい目が表情が、リョーマを真剣に見詰め更に近付いてくる。
「答えろ」
「…何でアンタにそんなこと言わなきゃなんないワケ」
 唖然としていたリョーマは、次第に怒りが湧いてくると、負けずに海堂を睨み付けて言った。僅かに海堂の腕から力が抜け、ほんのりその顔が赤くなる。
「俺は…」
 怒りで顔が赤いのか、それとも恥ずかしいのか、その表情からは窺えない。だがリョーマはそれを確認する前に、思い切り足を動かし海堂の腹を蹴り上げた。
「ぐっ」
 両腕の力が抜けるのを見計らい、リョーマは海堂から逃げ出した。リョーマの見た目からは感じられないが、実は喧嘩慣れしているし場数も踏んでいる。体格で負けても気迫では負けない。
 コートに走って戻ったリョーマは、今のは喧嘩だったっけ、とさっきの行動を思い返しつつ頭を捻った。
「どうかしたの」
 不二が心配そうにリョーマに近付いて言った。リョーマはその顔を見て、先ほどの海堂の質問を思い出す。
 不二と付き合っているかどうかは微妙な問題で、自分でも答えはまだ見つかっていない。不二のペースに引き込まれ、告白されて現在に至っている。
 アメリカでも小さいときから好きだの愛してるだのステディになろうだの、男女問わずお国柄的猛烈なアタックをされていたが、リョーマの全神経は大抵テニスにだけ向いていて、それらを疎ましく思うだけだった。
 そんな環境からこの恋愛事に関しては奥ゆかしい…最近はそうでもないようだが…日本にやってきて、その手のアタックから解放されてテニスだけに打ち込んでいけるのは、リョーマには喜ばしいことだった。
 もっとも、リョーマは気付いてないだけで、熱烈な視線は絶えず浴びていたのだけれど、言葉や行為で示してくれなければ分からない。
 このテニスの上手い不可思議な先輩は、そんな中でリョーマに意思表示をした最初の人間だ。断ることや無視することは慣れていたから簡単な筈なのに、リョーマは躱すことが出来なかった。
「越前君?」
「…ムカツク」
 返事をしないことに心配した不二が再度名前を呼ぶと、リョーマはぽつりと呟いた。テニス以外他人などどうでもいい路傍の石でいいのに、不二は道の真ん中にどかんと置いてある大岩で、どかすことも無視することも出来ないなんて。
「おおおっ、越前が不二に楯突いてる」
 叫ぶ菊丸を冷たい視線で一瞥すると、不二はリョーマに視線を戻した。
「僕の何がむかついたんだか解らないけど、ごめんね」
 リョーマは不二に謝られて赤面した。自分でも理不尽な事を言ったと思うが、今更引っ込められない。むかついたのは確かだし。
「越前、さっさとコートに戻れ。時間を無駄にするな」
 不二とリョーマのやりとりを固唾をのんで見守っていた部員達は、手塚の一言で緊張を解いた。リョーマがコートに入ると、手塚は間髪を入れずにサーブを打ち込む。リョーマが綺麗なリターンを足下に打ち返しても、手塚は眉一つ動かさず次のサーブを打った。
 不二が大岩なら手塚は道端に有る大きな木で、菊丸はその下で昼寝している猫、周りを駆けめぐってるのは犬の桃城かな、などと勝手な想像がリョーマの頭の中で繰り広げられる。
「嫌われたみたいっすね」
 にやにやしながら桃城は不二に言った。途端にブリザードが吹き荒れるかと、隣にいた大石が避難しかけるが、案に違い不二は笑顔を向けると言った。
「そうかもね」
 不二の意外な笑みに、桃城は拍子抜けして頭を掻いた。漸く戻ってきた海堂は、そんな不二を睨み付けると、桃城を促して練習を再開する。荒れずに済んだことを安堵して、大石も不二とペアを組み練習を続けた。

 日が陰る頃、練習を終えた一同は別荘に戻った。食事は菊丸と大石が当番となり、桃城は風呂掃除のくじを引いてがっくりしながら風呂場へ向かう。他の人間はリビングに固まってそれぞれ過ごしていた。
「部屋なんだけど、和室と洋室、どっちがいい?」
 リビングでテレビを見ていたリョーマは不二に訊かれて、洋室と答えた。和食は好きだが、布団は背中が痛くなりそうでいま一つ好きじゃない。
「あ、俺もー。洋室がいい」
 キッチンから顔を覗かせた菊丸が叫ぶ。それを無視して不二はにっこり笑うとリョーマに頷いてみせた。
「それじゃ越前君は洋室だね。他のみんなは公平にくじ引きってことで」
「俺は布団でいい」
 片手を上げて乾が自己申告する。普通のベッドでは足が突き出てしまうから、布団の方が良いと手塚も手を挙げた。河村もおずおずと手を挙げる。
「他に自己申告は無いね。じゃ、和室組後二人は桃と海堂、洋室は大石と英二、それに僕と越前くん」
 不二の宣告に一斉にブーイングが、主に菊丸から発せられたが、それ以外にも言葉はなくとも非難の視線が集中した。
「何、文句あるの。僕は家主だよ」
 文句があるなら外に出ろ、というような不二の不敵な笑みに、菊丸は口を尖らせながらもキッチンに引っ込んだ。
 不二と同室ということになってリョーマは多少不安を感じたが、大声を上げれば隣に直ぐ伝わるだろうし、そういう危険な状況で何かするとは思わなかった。
 むしろ、周到に手を尽くして何も邪魔出来ない、されないように不二は事を運ぶだろう。リョーマはそう考えると、安心していいのか脅威に思うべきか悩みつつ溜息を付いた。
 暫くしてキッチンからいい匂いが漂い、欠食児童達は鼻をひくつかせる。
「おまたへー。出来たよ、運んで運んで」
 キッチンから菊丸が大きな鍋を持ってダイニングテーブルの上に置いた。みんながてきぱきと食器やおかずを運ぶのを、リョーマは意外に思って見ていた。
「ほら、おめえもぼーっとしてねえで、自分の分は自分で取らなきゃなくなるぞ」
 低い恫喝するような声で…本人は別に脅しているつもりはないのだが…海堂はリョーマに言い、食器棚を指さした。
 なるほど、とリョーマは立ち上がり適当な食器を持ってテーブルまで行った。エプロンを付けた菊丸が、リョーマの茶碗を取るとご飯を山盛りによそい、リビングの方のテーブルを指さす。
「下級生はあっち。お代わり分はちゃんとあるからね」
 いつのまにかリビングのローテーブルの上には、肉じゃがだの漬け物だの納豆だの、和食系のおかずが並んでいた。カーペットの上に直接座り、リョーマは目の前の食事に目を瞠る。
「これ、全部作ったんすか」
「そだよーん。一杯食べて」
 いただきますと挨拶をして一口食べたリョーマは、美味しさに再び目を瞠って菊丸を見上げた。
「美味しい」
「サンキュー。越前が和食党なのはリサーチ済みにゃ」
 満足そうにリョーマを見た菊丸は、ちらりと不二を見て勝利のVサインを出す。不二は微かに眉を寄せたが、何も言わず食卓に座った。
「あっ、お前、肉ばっか取るな」
「何を食おうと俺の勝手だ」
「…ウルサイ」
 三人しかリビングのテーブルには居ないのに、海堂と桃城だけで他の三倍は煩さが増していた。せっかくの美味しい和食を…家では洋食ばかりで純粋な和食は久しぶりだったのに…そのBGMが邪魔して、リョーマは食べた気がしなかった。
「越前、代わってやるよ」
 見かねた河村が席を立ち、リビングに移動してきた。礼を言って立ち上がったリョーマだったが、もしこれで河村にラケットを持たせたらどうなるかな、などと危ない好奇心がちょっぴり沸き上がる。
「越前くんは和食が好きだったんだ」
「ええ、まあ」
「前に一年の、なんだっけ、煩い子に訊いたんだよ」
 嬉しそうに喋る菊丸に、リョーマはびっくりして箸を止めた。そういえば、なんとなく、食べ物では何が好きとかそんな会話があったような無いような。
「手塚も和食党だったな」
 向こうと違ってこちらは不気味なほど静かに食事が進んでいく。気まずげな空気をうち消すように大石が言うと、手塚は黙って頷いた。それ以上会話は続かず、大石は冷や汗を浮かべながら話の接ぎ穂を探していた。
 そんな中、流石のゴールデンペアと言うべきか、菊丸が続けて話し出す。だがそれは、楽しい食事を盛り上げる会話というよりは、爆弾を投げ込むようなものだった。
「そんな風に美味しそうに食べてくれると、すごい嬉しいにゃ。当番制だけど、ずっと俺食事係りでもいいよ」
 そしたらリョーマのリクエストに全部応えてあげる、と菊丸は頬杖を付き、にこにこしながら言った。
「え、ほんと」
 素で声を上げたリョーマに、みんなの動きが止まる。
「餌で釣るつもり」
「不二には真似出来ないよねー」
「ほんとにそう思ってるなら、甘いね、英二」
 にっこり不二は菊丸に笑ってみせた。一本取ったと思っていた菊丸は、その笑顔にびびったように身を引いた。
「二人とも、そういう会話は消化を妨げて栄養を三十パーセントは失わせるぞ。楽しい会話が出来ないなら、せめて黙って食事してほしいな」
「僕はとっても楽しいけどね」
 乾の言葉に反論した不二だったが、それ以上は喋らず黙々と食事を続けた。リョーマは、まだリビングチームの方がましだったかと後悔したが、仕方なく食べ続けた。

 合宿はまだ始まったばかりである。一般常識人である大石はこの状況がまだ後二日は続くのかと天を仰ぎたい気分になった。

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