朝の眩しい光に顔を照らされて、リョーマは渋々目を開いた。一瞬自分が寝ているのがどこだか解らず、目を瞬かせる。 「おっはよーん、おチビ」 どす、と思い切り腹の上に乗っかられ、リョーマは低く呻いた。満面の笑顔で自分を見詰めている菊丸に、リョーマは恨めしげな視線を向けた。 「重い」 「早く起きないと、ご飯なくなっちゃうよ」 やっと菊丸はリョーマの上から退き、掛け布団を勢いよく捲った。リョーマは頭を掻きながら大きな欠伸をして、のろのろと起きあがった。 隣のベッドを見ると、綺麗にメイクされていて不二の姿は見えない。サイドテーブルの上の時計は、八時を指していた。 着替えて、二階の端にある洗面所で顔を洗うと、リョーマは下に降りていった。みそ汁の良い香りが漂い、リョーマは鼻をひくひくさせる。 「お、起きたか。遅いぞ越前」 リビングでニュースを見ていた桃城は、リョーマの姿を見ると声を掛けた。どうやら既にみんな朝食を済ませてしまったらしい。 「…はよっす。俺だけ?」 ダイニングテーブルの上には一人分の食事が残っている。目玉焼きに納豆、海苔に漬け物という、見事に日本の食事だ。これに焼き魚でもあれば、旅館並である。 「朝はみんないっぺんに食べるのは大変だからね。ご飯党もパン党も居るし。起きて来た者からさっさと食べて片付けさせてんだよ。洗面所、トイレも人数多いと競争になる」 はい、と茶碗にご飯をよそってリョーマに渡し、菊丸は説明する。兄弟姉妹が多いからか、その辺は実感が籠もっていた。 ご飯を美味しく頂きながら、リョーマは前に座ってにこにこと嬉しそうに自分を見ている菊丸に目を向けた。何となく目が赤いようなのは気がする。 「先輩、朝からテンション高いっすね」 「んん? そうかにゃ」 「英二は寝不足なんだよ。だからちょっとハイになってるのさ」 新聞を持ってリビングに入ってきた不二がにこやかに言うと、菊丸は笑顔を引きつらせ冷や汗を浮かべた。 「寝不足?」 「あ、勉強してたんだよ、な、大石」 桃城と一緒にニュースを見ていた大石に、菊丸は同意を求めた。大石は複雑な表情で菊丸と不二を見ていたが、触らぬ神に祟りなしと思ったのかどうか、軽く頷いた。 「それより、夕べ不二に何かされなかった?」 こそこそと菊丸はリョーマの方に身を乗り出し、耳元に問いかける。何か、と訊かれて箸を止め暫し考え込んでいたリョーマは、取り敢えず首を横に振った。 「ほんとに? でもでも、なんかあの時やばそーな雰囲気が」 「何でそんなに隣の部屋のことに詳しいのかな、英二」 丸めた新聞で菊丸の肩をぽんと叩き、不二は笑って訊いた。菊丸は冷や汗を浮かべて硬直している。 「…おやすみのキスをしただけだよ」 そんな菊丸に余裕の表情で不二は言った。途端にリビングに居た桃城が飛び上がって、目と口を大きく開いて不二を見た。 「き、き、キッス!」 「何驚いてるんだい。向こうでは普通のことだろ、ねえ越前君」 口をぱくぱくさせている桃城と、不二の二人を交互に見て、リョーマはこっくり頷いた。日本に戻ってそんな習慣からは離れてしまったけれど、まあ、夕べのはフェイントとはいえ、普通と言えなくもない。 しかし、僅かに胸に蟠りを感じてリョーマは上目遣いに菊丸の後ろに立っている不二を見た。不二は笑顔でいるけれど、それがほんの少し翳って見えるのは、リョーマの気のせいだろうか。 桃城は越前の答えに力が抜けたように再び腰を下ろした。大石は気の毒そうに桃城の肩を叩き、菊丸の様子を窺う。菊丸はダメージから快復したのか、ふらふらと立ち上がるとリビングに来て、大石の隣に座り込んだ。 「だから止せって言ったんだ」 「だーって気になったんだもん。あんなとこでしーんとしちゃったらさあ、色々と」 大石が小声で窘めるように菊丸に言う。菊丸は大きく溜息を付き、猫のようにソファに丸く寝ころんでしまった。 ぼそぼそと会話している二人を不思議そうに見ると、リョーマはさっきまで菊丸が居た場所に座っている不二に視線を移した。 「食事が終わって暫くしたら、みんな戻ってくると思うから勉強しようね」 その言葉にリョーマは途端に食欲が無くなってしまった。テニスの為なら時間を惜しまないが、勉強なんてしたくない。 それでも何とか食べ終えて食器を片付けた頃、外からぞろぞろと姿の見えなかった者が戻ってきた。息が上がっている様子を見ると、どうやらランニングか何かしてきたらしい。 「お帰り、そろそろ勉強始めようか」 出迎えた不二が言うと、みんなそれぞれ慣れた様子でおもむろに教科書やノート、参考書を取り出した。 「解らない所があったら教えてあげるよ」 「試験て、どんなんですか」 入学して初めての試験では、何をどう勉強したらいいものかも分からない。普段マイペースに授業を受けているせいで、試験範囲とかも良く分からなかった。 「一年生ならまだ応用問題も多くないから、教科書の授業で受けた部分を丸暗記でも大丈夫だろう。それより問題は二年の二人だな」 キラリと乾が眼鏡を光らせてリビングに居る桃城と海堂を見る。二人は仲が良いのか悪いのか、またもや並んで競うようにノートに書き込みをしていた。 乾は不気味に微笑むとキッチンに入っていく。それを恐ろしげに見送ると、菊丸はダイニングテーブルで大石の隣をキープした。その向かい側には河村が顎に手を乗せ考え込んでいる。手塚は一人離れ、キッチンカウンターの狭い場所に参考書と辞書を広げていた。 リョーマはどこでやったらいいのかと辺りを見回す。おいでおいでをする不二に目を留めると、一瞬嫌そうに眉を顰めたが、リョーマは覚悟を決めてリビングに足を向けた。 リビングのテーブルは既に二年生二人に占領されているため、不二はソファの足置き椅子にノートを広げる。その向かい側にぺたりと座り込み、リョーマは自分も取り敢えず一番不得意な古文の教科書を広げた。 暫くそうしていると、ふいに肩を叩かれ、リョーマは振り向いた。目の前に差し出されたコップには、不気味な色の液体が入っている。 「……何すか」 嫌な予感に焦りつつ、リョーマはそれを手に取らず、差し出している乾を見上げた。乾はリョーマの手を取り、無理矢理コップを持たせると言った。 「記憶力、想像力、頭の疲れを取るアミノ酸プラスクエン酸、その他もろもろの入った試験用特製ジュースだ」 げっ、とリョーマは目を見開いてそれを見詰めた。以前に飲まされた汁よりはまともそうな匂いはするが、何しろ色は緑掛かったオレンジ色というもので、本当に人が飲めるものなのかという感じである。 「ほら、お前達にも」 乾はくるりと振り返って桃城と海堂の前にもそれを置いた。二人とも蛙が潰れたような悲鳴を上げ、仰け反る。 「ほんとに飲めるんか、これ」 「………」 「大丈夫なんじゃない。前に飲んだ時には腹は下さなかったよ」 にやにやと笑って菊丸は無責任な言葉を放った。恨めしげに見る三人に、菊丸はピースサインをして言った。 「凄く効き目があるし。飲んでみ」 何で三年生は飲まないんだと思いつつ、諦めて桃城はそれを飲み干した。対抗するように海堂も呷る。リョーマは意を決してそれに口を付けた。 途端に甘いような苦いような酸っぱいような、とてつもない味が口中いっぱいに広がって、慌てて掌で口を押さえ無理に飲み込んだ。 「げーっ…なんだこれ」 「…マズイ」 文句を言う桃城の隣で海堂も涙目になっている。リョーマは咳き込んで半分くらい飲んだが、それ以上は無理だった。 「ほんとに効き目あるんすか」 「そりゃもう。それを飲みたくなかったら試験頑張ろうって思うだろ」 苦笑しながら大石が言う。なるほどと納得しかけた三人だったが、何か違うだろと心の中で突っ込んだ。 まだ半分残っているそれを、リョーマは嫌そうに眺めた。どうやら乾はそれを飲むまでは、目の前から退いてくれないらしい。考え込んでいるリョーマの手からコップが消え、驚いて見上げた視線の先に無愛想な顔の海堂が居た。 「ちんたらしてんな。こんなもの、一気に飲んじまえ。不味くたって死にやしねー」 海堂はそう言うと、リョーマのコップに口を付けようとした。コップに今にも海堂の口が触れようとした瞬間、別の手がそれを擦っ攫う。 「そんなに不味いの」 呆然としている海堂からコップを取ると、一気にそれを飲み干した。けろりとしている不二を、桃城は化け物でも見るような目で見詰め、リョーマは飲まなくても良くなって微かに胸を撫で下ろした。海堂は歯噛みをして不二を睨み付けている。 「不二、お前が飲んでどうするんだ」 「僕も少しは頭が良くなるかなと思って」 確か不二はいつも学年で十位以内には入っている。乾は処置なしというように両手を上げ、コップを下げにキッチンへ戻っていった。 「さ、勉強続けようか」 くるりと振り返り、にっこり笑って不二は言った。気を飲まれたようにリョーマは頷き、桃城と海堂も静かにせっせと勉強し始める。 「効くもんだねえ」 「河村、手が留守になってるぞ。お前も飲むか」 感心したようにリビングの方を見ていた河村は、戻って隣に座った乾に言われ、慌ててノートにペンを走らせ始めた。 「あれって、間接キス封じ…か」 「さすが、不二だな」 小声で菊丸が呟くと、大石も小さく頷く。あの一瞬の見極めは、不二でなくては無理かもしれない。海堂も気の毒に、と大石は僅かに同情した。 やっと落ち着いた雰囲気で勉強会は続き、いつしか昼になろうとしていた。ちらりと時計を見た菊丸は、立ち上がって大きく伸びをするとキッチンへ入っていく。続いて大石も入っていくと、手塚が席を立ち告げた。 「今日の所はこれくらいで、終わりにしよう」 そろそろ限界に近付いていた二年生二人とリョーマは、大きく息を吐いて立ち上がった。テニスなら何分でも集中力を持続させていられるが、こと勉強となるとそうはいかない。しかし、不二はリョーマの集中が途切れるのを見計らって、質問したり答えを書かせたりと良い先生ぶりを示していた。 「お昼は焼きそばバーンだよん」 結局食事の支度は全て菊丸がするらしい。アシスタントに大石と河村を使い、手際よく大人数分の支度をしていった。 「今度はやっと暴れられるな」 「そうっすね」 食事が終わった後、暫く休んでから漸くコートに出たリョーマは、桃城の言葉に頷いた。午前中使い慣れない頭を使ったせいか、調子が乗ってこない。 「大丈夫?」 「…平気っす」 吐息を付いてベンチに座り込んだリョーマに不二は声をかけた。いきなり手が伸びてきて、リョーマの額に当てられる。 びっくりして身動きできなかったリョーマに顔を近付け、不二は真剣な表情で言った。 「熱は無いみたいだけど」 「だ、だから平気だって」 不二の手を振り払おうと、リョーマは手を掴んだ。その時、強い勢いのボールが二つ不二をめがけて飛んで来る。それを持っていたラケットで軽く打ち返すと、不二はまったく気にせずにリョーマの頭を撫でた。 「こらこらー、そこ何やってんの」 「…桃城のダンクスマッシュを羆落としで、海堂のスネイクを燕返しで打ち返すとは、さすが」 「感心してる場合じゃないっしょ!」 菊丸が騒いでいる横で感心したように呟く大石に、桃城は抗議した。ボールでの抗議は無言の内にあっさり返されて、多少へこみがちである。 「不二、いい加減越前を離せ」 周りの騒ぎに疲れたように手塚は言った。不二は名残惜しそうに手を離し、立ち上がる。リョーマもくしゃくしゃにされた髪を直し、いつもの帽子を被り直した。 不二から離れたリョーマの前に、手塚が立った。 「俺が相手をしよう」 きゅっとリョーマの神経が引き締まる。周りは練習の手を止めて、二人を見守った。調子のでないリョーマだったが、手塚の的確なボール捌きに翻弄され、次第に負けん気が蘇ってくる。結局心配されることよりも、強い相手とやり合う方がリョーマにとってなにより元気の元なのだ。 「もう一本!」 大きな声で催促するリョーマに、手塚は僅かに口端を上げてサーブを打ち込んだ。 感心したようにその様を見ていた河村は、薄目を開けて二人を見詰めている不二に気付いて、声なき悲鳴を上げた。運悪くラケットを持っていない普通の人モードだったから、余計に心臓に堪える。 「ふ、不二」 「何、タカさん」 くるりと振り返った不二は、いつものように穏やかな笑みを浮かべて河村に応えた。丁度良いタイミングで桃城が河村にラケットを手渡すと、さっきまでのおどおどした態度は露と消え、燃え上がる炎の闘志となって不二に対峙した。 「おらおら、こっちも行くぜ。負けてられっかあ」 「そうだね…負けてられないね」 静かに言葉を返し、不二はラケットを握り締める。手塚とリョーマに触発されたのは、この二人だけでなく、他の者も練習に気合いが入っていった。 「ふむ、良い傾向だ、が…」 ちらりと時計を見た乾は、首に掛けていた笛を取ると、思い切り吹き鳴らした。 「なんだよ、せっかくノッてきたのに」 ぶつぶつ文句を言いながら菊丸は乾を睨み付けた。リョーマは笛など無視して、前方にいる手塚を見詰めている。だが、手塚は構えを解き、コートから出ていった。 「夕飯がいらないなら、そのまま続けても結構」 渋々集まった全員に乾は意地悪な笑みを浮かべて言った。どういうことだと疑問符を浮かべるみんなに、乾は咳払いを一つして説明し始めた。 「今日の晩飯のおかずをこれから仕入れに行く」 「買い物なら当番が行けばいいんじゃないすか。ってか、電話注文して届けて貰うとか」 桃城が手を挙げ、皆を代表して言った。そうそう、と同意する皆に乾は眼鏡を押し上げて低く笑った。 「甘いな。これも精神鍛錬の一つだ。ということで、お前達はこれ」 渡されたそれを見て、菊丸達の目は点になる。スコップと竹で編んだ大きな背負籠に軍手のセットは、一体何をするものなんだろうか。 「で、手塚はこっちが得意だったな」 ほい、と釣り竿と用具一式を目の前に出され、手塚の眉間の皺が深くなった。確かに趣味は釣りだが、テニスと試験合宿に来ていて何故しなくてはいけない。 「山班は俺と英二、大石に海堂。川班は手塚、河村、桃城、越前。不二は一応家主だから免除」 「面白そうだから、僕も川班に入れてもらうよ」 「まあ、本人が望むならいいが。じゃ、暗くならない内に行くぞ」 ちょっと待て、と止める間もなく乾は道具を持つと海堂を引きずるようにしてコートを出ていった。 「ちょっと不二、どういうことだよ、これ」 「実は昼ご飯の後、姉さんから電話があってね。近所のスーパーで食中毒騒ぎがあって、当分閉鎖されるんだって。ここらで食料品調達できるのは、そこ以外無くて、隣町まで行くには明日にならなきゃ無理なんだよ」 不二の説明に、菊丸はがっくり肩を落とした。確か冷蔵庫には卵と牛乳くらいしか入っていない。米はあるからおかずは自分たちで調達しなきゃいかんということか。 「…仕方ない」 一つ溜息を付いて手塚は釣り竿を手に取り歩き始めた。河村もやれやれと首を振り、道具を持って後に続く。まだぶつくさ言ってる菊丸の背を押しながら大石がコートから出ると、不二は突っ立っているリョーマを見た。 「釣り、したことある?」 「…無いっス」 「俺ありますよ、といっても屋台の金魚釣りですけど」 「金魚は食べられないねえ」 大真面目に応える不二に、桃城は鼻白んで苦笑いを浮かべた。 山に入り、獣道を分けて行くと綺麗なせせらぎの前に出た。既に手塚はポイントを見つけたようで、川の中程にある岩に立ち釣り竿を軽く振っている。 リョーマは河村から釣り竿を受け取ったものの、どうやったらいいのか分からず眉間を寄せた。河村は不二と桃城に餌の付け方から教えている。 暫く釣り竿を睨んでいたリョーマは、意を決してその場を離れ、手塚の方に近付いていった。一番近い川岸から、岩を飛んで割と大きめの岩場に辿り着く。 「何だ」 「これ、どうやんの」 目上の人間に物を教わる態度や言葉ではない。が、そんなことをリョーマに言ったところで、言葉遣いは変わるかもしれないが、態度はまず変わらないだろう。 手塚は溜息を付くと、自分の釣り竿を岩の間に固定し、リョーマの針に餌を付けた。ぴくぴくと動く小さいミミズのようなそれに、リョーマは気持ち悪そうに眉を顰めた。 「向こう側の水が動いていない場所へ目がけて投げてみろ」 手塚は見本を見せるように釣り竿を振った。リョーマはふぅんと頷くと、竿を振ってみた。テニスラケットとは違って上手く力が入らない。思った所に針が落ちず、リョーマは苛々と何度もやり直しをした。 「落ち着いて、よく見ればできる」 もう一度、と握り直したリョーマの手に、手塚の手が重なった。背後から抱え込むように身体に腕を回し、力強く握られリョーマは少し身体を強張らせた。 「力を抜け」 吐息が耳元に掛かる。びくりと肩を竦めながらも、リョーマは釣り竿を振った。見事にそれはポイントに落ち、波紋が川の水流を乱す。 なるほど、と感心していたリョーマは、なかなか離れていかない手塚に、訝しげに視線を向けた。見上げるリョーマの目に、水面ではなく自分を見下ろす真剣な瞳が飛び込んでくる。 「部長?」 「手塚っ、引いてるぞ!」 河村の声に我に返ったように手塚はリョーマを離し、自分の釣り竿の所へ戻った。流石に慣れているのか大物を見事に釣り上げ、手塚は魚籠に入れると再び釣り竿を振った。 別の場所に居る河村や、桃城まで何か釣り上げている。不二がにっこり笑って釣った一匹を見せると、リョーマは無性に腹が立って拳に力を込めた。 ぴくりと糸に反応を感じ、リョーマは暫く待って確信してから思い切り引っ張った。反発する手応えに、嬉しくなって声を上げる。 「来たっ!」 かなりの大物らしく、リョーマがいくら引っ張っても水面に上がってこない。むしろ、自分が水の中に引き込まれそうになったリョーマは、歯を噛み締めて足を踏ん張った。 「大丈夫か」 「越前君、今手伝いに行くよ」 手塚に負けるかと言うように不二が来るのを横目で見ていたリョーマは、突然ぷっつりと反発力が途切れて大きく仰け反った。 「うわっ」 背中に何か当たる感触と共に、リョーマは宙に投げ出された。冷たい水が全身を包み、リョーマは空気を求めて藻掻く。流されようとしたリョーマの手を、誰かが強く握り締めた。 「げほっ、ごほ」 「越前!しっかりしろ」 岩の上に引っ張り上げられ、リョーマは大きく息を吸った。途端に気管に水が入って盛大に咳き込む。漸く落ち着いてまだ握っている腕の主を見上げると、見慣れぬ顔が心配そうに見詰めていた。 「…あ」 何故見慣れていないのか解って、リョーマは無意識のうちに手を伸ばした。それが眉間に触れる前に、手塚はもう片方の手で掴んだ。 「怪我はないか」 「眼鏡が無い」 リョーマの言葉に面食らった手塚は、今気付いたように自分の顔に手を触れた。リョーマを受け止めて耐えきれず川に落ちた時に、落としたらしい。 「それより、怪我は?」 「…平気っス。ありがとうございました」 半分手塚の上に落ちたようなものだから、川底にも当たらなかった。返って手塚の方が心配である。リョーマは手塚と共にゆっくり立ち上がった。 「越前君っ、手塚」 「大丈夫かっ」 水を跳ね散らかして不二達が駆け寄ってきた。頷く二人にほっとして、早く川から上がれと促す。さっきまで居た岩場から、桃城が手塚の釣り竿と魚籠を持って戻ると、直ぐ別荘に帰ろうと歩き始めた。 別荘に付くと直ぐにタオルで身体を拭き、風邪を引いては不味いと風呂に入って、二人はやっと落ち着いた。 「手塚、これ」 ソファに座って頭を拭いている手塚に、不二が眼鏡を差し出した。奇跡的に壊れていないそれを、手塚は礼を言って受け取った。 「一つ、借りが出来たね」 「借り?」 不審そうに訊く手塚に、不二はにっこり笑って頷いた。 「僕の越前君を助けて貰ったから。必ず返すから」 「その必要はない」 きっぱりと言う手塚に、不二は目を眇めて見詰めた。二人のぴりぴりとした雰囲気に、リョーマはやれやれと肩を竦める。借りを返すのは自分だろう。助けてくれと言った覚えはないけどね、と呟くリョーマに、隣で聞いていた桃城は苦笑いを浮かべお前らしいと頭をくしゃりと撫でた。 山組が戻ったらしい賑やかな声が玄関から聞こえ、リョーマと桃城の腹が鳴る。取り敢えず、休戦して欲しいとの河村の願いが効いたのか、不二は視線を外して菊丸達を迎えに玄関へ向かった。 |