神様が降りてきた朝 -1-


 新学期が始まって約三週間が経ち、新入生達の初々しさも落ち着いてきた四月の終わりから世間ではゴールデンウィークが始まる。
 もちろん青学もカレンダー通りに休みが入るのだが、のんびり旅行や遊びに行ってられるほど暇じゃないのはテニス部の面々だった。
「休み中も練習あるよなあ、もちろん」
 唇を尖らせてぼやくように言う堀尾に、カチロー達は苦笑して頷いた。今は都大会前の大事な時間だから、授業が終わった後の練習時間だけではとても間に合わないだろう。
「せっかく父さんがどこか行こうかって言ってくれたのに、つまんねー」
「案外ほっとしてるかもよ。ゴールデンウィークってどこもかしこも混んでるから、本音はどこにも出たくない、家でごろごろしてたいって」
 軽く笑ってカツオが言うと、それはあるかも、と堀尾は顎に手を当てて考え込んだ。
「越前は家族でどっか行くって話にはならないのか」
「親父の仕事があるから、無理」
 リョーマの答えに三人は驚いて顔を見合わせた。リョーマの父親がどんな仕事をしているか、知らなかったが休日もない大変な仕事なのだろうか。
「それじゃ、どっちにしても練習三昧って訳か」
「それがそうはいかないんだにゃー、これが」
「菊丸先輩!」
 驚いた三人は身を引いて、扉から入ってきた菊丸を見た。一年生は二、三年が出てくる前にさっさと着替えて練習の準備をしなければならないのに、話していたら遅れてしまった。
 焦って出ていこうとする三人を余所に、リョーマはじっと菊丸を見詰めて訊ねた。
「そうはいかないって?」
「青学は文武両道がモットーだから。君たち忘れてるかもしれないけど、休み明けには試験が待ってるよ。クラブ活動のせいで勉強が疎かになったら困る」
 菊丸の後ろから続いて入ってきた乾が、にやりと笑ってリョーマの問いに答えた。遠回りなその答えに、リョーマは眉を顰める。
「だから、連休の間学校での部活は禁止。勉強か家族と共に過ごすことを奨励って訳だ」
「禁止…」
「まあ先生達も生徒から解放されて休みたいんだろう。テニス部だけ特別という訳にはいかないからね」
 ぞろぞろと三年生達が入ってきて、続けて大石が笑いながら不満そうなリョーマに言った。はっきり言って試験や勉強よりテニスの方がずーっと大事なリョーマは、心の中で舌打ちをしてしまう。
 学校での活動が禁止されているなら仕方ない、家でずっと練習してようかとリョーマは思ったが、それだと父親にいい様にされてしまいあまり実のあるものにはならないような気がした。
「試験の結果が悪いと、へたするとその後の部活も禁止になる」
「マジっすか」
「うそおっ」
 大石の説明に出ていくタイミングを失っていたカチロー達が悲鳴を上げる。流石のリョーマもそれを聞いて僅かに青ざめた。
「大丈夫だよ。呆れるほど酷い成績でなければ、そんなことにはならないから。特に一年生はまだ入ったばかりだし、最初の試験だしね」
 笑いながら否定する大石に、リョーマはほっと胸を撫で下ろした。英語なら勉強などしなくても平気だが、普段の授業時間の殆どを睡眠に費やしている身からすると、試験の結果は推して知るべしというところだろう。
「でも、成績が落ちるのも、練習が削られるのも今の時期辛いよね。僕のうちの別荘に来る? コート完備で勉強も教えてあげられるけど」
 リョーマは耳元で囁かれた言葉に、ぎょっとして身を引いた。いつものように微かに笑みを浮かべた不二が、首を傾げてリョーマを見ている。
「あー、不二、ズルイ。去年はみんなで行ったのに、今年はおチビだけ誘うのかよ」
 耳ざとくそれを聞きつけた菊丸が、不二の背中からのし掛かるようにして文句を言った。重みに背中を丸めながらも、不二は更にリョーマに顔を近付けてくる。
「煩いのは気にしないで、来て欲しいな」
「俺だけですか」
 別荘でテニス三昧、まあ勉強もしなきゃならないのは嫌だが、魅力的なお誘いである。だが、リョーマは周りの変なプレッシャーを感じて、一人で行くのは気が進まなかった。
 テニスでのプレッシャーや敵対者のそれならあっさり受け流すか、受け止めて倍にして返すのが常だが、今感じているプレッシャーはそういう類の物とは違う。
「そう、君だけ…と言いたいところだけど」
 不二は屈めていた背中をぴんと伸ばした。のし掛かっていた菊丸が、潰れたような悲鳴を上げて後ろへ落ちる。
「そうもいかないみたいだから、みんなで行こうか」
 くす、と笑って不二は周囲を見回した。菊丸は腰を打ったのか、さすりながら不二を見上げぶつぶつと文句を言っていたが、それを聞いてガッツポーズを取った。
「随分素直に決めたな」
「何か考えがあるんだろう。どうせ二人で行ったとしても、必ず邪魔が入るなら一緒に行って舵を取った方がいい、とかなんとか」
 もっと揉めるかとはらはらしていた大石が安心したように言うと、隣で乾が鋭い考察を呟いた。なるほど、と大石は苦笑して不二を見詰める。
「ね、越前君」
「はあ…いいけど」
 家に居るよりは良いとリョーマは頷いた。不二と二人きりというシチュエーションはなんとなく避けたいが、他の部員も一緒ならいつもの練習と同じだし、退屈しないだろう。
「何してる。時間はとうに過ぎてるぞ」
 部室の中に溜まっている部員を見て、今やってきたらしい手塚が呆れたように強く言った。慌ててカチロー達は部室から走り出ていく。残ったレギュラー陣を見回し、手塚は最後に不二に視線を止めた。
「今度の連休、去年と同じにしたから」
「ああ、あそこへ行くのか」
「今年は越前君も居るし、楽しくなりそうだよね」
 嬉しそうに笑う不二に一瞬眉を顰め、手塚はちらりとリョーマを見ると、軽く吐息を付いて着替えのためにロッカーの前に足を進めた。
「着替えが終わってるなら早く出ろ。レギュラーと言っても一年にはやる仕事が有るはずだ」
 着替えながら言う手塚に、リョーマはそうだったと気付いて踵を返した。
「僕が引き留めてたんだよ、手塚。越前君、練習終わったら残って。連休の相談するから」
 校庭二十周と言われない内に不二がフォローする。解ったと軽く会釈をしてリョーマが部室から出ていくと、不二は表情を改めて周囲を見回した。
「ということで、今年も連休は伊豆の別荘で合宿だね。行き方は分かってると思うから改めて説明しないけど、一つだけ注意」
「越前に手を出すな、ですか」
 言葉を遮るように言った桃城を、不二は薄く目を開いて見た。不敵に笑う桃城に、不二は軽く笑みを浮かべて言った。
「合宿は練習と勉強のために行くんだから、その妨げになるような行為は慎むように。それと、家主に逆らうようなら遠慮無く出ていってもらうから」
 両人とも笑顔を浮かべているのに、間に走っている緊張感はまるで火花が散っているようだ。
「いい加減にしろ」
 着替え終えた手塚が憮然として二人の間に入る。桃城は両手を上げ肩を竦めると外へ出ていった。「そんなにリキ入れたって、おチビまだ子供じゃん。わっけわかんなーいってスルーかもよ」
「まあ、だからこそ、始めが肝心とも言えるな」
「怖いこと言うなよ、乾」
 菊丸がへらへら笑って言うと、冷静に乾が突っ込む。それを大石が諫めながらみんなぞろぞろと部室を出ていった。
「本気か」
「うん。君もだろ」
 即返されて手塚は微かに眉を顰めた。不二は薄く微笑むと、ドアまで行き、振り返って手塚を見た。
「なんなんだろうね、僕達…たった一人にこんなに熱くなって。でも、悪くない気分だよ。試合と同じくらい」
「…そうだな」
 手塚の返事に満足したように不二はにっこり笑い、出ていった。

 朝に弱いリョーマのために桃城は自転車で迎えに行った。案の定、眠そうな顔で出てくるリョーマを後ろに乗せ、学校ではなく駅へと桃城は自転車を走らせる。駅前の適当な場所に自転車を停めると、桃城はリョーマを促して駅のホームへ向かった。
 一番前に他のメンバーがたむろしていて、二人に気付いた菊丸が大きく手を振り呼びかけた。応えるように桃城も手を挙げ、ホームの端に向かった。
「はよー、ん、まだ寝てるのか、こいつは」
 私服にいつもの帽子を被り、ぼーっと突っ立ってるリョーマの鼻先に、菊丸は人差し指を突き付けた。
「起きてますよ」
 口を手で覆いながら大きく欠伸をして応えるリョーマに、菊丸はピンと鼻を指先で弾く。油断していたのか起き抜けだからなのか、リョーマは避けられずにそれを受け、涙目を菊丸に向けた。
 痛かったからではなく欠伸のせいだとわかっちゃいるが、菊丸他それを目撃してしまった部員達は、不覚にも顔を赤く染めて視線を逸らす。
 リョーマは鼻を押さえ、もう片方の手で目を擦りながら再び大欠伸をした。
「不二は先に行ってる。手塚は後から来るそうだ。というわけで、これで全員揃ったから次の電車に乗るぞ」
 引率の先生のような形で大石が説明すると、入ってきた電車に全員乗り込んだ。早朝だというのに車内はゴールデンウィークを楽しもうとする人々がかなり乗っていて、全員座る席はなかった。
 一時間くらいなら訓練のつもりで立っていくのが普通の感覚だろうが、リョーマは空いている席を見つけると、さっさと座り込んで目を閉じてしまった。
「このままどこまで寝ていくんだか。置いてくか」
「終点まで行って、折り返しても気付かないんじゃないの」
 乾が呆れたように言うと、河村が苦笑して続ける。
「寝る子は育つってゆーけど、育たないねえ」
「余計なお世話っす」
 にやにやしながらリョーマの寝顔を覗き込んで言った言葉に返されて、菊丸はぎょっと飛び退いた。帽子の下からいつものように生意気で挑戦的な目が覗いている。
「あ、起きてたんだー」
「自分の悪口は寝てても耳に入るらしいな」
 ぼそりと海堂が呟くと、同意するように桃城が笑いを堪えながら頷く。その様子を見て、リョーマは憮然とした表情で再び目を閉じた。
 電車は予定時刻に着き、リョーマは桃城に揺り起こされてようよう目を覚ました。乗り換えて再び別の電車で三十分ほど過ぎると車窓の景色に海が見え始める。
 観光客のあまり降りない駅で降りると、大石はバス停に向かった。体格の良い学生が大挙して小さな駅に居るのが珍しいのか、地元のおばちゃん達が興味深げに眺めている。
「結構遠いんすね」
「俺も冬来た時はそう思った。車で来ればそんな感じはしないんじゃねえかな」
 ここからバスで二十分と聞かされ、リョーマは呟いた。それに頷いて桃城は山と海岸線の間を指さした。
「そうだな、車なら途中で止まることもないし、高速でくれば早い。不二はそれで来ている筈だ」
「あ、おねーさんの車か」
 思い出したように言うリョーマに、全員の視線が集まった。
「何でおチビ知ってんの」
「会ったことあるのか」
「ウッソ、マジで!」
 菊丸と海堂、桃城に詰め寄られ、リョーマは僅かに目を見開いて身体を後ろに反らした。
「おいおい、そんなことで尋問するなよ。ほら、バス来たぞ」
 さりげなく大石はリョーマの肩を掴んで避難させ、丁度来たバスのドアに向けた。リョーマはこれ幸いと、開いたドアから素早くバスの中に逃げ込んだ。
「あー、大石ズルイ」
「何がズルイだ、英二。早く乗れ」
「そう、あまり問いつめるとこちらが知りたくない事実まで出てきそうだし、これくらいにしておいた方がいいよ」
 乾は含み笑いを漏らすと、続いてバスの中に入っていく。むくれていた菊丸はその言葉に、思い当たることでもあったのか、がっくりと肩を落としてバスに乗った。
「知られたくない事実って、何だ」
「知るかよ、俺が」
 桃城が隣の海堂に訊くと、機嫌の悪そうな低い声で返事が来た。ライバル同士で仲が悪い感じなのに、こういう席では何故か隣同士になるのが不思議だなと、そんな二人を見ながら最後に大石が乗り、バスはゆっくりと発車した。
 崖が迫る海辺の道をバスはとろとろと走っていく。暫くして山への道を入り、小綺麗な家が建ち並ぶ道路へ出た。
 停留所で降りて小道へ入ると、ペンションや別荘などが見え隠れしてくる。その一つに向かった一行は、ログハウス造りの別荘の前に着くと玄関の前に佇む人影に目を向けた。
「いらっしゃい。結構早かったね」
「今年もお邪魔するよ」
 にっこり笑って出迎える不二に、如才なく大石が挨拶をする。辺りをきょろきょろと見回すリョーマに、不二はくすりと笑みを零した。
「コートはこの裏だよ。でも、取り敢えず荷物を部屋に運んで一休みしたら」
 不二に声を掛けられて、リョーマは見回すのを止め招かれるまま別荘の中に入った。既に入ってくつろいでいる桃城達の横に荷物を置き、そのままリビングの奥の窓へ歩いていく。
「へえ…」
 奥の窓から見えたのは三面のテニスコートで、いつでも使用できるようにネットも張ってある。
「あれはうちと、隣のペンション共同で使ってる物なんだ。今週はテニスするお客さんは居ないって話だから、僕らで全部使えるよ」
 隣に来た不二の説明を聞いて、リョーマは目を輝かせた。寺のコートは今いち整備されてないし、学校のコートは使用時間が限られていて満足に練習が出来ない。ここならば、一日中テニスしていても文句を言う大人は居ないだろう。
「じゃあずっと使ってもいいんだ」
「テニスだけしに来た訳じゃないんだからな。ちゃんと勉強もしなけりゃ今後一切俺たちだけで合宿なんてさせてくれないぞ」
 リョーマの言葉に慌てて大石が言う。不二は自然にリョーマの肩に腕を回してリビングの中程に連れて行くと、にこりと笑って言った。
「竜崎先生からきついお達しが下ってるからね。テキスト持ってきてあるから、午前中はそれをクリアしないと午後練習できないよ」
 ゲッと腕の中で戦くリョーマに楽しそうに微笑みかけた不二は、同じようにげっそりしている顔の菊丸や桃城にも笑顔を向けた。
「家庭教師付きでテニスも出来るなんて、いい環境だろ。温泉もあるし、よければ夜はマッサージしてあげる」
 語尾にハートマークが付いていそうな口調で囁かれ、リョーマは微かに顔を赤く染めた。それを見逃さず、菊丸は寝ころんでいたソファから身を乗り出して不二を指さした。
「あー!不二、セクハラだっ」
「何が」
「その腕その言葉その顔!」
 菊丸の糾弾を涼しい顔で受け流していた不二だったが、最後の言葉に笑みを消し、ほんの僅かに目を開いて見る。
「…顔?」
「ごめんっ! 俺が悪かった! 顔はかんけーありません」
 リビングの中に冷たい空気が流れる。菊丸は再びソファに身を沈め、クッションで顔を覆って不二の視線から逃れた。
「とにかく、今日は昼食済ませたら基礎練習。夕食後は勉強だな」
「飯ってどうするんですか」
 凍った空気を取りなすように大石が冷や汗を浮かべながら言うと、不二の腕をやっと外したリョーマが心配そうに訊ねた。やはり育ち盛りはテニスの次にそれが気になるらしい。
「当番制だよ」
 大石の答えに、リョーマはちらりと不二と乾を見た。
「みんなで?」
「大丈夫、不二はともかく俺は普通の味覚を持ってるから」
 ということは、乾はあの特製野菜汁が超マズイ(不二以外)ということを解ってて作っているということか。
「酷いなあ、それじゃ僕が味音痴みたいじゃないか」
「みたいじゃなくて…」
 言いかけた菊丸の顔にクッションがめり込み言葉を封じる。引きはがそうとする菊丸をものともせず、片手でクッションを押さえながら不二は言った。
「材料以外でも、ここまで何でも配達してくれるからね。料理を並べるだけでもいいさ」
「窒息三十秒前」
 ぼそと乾が手元のストップウォッチを見ながら呟いた。慌てて大石が不二に拝み倒すと、漸く手を離した。
「げほっ、殺す気かよ」
「もう少し息が続くようにした方がいいよ。そんなだとばてて負けちゃうから」
 にこっと笑って告げる不二に、菊丸は青ざめて大石に縋り付いた。やれやれと肩を竦めたリョーマは、そういえばと腹を押さえた。
 朝が早かったおかげで昼前だというのに腹の虫が鳴りそうな程減っている。リョーマを見て、桃城も腹が減ってることに気付き海堂に向き直った。
「そういやお前、何か持ってたな。おやつあるのか」
「ウルセー。んなもんねえよ」
「一人で食う気か」
 一触即発の空気の中、インターホンが鳴り、面白そうに二人のやりとりを眺めていた不二は、残念に思いつつモニターに向かった。
『開けて開けて、早く。届け物よ』
「姉さん?!」
 驚いた不二は玄関へ向かい扉を開いた。誰が来たのかと興味津々でリビングの扉の方を見ていた一同は、表れた人影に驚いて硬直した。

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