Heaven Knows -3-

 
 風の通り抜ける屋上の一角で本を読んでいた不二は、最後のページを捲ると吐息を付いて本を閉じた。立ち上がって軽く伸びをする。下の校庭からは、昼休みを軽いスポーツで過ごしている生徒達の歓声が漏れ聞こえてきた。
 その様子から察するに、まだ午後の授業まで時間があるなと感じた不二は、屋上から降りて図書室へ向かった。
 図書室の扉に手を掛ける前に、不二は僅かに逡巡した。最近はいつもこの扉を開くのが怖い。期待と不安が入り交じった感情を抑えながら扉を開き中を見ると、不二は落胆に少しばかり肩を落とし、入っていった。
「返却お願いします」
 カウンターに本を置き、無機質な声で告げる。普段から人当たりが良く、穏やかで優しい人だと思われている不二の、ほんの僅かな声の棘に当番の図書委員は気付きもしなかった。
 次の本を借りようと、不二は気持ちを切り替えて本棚に向かう。ここに入学してから随分馴染みとなって、自分の興味ある本は殆ど読んでしまったが、今年度の図書委員の趣味と合わないのか、新刊として入る本は手を出せるようなものがなかった。
 それで図書室とはご無沙汰になっていたのだが、この所借りたい本が無くても足がここへ向いてしまう。もしかしたら居るのでは無いかと思い、訪れる。
 期待は外され、不二はせっかく来たのだからとどうでもいい本を借り、また返しに訪れる理由を作っていた。
 どうしようかと歩きながら見ていた不二は、カラフルな背表紙が並んでいる一角に入り、そのうちの、タイトルに興味を引かれた一冊に手を伸ばした。
 何ページか捲ると、不二はこれが普通の小説では無いことに気付き、眉を顰める。何故この類の本があるのかと訝りつつも、不二は今現在抱えている問題に合わせたような内容に、一瞬借りて読んでみようかと考えた。
 次の瞬間、予鈴が鳴り、慌てて不二はその本を元の場所に押し込んで図書室を出た。所詮フィクションの小説に、自分の問題を解決する足がかりがあるとは思えない。でも、そんなものを当てにしたいと思うほど、自分は追いつめられているのかと不二は苦笑を浮かべた。
「ぎりぎりセーフ、珍しいね」
 そういう自分も本鈴が鳴ったというのに雑誌を広げて読んでいる菊丸に、不二は苦笑を浮かべて隣の席に着いた。
 春に入部してきた可愛げのない生意気な一年生に、始め興味を惹かれたのは人並み外れたテニスセンスを見たからだった。
 不二だけでなく、テニス部の誰もが越前リョーマに興味を持ち、あるいは敵対心を持って彼を見た。その視線はやがてリョーマがコートに入る度に、賞賛へと変わっていった。
 自分の心が興味から別のものに変わったのが何時からなのか、不二にははっきりと判らなかった。多分、あの挑発的な目を見た時から惹かれていたのだろう。
 挑戦、ではなく、リョーマ本人は自覚しながら挑発してくる。先輩だろうと誰だろうと構わず、相対する者をその視線で見つめる瞳に、自分だけを映したいと不二が望んだ時、はっきりと自覚した。
 これが『恋』だと。
 運良くリョーマに告白できて、勢いで身体を繋げてしまったけれど、応えてくれた訳ではない。以前より微妙な関係になってしまったという所である。
 嫌われてはいないと思う。リョーマは嫌いな者には目もくれない。けれど、不二が近付くと猫が毛を逆立てているようにリョーマが緊張しているのが解る。
 何とかきっかけを掴んで話しかけたいのに、その緊張が伝わってきてなかなか話しかけられない。今までそんな経験は一度も無く、不二は人生で二度目の困惑と渇望と苛立ちを覚えていた。ちなみに一度目は弟の裕太が、何かにつけて自分に反抗し、最後には青学を出てルドルフに転校してしまった時だ。
 裕太の場合は原因がはっきりと解っているので、対処もしやすいし困惑も直ぐに消えた。いつかは笑って元の仲の良い兄弟に戻ることも可能だろう。
 でも、リョーマの場合はやるところまでやってしまったのに、一向に先が見えない。先どころか足下さえもぐらついて、右に左におろおろとうろつき廻っている状態だった。
 軽く吐息を付いた不二を、菊丸がちらりと訝しげに振り返って見る。その問いかけるような視線に、何でもないと微笑み返し、不二は授業に集中していった。
「何だ、図書室行ったんじゃなかったん?」
 授業が終わり、くるりと身体ごと振り向いた菊丸は不二に訊ねた。昔から不二はよく図書室に行っていたが、三年になると教室から遠くなり、あまり行かなくなっていたのに、最近は再び毎日のように通っている。一冊の本と共に何となく浮かない表情で戻ってくる不二を、菊丸はいつも複雑な想いで見ていた。
「これって本が無くてね」
「ふーん。…調べてから行きゃいいのに」
 小さく口の中で呟いて前を向く菊丸の背中に、不二は僅かに剣呑な視線を向けた。確かにリョーマが何時当番として図書室に居るかを事前に調べてから行けば楽勝だが、予定された出会いより偶然を楽しみたい。
「その方が、どきどきするじゃない。こんなこと滅多にないんだから」
 ぽつりと呟き、不二は肘を突いて窓の外を眺めた。
 告白されたことは山ほどあるし、試しに付き合ってみたこともあるけれど、自分から好きになったことは今まで無かった。こんなに胸が高鳴ることも、がっかりすることも無い。いつでも感情をセーブして相手に悟らせないできた。
「調子狂っちゃうよね、ほんと」
 くすりと笑い、不二は次の授業へと意識を向けた。

 つい視線がリョーマを追ってしまう。不二はタオルの影に隠れるようにして、リョーマをじっと見詰めていた。
 リョーマの方はわざとらしく不二を見ないように避けているが、意識しているのは丸判りだ。不二の視線を感じて、それを振り払うように荒っぽいストロークを続け、相手となっている桃城を怒らせている。
「こらぁ、いい加減にしろ。練習になんねえだろうが」
「桃先輩、腕なまってんじゃないすか」
「なんだとぉ」
 桃城はネットを飛び越えリョーマに近付くと、乱暴に頭を抱えヘッドロックした。ぐりぐりと頭を小突き締め付ける。
「ありゃりゃ、あんまりやりすぎると手塚の雷が落ちるぞ」
 不二の隣で休憩していた菊丸が呆れたように二人を見て言った。桃城は怒っていながらも、楽しそうにリョーマを構っている。
 普段から見慣れた光景なのに、ふいに不二の胸の辺りに鈍痛が走った。リョーマの身体に廻っている桃城の腕や、にやにや笑いを浮かべている表情に冷たい感情が湧き起こってくる。
 隣の菊丸が息を飲んで自分を見詰めているのに気付き、不二は大きく息を吐いて顔をタオルに埋めた。
「桃城、越前、グラウンド二十周だ!」
 とうとう手塚の声がかかり、リョーマは何で俺が、というように憮然として外へ出ていった。桃城もその後に続いて出ていく。
「やれやれ、おチビ荒れてるなあ。原因は何かな」
 横目で見てくる菊丸に、不二は微笑みかけコートに戻った。その笑みに凍り付いた菊丸も、手塚の不機嫌な視線に促されコートに戻っていく。
 これだけ胸が騒いでいても、ボールにそれを表さない、と不二は努めて丁寧に積極的に練習をこなしていった。普通なら意識なんてしなくても出来るそれを、指先にまで気を遣い行う。多分、リョーマもそうしている筈だが、自分より幼い彼は素直に表に出てしまっているようだった。
 それほど自分の存在を意識しているのだと知って、不二は嬉しさに小躍りしたくなる。桃城とのやりとりで落ち込んだり、これくらいのことで昂揚したり、まったく自分で自分が変になっていると不二は自嘲した。
「越前君、今日一緒に帰らない?」
 練習を終えてベンチに座って汗を拭っているリョーマの隣に腰を下ろし、不二はさりげなく声を掛けた。体温が伝わるほど近付いたのは久しぶりで、声が上擦るのをなんとか抑える。
 不二が隣に座ったのに気付かなかったのか、その声にびくりと反応してリョーマは目を見開き不二を見詰めた。
 不二はその目に引かれるように、顔を近付ける。
「あ、不二がおチビを襲ってる」
 不二から離れようと身を引いたリョーマは、掛けられた声に上を向いた。面白そうに見ている菊丸に、リョーマは眉を顰めた。
「襲ってなんかいないよ、誘ってるんだ」
「へえ、そりゃ余計怖い」
 こんな衆人環視の中、何してるんだと菊丸の視線が不二を咎めた。不二は自分の行動が理性を越えて暴走し始めてしまったことに、僅かに怯んで身を引いた。
「俺、菊丸先輩に用があるんで、お先」
 え?と驚く菊丸の腕を取り、リョーマは脱兎のごとくその場を逃げ出した。残された不二は、唇を噛み締める。
「逃げられたな」
「乾」
 口端に笑みを浮かべ乾が不二を見下ろしている。不二は片手で目を押さえ、自嘲の笑みを浮かべた。その様子に、乾は笑みを引っ込め驚いたように見詰めた。
「お前らしくないな」
「そう?テニスのようにはいかないよ。自分の思った所にボールが戻ってこない」
「人の心まで、データとしては取れない。まあ、一つくらい思うようにならない事があってもいいだろう」
 乾の言葉に、不二は手を退け空を見上げた。
「うんまあ、でも、それも悔しいから、もう少し精進してみるよ」
「立ち直りが早いのは流石だな。前言撤回、まったくお前らしい」
 含み笑いをする乾に笑みを向け、不二は立ち上がってコートから出た。嫌われている訳ではないなら、そのうちきっとチャンスは巡ってくる。それを見つけたら逃がさない。
 穏やかで優しいと一般人に見られている不二の背後に、燃えるオーラを見出して、乾は呆れたように溜息を付いた。
 次の日、予鈴が鳴るぎりぎりに教室に入ってきた菊丸に、不二はにこやかに声を掛けた。菊丸は機嫌よさげに歌っていた鼻歌を引っ込め、びくりと身を引いた。
「な、何かにゃ」
「昨日越前君と何話したの?」
 問う不二に、菊丸は僅かに怯んだが、肩を竦めて言った。
「不二にはかんけーないよ」
「僕の話題が出たでしょ」
 な、何で判るんだと菊丸は目を見開いて不二を見た。その様子に、やっぱりと不二は呟く。
「あー、カマ掛けたな」
「英二は分かり易いんだ」
 笑顔で言う不二に、菊丸は肩を落としてむくれた。
「おチビに相談されたよ。不二先輩が迫ってきて不気味ですぅってな」
 笑顔のまま一気に零下に落ちた不二の周りの空気に、菊丸は慌てて両手を振った。冗談も時と人を選ばないと本気で身に危険が及ぶと、菊丸は理解して頭を掻きながら話し始めた。
「じょーだん、冗談だって。俺がお前と一番仲が良いのかって。そんだけ」
 暫く菊丸をじっと見ていた不二だったが、嘘は付いてないと解ると続きを促した。
「不二のことなら、手塚の方が詳しいぞって答えておいた」
 にやりと笑うと、菊丸は自分の席に着き、教科書を出す。本鈴が鳴り、教師が入ってきて不二はそれ以上菊丸に訊ねることが出来なかった。
 不二は授業内容も耳に入らず、今聞いた事に意識を奪われる。
 子供の頃からテニスをしていて、歳が同じ相手に負けたことは無かった。だから最初テニス部に入った時、自分と同じくらいの力を持つ相手は居ないと思っていた。
 けれど、初めて手塚と打ち合った時、その実力が自分と拮抗していると解って嬉しかった。やがて負けた時も、悔しさより楽しさが勝った。お互いにライバルとして認め、腕を磨き合い二年の間やってきた。
 多分、テニスの事だけでなく性格や考え方なども他の人間より良く解っているだろう。そう、不二の想いも。
 そして手塚の気持ちも不二には解る。自分と同じようにリョーマを求めている訳では無いだろうが、惹かれていることを。
 強い者に惹かれる。自分を奮い立たせ成長させる相手に惹かれるのは当然の事だ。それはリョーマにも言えることで、手塚を見詰める目が変化したのは何時だったか。
 不二は拳を握り締め、苛立つ心を押さえつけた。
 食欲のない昼休み、不二は弁当を広げたもののそれには手を付けず仕舞うと、図書室へ向かった。部活の時間まで待てない。今リョーマを見たい、会いたいと願って不二は廊下を歩いていく。
 教室のある校舎から一旦外へ出て、図書室への回廊を渡っていくと、前から見覚えのある人影が近付いてくるのが見えた。
 微かに不二の動きが強張る。前から歩いてきた人影は、不二を認めたが表情も速度も変えず側を通り過ぎた。
「越前なら居なかったぞ」
「…!」
 不二は足を止めると手塚の後ろ姿を睨み付けた。見透かされているのに腹が立ち、頬が紅潮する。普段の冷静さをかなぐり捨てて、不二は一瞬手塚の後を追おうとしたが、深呼吸をして落ち着かせた。
「不二先輩」
 後ろから声を掛けられて、不二は図書室の方を振り返った。扉の前には驚いた表情を浮かべ桃城が立っている。
「…何? 珍しいね、君が本を借りに来るなんて」
「たまには本くらい読んでますよ、俺だって。それより、今時間ありますか」
 桃城は苦笑を浮かべて答えると、不二に訊ねた。返す本も無いし、リョーマが居ない図書室に用はない。頷く不二に桃城は、先に立って歩き始めた。
 図書室をぐるっと周り樹木の多い回廊の端まで来ると、桃城は足を止めて不二に向き直った。
「俺、こないだ越前と一緒に帰ったんすけど、その時にあいつに不二先輩のこと、訊かれたんですよ」
 桃城の言葉に驚きを隠しつつ、不二は首を傾げて見せた。リョーマと桃城は馬が合うのか、良く一緒に行動しているのは知っていた。それを苦い想いで見ていることに、桃城は気付いているのだろうか。
「へえ、何を訊かれたのかな。怖いね」
 にこりと笑って言うと、桃城は鼻の頭を指先で掻き、彼にしては珍しくはっきりしない口調で話し始めた。
「それが…あいつ、訳わかんないこと言うもんで、俺としても答えようが無くて。まあ、無難な所を話しといたんですけど」
 リョーマが桃城に訊いた自分の事とは何だろうと、不二は頭の中であれこれ考え始める。訳が解らないという問いとはどんなものなのかと想いを巡らせて、目の前の桃城の表情に気付かなかった。
「不二先輩は、越前のことどう思ってるんですか」
「え…?」
 突然問いかけられて不二は意識を桃城に向けた。桃城はさっきまでの曖昧な表情と口調ではなく、真剣な目で不二を見詰めている。
「どうって…凄く強い先が楽しみな後輩…かな」
「それだけですか」
 桃城は不思議そうに目を眇めた。不二は桃城の言葉に表情を変えぬまま、続きを促した。
「俺は、あいつを気に入ってます。悔しいけど凄い奴だって認めて」
「好き、なのか」
 え、と桃城は不二の言葉に目を見開いた。
「いやあ、そんなんじゃ。好きっつーか」
 微かに頬を赤く染めて、桃城は首を横に振る。不二はその反応に僅かに眉を顰めたが、桃城は気付かず自分の気持ちを言葉に露わそうとして四苦八苦していた。
「あー、と、良くわかんないんすけどね。可愛い後輩として好きっていうか」
「じゃあ僕のさっきの答えと同じじゃない」
 不二に返されて、桃城は怯んだ。が、再び真面目な表情になって不二に詰め寄る。
「俺のことはおいといて、問題は不二先輩の気持ちです」
「何が問題なの」
 桃城の態度に次第に苛ついてきた不二は、両手を腰に当てじっと見詰めた。
「越前は、もしかしたら先輩のことが」
 不二は素早く片手を上げて桃城の言葉を遮った。
「それは君が言うべき事じゃないよ。僕と越前君との事だ」
「…そうですか、そうっすよね。大きなお世話って奴か」
 視線を外し、桃城は頷いた。丁度予鈴が鳴り、不二は踵を返すとまだ回廊の隅に佇む桃城を一瞥して校舎の方に戻っていった。

         テニプリトップへ 前ページへ 次ページへ