Heaven Knows -2-

 
 次の昼、弁当を食べた後リョーマは、いつもならお気に入りの場所で昼寝をするのだが今日に限りコートへ向かった。
 いくら都大会前だとはいえ、中学三年受験間近な部員の中で昼休みまで練習をする者はあまり居ない。コートに向かったリョーマがその日見出したのは、海堂と乾の二人だけだった。
「おや、越前。こんな時間に珍しい」
「何しに来やがった」
 相変わらずノートに書き込みながら、海堂の練習に付き合っていた乾がリョーマに気付き目を上げると、海堂も鋭い目付きで睨み付ける。
「訊きたい事があって」
 そんな海堂の目にも怯まず、リョーマはちらりと乾を見上げて言った。乾は興味深げに眼鏡を直すと、ノートを閉じベンチに向かう。
 気にくわないというように海堂は舌打ちをすると、一人でサーブの練習を始めた。
 乾はベンチに腰を下ろし、立っているリョーマを僅かに見上げるように視線を合わせた。
「何かな。悪いけど、このノートを見せる訳にはいかないよ」
「不二先輩のこと」
 リョーマは、眼鏡に隠されて窺えない表情の乾に端的に訊ねた。リョーマの言葉に乾は、小さく驚きの声を漏らし、眼鏡を指で押し上げる。
「もう次のランキング戦リサーチかい? その前に都大会があるっていうのに」
「違うけど。知りたいんだ」
 言った後、リョーマは唇を拳で押さえ、戸惑うように視線を乾から外した。
 そんなリョーマに小さく笑むと、乾は自分のノートをぱらぱらめくりながら、一つのページで指を止めた。
「不二は典型的なカウンターパンチャーだ。相手の力を上手く利用して、隙を突き得点を重ねていく。相手を見抜いて正確にそれに合わせた戦略を使ってくる天才……こういうのが聞きたかったんじゃないようだな」
 軽く笑う乾に、リョーマは自分が眉間を寄せている事に気付いて溜息を付いた。
 先日の対不動峰戦では少ししか不二のプレイを見られなかったけれど、それでも今乾が言ったことくらいは見て取れた。知りたいのは誰でも解るそんなことじゃなく、もっと違うもの。
「これ以上の細かいデータは取ってあるけれど、正直それが不二の全てだとは思わない。むしろ、全く逆かもしれない」
 驚いたように見るリョーマに、乾は苦笑して立ち上がった。丁度昼休みの終了五分前のベルが鳴り、海堂がゆらゆらとベンチに向かってくる。
「何まだうろうろしてんだ、お前」
 目障りだと言うように海堂はじろりとリョーマを睨め付けると、タオルを手に再びゆらゆらと部室に向かっていった。
「ありがとうございました」
 一応礼を言ってリョーマは教室に戻ろうと踵を返した。その後ろ姿に乾が声を掛けて引き留める。
「君が何を知りたがっているのか判らないが、都大会までには解決しておいてくれよ。最近の君の実力は数パーセントアップしたかと思ったら、少し違う方向へ行ってるみたいだからね」
 リョーマはそれに応えず、小さく会釈してそのまま歩き出した。

 午後の授業中も、リョーマはいつもだったらうつらうつらと夢心地になってしまうのだが、不二の顔がちらついてその気になれず、ずっと黒板を見ていたため教師を喜ばせた。
 あのデータマンの乾にすら正体を掴ませない不二を、どうやったら知ることが出来るだろうか。
 既に違う方向へ向かっているような気がする。どうやって知るかより、何を知りたいのかが先だろうとリョーマは思いつつ、それが判らないのが困りもの、と吐息を付いた。
 やっと放課後になって、リョーマは鬱屈した気分を晴らすため、さっさと着替えてコートに出た。軽く準備体操と素振りをする内に、三年生達もやってくる。
「ね、リョーマくん、何か判ったの」
 不二と菊丸が連れ立ってやってくるのを睨むように見ているリョーマに、思い出したようにカチローが訊ねた。
「何?」
「昨日不二先輩と一番仲がいいのは誰かって訊いてたじゃない。その誰かと話したのかなと思って。やっぱり菊丸先輩?」
 リョーマはそれに答えず、じっと二人を見続けていたが、菊丸が気付いて手を振ってくると不二の視線が自分の方を向く前に顔を逸らした。
 昨日は不二の普段と変わらない態度にむかついたが、今日は仲よさげな二人の様子に心が粟立つ。
 そんな自分の苛立ちを押さえるように、リョーマはシャツの胸の部分を堅く握り締めた。
 練習は滞りなく終わり、リョーマもタオルで汗を拭いながらベンチに腰を下ろした。隣に誰か座る気配を感じてリョーマはタオルから顔を上げる。
「越前君、今日一緒に帰らない」
 至近距離にある不二の顔に、驚愕してリョーマは身を引いた。にっこり笑って、不二は更にリョーマに顔を近付けていく。
「駄目?」
「あ、不二がおチビを誘拐しようとしてる」
 上から振ってきた声に、リョーマはその主を見上げた。
「人聞きの悪い」
「じゃ、誘惑してる。つーか脅して…」
 一瞬不二の目が菊丸を捕らえる。続けてからかおうとしていた菊丸は、息を飲んで口をつぐんだ。
「俺、今日菊丸先輩に用事があるから。お先っ」
 リョーマは不二の視線が外れた隙に立ち上がると、硬直していた菊丸の腕を取って引きずるようにその場を逃げ出した。
「ちょっと待て。俺をダシにして逃げるなっちゅーの」
「別にダシにした訳じゃないけど」
 超高速で着替え、菊丸を急かして、リョーマは不二が部室に来る前にそこを飛び出した。いつも桃城と行くファーストフードの店に入ると、漸く落ち着いたように席に座りこむ。
「で、何なんだよ。俺に用事っての口実じゃないんか」
 セット物を頼み食べながら、菊丸は黙りこくって飲み物を啜っているリョーマに訊いた。
 もっとも菊丸には訊かれる前に何となく察しは付いている。絶対不二とリョーマの間に何かあったに違いない。
 不二の恋心をふとしたことから知ってしまった菊丸は、取り敢えず応援もしないし邪魔もしないというスタンスで行こうと考えていた。
「先輩、不二先輩と同じクラスで仲良いっすよね」
「うーん、仲が良いかと言われると、悪くはないって感じかにゃ」
 微妙な物言いに、リョーマの眉がぴくりと上がった。ストローを弄びながら目を泳がせる菊丸に、リョーマはきつい視線を向ける。
「どっちなんすか」
「何で」
 菊丸は身をテーブルの上に乗り出すと、リョーマの間近に迫って言った。
「そんなこと気にすんだ。俺と不二の仲が良くても悪くても、おチビには関係ないんじゃない」
 今までののほほんとした雰囲気を一変させ、いきなり真剣な顔で訊いてくる菊丸に、リョーマは鼻白む。
「そう…だね」
 何を勢い込んで訊こうとしていたのか。知りたいことの意味さえ掴んでいないのに。
 素直に頷くリョーマに菊丸は僅かに目を見開き、小さく笑って身体を元に戻した。素直なリョーマなど見たことがない。それだけ不二のことで振り回されているということなのだなと理解して、菊丸はリョーマにちょっぴり同情した。
「ほんとに関係ないん? 不二と俺が仲良いと、困っちゃったりする?」
 頭を少し傾けて、菊丸はリョーマの顔を覗き込んだ。椅子に深く腰を掛け、蹲るようにして菊丸の視線をリョーマは避けている。
「困る…んじゃなくて、知ってるかなと思って」
「何を?」
「どんな本を読んでるかとか、好きな食べ物とか…いろいろ」
 菊丸はリョーマの言葉に目を瞠った。二つ三つ瞬きをして、肘を突き顎を乗せると、菊丸は微かに赤みを帯びているリョーマの顔をまじまじと見詰めた。
「テニスのこととかじゃなくて、そんなのが訊きたいんだ」
 小さく頷くリョーマに、僅かに疑問を持ちながら菊丸はその姿勢のまま、残ったコーラを飲み干した。
「本ねえ…そんなの図書委員だったらカード覗けば一目瞭然じゃん。好きな食べ物は、あの乾特製野菜汁を上手いって言う感覚から判るだろ。ふつーの人間じゃないにゃー、あの味覚は」
「でも、甘い物食べるって言ってた」
 ぼそっと呟いたリョーマの言葉に、菊丸は猫のような瞳をくるりと回して彼を見た。
 しまったというように口を押さえるリョーマを、問いつめるでもなく菊丸は黙ったままストローの端を噛みつぶした。
「手塚の方が不二とは仲がいいよ。多分一番分かり合ってるんじゃないかな」
 はっと顔を上げるリョーマに、菊丸は目を眇めて薄く笑った。
 まだリョーマ自身良く解ってないようだけど、不二のことを知りたいという気持ちがどこから来ているのか、菊丸には今の表情だけでも充分すぎるほどに解った。
 けれど、それを教えてやるほど親切ではない。気付かないまま終わってしまうなら、それはそういう運命だったのだ。
「おチビ、終わったらいつでも来ていいよ。待ってるから」
 にっこり笑ってウインクをし、菊丸は立ち上がって去っていった。菊丸の最後の謎な言葉より、不二と一番仲がいいのは手塚だということに、リョーマは未だショックを受けていた。
 テニスのことですら強い相手でないと他人に興味を持たないリョーマが、日本に来て初めて関心を持ったのは手塚だった。父親以外に負けた事は何度かあったけれど、歳が近く同じ左で負けた後、あれほど強くなってもっと面白いテニスがしたいと思ったことはなかった。
 不二は手塚の強さを知っているだろう。リョーマより強い彼を。そして手塚は不二の事を一番解ってる。
 頭の中に二人の顔が浮かび、それがぐるぐると渦を巻いてリョーマは訳が解らなくなってきた。
 唇を噛み締め、溜息を付きながらリョーマはぐるぐる廻る考えを抱きつつ家路についた。

 金曜日の午後授業が終わった後、リョーマは三年生の教室に向かった。丁度廊下に大石の姿があるのを見つけ、近付いていく。
「大石先輩」
「あれ、越前、どうしたんだ? 今日は部活ないだろ」
 試験が近付くと部活も一旦休みになる。昨日のうちに今日と土日は部活を休んで試験勉強しろと、竜崎先生からのお達しがあった。
「手塚部長いますか」
「ああ、何、用事?」
 こっくり頷くリョーマに、深く考えず大石はまだ教室の中に居た手塚を呼んだ。手塚は廊下に出ると佇むリョーマを見て訝しげに大石に視線を巡らせる。
「試験勉強のために部活が休みなんだから、テニスさせろなんて無茶なお願いはするなよ」
 ぽんとリョーマの肩を叩き、大石は手を振って去っていった。残された手塚は黙っているリョーマをじっと見詰めていたが、何も話し出そうとしない彼に仕方なく口を開こうとした。
「ちょっと訊きたいことがあるんですけど」
「何だ」
 漸く言葉を発したリョーマに、手塚は訊ねた。リョーマは顔を上げ、挑戦的に手塚を見詰める。
 廊下の真ん中で見つめ合う…傍目には睨み合っているように見える…二人に、他の生徒達がちらちらと注目していた。
「面倒な話なら、別の場所へ移動するぞ」
 リョーマの様子から、ちょっと、という規模の話ではないことを察した手塚は踵を返すと歩き始めた。リョーマもその後を着いていく。
 階段を上がり、屋上へ出た二人は更に人目に付かない端の方へ行って足を止めた。試験前の屋上に人気は無い。
「で、何を訊きたいんだ」
「不二先輩のこと」
 腕組みをして金網に寄りかかった手塚は、リョーマの問いに僅かに目を見開いた。
「不二の何を」
「一番仲が良いって、聞いたんですけど、菊丸先輩に」
 自分のひび割れたような声にリョーマは少し驚きながらも手塚に訊いた。手塚は表情を変えずリョーマを見詰める。
「仲が良いとは、どういう意味でなのかわからんな。部では一年から一緒だったが」
「一番不二先輩のこと、良く知ってるのかなって」
「知っていたらどうだというんだ。不二のことを知りたいのか、知っていることを全て教えろと」
 淡々と言われて、リョーマは糾弾されているわけでもないのに顔を赤らめた。
「知ってどうする。俺が知っていて語れる不二は、俺自身のフィルターが掛かっている。そんな話を聞いてもお前の役には立つまい」
 腕組みを解き、手塚は両手をズボンのポケットに突っ込むと、金網から背を離し、リョーマの隣に足を進めた。
「…俺のことなら、話せることもあるが、訊きたいか」
 顔をリョーマの方に向け、手塚は微かに口端を上げた。リョーマは暫く手塚を睨むように見詰めていたが、ゆっくり顔を背ける。
 去っていく手塚の足音が消えたのを確認すると、リョーマはほっと息を吐いた。確かに手塚の言うとおりかもしれない。他人から訊いたことは所詮又聞きにしかならないのだ。
「まだまだだね」
「僕も訊きたいことがあるんだけど」
 突然後ろから声を掛けられて、リョーマは驚いて振り返った。そこには笑みを浮かべた不二がリョーマを見詰めていた。
「不二…先輩」
「手塚と何話してたのかな。手塚だけじゃなくて、この間からあちこち動き回ってるよね」
 リョーマは目を不二の後ろに走らせた。出口への道はしっかり不二が塞いでいて逃げ道はない。リョーマはむっとして不二を睨み付けた。
「別に…」
「告白でもされた?」
 不二の言葉にリョーマはびっくりして目を見開いた。それを見た途端、不二は素早くリョーマの間近に迫ると逃さぬように両手を身体の脇に付いた。
「駄目だよ。他の奴には渡さないから。誰にもね」
 いつもの穏やかな笑みは影を潜め、真剣な表情で見詰められてリョーマは息を詰めた。不二の両手が肩に掛かると、びくりとリョーマは身体を震わせる。
 そんな自分の反応が悔しくて、リョーマはひたすら不二を睨んでいた。
 微かに不二の瞳が揺れ、切なげな彩を浮かべると徐々に近付いてくる。焦点が合わぬほど近付いて、リョーマの唇をそっと不二のそれが覆った。
「好きだ…君が」
 目を開けたまま口付けを受けていたリョーマは、自分の肩に掛けられた不二の手が微かに震えていることに気付くと、いきなり恥ずかしさが襲ってきて目を強く閉じた。
 口付けは段々深くなり、何度か触れると歯列を割って不二の舌が入り込んでくる。ゆっくり口腔を辿り吸い上げる不二に、リョーマは熱が頭に廻ってふらつきしがみついた。
「大丈夫? 歩けるかい」
 不二の言葉が耳を通り過ぎる。リョーマは真っ赤になった顔を見られたくないと、俯いたまま不二から離れようとした。が、不二はリョーマの身体を抱きかかえるようにして歩き始めた。
「送っていくよ」
「…いい」
 手で不二を押し返そうとするのだが、力が入らない。不二の身体がぴったりくっついていると、心臓が跳ね上がって、熱も上がりっぱなしだ。
「あれ、おチビ、どうしたん?」
 菊丸の声が聞こえたが、それに対する不二の声は聞こえなかった。リョーマは周りからこの様子が注目されているような気がして、益々顔を上げ辛く、タクシーに押し込まれても抵抗できなかった。 タクシーから降りた時、漸くそれが失敗だったと気付いて踵を返そうとしたが、しっかり手を掴まれてリョーマはそのまま不二宅の玄関を潜った。
「何でこっちに」
「まだ訊いてないから」
 カーペットの上に胡座をかき、そっぽを向くリョーマの前に、不二は正座して真っ直ぐ見詰めた。ちらりと不二を見上げたリョーマは、覚悟を決めると顔を正面に向ける。
「何すか」
「この前のこと…嫌だったのかなと」
 この前と聞いてリョーマは行為を思い出し、全身が熱くなって再び顔を赤く染めた。
「あれから、怖くて君に訊けなくて」
「怖い?」
 驚いてリョーマは不二を見た。不二は淡く微笑むと頷いた。
「嫌われてはいないと思ったけどね」
「先輩って自信家なんだか違うんだか」
 呆れたように言うリョーマに、不二は苦笑を浮かべた。その笑顔に、リョーマの身体から力が抜ける。
「あれは、痛いし、疲れるからヤダ」
「何度かやってくうちに慣れるよ」
「やっぱり自信家」
「君が好きだ。欲しいんだ。君は僕のこと、どう思っている」
 リョーマの方に身を進め、不二は笑みを引っ込めて訊いた。どんどん近付いてくる不二を避けようと、リョーマは知らず身を後ろに反らす。
 しかし、それにも限界はあって、リョーマはバランスを崩し後ろに倒れ掛けた。それを支え、不二はそっとそのままカーペットにリョーマを横たえた。
「別に、どうとも思ってない」
「ここが、どきどきしてるのは、僕の気のせいかな」
 不二はリョーマの左胸に手を当てた。不二が近付くと、自分勝手にリョーマの心臓は走り出す。リョーマは不二の顔を見てられなくて、目を閉じた。
「…わかんない。何でこうなるのか」
「僕のこと…想って、リョーマ」
 顔に不二の髪が触れ、直ぐに唇が合わさせる。リョーマは腕を上げ不二を押し上げようとしたが、ただ胸元のシャツを掴むだけに終わってしまった。



「そういえば、何であちこち動いてたんだい」
「…知りたくて」
「何を」
 その問いに答えず、リョーマは目を閉じると手を不二の左胸に当てた。心臓が自分と同じリズムでトクトクと動いている。
 それを感じていると、何が知りたいかもうどうでもいい気がして、リョーマは首を横に振り微かに笑った。

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