Heaven Knows -1-

 
 鐘の音と共に今まで静かだった校内が途端にざわめきで満たされた。午後の授業が終わり、自宅に帰る者、クラブに行く者、塾へ行く者とそれぞれ生徒達が教室から溢れ出し、散っていく。
「あれ、リョーマくん。どこ行くの」
 テニスコートのある校庭へ向かっていたカチローは、反対方向へ歩いていくリョーマと擦れ違って立ち止まった。
「今日、当番だから」
 リョーマは必要最小限の言葉しか喋らない。くせなのか、それとも日本語に慣れてないからなのか判らなかったが、カチローは納得して頷いた。
「あ、そうか、図書委員だっけ。じゃあ遅くなるって部長に言っておくね」
「ああ」
 カチローは手を振って再び歩き始める。リョーマも面倒くさそうに廊下を図書室に向かって歩きだした。
 こんな委員などもちろん引き受けるつもりのなかったリョーマだったが、ホームルームで居眠りをしているうちに推薦されいつの間にか決まってしまったらしい。寝ているのが悪いのだと、辞退は受け入れられなかった。
 昼休みの当番と夕方の当番が週に一度交互に廻ってくる。昼は昼寝が出来ないし、夕方はクラブ活動の時間が削られてしまうのが痛かった。
 青春学園の図書室は、中学としてはかなり広く本の種類も多かった。
 ということは、図書委員の仕事も多いということで、のんびりカウンターで眠っている暇はない。本の貸し出しや返却本の整理など、仕事は沢山あった。
 溜息を付きながらリョーマは、先ほど女生徒が返却してきた本の山を棚に戻すべく、番号を見ながら探していった。
 殆どは新規購入棚で、残りが小説棚だ。小説といってもかなりの種類がある。その中の一角、なんとなく背表紙がカラフルな新書棚に最後の一冊を押し込めたリョーマは、その隣にある本のタイトルに目を留めた。
 それを取り出して、ぱらぱら中を見ていると、少し離れた場所から小さな笑い声が聞こえ、リョーマは振り返った。
 そこには数人の女生徒が居て、リョーマの視線に気が付くと、口を押さえ逃げていった。一瞬首を捻ったリョーマだったが、本を棚に戻すとカウンターへ戻った。
 暫くして再び返却用の本を抱え、リョーマは棚に向かう。今日はやけに本を返す生徒が多いなと思いながら歩いていたリョーマは、さっきの女生徒たちが溜まっている後ろの本棚に辿り着いた。
「ね、さっきの子、この本見てたよね。好きなのかな、こういうの」
「まさかあ。だってこれボーイズだよ。まあ軽いもんだけど」
「あの子新しくテニス部入った子だよね。テニス部といえば不二君はどんな本読んでるのかな」
 棚の向こう側の会話を聞くでもなく本を収めていたリョーマは、不二の名前に動きを止めた。
 自分が当番の時に不二と図書室で会ったことはない。週に一度ではこれから会う機会もあまり無いだろう。だからどんな本を読んでいるかも知らない。
「不二君ねえ…、やっぱり小説かな。歴史ものとか。でも何で? あっ、もしかして、不二君好きだったりして」
 騒いでいた女生徒達は、棚の後ろから聞こえてきた本が落ちる音に、はっと気が付いて静まり顔を見合わせると図書室から出ていった。
 リョーマは落としてしまった本を拾い、棚に戻す。機械的にその作業をこなした後、司書の先生に断って部活に向かった。
 不二に好きだと告白され、戸惑っている内に身体を繋いでしまったのは、つい最近のことだ。青学テニス部に入って、個性豊かな先輩達の中でも不二はダントツに『変な人』として認識していた。
 強さで言ったら手塚を一番意識している。けれど、視線に気が付いて、それが普通の視線じゃないような気がして、気にしだしたらいつのまにか取り込まれてた。
 あんなことになっても嫌いにはならなかったし、といって好きと告白されても、まだリョーマには不二の『好き』がどういうものか、はっきりとしたイメージはなかった。
「ちーっす」
 着替えてコートに入ったリョーマは、ぺこりと挨拶をするとレギュラーの練習に加わった。丁度不二が菊丸とサーブ&リターンの練習をしている。
 じっと見詰めるリョーマに、不二はにっこり笑って手を振った。
「越前くん、遅かったね」
 その視線を避けるように顔を逸らし、素振りを始めたリョーマに、不二は苦笑を浮かべた。
「余裕じゃん、不二。そりゃっ、弾丸サーブ!」
「これくらいのサーブじゃね」
 よそ見をしている不二にサーブを打ち込むが、あっさりそれを打ち返されて菊丸は悔しそうに地団駄を踏んだ。
 それを見て小さく笑う不二に悟られぬよう横目で見ていたリョーマは、普段と変わらない態度になんとなく腹が立ってグリップを握る手に力を込めた。
「さっきまで完璧なリターンだったが、今は僅かにポイントがずれているな。原因は君か?」
 ノートを片手にぼそりと乾に言われ、リョーマは驚いて彼の方を見上げた。
「さあ…何のことっすか」
「君も力が入り過ぎだ。意識しないようにと思っているとかえって意識してしまうんだがな」
 図星を指されてリョーマは乾を睨み付ける。
「これから都大会が始まる。俺がレギュラーを外れたのに、つまらない事で戦力が落ちるのはかなわないからね」
「関係ないっすよ」
 リョーマは乾に答えると、再び素振りを始めた。確かにテニスで勝つことに比べれば、不二とのことなどつまらない事なのかもしれない。けれど、それを他人から言われるのは腹が立つ。
 自分が腹を立てていることに気付いたリョーマは、更にむかついてラケットを振り出した。その後桃城相手にサーブの練習を始めたが、いつもより容赦なくボールを打ち込んでいく。
「おいおい越前、ちっと気合い入りすぎじゃねーの」
「これくらい受けられないんすか」
「なにおうっ、こんなへなちょこサーブじゃ練習になんないぜ。ガンガン来いや!」
 リョーマの嫌みな言い方に、桃城は煽られて怒鳴った。途端にさっきよりも強いサーブが炸裂する。桃城はリターン出来なかったことに、ぎりぎりと歯噛みして悔しがった。
「あれえ、おチビちゃん、随分荒れてるね」
 不二との練習を終えた菊丸はタオルで汗を拭いながら、ラケットを乱暴に振り回し桃城をこてんぱんにしているリョーマを見て呟いた。
 ついで原因と思われる不二を菊丸はじっと見詰める。不二はその問いかけるような視線を無視して汗を拭いていた。
 何があったのか訊こうとした菊丸は、不二が顔を上げタオルの影からリョーマを見詰める視線に、口を閉ざした。
 普段の穏やかな笑顔は影を潜め、切ない表情に目だけは熱くリョーマの一挙一動を追っている。
 それはほんの僅かな時間で、直ぐに不二はタオルに再び顔を埋めてしまったが、菊丸は息を飲んで暫くそのまま見詰めていた。
「英二、いつまで油売ってるつもりだ」
 呆然としていた菊丸は、後ろから大石に声を掛けられて思わず飛び上がってしまった。
 驚いたように自分を見る大石に何でもないと首を振り、菊丸はラケットを手にする。
「う…」
 不二はどうしたのかと見ると、隣のコートを見ていた。
 サーブの練習が終わったのか、桃城がリョーマの頭をヘッドロックしている。桃城の頬がくっきり赤いのは跳ねたボールでもぶつかったのか。
 周りから見ればちょっと乱暴だが微笑ましい桃城とリョーマのスキンシップを、不二は射るような目で見ていた。
 その目をうっかり見てしまった菊丸は、低く呻くと自分の口を押さえ、大石に縋り付いた。
「何だ、どうした」
「んにゃ、別に」
 大きく溜息を付き、菊丸は首を振るとコートに戻った。
 桃城との練習で少し気が晴れたリョーマだったが、不二の視線に気付いて顔を逸らした。その先に菊丸が不二を見詰めているのが見え、僅かに眉を顰める。
「桃先輩、いい加減離して下さい。ボール避けらんなかったからって八つ当たりすんなって」
「てめえっ、わざとだろ!」
 確かにわざとなのだが、それを肯定するようなことはしない。まあ、あんまり騒いでいれば鶴の一声が掛かるだろうと、リョーマはされるがままでいた。
「桃城、いい加減にしないか」
「…ういっす」
 リョーマの考え通り手塚の一言で渋々桃城は腕を外す。やれやれと肩を竦めたリョーマは、汗を拭くためにベンチに戻った。
 入れ替わりに不二が再びコートに出ていく。触れるか触れないかの感覚で擦れ違った時、リョーマと不二の間に得も言われぬ緊張感が走った。
 何か声を掛けられるかと思って一瞬ちらりと顔を見上げたリョーマだったが、そのまま無言で歩き去る不二に微かな怒りを覚え、ベンチに乱暴に座った。
「不二先輩って、誰と一番仲がいいんだ」
 同じように休憩していたカチロー達に問いかけるでもなく呟いたリョーマは、驚いたように自分を見詰める三つの視線に僅かにたじろいだ。
「菊丸先輩じゃないかなあ。同じクラスだし」
 リョーマの滅多にない質問に、カチローは暫く考え込んでから答えた。
「でも、ダブルスでは河村先輩と組んでたし、あの怪我の時も直ぐ判ったのはすごくない」
「ばっかだなあ、お前ら」
 カチローとカツオを押しのけるようにして、胸を張り堀尾がリョーマの前に立つ。鼻息も荒く嬉しそうに堀尾は蕩々と述べ始めた。
「あのな、青学ナンバーワンの手塚部長が一番だろ。一年の時からライバルみたいだし、なーんかあの眼鏡の奥の鋭い瞳で全部知ってるって感じだしな」
「…何を知ってるって」
 後方から掛けられた低い声に堀尾達は飛び上がった。恐る恐る三人は振り返って見る。
「なーんだ、桃先輩か、びっくりした」
「そうだよ、低い声出して、部長かと思った」
 にやにやと笑って見ている桃城に、カツオと堀尾は文句を言いながら胸をなで下ろした。
「で、何を知ってるとか知らないとかの話? 俺だって結構知ってると思うぜ」
 その言葉にリョーマは反応して桃城を見た。
「そこ! 休憩長すぎるぞ。さっさと練習に戻れ」
 リョーマは一体何を知りたいのかと見守っていたみんなは、手塚の声にはっとして慌ただしく練習に駆け戻って行った。
 口を開きかけていたリョーマも立ち上がる。そんなリョーマに桃城は囁いた。
「しゃあねえな。帰りに聞いてやるよ」
 別にどうしても桃城に訊きたい訳ではない。それに一体何を知りたいのかも判然としない。リョーマは溜息を付くと気が乗らない練習に戻っていった。

 練習後、リョーマは校門前で桃城に呼び止められた。ぼんやりと歩いていたため、最初その声に気付かずリョーマは道を歩いていき、後ろ襟首を掴まれてやっと我に返って振り返った。
「なんすか」
「何だよ、さっき後で訊いてやるって言っただろ」
 桃城はリョーマの態度に不満そうに言うと、笑って自分の後ろを指さした。
 帰る方向が同じなため、たまに桃城は自転車の後ろにリョーマを乗せて送ってくれる。リョーマは鞄を担ぎ直すと身軽に荷台のない自転車の後ろに跨った。
「んで、何?」
「不二先輩のこと」
「不二先輩の何?」
 具体的に何が知りたいのか言ってくれないと、答えようがない。桃城は自分の問いに黙ったまま答えないリョーマを振り返ってみた。
「何が知りたいんだよ」
「……わかんない」
 はあ?と桃城が呆れたように首を捻った途端リョーマは、あっと前を見た。
「桃先輩、前」
 え、と前に視線を戻した桃城は、目の前に表れた電柱にぶつかり掛けて慌ててハンドルを捻った。
 バランスを崩し倒れ掛けた桃城は、焦ってブレーキを掛け足を着いた。リョーマは巻き込まれないように素早く飛び降りる。
「危ねえ、あぶねえ。大丈夫か、越前」
 電柱にぶつかって怪我しましたなんてことになったら、先日同じように自転車に乗っていてドジって足首を捻挫した桃城にはしゃれにならない。
 ましてや、越前に怪我でもさせようもんなら、部長や竜崎先生に大目玉を食らうこと必至だ。
「大丈夫っす」
 両手を上げて無事を示すと、桃城は大きく息を付いてがっくりとハンドルに突っ伏した。丁度そこは小さな公園の前で、桃城は自転車を道端に停めると中へ入っていく。
 ベンチ代わりにブランコに座ると、小さく揺らしながら桃城は改めてリョーマに訊いた。
「不二先輩の何が知りたいってんだ。わかんないってなんだよ」
「知りたいことが、わかんない」
 リョーマの表情は迷子の子供のようで、桃城をからかっているとかふざけているとかいう物ではないと判る。桃城は溜息を付いて言った。
「あー、取り敢えず、俺が知ってることでいいか」
 こっくり頷くリョーマに、桃城は微笑むと話し始めた。
「俺が不二先輩を初めて見たのは、お前が俺と会った時と同じ、テニス部へ入部しようとコートへ行った時だった。
 でも、その時の印象はあんまり無いんだよな。どっちかっつーと、部長の方にばっか目がいってた」
 リョーマは鞄を地面に置くと、桃城と同じようにブランコに腰を下ろした。
 自分の知らない時代の不二を桃城が語ることに、興味と僅かな苛つきを感じながらリョーマは地面をつま先で突く。
「ランキング戦で当たった時だな、初めてすげーっと思ったのは。打つ球打つ球返されて、頭きて切れかかってたら、誰かに『不二は天才だから勝てない』って言われて、余計カッカして絶対抜いてやるって誓ったぜ」
「で、抜けたんですか」
 拳を握り締める桃城に、リョーマは訊いた。途端に桃城は眉間に皺を寄せ、口をへの字に曲げた。
「これからさ。絶対不二先輩にも、部長にも勝ってみせる。…ってこんな話を聞きたい訳じゃないんだよな?」
「面白いっすよ」
 確認するように桃城はリョーマを見ると、にっこり笑顔で返される。自分が勝てない話が面白いのかよと心の中で突っ込んで、桃城は話を続けた。
「だから、俺の知ってる不二先輩は、返し技の得意な天才肌のプレーヤーってことか。あ、でもそんなのこないだのを見てりゃわかるか」
 対不動峰戦での必殺返し技、ツバメ返しを見たリョーマは軽く頷いた。でも、あれで不二が全力を出して戦っていたとは思えない。シングルスで全力を出す不二を見てみたい、戦ってみたい。
「テニスの腕について一番知ってるのは乾先輩か。後ずっとライバルだった部長かな。俺はプライベートなことはあんまり知らねえし、知りたいって思わねえな。……は別なんだけど」
 小さく呟いた桃城の最後の言葉はリョーマの耳には届かなかったらしい。リョーマは立ち上がると鞄を抱え直した。
「ありがと、桃先輩。じゃ、また明日」
 軽く会釈して歩き始めるリョーマに、桃城は慌てて立ち上がって声を掛けた。
「あ、おい、こっちも訊いていいか」
 何だろうと、身体の向きは変えずリョーマは顔だけ向けて桃城を見た。
「何で不二先輩のこと、知りたいんだ?」
 真剣な表情で訊いてくる桃城に、リョーマは僅かに視線を宙に向け、首を横に振った。
「それもわかんない」
 それ以上答えず、リョーマは去っていく。桃城は複雑な顔でそれを見送ると、短く吐息を付いて自転車に向かった。

         テニプリトップへ 次ページへ