Whispering Wind -2-


 
 リョーマは亜久津に傷付けられた痛みに顔を蹙めながら、部室に入っていった。途端に大石や河村達の心配そうな視線に晒される。
「中体連に言った方がいい」
「転んだだけっす」
「ダメダメ、こいつ自分で決着付けるって決めてますよ」
 眉を顰め言う大石に、リョーマはその必要はないと否定した。桃城の言うとおり、この落とし前は次の試合で必ず付ける。
「あの…このこと不二先輩には内緒にしといて下さい」
 みんなが出ていく時に、リョーマは菊丸の服の裾を引っ張って呼び止めた。大石や河村は組が違うし余計なことを言うとは思えない。桃城は学年が違うから会う機会も余り無いだろう。
「俺が不二に、おチビちゃんが暴漢に襲われちゃって、もうたーいへーんって言うと?」
 大げさに身振り手振り付きで表す菊丸に、リョーマは苦い顔で俯いた。たいした怪我じゃないのに、騒がれたくない。
「むふふ…そっか、不二に心配かけたくないんだ」
「そんなんじゃないっす」
 慌てて否定するリョーマの頭をぽんと叩き、菊丸はウィンクを一つして頷いた。
「言わないよ……なるべく。不二は訊きたいことがあったら、どんなことをしても聞き出すタイプだから、努力する」
 本気になったら隠すのは無理だけどなー、と笑って菊丸踵を返した。
「おーい、越前、早く帰ろうぜ。それにしても腹減ったなあ。なんか食ってかね?」
「いいっすね」
 外で待っていた桃城が腹が減ったと騒ぎ、勢いで何か食べに行こうという話になった。途中河村の姿を見つけ、ファミレスに入って様子を窺うと、亜久津と再び会ってしまった。一触即発の危機を脱した一同は店から出ると、河村から事の次第を聞き出した。
「越前、すまない」
「河村先輩のせいじゃないでしょ。それより、これは転んだだけだって」
 謝る河村に言ったリョーマは、不敵に笑ってみせた。それを眩しい物でも見るように目を細めた河村は、軽く吐息を付くと手を挙げて去っていく。それを見送ったリョーマは、桃城や菊丸とも分かれ歩き出そうとした。
「ああ、越前、ちょっと」
「なんすか」
 乾に呼び止められたリョーマは、憮然として振り返った。
「不二はもう知っているぞ」
「えっ」
 ぎょっとしてリョーマは目を見開いた。今日は不二は家の用があるからと練習を早引けして先に帰った筈だ。まさか、と乾をちらりとリョーマは見上げた。
「いや、俺じゃない。まあ、あいつも色々耳聡いからね」
「何のことかわかんないけど。じゃ」
 軽く頭を下げてリョーマは足早にその場を後にした。不二が知っているって、どこから情報を得たのだろう。それに、乾は誰から聞いたのだ。いつの間にか自分たちの後ろに居たくらいだから、部室の側にでも居たのだろうか。
 とにかく、現場を見られた訳ではないのだから、何か訊かれたとしても白を切り通せばいい。出来るかどうか自信はないが。
「いてっ」
 無意識に顔に力が入り、傷が痛む。さっきの事も合わせてむかついたリョーマは、拳を握り締めると小さくぶっつぶす、と呟いた。
 次の日の部活、目深に被った帽子の下からでも不二の視線は痛いほど判った。なるべく隣り合わないように、対峙しないように気を遣ったけれど、練習内容によってはそうもいかない。
 だが、リョーマの意に反して不二は何も言ってこなかった。最初に顔を合わせた時以外、不二はごく普通に練習をこなしていく。拍子抜けしたリョーマはほっとして練習を続けた。
 練習が終わった後片づけをして部室に戻ったリョーマは、着替えも終わっているのに待っている不二を見て、一瞬足を止めた。完全に油断していたため、まさか居るとは思わなかったのだ。
「どうしたのリョーマくん」
「……別に」
 後から来たカチローに訊ねられ、リョーマは再び帽子を深く下げてロッカーに向かう。不二は何も言わず黙って着替えるのを見ていた。
 無言の圧力に、いつもは煩い堀尾も黙々と着替えを終え、さっさと出ていく。着替え終えたリョーマは一つ溜息を付くと、諦めて不二に向き直った。
「何か用っすか」
「一緒に帰ろうと思って」
「方向違うじゃない」
 一応言ってはみたが、不二はただ笑顔でリョーマを見詰めるだけだ。リョーマは再び吐息を付くと、立ち上がった不二に続いて部室から出た。
「転んだんだって」
「はあ」
「猿も木から落ちる、かな」
 校門を出て暫く無言状態が続いた後、いきなり不二が言った。リョーマは小さく頷く。ぴたりと足を止めた不二は、リョーマに向き合うと、そっと手を伸ばして顔に触れた。
「痛む?」
「別に」
 不二の触れた指先から熱がじわりと伝わってくる。真っ直ぐ自分を見詰める瞳は、僅かに怒りを帯びているようで、リョーマは魅入られるように見返した。
 不二の目が眇められ、微かに笑いの形になる。口元も笑みを浮かべ、不二はリョーマの怪我の跡をなぞった。
「ほんと、強情だよね。そういうところは、そっくりだ」
「誰にっすか」
「裕太だよ。いつも勝ち目無いのに喧嘩して、怪我だらけになって戻って来ても、痛くないって。涙混じりに言うのが可愛いんだ」
「俺、勝ち目のない喧嘩なんかしませんよ」
 そっか、と笑う不二にリョーマの胸がずきりと痛んだ。顔の怪我よりもよほど、この痛みの方が堪える。じくじくと暗い翳りに焼き尽くされるような不快感。
「今度の日曜、暇?」
「はあ? 決勝あるじゃん」
「その後。優勝祝いしようよ」
「優勝って」
「勿論、勝つでしょ。全国まで今年は絶対、君と行くから」
 にこりと笑う不二に、リョーマは僅かに頬を赤くして頷いた。
 去っていく不二の姿に、リョーマの心はさっきまでと違って弾むような高揚感が満ちていく。やっぱり不二には翻弄されっぱなしだ。いや、自分の心に翻弄されているという方が正しいかもしれない。
「まだまだだね」
 ぽつりと呟くと、リョーマは家路についた。

 都大会の決勝は亜久津とリョーマの戦いをもって青学の優勝となった。亜久津との闘いは、苦しかったがそれだけに楽しかった。相手が強ければ強いほどリョーマの闘志も燃え上がる。結果闘いの中で成長した手応えを感じながら、リョーマは会場を後にした。
「しっかし、聖ルドルフがあっさり負けるとはな。やっぱつええや、氷帝は」
「臆したのか」
「まさか、関東でぶっ潰せると思うとワクワクするぜ。ま、お前は補欠だろうけど」
 三々五々帰り支度をしている中で、桃城が感心したように言うと、直ぐに海堂が突っ込みを入れる。更にそれに桃城が返して、いつものように睨み合いになった。
 リョーマはそんな二人を呆れたように見ていたが、不二を探して辺りを見回した。さっきまでみんなと一緒に居た筈なのに、姿が見えない。
 漸く遠くに見覚えのある姿を見出して、リョーマはその方向へ歩き出した。だが、不二が裕太と話している事に気付くと足を止めた。
 今日徹底的に負けたからだろうか、いつもなら反抗的に不二に応対している裕太が、微かに顔を青ざめさせて俯いている。
 何を言っているのかは聞き取れなかったが、不二の言葉に裕太は顔を上げ、僅かに笑みを見せた。すると不二はふわりと微笑み、裕太の肩に手を置いた。邪険に払う裕太に構わず、不二は嬉しそうに笑っている。
 リョーマはくるりと踵を返すと、まだ睨み合っている桃城と海堂の間を邪魔するように通り抜け、バス停に向かった。
「あれ、おチビ、バスで一緒に帰んの」
「いけませんか」
「いけなくないけど……ま、いっか」
 ちらりと後ろを振り返った菊丸だったが、肩を竦めるとリョーマを促してバスに乗り込んだ。続いて桃城や海堂も乗り込むと、バスは扉を閉めて発車した。
「越前、どうかしたのか。顔色が悪いぞ」
「何でもないっす」
 一番後ろの席に座り、そのまま目を閉じてしまったリョーマに、大石が心配そうに声を掛けた。桃城は隣に腰を下ろすと、腕を伸ばしリョーマの頭をがしがしと乱暴に撫で回しながら言った。
「疲れたのか? お前も少しは人間らしいとこがあったんだな」
「痛いっす」
 桃城の腕を外し、憮然としてリョーマは深々とシートに身を凭れかけた。途端に疲れがどっと押し寄せてくる。流石にあの亜久津との試合はリョーマの体力を消耗させた。
 だから、この胸に重くのし掛かる暗い翳りは疲れのせいなのだ、とリョーマは思い込もうとした。じりじりとした痛みも、喉元にせり上がってくる切なさも、みんな一晩寝れば疲れと共に消え去るだろう。
 リョーマは意識せずに噛み締めていた唇を解き、一つ息を吐くとバスの振動に誘われて眠りに落ちていった。
「越前、着いたぜ。起きろ」
 桃城に揺り起こされてリョーマはうっすらと目を開いた。一瞬ここはどこだっけと辺りを見回すが、バスの中だったと気が付いてリョーマは欠伸をすると立ち上がった。
 他のみんなは既に降りていて、帰ったのか姿が見えない。バスが走り去ると、桃城も手を上げて帰っていった。
 自宅までの道を歩いていたリョーマは、いきなり目の前に現れた人影にびくりと立ち竦んで目を瞠った。
「待っててくれれば良かったのに。優勝祝いするでしょ」
「さあ」
 リョーマは瞬きを一つすると、俯いて不二の顔を見ないように足早に脇を通り過ぎた。だが、腕を掴まれてしまう。
「何か、怒ってる?」
「別に……今日は疲れたから、家に帰って寝る」
 不二はリョーマが腕を振り払おうとしても離さず、返って強く引っ張り腕の中に抱き締めた。頑なに自分を見ないようにしているリョーマの顎を取り、不二は強引に上を向かせる。
「君があれしきの試合で疲れたって? そんなに柔だったんだ」
「まだ後何試合だって出来るよ」
 売り言葉に買い言葉で、ついうっかり言ってしまったリョーマは、しまったと唇を噛むが後の祭りだった。
 不二は凄みのある笑顔でリョーマを見詰め、頷くとそのまま肩を抱いて歩き始めた。大通りでタクシーを拾う不二に、覚悟を決めてリョーマは着いていく。
 タクシーの中でも、降りてからも逃げられないようにと思ってか、不二はリョーマの腕を握り締めたままでいた。
 不二の家に着くと、ダイニングに連れて行かれる。テーブルの上には美味しそうな食事が湯気を立てて、沢山並んでいた。どれも和風の総菜でリョーマの好きな物ばかりだった。
「手を洗って、冷めないうちに食べよう」
「…先輩、もういい加減腕離してください」
 洗面所まで着いてきた不二に、呆れたようにリョーマは言う。何故か、はっとしたように不二はリョーマの腕を離し、微かに眉を顰めた。
「うん、待ってるから」
 淡く笑みを浮かべる不二に、リョーマはどきりとし、少しばかり慌てて手を洗った。ダイニングに戻ると、不二はグラスに赤紫色の液体を注いでいる所だった。
「何それ」
「アルコール無しのぶどうジュース。ワインって訳にはいかないから」
「ふーん」
 物珍しそうに見ていたリョーマは、促されて椅子に腰を下ろした。向かい側に不二も腰を掛け、自分のグラスを取るとリョーマの方に掲げる。
「関東も勝とう」
 リョーマもグラスを取ると、不二のグラスに合わせた。澄んだグラスの音が室内に響く。一口飲んでからリョーマは改めて周囲を見渡した。
「他の人は?」
「姉さんはこれを用意した後、一足早く夏休みで旅行。母さんも父さんの所に行ってる」
 ということは、現在この家には自分たちだけと言うことか。まあ、この様子を見れば察しは付いていたけど。
 不二の家族のことを考えていたリョーマは、はたと自分の家のことを思い出した。何も言って来なかったから、遅くなると心配するかもしれない。
「君の家には電話しておいた」
 用意周到な不二のことだから当然の配慮だろう。それに多分自分に断らず、勝手に泊まると告げていると思う。
 リョーマはやれやれと溜息を付くと、諦めて目の前の料理に手を付けることにした。
 一口目に箸を付けた時、玄関の方から声が聞こえ、やがてひょっこり裕太がダイニングに顔を覗かせた。裕太はびっくりしてリョーマを見ると、不二の方に視線を向けた。
「何だよ、なんでこいつがうちに居るんだ」
「裕太こそ、今日帰ってくるとは思わなかった」
 僅かに苦笑して、不二は立ち上がった。裕太はむっと口を尖らせ踵を返そうとする。
「ああそうかい、じゃあな」
「待った。せっかく戻ったんだし、座って一緒に食べよう」
 裕太の腕を掴み、不二は自分の隣の席に腰を下ろさせた。憮然とした表情で腕を組み、リョーマを睨み付ける裕太に、不二は箸を渡す。
「せっかく姉さんが優勝祝いに作ってくれた料理なんだから、冷めないうちに食べよう」
 優勝祝いという言葉にぴくりと裕太の眉が上がるが、腹の虫が鳴ってしまい顔を赤く染めると猛然と食べ始めた。
「越前も、食べて」
 はあ、と頷いてリョーマは料理に手を付け始めた。けれど、さっきまであんなに美味しそうだった料理の数々が、今はあまり食指が動かない。
「で、何でお前ここに居るんだ」
「僕が招待したんだよ。優勝祝いをうちでやろうって」
「そんなに仲が良いとは知らなかったな」
「そう、僕たちはとっても仲が良いんだ」
 ね、と小首を傾げる不二に、リョーマは飲み込もうとしていた物を喉に詰まらせ、慌てて水を飲んだ。にこにことリョーマを見詰める不二と、僅かに赤く染まった顔を俯かせるリョーマを交互に見て、裕太は訝しげに眉を顰めた。
「ま、浮かれてるがいいさ。今度は負けねえから。……おい、姉さんの料理不味そうに食うなよ。この里芋の煮っ転がしなんて、絶妙だ…っと…」
 裕太は里芋を箸で掴もうとして滑らせた。なかなか掴めないそれに業を煮やして箸を突き通し、口元まで運んだが一口囓った途端にそれは茶碗の中に転げ落ちる。
 その様子に小さく吹き出したリョーマは、器用に箸を使うと芋を上手に取り口の中に頬張った。確かに絶妙な味付けである。
「まだまだだね」
 漸く力を抜いて食事出来るようになったリョーマは、にやりと笑うとゆっくり味を噛み締めながら食べ始めた。不二もまた、二人の世話を焼きながら食事を採る。あっという間に空になった皿を自動食器洗い機に突っ込むと、不二はコーヒーを入れて戻ってきた。
「裕太はミルク多めの砂糖抜き。越前はミルクティーはちみつたっぷり」
 説明しながら二人の前にカップを置き、不二は自分用のブラックコーヒーをリビングのテーブルに置くと、そのまま何処かへ行ってしまった。
「まだ帰らないのか」
「あんたこそ」
「ここは俺の家だろーが」
 兄貴と比べられるのが嫌で家を出たくせに、と声に出さずに呟き、リョーマはミルクティーのカップに口を付けた。ほんのりした甘さが口いっぱいに広がる。
 湯気の向こう側に見える裕太を眺めながら、リョーマはぼんやり考えていた。不二が泊まっていけと言ったら泊まってもいいかなと思っていた。亜久津との闘いで疲れてもいたけれど、それ以上にまだ残っている高揚感を不二と共有したかった。
 でも、裕太が居るなら自分は帰った方がいいだろうかとリョーマは思い始めていた。
「お待たせ」
 リョーマが迷っているうちに、不二は両手に本のような物を持ってリビングに戻ってきた。その内の一冊を取ると、リョーマの隣に腰を下ろした。
「これ、アルバムなんだけど、見る?」
 リョーマの返事を待たずに、不二はそれを広げてみせる。小さい頃の不二が、あまり今と変わらぬ顔で写っている姿が沢山貼られていた。
「あんま変わってないっすね」
 ページを捲ると、小さい裕太と不二が共に写っている写真が多くなってくる。泣きべそをかいている裕太を慰めるような写真も何枚かあり、捲っても捲っても、二人で居る写真の数々にリョーマはその絆の強さを感じた。
「小さい頃はほんとに裕太は泣き虫でね。喧嘩してはいつも泣かされて帰って来てさ」
「なっ、なんだよ、ガキの頃の話だろうが。んな写真見てんなよっ」
 楽しそうに解説する不二に、慌てて裕太は立ち上がるとアルバムを取り上げた。不二はもう一冊あるよ、と裕太にからかうように見せた。
 写真の解説をする不二と、いちいちそれを否定する裕太のやりとりの狭間で、リョーマは胸に重くのし掛かる暗い翳りが、どんどん大きくなっていくのを感じていた。
 ここに自分の居場所は無い。
 これ以上自分の嫌な部分が大きくならない内に、この場を去りたい。逃げ出したくはないけれど、テニスと違って対処の仕方が分からない。
 リョーマは拳を握り締め、顔を上げた。
 目の前に不二の笑っていない真剣な目が在った。帰る、と告げようとした口は動かず、ただリョーマは不二を見詰めるだけしか出来ない。
「こっちはまだ真っ白なんだ」
 ふっと笑って不二はもう一冊あった白いアルバムを出した。
「これに、写真を貼りたい。リョーマと一緒にこれから撮る沢山の写真」
 呆然と目を見張るリョーマの肩を抱き、不二は裕太に何時の間に持ってきたのかカメラを渡すと、Vサインを出した。
「手始めに、今日の記念ね。裕太、よろしく」
 裕太も唖然としていたが、不二の気迫に押されてシャッターを切った。フラッシュの眩しい光に漸く我に返ったリョーマは、まだぴったりくっついている不二を手で押し戻した。
「ちょっ…先輩」
「はい、サンキュ。じゃあ僕たちは部屋に行くから。おやすみ」
 裕太からカメラを取ると、不二は藻掻くリョーマを抱き締めたまま自室へ上がっていった。部屋に入ると、やっと不二はリョーマを離した。
 どきどきする胸を押さえ、リョーマは不二に向き直った。さっき裕太が居る前で、リョーマの名前を呼んだのを彼に気付かれなかっただろうか。
「俺、帰ります」
 リョーマは一言告げると扉に手を掛ける。が、鍵が掛かっていて直ぐには開かない。簡単なロックだったがそれに手間取っている内に、後ろからそっと抱き締められ、リョーマは動きを止めた。
「帰さない。何か怒ってるでしょう、言って」
「……別に。怒ってなんかない」
「じゃ、帰らないで。リョーマと一緒に居たいんだ」
「あいつが居ればいいじゃん。あんたには……」
 口からするりと出た言葉に、リョーマははっとして口を拳で押さえた。暗い翳りの本音の部分。自分で認めたくなかった心の奥底に澱む物が、じわじわとリョーマを蝕んでいった。
「あいつ…って、裕太のこと?」
 不二に自分の心を悟られて、リョーマは真っ赤になる。悔しさに唇を噛み締め、リョーマは不二の腕から逃れようと暴れ始めた。
 それを許さず、不二はドアからリョーマを引きずるようにしてベッドに連れて行き、押し倒すと上から覆い被さった。
 暫く暴れていたリョーマだったが、強く抱き締められるうちに疲れて動きが緩慢になる。荒く息を付くリョーマの肩口に埋められていた不二の頭が、僅かに上下した。
「何……笑ってんの…」
「嬉しくて。妬いてくれたんだ。すっごく嬉しい」
 心底嬉しそうな不二に、リョーマは呆れて身体から力を抜いた。落ち込んでいたのが馬鹿らしくなってくる。もっとも、一度気付いてしまった翳りは消すことも出来ず、多分ずっと付き合っていくことになるのだろう。
「あっ、そ」
 不二は顔を上げると、疲れたように目を閉じているリョーマをじっと見詰めて言った。
「裕太は大事な弟。……君は僕の大切な人」
 一瞬目を見開き、リョーマは真摯な目で見詰める不二をまじまじと見た。次の瞬間、腹の底から笑いが込み上げてきて、リョーマは顔を背けると身体をくの字に折り、笑い出した。
「くくっ…クサ過ぎる、そのセリフ」
「酷いな。本当なのに」
 不満げに呟いた不二は、リョーマの頬に手を当てると、自分の方に向けさせた。笑いすぎたのか、別の要因なのか、僅かに涙の滲んだリョーマの目元に不二は口付けた。
「好きだ、リョーマ」
 不二は今度は唇に深く口付けた。自然にリョーマの腕が不二の背に回り、抱き締める。
 何度も深く浅く口付けを繰り返し、不二の手がリョーマのシャツに掛かった時、いきなりドアをノックする音がした。
「兄貴、風呂沸いたぞ。越前はどうするんだ」
 ぎくりと身を強張らせたリョーマに対し、不二は手を止めることなくシャツのボタンを外していく。焦ってその手を止めようとリョーマは、小声で言った。
「止めろって」
「サンキュ、先に入っていいよ、僕らまだ時間かかるから。ああ、上がったこと知らせなくてもいいからゆっくりどうぞ」
 裕太はそれを聞いて階下に降りていったようだった。息を詰めていたリョーマは、ほっとして力を抜くと不二を睨み付けた。
「もしかして、隣の部屋?」
「うん、そう。大丈夫、裕太長風呂だから」
「俺も汗掻いてるから風呂入りたいんすけど」
「どうせまた掻くんだから、気にしない」
 そういう問題じゃないだろ、とリョーマは再び抵抗し始めた。だが、不二が首筋に唇を落とし、露わにした胸に手を滑らせると、ぎゅっと目を閉じて反応しまいと力を込めた。
「リョーマの汗の匂い。好きなんだけどな」
「…あっ…」
 不二はリョーマの胸の突起を口に含むと、舌先で転がした。電流のような刺激がそこから下半身へ向けて走り抜け、リョーマの口から喘ぎが漏れる。
 しつこく尖り始めたそこを愛撫しながら、不二は片手をリョーマの下半身に伸ばし、ジッパーを引き下ろした。
 不二の動きに揺さぶられていたリョーマは、微かな足音に気付いてドアの方を見た。裕太が風呂から上がったらしく、隣の部屋のドアが閉まる音が聞こえてくる。
 途端に強く突かれ、リョーマは思わず上げそうになった声を手で押さえた。きつい目でリョーマは不二を睨み付ける。
「他のこと、気にしてるから」
「……っ…たりまえ…。……うっ…」
 再び動き始めた不二に、リョーマは声を堪えるため自分の手を噛んだ。不二はその手を取ると、軽くキスをした。
「ごめんね。でも我慢できない」
 不二はリョーマの唇を覆い、声が漏れないようにすると、一際激しく腰を動かした。声を封じられたリョーマはただ、不二の熱だけを感じ取っていた。
「リョーマ?」
「俺も…先輩の匂い、好き……かも」
 一瞬嬉しそうに微笑んだ不二は、かも?と呟いてリョーマの手を取り、顔を見合わせた。
「いつになったら、その『かも』が取れるのかな」
「さあね」
 ぷいと横を向いたリョーマは、自分の頬が熱くなっているのを感じた。多分、不二にも自分が赤くなっていることはバレバレだろう。
「うーん、汗の匂い消えるの残念だけど、お風呂入ろうか」
「え?!」
 いきなり横抱きに抱え上げられ、リョーマは驚いて不二にしがみついた。二人とも半裸で下着も付けてない。いくらなんでもこのまま階下の風呂場に行くのは拙いだろうと、リョーマは不二の腕から降りようと藻掻く。
「暴れると落とすよ」
「こんなかっこで見つかったらどうすんだよ」
「僕は平気だけど。裕太は僕の裸見慣れてるし」
 そういう問題か、とリョーマは頭を抱えた。それに裸を見慣れてるとは、いつもこんな格好で家の中を歩いているというのか、それとも弟と一緒に風呂に入るのは日常だとでも。
「あ、でもリョーマの裸は絶対見せたくないな」
 うんうんと納得したように頷き、不二はリョーマをベッドに戻すと、そのままシーツを剥がしそれに包んで再び抱き上げた。
「だから、一人で歩けるってば」
「煩くすると、隣に聞こえるよ」
 にっこり笑ってリョーマの抗いを封じ、不二は階下に降りていった。風呂場に着くと、リョーマを下ろしシーツを洗濯機の中に放り込む。
「先に入ってて、洗濯しちゃうから」
 二人で入るのかとびくびくしていたリョーマは、ほっとして頷いた。ふと見ると、不二はいつの間にかしっかり下着を付けている。何となく力が抜け、リョーマは溜息を付きながら風呂場に入った。
 不二と入れ違いに出たリョーマは用意してあったパジャマを着て、部屋に戻ろうとしたが、喉の渇きを覚えキッチンへ向かった。扉を開くと、ペットボトルを呷っている裕太と鉢合わせしてしまった。
「それ、俺が前に着てたやつ……」
 裕太はリョーマを見て文句を言いかけたが、何故か僅かに顔を赤く染めてそっぽを向いた。訝しげに見上げるリョーマに、ぶんぶんと首を横に振り、裕太は指さして怒鳴った。
「優勝したからって、気を抜くなよ! 次は勝ってやる」
 足音も荒く去っていく裕太を、目を僅かに見開いて見送ったリョーマは、何事かと顔を覗かせた不二に向け肩を竦めて見せた。
「まだまだだね」
 もしかしたら裕太は薄々察してしまったのかもしれない。ま、ばれたらばれた時のことだと、リョーマは達観してキッチンに入っていった。

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