Summer days -3-
 

 靄の立ちこめる朝、コテージの中四つのベッドのうち三つに動きがあった。高原の朝は少し寒く、手早く着替えると三つの影はコテージの一角に集まり顔を寄せ合う。
「どうする」
「そりゃー、起こそうぜ。あいつだって一年だ」
「でも、レギュラー練習で疲れてるから、もう少し寝させてあげてもいいんじゃない」
 カツオの問いに鼻息荒く堀尾が答え、それを宥めるようにカチローが言った。堀尾は不満そうな顔をしてそっぽを向いたが、昨日の騒ぎを思い出して大きく肩を落とした。
「しっかたないなあ。んじゃ行くか」
 頷き合って三人はコテージを後にした。残された一つのベッドには、未だ夢の中にいるリョーマがぐっすり眠っている。
 一応目覚ましは鳴ったのだが、それを無視してリョーマは枕を抱き締め、寝返りを打った。鼻先に違和感を感じ、リョーマはぼんやりと意識を覚醒させる。目の前に現れたものに焦点が合わず、二、三度瞬きをすると漸くはっきりと目を開いた。
「……ん…何?」
 焦点が合わなかったのは寝ぼけ眼のせいばかりでは無く、ゆらゆらと立ち上る湯気に邪魔されていたのだ。何で湯気が、と僅かに眉を上げたリョーマは、鼻孔をくすぐる芳香に小さく鼻を鳴らした。
「夜明けのコーヒー、最高級のブルマンだ。覚めないうちに飲もうぜ」
 言葉の後に、ベイビーとかハニーとか付いて無くて良かった、と方向違いの安堵感を抱きつつ、リョーマは飛び起きた。
「あ、アンタ、何でここに」
 ベッドの脇に豪奢な椅子が置かれ、そこに氷帝の跡部が優雅に腰を下ろしていた。隣には樺地が銀のトレイにコーヒーポット、カップを揃えて持っている。
「そりゃあ、お前とモーニングコーヒーを飲もうと思ってな。ああ、遠慮はするな。俺様の蔵から持ってきた物だ。たいした値段じゃない。そうだな、二十万くらいか」
 指を鳴らし、跡部は樺地を促す。樺地はうやうやしくカップを取るとリョーマに差し出した。うっかり受け取ってしまったリョーマは、それをまじまじと眺める。
 確かにとても綺麗なカップで良い香りなのだが、ベッドの上で跡部と対峙していてはとても喉を通らないような気がした。
「何だ、ミルクとシュガーが無いと飲めないってか。しょうがねえなあ」
 喉の奥で笑い、跡部は再び樺地に目で合図する。ミルクポットと砂糖入れを差し出され、リョーマは溜息を付いてそれを遠慮無くたっぷり入れた。
 眉を顰めて見る跡部に構わず、ブルマンの味も香りも分からないくらい入れると、一気に飲み干す。そろそろと壊さないようカップを皿に戻すと、リョーマは樺地に渡した。
「着替えたいんだけど」
「恥ずかしがるこたぁねえよ。俺の前で」
 言外に出て行けと言っているリョーマに、跡部はにやりと笑って言った。ちらりと時計を見ると、集合時間まで十分くらいしかない。カチロー達はどうしたんだろうと思ったリョーマは、朝食準備のため集合より三十分早く起きることになっていたことを思い出した。
「あのさ」
「ああん、それともこのまま俺と朝のひとときを共に過ごしたいってか」
「越前くん、こんな馬鹿相手にすることないよ」
 誰か何とかしてくれとの願いを神様が聞いてくれたのか、それとも悪魔が面白がって寄越したのか、大きな音を立てて扉が開き、そこに開眼した不二が現れた。纏う気配は素で怖い。流石のリョーマでもちょっとだけ怯んでしまうほどに。
 つかつかとベッドの側に来た不二は、掛け布団代わりのタオルケットを捲ると、それでリョーマをくるりと包み、肩に担ぎ上げた。
「ふ、不二先輩っ!」
「遅刻だよ。早く行かないと」
 それは分かるが、まだ顔も洗ってないし着替えてもない、第一このままみんなの所へ運ぶつもりか、とリョーマは青ざめた。
「おいおい、そこの人攫い。俺たちの朝のひとときを邪魔すんじゃねえよ」
「寝言は寝てから言えって、良く他人に言われない?」
 鼻先でせせら笑うと不二はそのままコテージの外に出た。暴れようにもタオルケットで捲かれているため手も足も出ない状況のリョーマは、せめてもと口でさんざん不二に抵抗した。
「煩い口だね。塞いじゃおうかな」
 ぴたりと足を止め、くすくす笑いながら不二は呟く。どうするのかと思わず黙ってしまったリョーマを肩から降ろした不二は、タオルケットの端を掴んで引っ張った。
「うわわっ」
 二回転半してリョーマは転がり出る。その腕を掴んで不二は自分の胸の中に抱き込んだ。
「……何をやってるんだい、お前さんたちは」
「クレオパトラごっこ。もっともあれは映画オリジナルな話だってことだけど。絨毯の中から絶世の美女が転がり出てきてシーザーが驚いたって話です」
 この合宿で何度この台詞を言うことになるのだろうと、頭を抱えつつ竜崎は不二を見た。普通に説明する不二に、更に頭が痛くなる。
「ああそうかい。取り敢えず、リョーマ。顔を洗って着替えたらコートの周り百周だ」
 付き合っていたら神経が持たないと、竜崎は不二の腕の中で硬直しているリョーマに言う。リョーマは俯き、不二から離れると前髪の下から周囲を窺った。部員達は気の毒そうにリョーマを見ているか、見ない振りをしている。
「あ、越前くん。着替えはここだから。戻って奴の毒牙に掛からないように持ってきておいたよ」
「どもっス……」
 礼を言うべきなのだろうかと思いつつ、リョーマは不二を見た。
「やっぱり起こしてあげた方が良かったね」
「……でも、もう二度と寝坊しないと思うよ」
 ふらふらと近くにある水道の側に走っていったリョーマを見やり、カチローやカツオ達は頷き合う。堀尾だけは自業自得だと笑っていたが、不二にそれを見られて引きつった。
「ところで不二、おチビちゃんのとこ、誰か居たの」
 菊丸の問いに、不二は薄く目を開き、コテージの方を見た。
「大きな虫が下僕を連れて一匹ね。油断も隙も無いな」
「危ねえな、危ねえよ。俺ですら行けなかったってのに」
「何だと、てめー夜這いにでも行くつもりだったってのか」
 三白眼で睨み付ける海堂に、桃城は真っ向から対峙して睨み合った。一触即発な雰囲気に、周りの部員達はまたかと溜息を付く。
「夜這いってなんだよ、お前こそそのつもりがあるからそんな言葉が出るんだろう。俺はただ、夜詰まらないからゲームでもしないかと思ってだなあ」
「そ、そんな訳ねえだろうが。ゲームなんてあんのかよ、都合のいいことばかり言いやがって」
 海堂の胸ぐらを掴み掛けた桃城の手を、大石が捕らえ止める。前なら手塚の一声で、というより存在があればこんな事態にはならないのにと、ちょっと切なく思いながら大石は二人の間に割って入った。
「二人とも止めろ。そんなに夜閑なら、桃の言うとおりゲームでもしよう」
 え、と二人だけでなくみんなが大石を見た。最近手塚が居なくなってから、微妙に大石の言動がずれてきているような気がする。
「お前達、ここへ遊びに来てるつもりかい。練習後ならまあいいが、今はこっちが先だろうが。大石、さっさと今日のメニュー始めてくれ」
 眉間を指先で押さえ、竜崎が怒鳴ると慌てたようにみなそれぞれ朝の練習メニューに入っていく。軽く練習した後、朝食となるのだ。
「ゲームって本気かなあ」
「ふむ、練習で疲れ切った身体を休めるためには、頭を使うゲームの方が良いと聞くが」
 ランニングしながら呟く河村に、乾が考えるように応えた。
「えー、頭使うの苦手。眠くなっちゃうじゃん」
「だから良いんじゃないの。誰も夜這いなんて不埒な考え起こさないように、良く眠れるゲームだといいね。でないと、何か細工しないといけないし」
 文句を言う菊丸に、不二がにこやかに笑う。ぎょっとして菊丸は青ざめ、細工ってなんだろうと考え込んだ。昨夜のアレ以上の罠か何か仕掛ける気だろうか。
 朝の練習が終わり、午前午後の練習も平和なうちに終了した。今回、食事はレギュラーを除く一年と、これ以上無用な騒ぎは起こしたくないという二年が積極的に行ったのでリョーマは免除された。せっかくリョーマの手料理が食べられると思ったのに、と残念に思う者も居ない訳ではないが、心の平安の方が大事である。
「みんな、集まってくれ」
 食器を片付け、それぞれのコテージに戻ろうかと言う時、大石がみんなに声を掛けた。何事かと集合する部員達に、大石は涼しげな笑みを浮かべ告げる。
「これから肝試しを行う。色々考えたんだが、夏の定番ってことでこれに決めたんだ」
 午後から口数が少なかったのはこのせいだったのかと、みんなは納得した。が、内容については納得しきれない者が約一名居る。
「くっだらねえ。肝試しなんてガキのすることだろ」
「ははーん、お前怖いんだろ」
「だ、誰が怖いって」
 にやりと笑って言う桃城に、海堂は目を見開いて噛み付く。じゃ、やるよなと訊かれ、海堂は怯んだように身を退いた。
「肝試しって何っスか」
 リョーマは、首を傾げて大石を見た。アメリカ育ちなためか、それがどんなゲームだか今いち解らない。キモダメシ? キモってアン肝とか鰻肝とかだろうか。
「フグの肝を食べてみて、痺れなかったら勝ちとかいうのも楽しそうだね」
 リョーマの心の内を見たのか、不二が微笑んで言った。違うだろ、と一斉にみんなから心の声で突っ込みが入る。
「一般的には夜中に墓地、あるいは廃墟などに行って、行った事を証明するものを置いて戻ってくる遊びだな。一人か二人一組で行く場合が多い」
 乾が的確に説明し、漸くリョーマは理解出来た。しかし、それの何処が肝試しで面白いのかは解らなかった。
「ふーん。そんなのがゲームになるんだ」
 興味なさそうなリョーマの前に大石は立ち、顔を近付けた。笑顔ではあるが真剣な大石の表情に、リョーマはたじろぐ。
「面白いぞ。実はもう用意させてあるんだ」
 何を用意しているというのだろう。リョーマは大石に肩を叩かれ、ぽかんと目を見開いた。
「ただ行って帰ってくるだけじゃ無いんだ。途中でいろんな障害があるんだよ。まあ大体想像付くけどね」
「やっぱお化けっしょ。こーんなの」
 不二が笑いを含んで言うと、桃城が手を定番幽霊の格好にして海堂に迫っていく。海堂は僅かに顔を蒼くして、桃城の手を払い退けた。
「お化け? 障害?」
「大丈夫、越前くんは僕が一緒に付いていってあげる」
 今ひとつピンと来ないで首を捻るリョーマに、不二は近付き肩を抱いて囁いた。その様に、菊や桃城は文句の声を上げた。
「ずるいぞ、不二ばっか」
「そうっすよ。くじで決めるんじゃないんすか」
 彼らを綺麗に無視して、不二は大石に目を向けた。一瞬不二の視線に晒されて凍った大石だったが、気を取り直してくじ引き用の紙を取り出した。
「も、勿論、くじ引きで決める。二人一組でこのキャンプ場の西出口から、ちょっと登った所にある神社まで。一度ランニングで登ったことがあるから道は分かるだろう。それとラケットを持っていって、そこにあるボールで目標を倒してくればクリアだ」
 遊びの肝試しまでラケット持って山登りとは、流石副部長である。感心しているみんなに向け、大石はくじを引くように言った。
「一番! うっひょー、初っぱなか。相方は誰だ」
「……俺だ」
 桃城がくじとはいえ、一番を引いたのを喜んで叫ぶと、まだ蒼い顔色のまま海堂が応えた。一番ということは、最初に障害に遭う訳で、予測も付けられない。
「なあんだ、マムシかよ」
「あ、九番、誰?」
「僕みたいだね」
 河村がきょろきょろと辺りを見回すと、苦笑を浮かべて不二が片手を上げた。じゃあ誰がリョーマと一緒なのかと、菊丸は振り返って見る。
 リョーマは手にした紙の番号を、眉を顰めて見た。リョーマの前の者でくじが無くなり、改めてそれを大石から渡されたのだ。菊丸がそれを取り上げ、読み上げる。
「十番? ……て、一人?!」
 わざわざ番号に一人と書いてある。驚いて見るみんなに、大石は笑みを引きつらせながら頷いた。
「行くのは十九人。越前は誰と組んでも問題ありそうだから、この方がいいだろ」
 そう言われればそうだが、一年生を夜に一人で肝試しさせていいものなのだろうか。まあ、脅かす連中が居るのだから大丈夫だと思うが。と一同は納得したが、一人だけ薄い笑みを浮かべリョーマを見ている者がいた。
「あー、今回もこれを用意したから。タイムを計って一番時間が掛かった者に飲んで貰う」
「げっ、あの汁」
 にっと笑って乾は赤っぽい液体の入ったジョッキを見せた。さっきまで遊びだからと余裕の表情で居た肝試し組は、冷や汗を浮かべ一歩下がった。
「だから、わざと遅れて後ろの者と合流しようとは思わないように」
 眼鏡をきらりと光らせて言う乾に、不二は目を眇める。流石乾、それに大石も、不二の行動を見透かしていたか、と一同は苦笑いを浮かべ二人を見ていた。
「じゃあ、一時間後にキャンプ場西に集合してくれ。障害側は済まないがここに残ってくれ」
 大石は手を叩くと皆を解散させた。
「僕たち障害側だから、残るね」
「うっしっし、楽しみにしてろよ、越前」
「堀尾くん、変な笑い方しないでよ。その方が怖いよ」
 動こうとしないカチロー達を見るリョーマに、三人はそれぞれそう言うと、大石の元へ歩いていった。リョーマはやれやれと溜息を付き、コテージに向かった。

 キャンプ場西に集まったのは部員の約反数で、レギュラーは皆揃っている。二番手、三番手は一二年のコンビ、四番手は菊丸と一年生、五番に乾と二年生が入った。大石は全体を見る為と、タイムを計るため今回は肝試しに加わらなかった。
「それじゃ、夜道は暗いから気を付けて。怪我するなよ」
「おっしゃあ、一番手いっきまーす!」
 明るい声で桃城が片手に持ったラケットを高々と上げると、海堂は小さく舌打ちをして歩き始めた。整備されているとはいえ、道の両脇は林や藪で懐中電灯の明かりも届かず黒々とした影を落としている。暫くすると、その木々の影に遮られ、二人は見えなくなった。
「戻ってきたら次の組が出発だ」
 神社まで歩いて往復でも十分程度しかかからない。桃城達が出発して二分くらい経った頃、突然林の奥から低い怒声が聞こえてきて、待っている者達はぞくりと肩を震わせた。
「今のは」
「海堂……か」
 怒声はその後何度か小さく聞こえ、五分後大きく近くの藪が揺れたかと思うと、海堂が大汗を浮かべ走り出てきた。ゴールに入って地面にばったり倒れ込む海堂に、みな恐る恐る近寄っていく。
「おい、大丈夫か? 桃はどうした」
 心配そうに大石が訊ねると、海堂が答える前に再び藪が音を立て、怒りに青筋立てた桃城が足音も荒くゴールまでやってきた。
「おいコラ、マムシ! 一人でびびって先走りやがって、二人一組だっつってんだろーが」
「う、ウルセー。着いてこれねえてめーが悪いんだろうが」
 息を荒げながら起きあがった海堂は、激しい剣幕で詰め寄る桃城に、そっぽを向いた。その様に、更に詰ろうとする桃城を押さえ、大石はタイムを読み上げる。
「凄いな、こんな暗い中で全力疾走でもしたのか。ああ、次の組、危ないから真似しないように」
 言われたって出来ません、と言うように首を横に強く振り、次の一、二年組が出発する。さっきよりは遅い時間に悲鳴が聞こえると、海堂は地面に胡座をかき、両手で耳を塞いだ。
「よっぽど凄い出来なんだね、面白そう」
 小さく笑って不二がリョーマの耳元に囁く。呆気にとられて海堂や桃城を見ていたリョーマは、僅かに目を見張り、囁かれた方の耳を押さえて飛び退いた。
「あれ、結構こういうの弱い?」
「……別に」
 確かにお化けよりは不二の方が怖い、と思いもしたのだが、それを口にしたら更に怖くなるのは明白だったので賢明にもリョーマは口を濁した。
「越前の家は寺だから、こんなの平気なんだろ」
 桃城がリョーマに向けて言うと、みんなの視線が二人に集まる。ぴくりと不二の眉が上がり、桃城は口を開けたまま固まった。
「寺って言っても別に何も出ないし。たまにひとりでに鐘が鳴ったり、風もないのに窓が揺れたり。あ、夜中に起きた時外廊下に黒い影が映ってるとか、階段が軋んで音を立ててるのに誰も居ないとか。後は……」
「随分あるんだね」
 リョーマにしては珍しく延々事例を上げ続けると、不二が可笑しそうに口元を押さえた。少しでも不二を怖がらせることが出来るかと話していたリョーマは、全く効いていない事に眉を顰めた。
「境内に女の人が居たから挨拶したら、お辞儀した後影が無いことに気付いたり、んで顔を上げたらもう居なかったとか、肩を叩かれて振り向いたら」
「もういいっ! 止めろ!」
 いきなり海堂が立ち上がり、怒鳴ってリョーマを止めた。顔色が蒼く、震えているのは怒りなのか恐怖なのか。
「へー、こんなの怖いんスか?」
 海堂にではなく不二を見上げて挑発するようにリョーマは言う。不二は喉の奥で笑うと、小首を傾げて指先を顎に当て考え込んだ。
「どうかな。みんなはそれなりに怖かったようだけど」
 そう言われてリョーマは周囲を見回した。みんな顔色が冴えず、表情が強張っている。乾ですら堅い表情でリョーマの視線に気付くと、場を取り繕うように眼鏡を直した。
「おチビの臨場感のぜんっぜん無い言い方が、余計に怖いにゃ」
 自分の両肩を抱いて、苦笑いをする菊丸の方を不二はじっと見詰めた。それも菊丸自身ではなく、その後方を見据えているような視線に、全員の視線がそちらを向く。
「な、何、何だよ」
「あー、気にしなくていいよ、英二」
 にっこり笑って言う不二に、菊丸はそっと後ろを振り返った。藪の暗い闇が後方に広がっている。気にするなと言われても、そんなにじっと見ているのは何か有るとしか考えられない。
 突然、がさがさと音を立て大きな影がそこから現れた。途端に菊丸は猫のような悲鳴を上げて大石に飛びついた。
「うぎゃー、何っ」
「大石、タイム言ってあげなきゃ」
 冷静な声で我に返った大石は、時計を見てタイムを読み上げた。え、と振り返った菊丸は、戻ってきた二組目の部員達に目を見開いた。
「だから気にするなって言ったのに」
 ふふ、と笑う不二に、菊丸は地面に座り込んでしまった。戻ってきた二組目の者達は、驚いたように大騒ぎをしている菊丸と可笑しそうに笑っている不二を見比べた。
「さ、さあ、次だ。どんどん行こう」
 気を取り直して大石が次の組を送り出す。リョーマの話を聞いたせいか、どの組もさっきより感覚が鋭敏になったようで、悲鳴もかなり頻繁に上がっていた。
 八番まで終わり、トップは桃城海堂組、二位に僅差で菊丸一年生組が入った。
「あ、来た来た」
 九組目が林から出てきてゴールに近付くと、リョーマはやっと自分の番かと腰を上げる。戻ってきた河村達をみんなが取り囲むのを横目に見て、リョーマは一人神社に向かっていった。
「あれタカさん、どうしたん、それ」
 河村は神妙な顔で背中に背負っていた人間を降ろした。それは堀尾で、額にこぶを作り失神している。一緒に着いてきたカチロー達が汗を浮かべながら桃城の問いに答えた。
「堀尾くん張り切って脅かしたのはいいんですけど、河村先輩がラケット持ってるってこと忘れてて、ボールぶつけられてこんなことに」
「それで、僕たち降りることにしたんだけど、それだと最後の脅かし役がいなくなっちゃうから、不二先輩が代わるって」
 カツオの説明を聞いて、菊丸と桃城は大石の元へダッシュした。血相を変えて駆け寄ってくる二人を、大石は呆然として見詰めた。
「お、おチビ、もう行っちゃった?」
「危ねえな、危ねえよ」
「どうしたんだ、二人とも。越前ならさっき出発したぞ」
 みんなに取り囲まれて河村しか見えないことに疑いを持つこともなく、リョーマは歩き出したのだ。まさか、そんなことになってるとは思いもしないだろう。
 リョーマは懐中電灯とラケットを手に山道を登っていた。途中白い布を纏った荒井とか、血だらけメイクをした池田とかが突然出てきて脅かしたが、特に反応するでもなく一瞥すると歩みを止めることなく続ける。
 その他の障害もほとんど気付くこともなく、リョーマは神社までくると懐中電灯を地面に置いて、的を探した。神社の境内は一つだけ電灯が点いていてうっすら明るい。辺りを見回したリョーマは、目的の的が見あたらないことに首を捻りながら、建物の方に向かっていった。
 境内には明かりがあるのに、建物周囲は真っ暗で中は見えない。ここに来てクリアしたという証明のため、誰かが居ると思ったのでリョーマは不思議に思いつつ、建物の横まで歩いていった。
 さっきまで出ていた月が雲に隠れ、風がざわざわと木々を揺らしている。静まりかえった空間で、どうしようかと思案していたリョーマの耳に明らかに自然のものではない木々を揺らす音が聞こえてきた。
 さては、最後の最後で脅かすつもりだなとリョーマは不敵に笑みを浮かべ、その音がした方向へそっと忍び寄る。今まで出てこなかった人間、つまりいつも一緒の一年トリオだろうと考えて、繁みの隅に蹲っている影の肩をリョーマは強く押した。
「うわあっ」
「えっ」
 思っていた声ではないが、どこかで聞いたような声にリョーマは驚いて手を引いた。人影は繁みから前の道へ転がり出る。その人影に明るい懐中電灯の光が投げかけられ、その姿が顕わになった。
「びっくりしたー、あれ?」
「あんたは」
 リョーマは目を丸くして光の中できょとんとしているいがぐり頭の男を見詰めた。こんな場所に何故彼が居るのだろうか。
「ねえねえどうしてここにいるんだい。それもこんな夜遅く」
「それはこっちの台詞」
 相変わらず大きな声でリョーマの手を取り、大きく振る。痛みに手を取り戻し、リョーマは憮然として訊ねた。
「何だ、青学の越前じゃないか。何でこんな場所に居るの。迷子?」
「迷子……迷子になった舞子……ぷっ」
 光を当てている暗闇の中から、一人ずつ声が聞こえ最後は膝蹴りする音となる。そのうちの一人が葵の方から自分へと明かりを向けるとにこやかに挨拶した。
「こんばんは、越前くん。ね、ほんとに迷子なの」
 それは六角中の副部長佐伯だった。一癖も二癖もありそうな面々の中で、爽やかな普通の青少年に見える佐伯に、リョーマは漸く吐息を付いて経緯を話した。
「へえ、青学はこっちで合宿してるんだ。俺らは向こう側、丁度反対方向だね」
「あっ、そうだ、良いこと思いついた。せっかくだから僕らの合宿所に来て、練習していきませんか。この前の試合すっごく楽しかったでしょ。もう一回したいから、ぜひぜひ、ね」
 答えも聞かず、葵はリョーマの手首を握って歩き出そうとした。焦って引き剥がそうとしても、全く受け付けずにこにこ笑っている。
「それは困るな」
 ぼんやりとした影が暗闇の中に現れ、白い顔が浮かび上がる。リョーマを含め、一同は背筋を凍らせ一声叫ぶと仰け反った。
「ふ、不二先輩、懐中電灯下から照らすの止めてください」
「普通に怖いぞ、不二」
 恐れおののく一同の前に静かに立ったのは不二周助その人だった。何だ人間か、と約二名を除くみんなは安堵したが、にっこり笑っている顔にリョーマと佐伯は安堵どころか益々顔を引きつらせた。
「戻らないとみんなが心配するよ。それに、多分もう駄目だと思うけどビリだね」
 あ、とリョーマは罰である乾汁の存在を思い出し青ざめた。しかし、不二がどうしてここに居るのかと眉を顰め睨み付ける。
「堀尾が気絶しちゃったから、最後に脅す役を引き受けたんだけど、その前に色々やることがあって、それをしてたら越前くん見逃しちゃったんだ。不覚だったよ」
 心底残念そうに言う不二に、色々やることってなんだったんだとリョーマは心の内で突っ込みを入れる。二人の緊迫したやりとりを立ち直った佐伯は面白そうに見ていた。
「それにしても偶然だな。せっかくだから明日あたり練習試合でもしようか」
「明日は氷帝と試合することになってる」
 氷帝と、という言葉に六角中メンバーは唖然とする。氷帝まで来てるのか、と呟く面々の中で目を輝かせ葵は不二に詰め寄った。
「じゃあ、僕らもそれに混ぜてください。楽しみだなー、青学とだけじゃなく氷帝ともやれるなんて」
 まだOKしてないじゃん、と思いつつもはしゃいでいる葵と、何を考えているのかにこにこしている佐伯、それに何時も通りの穏やかな笑みの端っこに窺える不二の冷たい微笑を見て、リョーマは大きく溜息を付いたのだった。

             テニプリトップ 前へ 次へ