Silent Step -1-

 
 別棟にある図書室への長い回廊を通り、不二は重く軋む扉を開いて中に入っていった。しんと静まりかえった室内に人影は少なく、どれもまるで実体のない影のように止まって見える。
 今日も図書当番はリョーマでは無かったが、不二はカウンターに本を返却し、別の本を一冊選ぶと窓際の一番明るい席に座った。
 ぼんやりと肘を突き、窓の外を眺める。本を読むでもなくただ座っていた不二は、予鈴の鳴る音に我に返ると、その本を借り出して図書室を後にした。
「なになに、今度は何借りてきたん?」
 教室に戻ると興味津々という表情で菊丸が不二の手元を覗き込んだ。
「チャウ…シエ…銃殺その後…ルーマニア? 何だよ、これ。んな本読むんだ」
「え? ああ、そんなタイトルだったのか」
 適当に一冊手に取っただけだったので、題名も内容も見ていなかった。どうせ図書室に行く理由のための本なのだから、何でもいい。
「不二、だからおチビちゃんが当番の日調べてから行けばいいって」
 呆れたように菊丸が言うのに、不二は苦笑して頷いた。調べるのは容易いだろうが、偶然会った方が運命的でドラマチックかも、と最初は考えていた。けれど、今は会えたらいいなくらいで、図書室へは物思いに耽るために行っているような感じになっている。
「面白いかもしれないじゃない」
 これ、と本を見せると、菊丸は嫌そうに顔を蹙め席に戻っていった。午後の授業が始まり、退屈なそれに飽きると、不二は教師の動向を窺いながら外に目を向けた。初夏は通り過ぎ夏間近な季節、校庭の周りや教室の側に植えられた木々は緑の色を濃くしていく。
 そんな木々に似合うのは、真っ青な空だが、今の空はどんよりと雲がたれ込め、今にも雨が降りそうだった。
 そんな空模様に不二は僅かに眉を顰める。屋外にあるテニスコートは当然雨に弱く、部活は中止となってしまう。そうなればリョーマと今日は会えないなと思ってから、不二は自分の思考に笑みを浮かべた。
 いつからだろう、部活はテニスも勿論だが、リョーマに会える方に比重が移ってきたのは。割となりふり構わず迫って告白して、身体を繋いで、と順調にお付き合いを進めて行っている筈なのに、こんなに不安なのは何故だ。
 リョーマの心を掴んでいると思う側から、今の空のように曇った壁に阻まれて、見えなくなる。
 不二は吐息を付いて視線を黒板の方に戻した。
 天気はなんとか持ち、部活に行くため不二は菊丸と共に教室を出た。部室に入ると、一年生達が慌てて挨拶をして出ていく。その中にリョーマの眠そうな顔を見出して、不二は胸の鼓動が大きく高鳴った。
「ちーす」
「あ、越前くん」
 思わず呼び止めた不二は、胡乱げな目で見上げられ、口に手を当てた。暫くじっと見つめ合っていたが、リョーマが溜息を付き目を逸らしたことによって緊張が破れる。
「用がないなら、いいっすか」
「今日一緒に帰らない?」
 リョーマは目を逸らしたまま俯いて、ぼそりと呟いた。
「今日は用事あるんで」
「そっか、残念だけどしょうがないね」
 あっさり納得した不二を瞬間見上げたリョーマの目は、僅かに非難の彩を浮かべていたような気がして、もう一度声を掛けようとしたが、既に足早に外に出てしまった後だった。
「おチビちゃん、何か怒ってるみたい、だけど」
「何か気に障るようなことしたかな」
 不二が首を傾げて言うと、菊丸は目を眇めて問いただすように見詰めた。その視線は、ほんとに何にもしてないのかと疑惑で一杯である。不二は苦笑を浮かべて菊丸の肩を叩き、部室から出た。
 多分、菊丸が思っているよりもずっと問題行為を、あれやこれやしているが、だからといって今更それがリョーマの気に障ったとは考えにくい。
 菊丸ほどではないが、リョーマもテニス以外は猫のように気まぐれで、ちょっとしたことが勘に障ったのかも、と不二は肩を竦めた。

 腕の中でリョーマは大きく肢体をしならせ、甘い声で啼いて不二に続きを促す。不二はそれに応じて指を滑らせ、唇を落としてリョーマを昴ぶらせていった。
 汗の粒がしっとりと身体を覆ったリョーマの身体は、不二の手に吸い付くように馴染んで、愛撫の一つ一つに反応している。
「リョーマ…」
 不二は熱く耳元に囁き、細い身体に腕を回して強く抱き締めた。だが、リョーマの腕は力無くシーツに伸ばされ、不二に応えることはない。苛立って大きな声を掛けても、微かに吐息を付くだけで、リョーマはただ不二になされるがままでいた。
「目を開けて、僕を見て」
 不二はリョーマの頬に手を当て、呟いた。リョーマの両目は頑なに閉じられ、不二の言葉も聞こえているのかいないのか、微かに開いた口から乾いた荒い息が吐き出されるだけだ。
「リョーマ」
 汗の浮かんだリョーマの額に掛かる髪を指先で掻き上げ、不二は瞼に口付けた。今まで熱く自分の愛撫に翻弄されていた気配の欠片もなく、まるで陶器のように冷たく堅いリョーマの頬に口付け、唇にもキスをする。
 リョーマの白い頬に熱い滴がぽとりと落ち、不二は不思議そうにそれを指先で拭った。自分の目が熱く潤っていることに気付いた不二は、自分の頬に手を当てた。リョーマの頬に落ちた滴と同じものが、自分の意志を無視して溢れ出てくる。
 目を覆う涙の膜が視界を閉ざし、何度か瞬きをしてそれを振り落とした時には、腕の中に居た筈のリョーマは消えてしまっていた。
 ぼんやりと目を開いた不二は、暫く天井を見詰め、やがてそっと自分の頬から目尻に指先を当てた。乾いたままの指先を見詰め、再び目を閉じる。
「夢…か」
 胸に手を当て、大きく吐息を付くと、不二は微かに笑みを浮かべた。こんな夢を見るなんて、相当不安がっている証拠だ。リョーマと身体は繋いでいても、本当に心を掴んでいるかという不安が、あんな夢を見させたのだろうと、不二は再び自嘲した。
 自信と不安との間を、まるで大きな振り子のように行ったり来たり繰り返している。こんなことは、生まれて14年の人生で初めての経験だ。
「まだまだだね」
 リョーマの口癖をまねて呟き、不二は身体を起こした。

 小さく欠伸をした不二を目の端で捉え、菊丸は不思議そうに目を眇めた。中身はどうあれ、外面はしっかり良い子の不二が、厳しいことで有名な先生の授業の時間に欠伸をするなんて、どうかしている。幸い、先生は気付かなかったらしいが、今日はこれでもう3回目だ。
 本人よりはらはらして授業を受け終わった菊丸は、不二の目の前に椅子を持ってきて座ると、じっと見詰めた。
「何」
「こっちこそ、ナニ、だよ。授業中欠伸ばっかりして、徹夜でもしたん?」
「良く見てるねぇ、何、僕に惚れても駄目だよ」
 はぐらかすなと菊丸は唇を尖らせる。不二は苦笑いを浮かべ、謝った。
「おチビもさあ、最近またピリピリしてんの復活してるし。拙いことしたんじゃないの」
 菊丸の目の良さと推理力に、不二は呆れながらも感心した。
「最近はしてないよ。誘っても振られてばかりだし。ちょっと調べ物で睡眠不足なだけだよ。心配かけてごめん」
 これ以上この話はナシ、と言うように不二は席を立つと教室の外へ出ていった。そんな説明で菊丸が納得するとは思わなかったが、まさか本当のことを言うわけにもいかない。色々と知っていそうだが、確信まではいってない筈だ。
 昼食を採る気にはなれず、不二はそのまま図書室へ向かった。昼休みが始まって直ぐの室内に他の生徒は居ない。当番の生徒もまだ見えず、不二はいつもの場所へ向かうと腰を下ろした。
『…じ…先輩』
 先輩と言っている割に尊敬の欠片もない生意気な口調。瞳は何時も挑むように見詰めてくる。好きだと言うと戸惑うようにそれは伏せられ、応えは返らない。
「不二…」
 窓から差す暖かい日差しに、うとうとと何時しか微睡んでいた不二は、人の気配に目を覚ました。
覗き込む人影に手を伸ばし、手首を捉える。
「わっ」
「…なんだ、大石か」
 うたた寝の中で浮かんだ姿に、もしかしたらと思っていたのに、そこに呆然と立っている大石を見て、不二は大きく溜息を付いた。大石は驚愕に目を見張り、不二に手首を掴まれたまま硬直している。
「なんだは無いだろ。こんな所で寝てたりしたら、先生に怒られるぞ」
 漸く手を離されて、大石はほっと息を吐く。不二は肘を突いて大石を見上げていたが、ちらりとカウンターの方を見ると司書の先生と目が合った。
 にっこり微笑んで不二が見返すと、先生は睨んでいた目を狼狽えたように外し、そそくさと準備室の方へ入ってしまう。大石はその様を呆れたように見ていたが、再び不二に視線を戻した。
「疲れてるのか? 珍しいじゃないか、居眠りなんて」
「そうかな。それより、大石は何しに来たの」
「本を借りに来たに決まってるだろ。それ以外に何の用があるんだ」
 憮然として言う大石に、それもそうかと頷いて不二は立ち上がった。リョーマ目当ての不純な動機でここへ来ていると大石に告げたら、どんな顔をするだろう。
 自分以外にも、ここへそれが目的で来てる者も居るかもしれないと、勘ぐる方がどうかしているんだ、多分。と不二は自嘲の笑みを浮かべ、大石に手を振ると図書室から出た。
 次の晩も夢の中で不二はリョーマを抱いていた。肌の感触も、伝わる熱も実際と区別が付かない程リアルな夢。だが、不二の腕の中のリョーマは、一度も目を開かない。
 不二の好きな、挑戦的で挑発する大きな黒曜石の瞳。強い相手と試合をする時に見せる、煌めく光を湛えたそれは白い瞼で閉ざされている。
「何で」
 問いかけと同時にリョーマの身体は消え失せ、さっきまで抱いていたのはからっぽの器だけだったと思い知らされるのだ。
 不二は目を見開き、暗い室内を凝視した。目だけを動かし、枕元の目覚まし時計を確認すると、まだ夜明けまでにはだいぶ時間がある。そろそろと手を伸ばし、自分の頬に触れると、今日も濡れた感覚は無かった。
 代わりに胸が鈍く痛む。喉の奥に何かがつかえたような、苦しい感覚に不二は小さく溜息を付いて目を閉じた。再び眠りに付こうと努力していた不二だったが、寝返りを何度も繰り返し、気付いた時には起きる時間になってしまっていた。
「あら、眠そうね。夜遅くまで勉強でもしていたの」
「お早う、姉さん。まあ、そんなとこ」
 一瞬姉の目が訝しげに細められたが、直ぐににこやかな表情になり、不二に紅茶を淹れ勧めた。勘のいい姉のことだから、自分の嘘を見抜いたかもしれないが、それを問いただしたりはしない。年頃の男の子なのだから、色々あるんだろうと察してくれているのかもしれない。
 まあ、まさか同じ性を持つ男の子に恋してて、夢まで見て悶々としているなんて、考えもつかないだろうが。
 欠伸を噛み殺しながら学校に着いた不二は、朝の自主練に入った。少しでも身体を動かしていれば目も覚めるだろう。その分、夜は夢を見ずに済むかもしれない。
「なんだー、今日もおチビは朝練パスなんかにゃ」
「越前、朝弱いっすからねえ。今は自主練だけど、来週からはいよいよ都大会準決勝、決勝で朝練始まるから、こりゃ迎えにいかなきゃ駄目かな」
 参るぜ、と言いながらも嬉しそうな桃城に、不二は微かに苛立ちを覚えた。桃城の気持ちはまだリョーマのことを可愛い後輩程度にしか見てないとしても、これから先どうなるか判らない。リョーマも、他の部員は歯牙にも掛けないのに、桃城には気を許している感じがする。
 知らずにシャツの胸の辺りを握り締めていた不二は、菊丸の訝しげな視線に、ゆっくりと手を離した。じりじりと胸が痛む。身体を繋ぎ、好かれているという自負もあるのに、この痛みはふとしたきっかけで蘇ってる。
 それらを振り切るように不二はラケットを握り締め、ボールを相手コートに打ち込んだ。
 朝練を終え着替えると、不二は校門の方に向かった。まだ予鈴まで時間がある。いつもぎりぎりにやってくるリョーマの顔を見たいと、不二は待っていた。
 出迎えたリョーマの顔色は冴えず、瞼が眠そうに半分ほど落ちている。最近、何時にも増して眠そうで、菊丸の言ったようにピリピリしていたかと思えば、ぼうっとしている事も多かった。
 何か訳でもあるのか訊きたかったが、目を逸らされ無言の拒絶にあっては、無理に聞き出すことは出来ない。せめて昼休みに顔だけでも見たいと、図書当番の有無を訊くが、今日は無いとの返事に不二は僅かに握り締めた拳に力を込めた。
「そう、じゃまた部活の時に」
 それだけ言うのが精一杯で、不二は踵を返し教室に向かった。そんなに自分と会うのが嫌なのだろうか。強引に関係を進めてきたから、今になって後悔しているのかもしれない。
 そんな考えが頭を占め、不二は授業にも身が入らず、昼になっても机に頬杖を着いてぼんやり視線を遊ばせていた。
「ふーじ、どっかイッチャッてる? おーい」
「どこにも行ってないよ、英二」
 目の前で手をひらひらさせる菊丸に、不二は苦笑を浮かべて言った。菊丸は腰に手を当て、不二の顔を覗き込んだ。
「今日も昼抜きか? もしかして、ダイエットしてんの。テニスに体重制限はないぜ」
「食べたくないんだ。…ここが痛くて」
 胸とも胃ともつかない場所を押さえ、不二は菊丸に告げる。菊丸は瞳をくるりと回転させると、腕を腰から離し頭の後ろで組んだ。
「なんかさー、色々考えすぎなんじゃない、二人とも。もっと気楽にやったら」
 どこまで知っているのか判らないが、菊丸はそう言うと片目を瞑って見せた。不二だって相手が普通の女の子なら、もっとらぶらぶ青春チックな恋をしているだろう。けれど、相手はあの越前リョーマなのだ。
 捕まえたと思ったのに腕の中はからっぽという、一つ油断したら全てが崩れる予感がする。それはいつかやった練習試合のように、突き放したと思ったら直ぐに追いついてくるという焦燥感と、同じようなもの。
 試合の方はわくわくして胸が高鳴ったが、恋はそれと共に痛みまでもたらす。
 眉根を寄せ、再び考え込んでしまった不二を、菊丸は肩を竦め見詰めた。同じ目標を持つ部員として、友人として不二を応援したい気持ちは菊丸にもある。が、相手がリョーマだというのが、ちょっとやっかいで手も口も出しにくい。
 自分でもお気に入りの後輩を、すんなり不二に任せたくないと言う気持ちが、菊丸の心の底にあるから。そしてそれを不二もきっと解っているだろうから、余計な口出しをするのは控えていた。
 でも、このままじゃちっと拙いと思うんだよね、と菊丸はこっそり心の中で呟いた。普段と変わらないように見える不二だったが、欠伸の連発や僅かに細くなった頬の線など、きちんと見れば見えてくる。
「大丈夫だよ。決勝までには、どうにかする」
「えっ」
 心の中を読まれたのかと、菊丸は狼狽して腕を下ろした。微かに笑みを浮かべ、不二は頷いて席を立った。
 屋上に行った不二は、足りない睡眠を補おうとコンクリートの床に寝転がった。図書室での居眠りはまた誰かの目に止まるかもしれないが、ここなら邪魔は入らない。
 普段屋上に人影は無い。そろそろ蒸し暑くなってきている今は、弁当を食べるのなら校庭の周りにある木陰やベンチに行く者の方が多いからだ。
「おや、珍しいな」
 上から降ってきた声に、不二は目を開いた。逆光の中、きらりと眼鏡を光らせて乾が見下ろしている。やれやれと不二は起きあがって乾と対峙した。
「乾の方こそ、こんな所に何か用?」
「今日は部室に人が沢山居たんでね、ここなら邪魔が入らずデータの整理が出来ると思って来たんだが。どうやら同じことを考えてたみたいだな」
「そうみたいだね。で、ここでやるの」
「教室でやれないことはないが…ここだと、偶に面白い物が見られるんだ」
 口端を上げて見せる乾に、僅かに不二の眉が蹙められる。ほら、とフェンスから見える校庭を指さした乾に釣られ、不二はそこから下を見下ろした。
 そこには良く見知っている姿が在った。腕を組み、木に背を持たせ掛け、じっと手塚は何かを見詰めている。その視線の先を見た不二は、心の奥底から湧き出る昏い熾りにフェンスを掴んでいる手を堅く握り締めた。
「そう…なのか」
「さあ、どうだろう。手塚が同じ気持ちで越前を見ているかどうかまでは、俺には解らない。もっとも、不二の気持ちも理解しているとは言い難いけどね」
 眼鏡を直し乾は苦笑を浮かべた。不二は、手塚の視線の先に居るリョーマを見詰め、唇を噛み締めると踵を返す。
 眠気は吹っ飛んでいた。足音も荒く、一階まで降りていった不二は校庭に出ようとして、中へ戻ってくる手塚と鉢合わせした。
「手塚、今、君は…」
「……」
 無言で、不二の熾烈な視線を封じるように、手塚は静かに見返した。不二は確かめようと口に出しかけた言葉を飲み込み、睨み付ける。
「午後の授業が始まる。話なら後で聞こう」
「ああ」
 視線を外し、手塚はそう言って不二の脇を擦り抜け歩いていった。立ち尽くしていた不二も、一つ大きく息を吐くと教室に戻っていく。当然、授業は全て不二の頭には入らず、終わってしまった。
 部活は最初にロードワークから始まる。最近は乾が特製ジュースとかを作ってきて、それを飲みたくないがために、全員の走るスピードが上がっていた。
 不二は別にそれが不味いと思った事はない。菊丸に言わせると、あんなのを飲める奴は人外だということだが、ちょっと野菜ジュースの濃いバージョンという感じなだけだから、美味しいとさえ思う。でも、負けるのは嫌なのでビリになることは無かった。
 いつものように軽口を叩き合っている菊丸や桃城の後ろに付いていた不二は、隣を走るリョーマの様子が普段とはちょっと違うことに気が付いた。
 僅かに俯いて、息も普段より荒い。周回を繰り返すうちに、リョーマは徐々にレギュラーの群れから遅れていた。
 ラスト一周になると、その遅れを取り戻そうとリョーマがピッチを上げる。が、他の面々も足を速めていくので僅かな差がなかなか縮まらなかった。
 荒い息を吐くリョーマの顔を横目に見ながら走っていた不二は、コートの角を曲がる一瞬バランスを崩し一歩遅れてしまう。その僅かな遅れが取り戻せず、結局一番最後となってしまった。
「珍しいな、不二」
 乾に特大ジョッキに入った特製ジュースを渡され、不二は苦笑して見せた。寝不足でなかったら、バランスなど崩さなかったし、遅れも取り戻せただろう。こんな程度で調子がおかしくなるのは、決勝を前にして拙い状況だ。
「これは不味くないんだけど。量が多いかな」
 みんなが怖々見守る中、不二はジュースを飲み干した。それを渡した乾ですら、微かに恐ろしい物でも見たように引いている。
 ジョッキを乾に返した不二は、巡らせた目に突き刺さるようなきつい視線を向けてくるリョーマを見出して、動きを止めた。
 不二が見返すと、怒ったように眉を上げ顔を逸らす。不二は軽く溜息を付いてタオルを取り、吹き出た汗を拭った。
 自分だけでなく、リョーマも調子が今一つというように見える。苛立っているだけなのか、身体の具合が悪いのか、プレイが荒い。不二は気取られないようにリョーマを観察していたが、今日は自分も寝不足で頭が上手く働いていないようで、彼が何故ああまで荒れているのか、考えつかなかった。
「不二、ボール」
「あ、ごめん、タカさん」
 コートの向こう側にいる河村に促され、不二はサーブを打った。ボールは河村のラケットを擦り抜け、ラインぎりぎりを跳ねて後方に転がる。見事なサーブに周りで見ていた一般部員の間から感嘆の息が漏れた。
 頭の半分くらいがぼんやりしているため、手加減が出来ない。つい、本気で打ち込んでしまった不二は、驚いたように見ている河村に笑いかけた。
「タカさん、打ち返してくれなきゃ練習にならないよ」
「何ぃっ、よっしゃあ、次こそ打ち返してくれるわっ!」
 ラケットを握ると性格が変わると言われている河村の口から威勢のいい言葉が飛び出た。宣言するように怒鳴り、ラケットを不二に向ける。
 相手がよく言えば純朴、悪く言えば単純な河村で良かったと思いながら、不二は再びサーブを打ち込んだ。これが相手が手塚だったら、自分の調子を見抜かれていただろうし、いや、もう見抜かれているとは思うが、他の部員達にも気付かれたかもしれない。
 部活が終わり、部室に戻った不二は、さっさと着替えて出ていったリョーマの後ろ姿を見送ると、ゆっくり着替え始めた。
 何がリョーマを苛立たせているのだろう。この所不二はリョーマと二人きりで会う機会はなかった。だから、怒っているとしても自分が関係していることはない。何か別のことがリョーマの心を掴んでいる。それは、一体…
「今日のリョーマ君、メチャメチャ怒ってたね」
「ほんとほんと、なんだったんだろ」
「めーわくなんだよなっ、あいつがあんなだと」
 いつもの三人組がひそひそと何かを話している。リョーマという名前を耳にした不二は、ふと手を止め顔を上げた。
「…何?」
 いつの間にか菊丸と桃城がじっと不二を問いかけるように見詰めている。
「いや、おチビが変なのは、不二のせいなんじゃないかと」
「僕のせい? 越前が何で」
 くすりと笑って不二は菊丸から視線を外した。バッグのジッパーを閉め、肩に担いで一歩踏み出す。その前方を塞ぐように桃城が不二の前に立ちはだかった。
 不満げに口をへの字に結び、睨んでくる桃城に、不二は再び微苦笑を浮かべた。その笑みに、一瞬桃城が怯んだ隙に不二は脇を通り抜けた。
「僕のせいなら…良かったのに」
 後の方の言葉は桃城には聞こえなかっただろう。不二はそのまま振り返らず、部室を後にした。

 腕の中でいつものようにリョーマは反抗一つせず、不二の愛撫に微かに喘ぐ。一度で良いから、ちゃんと自分を見て、という言葉は口に出せず不二は愛撫の手を止めた。
 これは夢。自分の無意識下の想いが絡み合って見せているもの。意識して変えることも出来るはずだと、不二は妖しく誘惑うリョーマの身体から、渾身の精神力を使って身を引いた。
 リョーマの陶器のような滑らかな肌は汗まで浮かべているのに、まるきり熱さを感じられなかった。しどけなくシーツに伸びている身体に指を伸ばし、汗を拭うと、それはひんやりと冷たく不二の指先を濡らす。
 つっとその指先に触れる物に、不二は一瞬手を引いた。今まで反応したことのないリョーマの腕が僅かに上がり、不二の指先に触れたのだ。そのままでいるリョーマの手に、恐る恐る不二は手を近付ける。触れたリョーマの指はほんのり暖かかった。
「リョーマ」
 もっと触れたいと手を合わせ指を絡めようとした時、リョーマの姿は淡い影となって消えてしまった。愕然として目を見開いた不二は、現実でも目を開け暗い天井を見詰めていた。
 唇を噛み締め、不二は起きあがると気分を落ち着かせるために、レコードを一枚取ってプレーヤーに掛けた。音量を絞ってから窓を開く。空には厚く雲がかかっているのか月も星も見えず、外灯のぼんやりした灯りだけが遠くから庭を照らしていた。
 暗い中タイトルも見ず取ったレコードは、どうやらディズニーのオーケストラ集だったらしく、街中でも良く聴くメロディが控えめに部屋に満ちていく。
「…星に願いを、か」
 星でも月でも、何でもいいから、この取れない棘のような痛みを無くして欲しい。
「なんてね」
 不二は自嘲に口端を歪ませた。お星様に祈るような自分が信じられない。英二あたりが知ったら、飛び上がって喜ぶだろう。ほんとの本当に重症で、リョーマにいかれてる訳だ。そりゃ認めてはいたけど、ここまで酷いという自覚は無かった。
 本気だから臆病になる。リョーマが不二の強引さに流されているだけだとしたら、いつかは拒絶されるだろう。その時自分はどうするのか。
 不二は重い息を吐くと窓を閉め、再びベッドに横になった。

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