Spiral Pazzle -1-

 

 放課後の図書室には人気が全くない。こんな日はとても珍しいと、リョーマはカウンターに肘を突き、ぼんやり辺りを見回した。
 どういう訳か眠くもならない。普段ならたとえ人が居たとしても、つい瞼が下がりいつしか眠ってしまうのに。
 それにしても本当に静かで誰も居ない。同じように当番の筈の生徒はどこに行ったのだろう。司書の先生も姿が見えない。陽が窓から長く中へ伸び、夕方の帰宅時間が迫っていることを告げている。先生が居なければ、ここを閉めて部活へ行くことも出来ない。
 ふと、その陽光の先に人影を見出してリョーマは、視線をはっきりと向けた。
 さっきまで確かに誰も居なかった。けれど今、そこには不思議な笑みを湛えた、良く知っている人が静かに立っている。
「リョーマ君」
 名前を呼ばれて、リョーマはびくりと姿勢を正した。
「不二…先輩?」
 何だか違う人の様な気配に、自分の声が不安の彩を帯びる。リョーマは何も言わず、近付いてくる不二に、不安と昂揚を同時に感じ、ただ彼を見詰めていた。
 不二の手がリョーマの顎に掛かり、少し上向きに持ち上げる。されるがまま真っ直ぐに見上げるリョーマに、不二は薄く笑みを浮かべ顔を近付けた。
 目を瞑った自分に驚きながらも、リョーマは不二の手を払おうとせず、むしろ進んでこうしていることを当然と思っている。
 その様子を隣で、何でだろうと不思議に思う傍観者な自分も居て、リョーマは頭が混乱してきた。
 不二の少し冷たい唇がリョーマの唇に軽く触れた。首筋に悪寒が走り、ついで産毛が逆立つような感覚に、リョーマはぎゅっと拳を握り締めた。
 暫く軽く合わせたまま、動こうとしない不二に、リョーマはそろそろと唇を開く。誘うように舌先を突きだして不二の唇に触れた。
「うわっ」
 心臓が爆発しそうなくらい大きく鼓動を打ち、リョーマは大きく息を吐いてそれを落ち着かせると、漸く今の状況に意識を戻した。自分のいつものベッドで掛け布団を握り締めた手を解き、じっとりと汗を掻いた掌をシーツに擦りつけると、リョーマはぐったりと上半身を突っ伏した。
「なんなんだ…」
 夢だったということはもう解っていたが、唇の感触は生々しく、まるで本当にあった出来事のように感じられる。リョーマは掌で自分の唇を拭いながら枕元の時計を見た。
 まだ普段起きる時間には早すぎることを確認すると、再びベッドに横になる。夢の続きが来たらどうしようと考えるうちに、結局寝られず起きる時間になってしまった。
 このところ、シチュエーションは違っても、出てくるキャラクターは同じ夢ばかり見る。突然不二が現れてキスして、でもそれ以上は何もなくてリョーマは自分の意志に反し焦れて続きをねだる。
 そんな訳ないだろうが、と自分の行動に焦りつつも止めることが出来ず、飛び起きて夢は中断されるというパターンだった。
 現実世界ではとっくにキスの先まで経験しているが、自分からねだってしまうというのが、悔しくてそれ以上夢の続きを見たくない一因だった。
「だいたい、あっちが勝手に迫ってきてんのに」
 ぶつぶつと呟き、リョーマは朝の支度のため階下に降りていった。迫られて、はいOKなんていう軽い性格ではないリョーマが、何故不二に強引とはいえ流されてしまったのか、深く考えようとすると余計に混乱する。
「お、リョーマ、寝不足か。ゲームのし過ぎか、はたまた恋の悩みか」
 朝食のテーブルで新聞を眺めながらからかうように南次郎に言われ、リョーマは不機嫌極まりない顔で睨み付けた。
「な、訳ねえな。お子様だしなあ、まだまだだな」
「ウルサイ」
 ぼそりと言ってリョーマは食事半分で席を立った。母親の、もう食べないのという言葉を背に、大きな欠伸をしながら家を出たリョーマは、学校へと歩き始めた。
 地区大会は終わり、今は都大会へ向けて練習が厳しくなっているが、朝練は今日は無い。自発的に出ている者も居るようだったが、リョーマはただでさえ遅刻寸前に教室に飛び込むことが多いため、そんな余裕は無かった。
「よお、何時にも増して眠そうだな。夜中までゲームでもやってたのか」
 校門を潜った途端、元気のいい桃城の声が頭の上から響いてくる。その声を気にせず、再び欠伸を噛み殺しながらリョーマは歩き続けた。
「たまにはもっと朝早くから出てこいよ。気持ちいいぜ」
「年なんじゃないすか」
 ぽつりと言うリョーマに、桃城は訝しげな視線を向けた。
「何だよ年って」
「年寄りの朝は早いって言うし」
「んっだとおっ」
 桃城はリョーマの頭を抱え込み、乱暴に手で髪を掻き回した。逃げようとするリョーマに尚も構おうとした桃城は、目の前に表れた人影に手を止めた。
「もうすぐ時間だけど、着替えなくていいの」
「えっ、マジすか。やばっ」
 桃城はリョーマを離し、慌てて部室の方へ走り去った。リョーマはぐちゃぐちゃになった髪を手で梳いて戻すと、改めて目の前に佇む人影に目を向けた。
「いつも眠そうだけど、今日はことにそうだね」
 まさか朝一で寝不足の原因に会うと思わなかったリョーマは、微笑んで見詰める不二を凝視したまま固まってしまった。
「越前くん、どうかした? 僕の顔に何か付いてるかな」
 あまりにまじまじ見詰めてくるリョーマを不審に思い、不二は自分の顔に手を当てた。その問いに我に返ったリョーマは、僅かに頬を染め首を横に振ると、不二の横を通り過ぎようとした。
「あ、越前くん、今日図書当番?」
 首を横に強く振り、違うと言うと不二は残念そうに溜息を付いた。その様子に、夢の出来事を思い出して、リョーマは益々顔が赤くなる。
「ま、いいか、部活で会えるし。じゃ、ほんとに行かないと遅刻しちゃうね。引き留めてごめん」
 不二は手を振り、あっさりと去っていった。もう少し何か訊かれるかと身構えていたリョーマは、ほっとすると同時になんとなく物足りなく感じた自分に少しばかり驚いた。
 夢でも不二はただ自分を見詰めているだけだった。だからって、自分から深い口付けを求めて舌を出すなんて、夢とはいえ何となく悔しい。
 リョーマは取り敢えず、夢のことは忘れようと決心して教室へ向かった。
 ただでさえ英語以外授業に付いていくのがやっとで、教師の言葉が耳に入らないというのに、今日は寝不足も加わって一日何をしたんだか、よく覚えていない。半分くらい寝ていたような気がするが、運のいいことに教師に注意されることもなかった。
「もー、越前ってば今日はダレ過ぎだぞ。いつものことだけど、ひやひやさせんなよ」
 部室で着替えながら堀尾は盛大にぼやきだす。教室でなくここで言うのは、みんなに知らせたいがためだ。
「ひやひやしてたの? リョーマ君が注意されたら喜ぶんじゃない、堀尾君は」
「そ、そんなことねーよ。同じテニス部員としてだな、あんまり素行が悪いと、俺までそう見られるじゃんか」
 鋭く正鵠を得たカチローの言葉に、詰まりながら堀尾は答えた。同意を得ようと縋る目で見る堀尾に苦笑しながらカツオとカチローは、淡々と着替えているリョーマを見た。いつもと変わらないようにも見えるが、やはりどこか違う気もする。
「何?」
 三人に見詰められ、リョーマは漸く気が付いて問いかけた。堀尾が再び文句を口にする前に、カツオがその背中を押して部室の外へ出してしまう。残ったカチローが再びリョーマを見て訊ねた。
「リョーマ君、具合でも悪い?」
「…別に」
 あっさり否定され、カチローは溜息を一つ零すと、それならいいんだと呟いて部室の外へ出た。
 一年生としての仕事をこなし、二、三年生が揃った所でレギュラー陣の練習に入る。とはいえ、最初はロードワークを全員でこなさなければならない。乾がレギュラー落ちして以来、何故か半分コーチのようなことをして、変な汁を飲ませようとするから単純なロードワークでも力を抜けなかった。
「いつもながら、きっついね。あの汁、げろげろ」
「口を動かしてる暇があったら足を動かせ」
 舌を出して嫌な顔をする菊丸に、黄金コンビの片割れ大石が言う。そんなのとっくにやってるよんと、菊丸が足を速めると釣られてレギュラー陣の足が速まった。
「アレ、ちゃんと自分でも飲んで味見してるんかいな」
「……飲んでなかったら許せねー」
 桃城の疑問に、海堂の口から低い呪詛のような呟きが漏れる。苦笑しながら、アレをすんなり飲めるのは不二だけだねと河村が言い、不二は不思議そうに、そうかなと首を捻った。
「…いつも、思うんだけど…さ」
「な、何」
 前方を走るレギュラー陣を眺め、息を切らしながらカツオは隣を走るカチローに話しかけた。やっとの思いで短い返事だけ、カチローは返す。堀尾は息をすることしか出来ず目が虚ろになっている。
「な、んで、あんなスピードで…話ができる…わけ」
「さ、さあ」
 レギュラーだから、というまっとうな答えもあるだろうが、それだけで済む話だろうか。などと考える余裕もそろそろ無くなって来た頃、三人ともペナル茶の餌食になってしまった。
 あまりの不味さに悶絶しながら地面にへたり込んでいた三人は、目の前を走りすぎていったレギュラー陣にぼんやりと視線を向けた。
「…なんか、今日リョーマ君やっぱり元気ない気がする」
「うん、いつもなら余裕でトップ走ってるよね」
 あの小さい身体のどこにそんな体力があるんだろうと、驚く程リョーマは瞬発力も持久力もあった。当然ロードワークでも大きな身体の上級生を軽く躱し、するするとトップに出ていてそのままゴールということも多いのに、今日は後ろから二番目くらいを走っている。
 最後の人間は特大ペナル茶を飲まなければいけないということになっていて、それが嫌さにラスト一周はデッドヒートになるのだが、コーナーを廻って見えてきた集団にリョーマの姿は無かった。
「うひー、きついきつい」
 額の汗を拭いながらゴールに飛び込んできた菊丸がぼやき、同意を求めようと隣を見ると、そこに居た桃城は酷く驚いた顔で後方を見ていた。
 何があったんだ、と菊丸は周りを見回すが、他のみんなも目を丸くしてゴールの方を見ていた。遅まきながらみんなの見ている方に菊丸は目を向ける。
「あれ、おチビ?」
 ゴールの線を少し越えた場所に、上半身を折るような格好でリョーマは俯いていた。普段なら汗はかいているものの、平然として疲れた様子も見せないのに。
 そして、その後ろには不二が顔を曇らせてリョーマの後ろ姿を見詰めていた。
「珍しいな、不二」
 横から乾が特大のジョッキを持って不二の方へ歩いていく。リョーマから視線を外し、不二はジョッキを受け取ると苦笑を浮かべながら飲み干した。
「味はともかく、この量を全部飲むのはちょっと厳しいね」
 他の者達にしてみれば口を付けるのも嫌な物を、完飲して「厳しい」だけの感想は、驚異に値する。もっとも、飲み干したことより、それを飲む状況になった事の方が、他の者達には驚きだった。
「え、何、不二がビリだったん」
「ああ、越前と競ってたようだが」
 大石が首を捻りながら答える。その言葉に、菊丸はもう一度驚いて二人を見た。リョーマは既にさっきまで疲れ切っていたような姿は無く、タオルを手にフェンスに寄りかかってじっと不二を見詰めていた。
 不二はジョッキを乾に返すと、ちらりとリョーマを見て直ぐに、自分のタオルを取りにベンチに向かった。
「越前、お前何かあったのか」
 桃城が心配そうに眉を顰めて覗き込むが、リョーマは素っ気なく首を振ると、手塚の号令に従ってコートに入っていった。
 不二の不思議な行動に翻弄され、調子を狂わされたこともあった。その後も告白され、訳が解らなくてぐるぐるして、自分の思うように動けなくなった時もあった。でも今は、単なる夢に振り回されて無様な姿を曝している。
 ビリにならなかったのは、不二が手加減したせいだとリョーマは解っていた。怒りに震える手でラケットを握り締める。
 怒っているのは不二にか、自分にか。きっと両方だろう。練習は散々な荒れ模様で終わり、リョーマは着替えもそこそこに部室を出た。
「リョーマ君、今日メチャメチャ怒ってない」
「うん、そんな気がする」
「あいつはいつもあんなもんだろ」
 カチローとカツオが部室を出ていくリョーマの後ろ姿を見送りながら言うと、堀尾は鼻を鳴らして否定した。
「なーんかあったんでしょうかねえ」
 横目で不二を見ながら意味ありげに菊丸は呟いた。桃城も、問いたげな視線で不二を見詰める。二人の様子に、他の者達の視線も不二に集中した。
「え…何?」
 心ここにあらずというようにぼうっとしていた不二は、漸く気付いて首を傾げた。菊丸達に釣られて見ていた一、二年生は慌てて目を逸らしたが、菊丸と桃城は相変わらず不二を見ている。
「おチビがおかしいのは、不二のせいなんじゃないかってこと」
「僕のせい?」
 呆気にとられて菊丸を見返した不二は、小さく笑みを浮かべると、バッグのジッパーを閉めた。出て行こうとする不二に、無言で桃城が前に立ち眉根を寄せて睨み付ける。
「僕のせい……だったら」
 最後の方の言葉は口の中で消え、桃城の耳には届かなかった。聞き返そうとする桃城の横を通り過ぎ、不二は部室を出ていく。残された部員達は訳が解らず不穏な空気に満ちた部室から早く逃れようと着替えを急いだ。

 次の日も、相変わらず夢に不二が現れた。今度はコートの中で、何も言わず不二はリョーマに近付きキスをする。この後はリョーマ自ら腕を不二の首に回し、抱きつくようにして深い口付けを求めるのだ。
 が、途中でリョーマは意志を総動員して不二から離れた。目が覚めぬよう願いながら、不二を見上げる。
「何で、俺の夢ん中に出てくるんだ」
「……君が…」
 今までリョーマの名前しか呼ばなかった不二の口から、別の言葉が零れ落ちた。僅かに苦しげな表情を浮かべ、不二は手を伸ばしリョーマの心臓の辺りに触れる。
 不二の指先は温かく、熱が服を通して伝わってきた。キスと同じく、それ以上動かない不二に、リョーマは苛立ってその手を掴んだ。
 鋭い痛みにリョーマは目を開いた。恐る恐る手を上げて見ると、薄くひっかき傷が出来ている。慌てて胸の辺りを見たリョーマは、暢気な顔で顔を洗っているカルピンを見出して目を瞠った。
「何だ、お前か」
 今日に限って胸だったのは、カルピンがそこに居たから、温かかった熱もそのせいだったのかと、リョーマは溜息を付いた。
 起きあがり、カルピンを両手で抱え上げ顔の間近に寄せる。何も悩み事などないような顔でリョーマを丸い目で見ていたカルピンは、一声鳴くと暴れて手の中から逃げ出した。
「何、言いたかったのかな」
 リョーマは自分の胸に手を当て、さっきの夢を思い返した。君が「好きだ」も、「欲しい」も実際言われた事がある。けれど、それとは違う気がする。
 考え込んでいたリョーマは、下から母親に呼ばれて時計を見た。時間はとうに起きる予定を過ぎている。これからでは朝食を食べて出ることも出来ない。
 舌打ちをして手早く着替え、家を飛び出した途端、何かが顔に当たった。上を見ると、どんよりと暗い空から雨粒がぽつりぽつりと落ち始めている。
 さっき、カルピンが顔を洗っていたのはこのせいかと思いながらリョーマは玄関へ引き返し、傘を掴むと再び走り出した。
 雨は放課後になっても止まず、部活は中止になった。昨日の雪辱戦を果たしたいと思っていたのに当てが外れ、リョーマは憮然として昇降口で靴を履き替えながら空を睨み上げた。
「残念無念、また来週ってね。なんか前線が頑張ってるらしいよ、今日明日、もしかしたら明後日も駄目かも」
 後ろから賑やかな声がして、リョーマは振り返った。菊丸がさほど残念そうでもなく両手を上げて首を振っている。
「なーに怖い顔してんの、おチビちゃん」
「別に」
「借りを返せなくて、くやしーって顔」
 むっと睨み返すリョーマに、あ、図星だったと喜んで菊丸は後ろから抱きついた。確かに今日部活があってロードワークがあったら、ぶっちぎりの一位で通過してやろうと思っていたのだ。いや、いつもそう思っているけれど、先輩達もそう思っているらしくなかなかトップでゴールすることは出来なかったが。
「暑苦しい、離してください」
 菊丸を振り払い、リョーマは昇降口を出て歩き始めた。直ぐに菊丸が追いついて隣に並んで歩き始める。鬱陶しいと思いつつ、どうせ途中までだからと諦めてリョーマはそのまま歩いていった。
「もう俺に訊きたい事、無い?」
 もうすぐ分かれ道で、菊丸は別の方向へ帰っていくという時になって、唐突に口を開いた。何のことだと見返すリョーマに、菊丸はにっこり笑って見せた。
「ちょっと前、俺に不二のこと、色々訊いてただろ。もう知りたいことは無くなったのかと思ってさ。何かあるなら、今のうち、訊いてミソ」
 そう言うと菊丸はリョーマの腕を掴んで近くのファミレスに向かっていった。唖然としていたリョーマだったが、席に連れて行かれ注文まで済ませられると、仕方なく席に着いた。
「さあさあ、お兄さんに何でも話してみ」
 頼んでいた物が来ると、さっそく菊丸が訊いてくる。きらきらさせて見る瞳に、リョーマは大きく溜息を付いた。
「この前は教える事なんて無い、部長の方が知ってるって言ったのに」
「この前はこの前、今日は今日。状況に応じて寸時に変わる猫の目人生ってね」
 なんじゃそりゃ、と呆れてリョーマは目の前の菊丸を見返した。思いの外真剣な菊丸の表情に、リョーマはストローの端を噛みながら視線を外した。
「不二に何かされちゃった?」
 思わず飲みかけていたアップルソーダを吹き出しそうになって、慌ててリョーマは口を押さえた。菊丸は席を移動し、気管に入って噎せるリョーマの背中を撫でてやる。
「やっぱり、あんにゃろこんな幼気な少年Aに、酷いことしまくって、そんで身体が辛くて、身も心もぼろぼろにされて挙げ句の果てにポイ捨てされて、傷心のあまり、もうここには居られませんさよならダーッシュ」
「先輩、先輩、飛びすぎ」
 隣で妄想爆発で語る菊丸に、リョーマは咳き込んで潤んだ目を向けた。それじゃ、何があった、と顔を間近に迫られて、リョーマは僅かに身を引いた。
「あの、取り敢えず、戻ってくれません」
 たとえリョーマが注目されることに慣れている、というより始めから人目をあんまり気にしてないとしても、現在の状況は拙いのではないかと思う。菊丸の言葉が聞こえたのか、店にいる人々が興味津々でこっちを注目しているのだ。
 リョーマがきつい目で周囲を見回すと、こちらを見ていた人々は狼狽えて視線を逸らし、自分たちのお喋りに戻っていく。だが、リョーマはガラス窓の外までは注意していなかった。
「ほいほいっと。んで、どうなのよ」
「夢見が悪いだけっす」
 低い声でリョーマは答えた。菊丸は続きを促すように黙って聞いている。ぽつりぽつりとリョーマは夢の話を多少ぼかして菊丸に話し出した。
「つまり、不二がおチビの夢の中に出てきて、呪いを掛けてるって訳だ」
「呪いって……」
 まさかとは思うが、不二が関わると本当なような気がしてくる。菊丸は何故か疲れたような顔で、テーブルに肘を突いた。
「……夢は、普段自分の心の奥底で思っていることが出てきちゃったりするんだよね」
 リョーマは菊丸の言葉に、微かにどきりとした。いや、あれは違うとリョーマは小さく首を振る。そんなリョーマを深い笑みを浮かべて見詰め、菊丸は指先を向けた。
「呪いを解くには、怖がらずにその夢の先を見ること」
「怖がらずに? 俺怖くなんかないすよ。気になるだけで」
「でも、拙いだろ、このままじゃ。当たって砕けろ。どーせ夢だ自分の思うとおりにすればいい」
 確かに、眠れなくなるのは辛い。体調も万全とは言い難くなっている。都大会までに夢から不二を追い出さないと。心を決めたようなリョーマに、菊丸は複雑な表情で笑いかけた。
「ども」
 伝票を持ってレジに立つ菊丸に礼を言うと、リョーマは店を出た。相変わらず雨が振っている。この様子では明日も雨だろう。
 傘の波間に、一瞬不二の顔が見えたような気がして、リョーマは傘を広げようとした手を止めた。
「どしたん、入り口で頑張ってると迷惑にゃ」
「あ、うん」
 目を凝らして探してみたが、不二の姿は見えない。気のせいだったのかとリョーマは首を振り、傘を開いて歩き始めた。
 菊丸の言葉を思い返しながら、リョーマは枕を抱き締めベッドに座り込んでいた。今夜こそ、不二の態度を問いただしたい。現実世界ではあんなに図々しく迫ってきて、押しまくられた挙げ句そういう関係になってしまった。
 それなのに夢の中ではキスだけで、何もしない。だから自分から迫っていくようになってしまう。いや、何で自分から迫るんだ。不二が何もしないから、して欲しいから?
 そこまで考えていってリョーマは赤くなった顔を枕に押しつけた。そんな訳無い。あれは菊丸が言ったように不二が呪いを掛けているのだ。きっとリョーマが自分の思うとおりにならないから。
 枕をベッドの端に落とし、横になる。寝不足のせいか直ぐにリョーマの上に眠りが訪れていった。

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