Call it Love -2-
 
 部活が終わり、着替え終えると不二は先頭を切って部室を後にした。今まではゆっくり着替えてリョーマ達一年生が片づけを終え、部室に来るまで待っていたのだが、昨日からさっさと帰っていく。
「不二、そんなに急いでなんか用事でもあるの」
「いや、別に」
 別にと言う割に、素早く姿を消す不二に、菊丸は眉を顰め指を顎に当てた。確かに不二は桃城や自分と違ってあまり寄り道をせず真っ直ぐに帰ることが多い。でも、リョーマの顔を見ることもせず、そそくさと帰るなんて、と菊丸は不思議に思った。
「何かあんのかな」
「あるだろうな」
 驚いて菊丸は僅かに飛び上がった。乾が眼鏡を光らせ、去っていく不二を見詰めている。乾でも知らないのかと、菊丸は更に不審を感じ眉を寄せた。
「何やってんですか、こんなとこで」
 片づけを終えて部室に戻ってきた一年生達が、入り口でたむろしている菊丸と乾に不思議そうに訊いた。その中で、リョーマだけは菊丸と乾の後方を気にしている。不二の姿が無いことを見つけて微かに吐息を付くリョーマに、菊丸は愁眉を開くと抱きついた。
「おっチビー、鬼の居ぬ間に触っちゃえ」
「何言ってんスか」
 うざい、と一言呟くリョーマに、菊丸は嘘泣きをしてみせた。そんな騒ぎのお陰なのか、リョーマの肩から力が抜け、いつものようにふてぶてしい態度が戻ってくると、菊丸はやれやれと溜息を付いた。
 不二は家に戻ると私服に着替え、直ぐまた家を出ようとした。その玄関先に車が停まり、窓が開くと姉の由美子が顔を覗かせた。
「どこ行くの? 乗せてってあげる」
「テニスクラブだけど。姉さん今日は随分早いね」
 遠慮無く車の助手席に不二は乗り込んだ。由美子は軽く笑うと車をスタートさせる。
「部活の後なのにテニスクラブ? 随分熱心ね。夕食はどうするの」
「先に食べてて、多分遅くなるから」
 不二の答えに、由美子は驚いたように横目で見た。いつもの笑顔でなく不二の堅い表情に、由美子は僅かに眉根を寄せる。訳を聞こうとして、躊躇い、結局口を閉じたまま由美子はテニスクラブに不二を送り届けた。
「あまり遅くならないようにね、お母さんが心配するから。それと、終わったら連絡してくれれば迎えに行くわ」
「ありがとう」
 何も聞かない由美子に感謝しながら礼を言い、不二はバッグを担ぎ直すとテニスクラブの扉を潜った。
 この施設はコートがあるだけでなく、最新鋭のテニスマシンも置いてある。それをセットすると、不二は一心不乱に練習し始めた。
 それから毎日不二は部活後遅くまでテニスクラブで自主練習をしていた。普段なら昼休みにはリョーマを探して校庭や屋上に行くのだが、それもせずに教室に居続ける不二を見ていた菊丸は段々表情が険しくなっていった。
「なーんかお疲れ? 珍しいじゃん」
 机に頬杖を突いて目を閉じていた不二の顔を覗き込み、菊丸は問いかけた。不二から何の反応もない事に、菊丸は訝しく思い手を目の前で振る。
「何?」
「もしかして、今寝てた?」
 小さく欠伸を噛み殺す不二を見て、菊丸は驚いて訊ねた。不二は曖昧に頷くと再び両手を机に付き、本格的に眠る体勢を取る。
「ちょっと睡眠不足なだけ」
 ぼそりと呟き、不二は目を閉じた。その答えに、菊丸は眉を顰め顎に手を当てる。以前、同じように睡眠不足で目つきが悪くなった不二を見たことがある。その時は、夢がどうとか言って、次第にやつれを見せていたが、今現在は取り敢えずそこまで酷くはなっていないようだ。
 最近リョーマと会っていないようだし、もしかして喧嘩でもしたのかと、益々菊丸は眉根を寄せるが、目の前の不二は穏やかに寝息を立てていた。
「なんだかにゃー」
 余計なお世話と解ってはいるが、大事な戦力の二人がおかしくなってしまっては大変困る。困るが、実際どうしたらいいのか菊丸は分からず、乱暴に頭を掻いた。
 菊丸の心配を余所に、不二は足りない睡眠を休み時間に補うと、部活に出ていた。毎日ではないが、頻繁にリョーマに会うようにしていたのに今はその余裕が無く、焦がれる熱を練習にぶつけるしかなかった。
 部活の後、着替え終えて部室を出ようとした不二は、入ってきたリョーマにぶつかりそうになって慌てて避けた。どうやら今日は片づけが早く終わったらしく、後ろには一年生トリオの姿もある。
 リョーマは上目遣いに不二を見ると、不機嫌そうな表情で俯いてしまった。
「お先」
 目の前にある小さな身体を抱き締めたい衝動を抑え、不二は短く言うと歩き始める。背中にリョーマの鋭い視線を感じつつ、それを振り切るように足早に歩いて校門から外に出た不二は、拳で門を打った。
「何をやっているんだ……僕は」
「不二」
 後ろから声を掛けられて、不二は振り返った。真っ直ぐに見据える眼鏡の奥の瞳に、昏い感情が熾ってくる。
「何か用?」
「無理な自主練は怪我の元だ」
 静かに発せられた言葉に、不二は目を見開いた。堰を切って溢れそうになる感情を堪え、不二は拳を握り締めると前に向き直り、歩き始めた。
「人のことより自分の方を心配したら。僕は大丈夫」
「……そうか」
 溜息を付く手塚に、不二は足を止めた。自分の言葉が滑稽に思えて自嘲する。手塚を勝手に仮想敵にして自分だけでぐるぐると廻っているようだ。
「ごめん。なんかちょっと焦ってるかも。八つ当たりだ」
「不二……必ずみんな揃って全国へ行くぞ」
 え、と不二が再び振り返った時には、手塚は踵を返し去っていく所だった。不二は吐息を付くと、バッグを抱え直して歩き始めた。
 結局試合の日までリョーマとは一度もゆっくり会わず、当日を迎えた。大石が怪我をするというアクシデントはあったものの、リョーマが補欠ということは変わらず、対氷帝戦が始まる。
 氷帝は流石に強く、ダブルスで一つは勝ったものの、一つは落としてしまった。シングルスが始まる前に少し休憩時間が有り、皆それぞれ今のダブルスの話で盛り上がっている。不二はリョーマと視線を合わせることもなく、応援に来てくれた裕太と話をしていた。
「なあ、兄貴。俺越前にすっげえ睨まれたんだけど、なんかしたか」
 ルドルフの柳沢が飲み物を買いに行った間に、裕太に聞かれた不二は、僅かに目を瞠り首を振った。
「越前の目つきが悪いのはいつものことだよ」
 そうかあ?と不審げに眉を顰める裕太に、不二は口元が綻ぶのを止められなかった。少し前、裕太のことでリョーマが嫉妬してくれたのを思い出し、胸が熱くなる。
「シングルス3が始まるぞ」
 大石の呼ぶ声に、不二は熱い想いを抱いたままコート脇の観客席に戻った。
 河村対樺地の戦いは引き分けに終わり、不二はコートに降り立つと、血が付いているラケットを手に取った。
「タカさん、これ使わせて貰っていい?」
「あ、ああ」
 本来自分に合わせたラケットでなければ実力は出し切れないものだけれど、不二は河村の想いを背負ったそれで戦うことにした。少しでも想いを共有し、自分に枷を掛ける。それが自分の力をより引き上げることになると、不二はラケットを握り締めた。
「あー、おチビっ、何座ってんだよ」
 突然の菊丸の大声に不二は振り向いた。コート脇のベンチに偉そうな態度でリョーマがふんぞり返っている。それを菊丸と桃城が引き剥がそうとしていた。
 不二と目が合うと、リョーマは強い瞳で睨み返した。久しぶりに見るその瞳に、一気に不二の身体が熱くなる。
 リョーマがベンチコーチでも良いと告げると、菊丸と桃城は口々に文句を言いながらも引き下がった。リョーマは掴まれて乱れたジャージを直し、改めて不二を見詰めると帽子の鍔を軽く上げた。
 リョーマに向けていた視線を無理矢理剥がし、巡らせると、裕太の驚いたような顔が目に映る。軽く手を振ると眉を顰め裕太はそっぽを向いてしまった。
 サーブの位置に向かう背中に、リョーマの強い視線が突き刺さるのを感じて不二は微かに口端を上げた。リョーマが側で見ているというだけで、全身にじんわりと嬉しさが込み上げてくる。自分だけを見詰めて、自分だけを感じてくれればいい。その為には、まだ追いついていないことを知らしめなければならない。
 不二は竜崎に言われるまでも無く、力をセーブすることなく戦うことを決意していた。
 試合はほぼ不二の思い通りに運んだ。リョーマの想像通りの自分がそこに居たのか、それともそれ以上のものだったか、不二は差し出された飲み物のボトルを手にすると、観察するように見詰めた。
「越前、そこ、良く見える?」
「丸見えっスよ」
 ふざけたように手で目の周りを覆うリョーマに、不二の眉が僅かに上がる。この程度ではリョーマの前に居る位置を、手塚から自分にすることはできないのか。
 流れる汗を拭った手に、冷たい感覚を覚え、不二は顔を上げた。凪いでいた風が吹き始め、不二の髪を微かに靡かせる。
 小さく笑うと、不二はリョーマに白鯨を見せると言ってレシーブ位置に戻った。冗談っぽく願うリョーマの前で、その技を使うと彼は勿論周囲が静まりかえった。
 ちらりと不二はベンチの方を見た。リョーマは目を見開き、半ば腰を浮かせて不二を見ていた。もう一本、同様の技を見せると直ぐに原理が解ったのか、リョーマは再びベンチに深く腰を下ろし笑みを浮かべて見ている。
 その理解力の早さと不敵さに、不二は微笑んだ。追いつかれるのが怖いのか、追いついて欲しいのか、そのぎりぎりの緊張感は心地良い。前を走っている限り、リョーマの目は自分を追うだろう。
「まだまだっスよね」
 リョーマからタオルを受け取ると、不二は小さく笑って頷いた。
「ありがとう、見ててくれて」
 顔を近付け囁いた不二に、リョーマは驚き何か言いかけた。それを聞かずに、不二はその場を離れ観客席の方に向かった。これ以上側にいると、もっと別のことを言いそうになる。昂揚した感情のままリョーマを抱き締めてしまいそうだ。
「兄貴、あの技すげぇな」
「応援ありがとう、裕太」
「べ、別に応援しに来た訳じゃねえよ」
 思わず熱心に誉めてしまった裕太は、不二の言葉に照れたように赤くなり、顔を背けた。その表情が何かを見つけたように変わった。
 不二もそちらに目を向けると、丁度手塚がリョーマを伴ってどこかへ出ていくのが見えた。途端喉元に黒く苦いものが込み上げてくる。
「次はいよいよ手塚さんの試合か」
「あの生意気一年生ルーキーは今日は出ないだあね」
 変な口癖の柳沢と裕太に頷き、不二は苦いものを飲み込むと、無理に笑顔を作って青学メンバーの元へ戻った。
 再びリョーマはベンチに座り、手塚と跡部の試合の一部始終を間近に見た。その様を後ろの観客席で試合と共に見詰めていた不二は、徐々に厳しくなっていく戦いに溜息を付いた。
「ん、どうしたにゃ?」
「いや、流石手塚だね。精神力でここまで持つとは」
 暗い表情で溜息を付く不二に、菊丸が顔を覗き込んで訊いてくる。普段鉄仮面のような無表情に僅かに見せる亀裂。滝のような汗はそれだけ痛みが激しいと言うこと。なのにプレイには微塵もその影を見せない。
 みなが息を詰めて見ている中、不二はベンチの方を見下ろした。ここからその表情は窺えないが、多分リョーマは食い入るように見ているのだろう。あの瞳に、今は手塚しか映っていない。さっきまで自分に注がれていた瞳は、どこにもない。
 リョーマに意識を集中していた不二は、彼が大きく反応したのに気付いて我に返った。周りは大きくどよめき、聞こえていなかった声が耳に届く。その声にリョーマから視線を外すと、不二は蹲る手塚を見た。
 誰が見てももう手塚は限界だろうと感じていた。不二も手塚に無茶をさせまいと、止めた方が良いと告げた。けれど手塚の意志は固く、他の者もその情熱に試合を続けさせたいと思い始めた。
 そんな手塚に一言言うと、リョーマはベンチから離れ、訳を察した桃城と共にその場から離れていった。
 不二は自分が手塚のためと思って言った言葉を反芻して唇を噛み締める。手塚の想いを汲み取れなかった。リョーマの前で無様に負ける姿を見せたくなかった。いや、怪我のせいだと言わせて棄権させたかったのか。
 リョーマは戦い続けさせることを選んだのに。
「大石の激励も、手塚の気持ちもすっごく解るけど、不二の言ったこともみんな解ってるよ。おチビちゃんもね」
 ぽつりと言われ、不二はいつしか閉じていた目を開いた。隣でそう言った菊丸は、試合から目を離さず、腕を頭の後ろで組み直す。
「英二」
「だから、ちゃんと見てようよ。俺たちの部長をさ」
 ああ、と頷いて不二はしっかり目を開き、勝負の行方を見た。
 大きな歓声が会場内に広がり、試合終了を告げる審判の声と共に、跡部は手塚の腕を取ると高々と上げた。
 まだ痛みは引いていないだろうにその表情は穏やかだった。空を見上げ大きく息を吐いた手塚はベンチに戻ってくる。それと入れ替わりに、リョーマがコートに入っていった。
 小さな身体からオーラとも言えるような光が溢れている。氷帝側は一年生が出てきたと甘く見ているようだが、直ぐに痛い目を見るだろう。
 不二の予想を遙かに上回り、リョーマは激しい炎のような勢いで相手に打ちかかっていった。それだけ、手塚の試合はリョーマの闘志に火を付けたのか。まだあの瞳には対戦相手の姿ではなく、手塚の姿が映っているのだろう。
 日吉に挑発され、それを倍にも三倍にもして返すリョーマの不敵不遜な笑みが見え、不二はぞくりと背筋に痺れが走った。
 この剛さが堪らない。けれど、その剛き心をもたらしたのは自分ではない。
 圧倒的な勢いで日吉を打ち負かしたリョーマが、戦い足りないというような燃える目で周囲を見回した。呆然としていた青学の部員達も、漸く勝ったのだという実感を持ち、大騒ぎする。菊丸や桃城達にもみくちゃにされながら戻ってきたリョーマと目が合うと、不二は淡く微笑んだ。
 踵を返し、不二はリョーマ達から離れ、裕太達の側へ向かった。今、まだ熱く燃えているリョーマの瞳を見たくない。
 否、見たい……欲しい…
 相反する心が胸の内で葛藤し、渦巻いている。
「兄貴、もうみんないっちまったようだぜ。行かなくていいのか」
「ああ……うん」
 裕太に訊かれ、不二は生返事をすると去っていくリョーマ達を見た。今側に行けば何をするか分からない。リョーマの試合で煽られた熱と、自分の心の底で蟠る昏い翳りに囚われ、足下が覚束なかった。
「あいつ、ずっと兄貴のこと見てんだな」
 何気なく呟いた裕太の言葉に、不二は視線を戻した。裕太は既に見えなくなってしまったリョーマ達の方を見ながら小さく笑みを浮かべている。
「ベンチコーチ、だったからね」
「試合の前も後も、ちらちら見てたぜ。何か言いたげな不満そうな顔してさ」
「あんの生意気な一年ボーズの目つきが悪いから、そんな顔に見えるんじゃないかね」
 柳沢が指で両目を吊り上げ言うと、裕太は呆れたように笑う。不二は目を見開き、裕太達に挨拶することもなく走り出した。普段見ない不二の反応に、裕太はびっくりしてその後ろ姿を見送った。
 バス停で今まさに乗ろうとしているリョーマ達を見つけ、不二は走り寄った。腕を掴んで乗るのを引き留めると、リョーマは驚愕に目を瞠り不二を見た。
「良かった、まだ帰ってなかったんだね」
 腕を引くと、強い抵抗に遭う。構わず振り払おうとする手を更に引っ張ると、不二はタクシー乗り場に向けて歩き始めた。
「不二」
 桃城や菊丸の後に、低く諫めるような口調で手塚が名前を呼んだ。不二は振り返ると足を止め、目を薄く開いたまま笑顔で応えた。
「大丈夫だよ、手塚」
 手塚が諦めたように小さく吐息を付くのを確認すると、不二は再び歩き出した。途中抵抗はあったが、タクシーに乗り込むと観念したのか大人しくなる。だが、俯いているリョーマの表情は窺うことが出来なかった。
 隣に座っているリョーマの体温が伝わってくる。不二はどれくらいリョーマに触れていないだろうと思い返した。実際はさほど離れていた訳ではないのだが、会話もせず、目も合わさないで居た毎日が思いの外堪えていたらしく、砂漠に放り出された旅人のように飢えていた。
 ホテルに着くと有無を言わさず手を取り、中へ入る。フロントでチェックインしている時に逃げられるかと思ったが、リョーマはふて腐れたように下を向いているだけで、不二の側からは離れなかった。
 部屋に入ると、リョーマを抱き締める。強張るリョーマの身体に僅かに違和感を覚えながら身を離すと、不二は改めて口付けようと顔を寄せた。
「リョーマくん?」
 顔を背け否定の意志を見せるリョーマに、不二の中の何かが壊れた。
 激しい感情に身を任せ、噛み付くようにリョーマに口付けると、口腔を貪っていく。眉根を寄せ、苦しげに咳き込んで不二を引き剥がそうとする手を壁に押しつけると、更に口中を犯していった。
「はなっ…せ!」
 不二の唇から逃れ、リョーマは低い声で言った。睨み付ける瞳の強さに、不二は益々体内の熱を煽られ耳元や首筋に噛み付くように口付けた。
「駄目だよ、離さない」
 思わず口から笑い声が漏れる。ぎょっとして横で俯いている顔を見るリョーマの腕から手を離し、不二は肩を掴むと視線を合わせた。
 まだリョーマの目には自分を否定するように、非難するような光が見える。猛々しい熱と相反する冷たい恐れが不二の心と身体を混乱させていった。
「そんなに……」
 リョーマの視線から逃れるように不二は再び俯き、肩に置いた手をシャツの襟に掛けると一気に前を広げた。
 息を飲む音と共に、ボタンが弾け飛んで床に落ちる微かな音が聞こえる。不二は目の前に現れたリョーマの身体を獲物を吟味するような気分で眺め、そっと手で触れた。
 小さく震える胸の心臓のある位置に触れると、速い鼓動が手に伝わってきた。
 この心を支配しているのは何なのだろう。自分より強いもの、上を行くもの、前を歩くもの。決して後ろを振り返らないリョーマに相応しい誰か。
「ここに居るのは、……手塚、なのか」
 思わず口をついて出てしまった言葉を聞いたのか、リョーマの身体がびくりと震えた。その言葉が当たっていたのか、呆然と立ち尽くして不二を見詰めるリョーマに再び口付ける。
 壁に押しつけたまま不二はリョーマの身体に手を這わせ、ベルトを外し、下半身から衣服を剥ぎ落とした。不二の前にシャツ一枚で身体を晒し、リョーマは何故か戸惑うように揺らめく瞳で睨み据えている。
 一瞬理性が暴走を止めようと働きかけるが、不二はそれを遠くに感じながら手を止めることが出来なかった。
「……っんぱい…あっ……離し…」
  不二は壁に沿って崩れ折れてしまったリョーマを見詰めた。いつもの不敵な瞳は汗で濡れた髪に隠されて見えない。全身で息をするように喘いでいるリョーマに、不二は腕をかけ抱き締めた。
「この熱は僕のもの」
 それを聞き留めたのか、俯いていた顔を上げリョーマはゆっくり腕を伸ばした。その手は不二の顔に当てられる。もう押し戻す力も無いのか、ただ触れるだけでいたリョーマの手を掴み、不二は更に強く抱き締めた。
 否定の言葉を聞きたくなくて、リョーマの戦慄く唇を塞ぐと、不二はその身体を抱き上げベッドの上に運んだ。
「君の中にある別の存在を、消してやる」
 そんな事を言っても無駄なことだと心の何処かが否定する。例え身体を手に入れ、心を手に入れたと思った所で自己満足にしかならない。リョーマを繋ぎ止めるだけの力がなければそれまでだ。
「ちょ……っ…待…って」
 のし掛かろうとする不二を止め、何か言おうとしたリョーマに構わず、身体を押し進めた。


  荒く息を付くと、不二はリョーマの顔が見られずに横に向けて突っ伏した。罪悪感や嫉妬、焦燥感の入り混ざった暗く重い痼りが心と全身に纏い付く。
 髪に触れる手の感触に、不二はぴくりと肩を竦ませた。
「何か…勘違いしてた、かも」
 思ったよりリョーマの声に怒りは含まれていない。けれど、その言葉は不二の胸を貫き通した。リョーマは不二を好きだと言ってくれた。それは間違いだったと、勘違いだと言うのだろうか。もう取り返しは付かないのか。
 不二はリョーマの顔を見ず、いつまでもみっともない真似は出来ないと身体の上から退こうとした。しかし、髪を引っ張られそれ以上動くことが出来ず、狼狽する。微かに振動しているのはリョーマの手が怒りに震えているせいかと思っていた不二は、いきなり笑い出した声を聞いてリョーマを見た。
 目を瞠り硬直している不二の首に両腕を回し、リョーマは引き寄せた。間近に見えるリョーマの瞳には怒りではなく安堵の光が浮かんでいる。
「俺の熱が上がるのは、先輩だから。アンタの方こそ、俺より別の奴を見てるようで悔しかった」
 リョーマの言葉が信じられなくて、不二は目を見開き、本当なのかと問いかけようとした。が声に出せず口を半開きにしたまま固まってしまう。
 そんな不二の様子にリョーマは微かに眉を曇らせ、目を揺るがせた。
「強いヤツに惹かれるのは当然だし。離れてもしょーがないかって」
「何時離れたいなんて言った」
 リョーマなら、どんな時でもそんな弱気を見せることなど無いと思っていた。不二が思うよりずっと、この少年は情が深いのだと今解った。微かに震える睫に、愛しさが込み上げてくる。
「かなり俺のこと、好きだよね」
 今までの儚げな様など無かったように、強い瞳で笑って挑発するリョーマに、不二は会心の笑みを浮かべ、口付けた。
「愛してる……リョーマ」
 まだリョーマの中に残した物が力を取り戻し始める。さっきの行為を払拭するよう不二は、丁寧にリョーマの全身を愛撫し抱いていった。


 翌日、朝練に二人して現れたのを見た菊丸は、いやらしげな笑みを浮かべて不二の前に立った。リョーマは早々に頭を下げて一年生達の方へ向かってしまう。からかわれることが分かってて餌食になる奴は居ないよね、と不二は小さく笑うとリョーマの代わりに菊丸の好奇心の矢面に立つ事にした。
「おっはよーん。今日は元気そうだね。おチビはちょっと辛そうだけど」
「おはよう。心配しなくても、無理はしてないよ」
 どうだか、と見る菊丸にいつもの掴み所のない笑顔で不二は首を傾けた。菊丸はそれ以上追求しても無駄だと知ると、ま、いいかと両手を頭の後ろで組んだ。そんな菊丸に、不二は深い笑みを浮かべる。お節介な事も多いが、菊丸の友情は普通に嬉しい。
「ありがとう、いろいろと」
「そ、いろいろと、ね。あ、そーだ手塚が九州に行くって、知ってる?」
 礼を言う不二に片目を瞑って見せた菊丸は、話のついでというように手塚の話題を出した。一瞬何故手塚が、と思った不二だったが、多分腕の治療のためだろうと察しが付く。
「……決勝には間に合わないだろうね」
「だから、全国で迎えてやろうって。大石が張り切ってる」
 彼らしい、と不二は微笑んだ。あらゆる意味で手塚は青学テニス部を引っ張っている。それを全て代わって行うのは無理だろうけれど、一人一人自覚していれば全国へ行ける。
 部活が終わった後、手塚の九州行きが正式に顧問から発表され、部員達に衝撃が走った。ちらりと不二がリョーマの方を窺うと、僅かに目を見開き動揺する様が見て取れる。
 小さい痛みが胸に走ったが、以前のようにそれが黒々とした闇をもたらすようなことにはならず、不二は挑発するようにリョーマを見詰めた。
 不二の視線に気付いたリョーマは、一瞬顔を蹙めると、ついで力強く笑ってみせる。その笑みに痛みは直ぐに溶け去り、熱い想いが胸に広がった。
「何笑ってんの、気味悪いよ」
 不思議そうに言う菊丸を残し、不二は先を歩く手塚の側に近付いた。何事かと振り返る手塚に、不二はにっこりと笑いかけた。
「後の事は心配しなくていいよ」
 笑ってはいるものの、目を開き見詰める不二に、手塚は大きく溜息を付いた。
「信用していいんだな」
「勿論、だけど何のことかな?」
 軽く頷いた後、そう訊き返す不二に手塚は更に深く吐息を付く。眼鏡を直し、手塚は微かに口端を上げると踵を返した。
「……油断するな」
 不二は腕を軽く組み、手塚の後ろ姿を眺めた。今の言葉の意味は……
「にゃんだあ? 珍しいもん見たなあ。で、油断せずに行こう…って、こと?」
 追いついて不思議がる菊丸に、不二は頷くと不敵な笑みを浮かべ手塚を見送った。

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