Call it Love -1-
 
 午前中の授業が終わり、教室の中は安堵とざわめきで満ちた。それぞれ友人、仲間達と机を合わせみな食事の体勢に入る。そんな中で菊丸は大きく伸びをすると、前の席を見た。
「不二、弁当持ってきた?」
「いや、今日は無いよ」
 いつも不二の母親が作る美味しい弁当を目当てにしていた菊丸は、それを聞くとがっかりしたように肩を竦めた。
「にゃーんだ。んじゃあ学食にでも行くか」
「自分のお弁当はどうしたんだい」
「もうとっくに食べちゃったよん」
 菊丸は笑って胸を張る。威張ることか、と苦笑しながら不二は文庫本を手にすると、菊丸を促し教室を後にした。学食に入ると直ぐに良く知っている姿が目に飛び込んできた。探すつもりがなくとも無意識のうちにその姿を追っている自分に、不二は僅かに呆れて注文カウンターに並んだ。
「あれ、おチビのとこへ行かないの」
「うん、まあ」
 曖昧に頷いて不二はリョーマの視界に入らない場所へ腰を下ろした。不二が人目のある場所でなれなれしい態度でもとろうものなら、リョーマはさっさとこの場から出ていってしまうだろう。それよりは少しでも長く見ていたい。
 食べているのは好きな和定食か。いつもの煩い外野に眉を顰めながらも綺麗な箸使いで食べているんだろうな、などと想像しながらクラブハウスサンドを口に運んでいた不二は、前に座っている菊丸の微妙な視線に気付いて首を傾げた。
「何?」
「いや、幸せそうだなーと思って」
「うん、とても幸せだよ」
 不二が笑顔を浮かべて肯定すると、菊丸は更に微苦笑してうどんを啜り始めた。暫くすると、一年生の誰かが不二達に気付いたのか、リョーマがちらりと後ろを振り返る。不二と視線が合うと僅かに困ったような表情を見せ、直ぐに顔を戻した。
「ほんと、らぶらぶだね」
 菊丸はその様に軽く吐息を付いて言った。先に来ていた一年生達の方が食事を終え、不二達の側を通る。堀尾やカツオ、カチローは頭を下げ挨拶をするとそそくさと通り過ぎたが、リョーマは不二の方を見ることもせずポケットに手を突っ込んだまま、通り過ぎようとした。
「こらっ、おチビ。先輩を無視とは許さにゃい」
「わっ」
 にやりと笑った菊丸がリョーマの腕を掴み、頭を抱え込んで拳で小突く。暴れるリョーマを満足するまで構うと、菊丸は漸く腕を離した。
「ったくもう、子供なんだから」
 ぐしゃぐしゃになった髪を片手で面倒くさそうに整え、リョーマは溜息を付くと歩き始めた。見てないふりで、しっかり視線を向けてきたリョーマに、不二も微笑む。嬉しそうにはしゃぐ菊丸を残し、食べ終わった食器を片づけると不二は校庭に向かった。
 涼しくて静かな場所を探していた不二は、校庭の隅にある木立の中に入っていった。ふと立ち止まり、木の根元に寝転がっている人影を見下ろした。
 普段強い輝きを見せている瞳は瞼に閉ざされ、穏やかな表情で眠るリョーマの姿に不二は笑むと、静かに隣に腰を下ろした。
 そっと指を伸ばし、艶やかな髪に触れる。さっき菊丸が拳で髪を乱していた時から触れたかった。良く知ってはいるが、さらさらと想像していたとおりの感触に笑みが深くなる。
 微かにリョーマが身じろぎをし、吐息を漏らすと、不二は漸く手を離し持ってきた文庫本を読み始めた。
 人の気配に気付いたのか、リョーマはぼんやりと目を開き、胡乱げに不二を見上げた。笑みを返す不二に眉を顰め、リョーマは起きあがった。
「おはよう」
「反則っす」
 何が、と不二が問うように見ると、リョーマは僅かに顔を赤くして視線を逸らした。
「黙って見てることないでしょ」
「ごめんね」
 照れてるような表情のリョーマが愛しくて、不二は謝ると同時に手を伸ばし、その頭を撫でた。僅かに目を眇め、リョーマはその手を振り払うでもなくされるがままで居る。
 それに気を大きくして、不二はリョーマの頭を自分の方に引き寄せ、膝上に載せた。びっくりして目を大きく開くリョーマに覆い被さるように顔を近付ける。
「何してんの」
「膝枕。この方が気持ちいいと思うよ」
 呆然としていたリョーマは、慌てて起きあがろうとした。それを片手で押さえつけ、不二は再び本を読み始めた。
「離せってば」
「本が読めないよ。あんまり騒ぐと、ここでキスしちゃうけど、いい」
 リョーマは不二が本気だということを悟ると、渋々大人しくなった。
 目は文字を追っているものの、不二の意識は膝の上で複雑な表情を浮かべているリョーマにある。片手で本を持ち、不二がもう片方の押さえつけていた手で軽く髪を梳くように撫で始めると、リョーマは諦めたように目を閉じた。
 木立が擦れる音がして人の気配を感じ、不二はちらりと後方を振り返った。焦ったように身を退こうとする菊丸と、それとは逆に眼鏡を押し上げながら興味深そうに身を乗り出す乾の姿が目にとまる。
 不二は薄く目を開くと、二人を見据えた。
「何か用?」
「いや、特に用と言うわけではないが、面白い見物があると聞いたもので」
 乾の言葉に、不二は菊丸を見た。不二の視線に、逃げようとしていた菊丸の身体は硬直し、冷や汗を浮かべて立ち竦んでいる。
「面白い見物、ね」
 にっこり笑う不二に、更に菊丸の顔色が蒼くなる。そんな二人のやりとりを余所に、乾はノートを捲り何かをメモし始めた。
「ところで、ランキング戦の表が出来たようだ。ちなみに君たちは別のブロックになっている」
「それは残念」
 さほど残念そうでもなく不二が言うと、乾は意外だというように見ていたが、何かを察して頷いた。
「そろそろ行ってくれない? 越前が起きてしまうよ」
 ぴくりとリョーマの眉が動く。とっくに起きて、というより最初から寝てなかったんではないかと思われるが、乾は敢えて反論せずに去っていった。菊丸も凍り付いた身体をなんとか動かして乾の後からよろよろと歩いていく。
「何考えてんだよ、あんたは」
「何が」
 二人の姿が見えなくなった頃、リョーマは不二の腕をはね除け起きあがった。膝上の重みが無くなった事を残念に思いつつ、不二はリョーマに訊ねる。
「人が居るのに」
「ああ、恥ずかしかったのか。僕は全然平気だけど。むしろ見せつけたいくらい」
 菊丸はもちろんのこと、多分乾も二人の関係に気付いているだろう。今更隠すこともないし、返って牽制になると不二は思っていた。その態度にリョーマは呆れたのかさじを投げたのか、溜息を付く。
「ほんと、残念。ランキング戦当たらなくて。今度は勝つと思ったのに」
 悔しそうに言うリョーマに、不二は笑みを浮かべた。
「いつも試合してるじゃない」
 会員制の施設を借りられるようになってから、週末は大抵二人でテニスの試合をしていた。普通のデートもしてみたかったのだが、リョーマはそれが退屈らしく、結局テニスコートに向かうことになる。
 不二は二人きりで一緒に居られるなら何処でも構わなかったが、テニスばかりに執着するリョーマに僅かに胸に波立つ物があった。
 不満げに自分を見るリョーマに、不二は困ったように首を傾げた。
「してるけど……勝ってない。今度は絶対勝つ」
「負けるつもりはないけど、その日を楽しみにしてるよ。来週の土曜日は? 予約しておくから」
「いいっスよ」
 強く頷くリョーマに不二は再び胸がざわめくのを覚えた。確かめるようにリョーマに訊ねる。
「ねえ、越前。楽しみなのはテニスだけ?」
「他に何かある」
 当然のように言うリョーマに、不二は吐息を付いた。解ってはいたけれど、あまりにあっさり肯定されて力が抜ける。嘘でもいいから一緒に居たいと言って欲しいが、そんなことを素直に言うリョーマではないなと、不二は重い気持ちで彼を見た。
「いや。試合、がんばろうね」
 無理に笑みを作り、不二は手を振ると踵を返し教室に戻った。席に向かうと引きつった表情の菊丸が背筋を伸ばして椅子に座っている。
 自分に怒られるとでも思っているのだろうかと、不二は心の奥で笑い、無視して自分の席に着いた。拍子抜けしたのか、菊丸は息を吐き不二の背中を見詰める。沈黙に耐えきれなくなったのか、そっと菊丸は不二の背中を突いた。
「あの、さ、不二」
 ん?と不二が振り返ると、菊丸は拝むように手を合わせていた。
「邪魔してゴメン!」
「面白かった?」
「……だから、ごめんって。見物するつもりじゃなかったんだよ、マジに。ちらっと見かけたから声掛けようと思っただけで。良い雰囲気だったから掛けられなくてさ、そのうち乾にみっかっちゃった」
 淡々とした不二の問いに、菊丸は必死に言い募った。更に言いかけた菊丸だったが、教師が入ってきたので一旦口を閉じ、恐る恐る不二を見る。不二は菊丸の言い訳を半分聞き流し、さっきのリョーマとのやりとりを思い返していた。
「テニスが全て……か」
「え、何」
「何でもない」
 ぽつりと呟いた不二に、菊丸が焦って聞き返す。だが、不二は首を横に振るとその話題を断ち切るように前を向いた。
 ランキング戦は順当に勝ち、不二は戦績が書かれているボードに向かった。後当たっていないのは菊丸とだけで、他は全てワンゲームも落とさずに来ている。菊丸も同様で見事に6と0が並んでいた。
「あっれえ、桃の奴、乾に負けたんか」
 後ろから聞こえた声に、不二は再びボードを見た。桃城と乾と手塚が居る組は今回一番の激戦区となっている。誰か一人はレギュラー落ちするのだか、桃城は手塚に負け、乾にも負けていた。
「しっかりリサーチしてたみたいだからね」
 練習している時も、試合の時も、乾は相手方はもちろんのこと味方側もしっかりデータを取っていたようだ。怖いねえ、と肩を竦める菊丸に、不二は笑みを浮かべ頷いた。とはいえ、不二はまともにデータを取られるようなテニスはしていない。
 本気になれるような相手は今まであまり居なかった。格下相手もだが、明らかに強い相手でさえ実力を出し切って戦うことはしない。それよりはテニスを楽しみたいと今までやってきた。
「次は部長と乾先輩っスね」
 いつの間にかリョーマが不二の隣に来て、ボードを見ていた。リョーマを見下ろし、不二は初めて試合をした時の事を思い返した。
 期待感と昂揚、突き刺さるように真っ直ぐ見据える瞳、それら全てに身体が熱くなりもっと欲しいと、この時間を永く続けたいと願った。途中中断されてその想いは燻り、テニスだけでなくリョーマ自身が欲しいのだと悟ったのは何時だったか。
「何?」
 じっと見詰める不二に、訝しげにリョーマは訊いた。微笑み、首を振ると不二は手塚と乾が試合をするコートに向かって歩き始めた。
 乾は驚くほど強くなっていた。手塚が本気で試合をすることは滅多にない。不二とする時でも、力の半分くらいしか出していないだろう。もっとも不二の方も全力で当たる訳ではないからおあいこだろうが。
 周りが息を飲む気配を余所に、不二は一人静かに手塚を見詰めていた。手塚のテニスは美しく剛い。初めてそのテニスを見た時、嫉妬心より憧憬を抱いた。今でも勝てないのは最初のそれを超えられないからかもしれない。
 フェンスを掴む微かな音に、不二は視線を横に滑らせる。一心に手塚を見詰めるリョーマの姿に、錐で胸を突かれるような痛みを覚え、不二は視線を戻した。
 リョーマが手塚をどう見ているのか。自分と同じ憧れか、それとも別の何かか。
 最初は押していた乾だったが、やはり手塚には勝てなかった。しかし、満足そうに乾はコートから出るとさっそくノートにメモを取り始める。観戦していた部員達も口々に驚きの言葉を発しながら、散っていった。
「不二先輩は部長と試合したことあるんですか」
「あるよ」
 ぽつりと訊ねるリョーマの言葉には、静かに燃えるような熱が込められている。君もあるだろ、と言おうとした言葉を飲み込んで、不二は踵を返した。
 次の日コートに出るといつもの元気な掛け声が聞こえない。周りを見回すと、苛々した様子の大石が目に入った。どうやらレギュラー落ちした桃城が部活に出てきていないようで、それを心配しているらしい。
 一年生の後半からレギュラーになって、殆ど落ちたことがなかった桃城には手痛い敗北だったのかもしれない。しかし、実力が拮抗していれば落ちることも何度かあるし、これくらいで凹むような男だとは思わないからそのうち出てくるだろうと、不二は練習に入った。
 次の日も桃城は来なかった。更に大石の機嫌が悪化し、ついには菊丸と喧嘩までしてしまう。やれやれと苦笑しながら見ていた不二は、目の端にリョーマの憮然とした顔を捉えて笑みを消した。
 リョーマと桃城は仲が良い。家が近いせいか通学も一緒になることが多く、リョーマも桃城の明るい性格に気を許している風なのが窺えた。
 そんな普通の友人関係にまで胸を騒がせることに不二は苛立ち、普段なら大石と仲違いしている菊丸を宥めに廻るのだが、それもせずに傍観していた。
「今日も来ないつもりかねえ」
 昼を告げる鐘が鳴ると、菊丸は眉間に皺を寄せて怒ったように言った。
「どうだろう。珍しく随分立ち直るのに時間掛かってるね。自信喪失したのかな」
 昼食用のサンドイッチを出しながら、不二は菊丸にお昼食べないの、と促した。顔を蹙め、菊丸は鞄の中から弁当を取り出すと、猛然と食べ始めた。
「自信そーしつなんて、十年早いっての。ちょっと天狗になってただけじゃん。大体手塚はともかく、乾のデータ通りにしか動けなかったんだから、しょーがないだろ」
 辛辣な言葉に、不二は苦笑して頷いた。
「英二の言う事ももっともだけど、それって八つ当たり?」
 菊丸は喉を詰まらせ、慌ててペットボトルに口を付けた。図星だったか、と不二は溜息を付き続けて言った。
「早く仲直りしなよ。ゴールデンペアが解散なんて良いこと無いし」
「べ、別にいいだろ」
 そっぽを向いてしまった菊丸に、不二は肩を竦め席から立った。放って置いても二人はまた元通りになるだろう。いつもの痴話喧嘩だ。
 それより、桃城が出てこないことを全く気にしていないようで、実は気に掛けているリョーマの意識を自分に戻したいと不二は鬱屈した想いで考えていた。
 誰よりも自分を見て欲しい。自分を気に掛けて欲しい。ほんとは、菊丸に八つ当たりしているのは自分の方なのかもしれないと、不二は自嘲しながら屋上に向かった。
 たまに、天気のいい昼休みにはリョーマが昼寝をしにここへ来る。校庭の木陰や体育館の裏、屋上などで寝ているリョーマを見つけることが不二の楽しみになっていた。
 案の定、リョーマの寝ころぶ姿を見出して、不二は口元が綻ぶのを感じた。見つからないように静かに近づくと、リョーマが何かを見ていることに気付く。
 それがなんであるか確認した不二は、動きを止めた。屋上から見える場所に桃城の姿があった。ラケットを持たずにサーブの真似をしている桃城を楽しげに見ているということが、リョーマの背中からでもしっかり判る。
 途端に胸に沸き起こる昏い感情に、不二は一瞬眩暈を覚えた。
「何、見てるの」
 なるべく平静を装ってしゃがみ込み、話しかけるとリョーマは驚いて不二を見上げた。
「不二先輩」
「気になる?」
 目を瞬かせ、リョーマは再び校庭を見下ろした。桃城は何度か腕を振り、自分の行動に首を振りつつ視界から消えていった。
「まあ、ね」
 普段ならいつもの口癖の一つも出そうなのに、リョーマは躊躇いながらも肯定した。そのことにちりちりと焦げるような感覚を抱きながら、不二は視線を戻す。
「手塚に負けたからって嘆くことはないさ。みんな負けてる」
「あんたも?」
 びっくりしたように訊くリョーマに、不二は頷いた。青学のテニス部員で手塚に勝った者は、入学以来一人も居ないのだ。
「負けても、悔しいより羨望してたね。……でも、今は負けたくないと思うよ」
 テニスでも、別のことでも、手塚には負けたくないと不二は改めて思っていた。勝手にライバル視されても手塚の方はどう思うか判らないが。
 その答えを聞くと急にリョーマは起きあがり、俯いたまま一言挨拶すると不二に背を向けて歩き出した。リョーマもまた手塚を負けたくない相手と認めている。それがライバルというより、目標や指針となっているのが不二にはやるせなく思えた。
「まだまだ、だね」
 大きく吐息を付くと呟き、不二も屋上を後にした。
 桃城はどうやら立ち直ったようだった。前向きな性格らしく乾がやっていたデータ収集を行っているらしい。だが乾ほど正確なデータが集められるはずもなく、誰でも知っているような事を嬉しそうに話していた。
「不二先輩、弟さんの相手だった奴のことなんスけど」
 練習の合間の休憩中に桃城はノートを片手に不二に話しかけてきた。裕太の居る聖ルドルフがコンソレーションで氷帝に完敗した事は聞いていた。電話をしても悔しいのか居留守を使って出ようとしない裕太に、不二は無理に聞き出すことはしなかったのだが。
「芥川なんとかって言う奴で、なんと十五分で試合終了したらしいっすよ」
「へえ、そうなんだ」
「あの馬鹿でかい奴や跡部さんやぴょんぴょん身が軽い奴以外にも油断できない相手がいるなんて、流石氷帝ですね」
 桃城の表現力は今いちだなと思いながら、不二は今の氷帝レギュラー陣の名前を聞いてみた。それから察するに、裕太を倒した芥川という者はシングルスメインのようで、不二は軽く頷きながらちらりと横目でドリンクを飲んでいるリョーマを見た。
「そのこと、越前には言った?」
「え、ええ、ちょっとだけ。でも、あいつあんまり気にしてないようで、俺の話聞かないんですよ。相手が誰でもかかって来い、みたいな感じで」
 困ったように、だが半分は嬉しそうに笑いながら言う桃城に、不二は目を眇めた。不二の剣呑な表情に気付かず、桃城はリョーマの方を見ながら続けて言う。
「おまけに、跡部さん相手に挑発までしやがるんだから、ほんとたいしたもんで……」
 顔を戻した桃城は、不二の纏う気配に漸く気付き、言葉尻を濁した。
「ありがとう、参考になったよ」
「あ、あの」
 今までの気配を払拭し、不二は明るく笑って桃城に礼を言うと練習に戻った。訳が解らないという表情で桃城は立ち尽くしている。
 不二が戻った隣のコートでは、リョーマが菊丸相手に切れの良い動きを見せていた。都大会で亜久津と凄まじい試合をしてから更に力が伸びている。何時も借りたコートで練習試合をしている不二にもそれはしっかり伝わってきた。
「本当に越前は短期間のうちに伸びたな。今の目標は関東大会だが、それよりも手塚に追いつき追い越す事の方が重大なようだ」
「何でそれを僕に言う訳」
 ボールを弾ませながら不二は乾に尋ねた。口元には笑みを浮かべているが、気配は殺気立っている不二に、乾は眼鏡を直して言った。
「心の内を代弁しただけだが」
「それはどうもっ」
 焦げそうな勢いで不二の打ったサーブが相手コートに突き刺さる。レシーバーに入っていた海堂は目を瞠って動けずにいた。
「まあ、実際、俺もそうなんだが。試合してみて改めて手塚の凄さは解るからな。越前はランキング戦で当たらなくて悔しかっただろう」
「……で、何が言いたい」
 次のサーブでも海堂は一歩も動けず、呆然と立ち尽くす。不二はボールをポケットから出し、ラケットで弾ませた。
「氷帝戦で良い試合を期待している」
 つまり自分を本気にさせてデータを取ろうというのか。くるりと不二は乾に対峙し、深く微笑んだ。
「期待に添うよう、頑張るよ」
 僅かに汗を滲ませ、乾は頷くとコートから離れる。その後、不二は乾に煽られた事に反応してしまったのを自嘲しながらも怒りを抑えきれず、海堂に次々とボールを打ち込んでいった。
 翌日、不二は休み時間に手塚のクラスに向かった。手近に居た生徒に声を掛け手塚を呼んで貰うと、辞書を貸して欲しいと告げる。訝しげに不二を見た手塚だったが、直ぐに教室へ戻ると辞書を持ち出して手渡した。
「ね、対氷帝戦のオーダー決まった?」
「いや、まだだ。先生と検討はしているが」
 本当の話はそれか、と納得したように手塚は首を横に振る。暫く沈黙した後、不二は手塚から視線を逸らして呟いた。
「裕太を倒した相手、彼と戦いたいな」
「……弟思いなんだな、不二は」
 聖ルドルフと戦った時も、裕太の身体のことも考えず、ショットを打たせた観月を叩きのめした不二のことを思い出したのだろう、手塚は微かに吐息を付くと踵を返した。
「跡部とやっても大丈夫なの。肘完治してないと、負けるよ」
 大石から肘は治っていると聞いていたが、確認するように不二は手塚の後ろ姿に向けて言った。手塚は一瞬足を止め、片手を上げるとそのまま教室に入っていく。
 例え肘が壊れようと、手塚は今度は全力で当たるだろう……多分、自分のためもあるが、誰かのために。
 不二は薄く目を開くと予鈴がなるまで手塚の消えた扉を見詰めていた。
「あれ、どこ行ってたん」
「ああ、ちょっと辞書を借りに。一組まで」
 菊丸は不二の答えに僅かに目を瞠り、身を乗り出した。
「まさか、手塚のとこまで行ったの? 何で? 大石とかタカさんとか持ってなかったの」
 言っている途中で思いついたのか菊丸は、あ、と口を開けて不二を見詰めた。
「うん、持ってなかったから、わざわざ手塚の組まで行ったんだよ。後は、そうだね、ちょっと次のオーダーの事で聞きたいこともあったから」
 勘のいい菊丸に隠しても無駄だと思った不二は、続けて答えた。菊丸は、やっぱりという顔で腕を組む。
「で、何だって」
「多分、シングルス2は僕にしてくれると思うよ。一応頼んでおいたから」
 多分というか、もうそれは決定だろうと菊丸は苦笑いを浮かべ頷いた。不二の裕太に対する感情がどうであれ、身内を傷付けられた場合の反撃は容赦が無い。
「そっかー。あれ、てことは、もしかしておチビのシングルスって無理」
 首を捻りつつ、不二以外のオーダーを考えていた菊丸は、はっと気付いたように呟いた。不二もそれは考えていたことだ。氷帝のレギュラー構成を考える限り、シングルス2を不二がやることになれば、後はダブルスくらいしか残らない。
 リョーマにダブルスは無理というのは青学テニス部全員の見解だから、今回特別なアクシデントでも無い限り出られないだろう。
 おチビの奴、怒るぞーと口の中で呟き、菊丸は教師が入ってきたのを見て姿勢を正した。

             テニプリトップ 次へ