Rain -2-



 次の日曜日も雨が降りそうなどんよりとした曇り空の下、花道は約束の時間に余裕を持って公園に来ていた。午前中は練習があり、午後も自主練習はみんなしているだろう、なのに自分はここへ来てしまったことにちょっとだけ花道は後ろめたく思う。
 約束したから、と言い訳のように呟き待っていると急にぽんと背中を叩かれた。ぎくりと振り返ると、赤い傘を小脇に抱えた仙道がにっこりと笑顔を浮かべて立っている。
 「来ないかと思った」
 「約束したからな」
 天才はたとえ凡人との約束であっても守るものなのだと言い、花道は嬉しそうな仙道の顔を睨み付ける。うんうんと頷いて仙道は歩き始めた。
 仙道のマンションの近く、閑静な住宅街の一角を通り一軒の広い家にたどり着く。大きな門のチャイムを鳴らすと軽やかな少女の声が応え、中に入るようにと伝えた。
 玄関の脇を通って家に見合った広さの庭に立ち入ると、長い髪の美少女と茶色い毛の子犬が待ちかまえている。
 「こんにちわ、仙道君。その子が前に言ってた彼?」
 「うん、そう。桜木、彼女が子犬を引き取ってくれたんだ」
 「は、初めまして…俺はしょ、湘北高校一年七組桜木花道です」
 「仙道君と一緒のクラスの織田陽子です。この子…勝手にチェリーつて名前付けちゃったけど、良かったかな」
 にっこり笑って挨拶する眩しいくらいの美少女に、花道はすっかり上がってしまってしどろもどろになってしまう。陽子は子犬を抱き上げると、花道に近付いてはい、と手渡した。子犬は嬉しそうに花道の頬を舐め擦り寄ってくる。
 「やっぱり助けた人は忘れないのかしら」
 「ありがとうございます。俺んちアパートで飼えないんです」
 子犬を返しながら、深々と礼を告げる花道に、陽子は僅かに目を見張り手を横に振った。
 「気にしないで、私の方こそお礼を言わなくちゃ。ずっとこんな可愛い犬が欲しかったの。好きなんだけど今まで飼うチャンスがなくて。仙道君に頼まれた時は、一も二もなく引き受けちゃった」
 にこにこと笑って仙道を見上げる陽子に、花道は微かに胸が痛むのを感じて戸惑った。この子犬が自分で飼えなくて胸が痛むのか、彼女が仙道に親しげに笑い掛けるのが痛いのか、判らない。
 「あーっ、その傘! いつまで持ってるのよ、返してくれないの」
 「これ? 気に入ってるんだけどなあ、赤くて可愛いし、好きなんだよ」
 ずきりと更に痛みが激しくなる。微かに表情を歪ませる花道に、二人は気付かずに話を続けた。
 「女物さしてると変態と思われるわよ」
 「全然気にならないよ。好きだから」
 花道は急に仙道の笑顔を見たくなくなって、くるりと身を返す。
 「こいつをよろしく」
 花道は子犬を仙道に押しっけるようにして渡し、一瞬二人が驚いたような表情になったのが目に入ったけれど、それも振り払って走り出した。
 はあはあと息を荒がせる程に走り続け、いつしか海岸にまで達していた花道は、砂浜に転げるようにして足を運び漸く立ち止まると肩で息を整えた。
 「…っくしょ……何で…」
 やっと息が正常に戻ってくると、花道は腰を下ろしてぼんやりと海を見つめながら、何故駆け出したりしたんだろうと、むしゃくしゃする気持ちで考えていた。
 あれじゃまるで逃げ出したみたいじゃないかと思って、ぶんぶんと首を振り、絶対違うと拳を握りしめる。ただ、仙道の言葉に腹が立って、悔しくて……何が悔しいんだ?
 「どうしたんだ? いきなり走り出すからびっくりしたぞ」
 「せ、センドー…」
 親指の爪を噛みしめながら眉根を寄せていた花道は、ふと隣に佇む大きな影にちらりと顔を上げて見た。心配そうに見ている仙道の、まだ小脇に抱えられている赤い傘を見て、再びむしゃくしゃとした気分が湧き上がってくる。
 「別に、何でもねーよ。それよりあの人のとこに居なくていいのか」
 「桜木があの子犬の行く先心配してるだろうと思って連れていっただけだから、肝心の桜木が居なくなったら別に俺が居る必要も無い」
 よいしょ、と桜木の隣に腰を下ろし仙道はそう言って傘をくるくると手で弄び始めた。
 「その傘、返さなくていいのか」
 「うん。これは大事な物なんだ」
 仙道が嬉しそうに言うのを、花道は穏やかには聞いていられなかった。
 「た、体育館も使えるようになったし、直ぐに決勝リーグも始まるから、もう待ってんなよ!」
 「…うん、お前との試合楽しみにしてる」
 「おうっ、絶対てめーを倒してやる」
 すくっと立ち上がり、人差し指を突きつけて花道は宣言する。これで前と同じになった筈なのに、見上げてくる仙道の瞳がじりじりと視線を通して心を焦がすように感じるのは、自分と同じように敵だからという理由からだろうか。
 「好きだ…」
 「て、てめーは」
 ばんばんと砂を叩いて立ち上がった仙道は目を逸らさずに言い、赤く染まった花道の頬に手を触れる。
 「……てめーは…そうやって余裕たっぷりで…そんなんで楽しいか」
 「え…」
 仙道の手を掴み、花道はきつく睨み付けると、それを振り払って背を向け歩き出した。後に立ち尽くした仙道の表情が暗く翳るのを見ることなく。
 「余裕か…そんなもの……」
 ぽつりと呟き、仙道は雨も降っていないのに傘を差すともう一方の手をポケットに突っ込んでふらふらと歩いていった。

 決勝リーグは海南が優勝し、湘北も陵南を倒して二位でインターハイへ出場できることが決まった。インターハイ出場ということで優先的に体育館も使わせて貰え、これからはたとえ雨の日であろうとも、他の部に遠慮することもない。だが、そうなったところで、今年は空梅雨の予報が流れ、まったくといっていいほど雨は降らなかった。
 「どうした花道、空ばっか見て」
 「雨が降んねーなと思って」
 「もう水不足の心配か?でも、梅雨に入る前に結構降ってたから、大丈夫なんじゃねーの」
 教室の自分の机に頬杖を突いて外を見ていた花道に、洋平が問いかけ遊びに来ていた他の三人が、そうそう、と頷く。花道はその言葉を聞いているのかいないのか、空を見上げたままたまに溜息なぞ付いたりして暗い雰囲気だった。
 「雨降ってももう体育館貸し出ししなくていいんだろ?」
 「え、じゃあ他の部が悔しがるのを見たいのか、花道。随分意地悪な奴だなあ」
 「んなんじゃねーよっ!」
 高宮の言葉に牙を剥いて噛み付くと、再び空を見上げてしまう。洋平と三人は顔を見合わせ、揃って肩を疎めた。
 あの日以来、試合を除いて仙道とは会っていない。何となく、雨が降れば会えるんじゃないかと思ったりするのだが、現実にはたとえ雨が降ってももう合う理由はないのだから会うことは無いのだ。 こんな風にずっと会っていないと、あの告白はやっばり嘘か冗談なんじゃないかと思えてくる。自分が思うほど、好き、という言葉に仙道は意味を持たせていないのかもしれない。
 それなのに自分の方ではいつのまにか、しつくりと仙道の位置がなじんでしまっていた。条件反射のように雨が降ると仙道を思い出すなんて…会えないと物足りなくて、認めたくないけどつまらないなんて…何故なんだろう。
 「なあ、洋平」
 「ん?」
 「誰かに会えないとつまんねー、とか、誰かのこといっつも考えちまってる、とかって何でだ」
 「その誰かに凄く会いたい…か?」
 「…凄くじゃねーけど……考えちまう」
 「そりゃあ、その誰かのことが好きなんじゃねえの」
 あっさり洋平に言われて花道はぎくりと頬杖付いていた顔を上げて見た。
 「そ、そんな訳ねーっ! 俺が好きなのはハルコさんだ」
 「あれ、その誰かって晴子ちゃんじゃないのか」
 微かに笑みを浮かべて聞く洋平に墓穴を掘った花道は赤くなって両手で頭を抱えた。茶々を入れようとした三人組はチャイムの音に邪魔されて、教室から出ていく。ほっとして花道がそろそろと顔を上げると、直ぐ側に洋平のおもしろがっている顔があった。
 「逃げまわってるのは天才らしくねーぜ。認めるにしろ否定するにしろ、もいっかい会ってみりゃ判るだろ」
 「洋平…」
 な、と笑って洋平は自分の席に戻っていった。
 「お…雨だ」
 「げっ、俺傘持ってねーよ」
 いつもの練習が終わり、さて居残り練習でもしようかと思った花道は、出口から外を見上げて言う三井と宮城の言葉にはっとして駆け寄った。二人の上から覗き込むようにして見ると、確かにぽつぽつと雨が降り始めている。
 「お先っ」
 「あれ、居残り練習しねーのか、花道」
 「珍しいな」
 慌てて二人を押しのけるようにして部室へ駆け出していく花道に、不思議そうな表情を浮かべて三井と宮城は顔を見合わせた。今日の練習は赤木や安西が居なかったせいで早目に終わっているのだ。普通なら絶対後数時間は居残り練習をする筈である。
 「何かあるな」
 「ほっときましょうよ、三井さん。あっちとの騒ぎを今日は収めないで済んで良かったじゃないですか」
 ひょいと顎で、黙々と練習を続けている流川を示す。そりゃそーだな、と三井も領き、二人は練習に戻っていった。
 大急ぎで着替えると、花道は傘もささずに公園へ向かっていった。何となく、確信を抱いてたどり着いた場所に赤い傘を見出して胸が僅かに熱くなる。
 「センドー!」
 「桜木…!、ずぶ濡れじゃないか」
 「なんでここに居るんだ。もう俺来ねーって言ったのに」
 「…そんなこといいから、取りあえず俺の部屋に行って乾かそう」
 一瞬不可思議な表情を見せた仙道はそう言うと、傘を差し掛けて歩き出した。だが、花道はそこから動かずにじっと仙道を睨み付けるようにして見つめる。どうしたんだ? と優しそうに見つめる仙道に、花道はゆっくりと口を開いた。
 「…てめーの好きってのは、誰にでも、何にでもあるんじゃねえのか?」
 仙道は驚いたように目を見張り、ついで自嘲するように口元に笑みを浮かべ首を横に振った。
 「てめーは、その傘も、犬も、好きだっつった。俺のこともお気に入りの傘やペットと同じなんだろ。馬鹿にすんのもたいがいにしろ」
 「そんな風に思われてたのか」
 仙道は一度目を閉じると、次にはその瞳に力強い意志を持って花道を見つめた。花道も負けずに睨み返す。雨がばらばらと傘に当たる音しか聞こえてこない沈黙の中、最初に仙道が動き花道はふわりと抱き締められた。
 「冷たいな、これ以上濡れてると体調を崩してしまう」
 耳元に囁かれた言葉は、別に愛の告白でもないのに花道の心臓に響き、どきどきと意思を無視して鼓動が早くなってくる。
 大人しく腕を引かれるままに仙道の部屋にやってきた花道は、シャワーを浴びるように言われてバスルームに入った。
 シャワーを済ませて出ると、フローリングの床に直に座っていた仙道がじっと見つめている。その視線が熱くて、受けとめているのがきつくなり花道はふいと顔を背けた。
 「コーヒーでも、飲む?」
 「いらねえ……それより」
 視線を合わせないようにしながら花道は仙道の前にどっかりと座り込む。意を決して顔を戻し、間近に仙道の瞳と対峙しながら、花道はさっきの問いの続きを聞き出してやろうと口を開きかけた。
 「好きだ」
 だが、言葉を発する前に仙道に遮られてしまう。まだ言うのかと、睨み付けると仙道は微かに切なげな笑みを浮かべている。
 「桜木は、少しは俺のこと、好きになってくれた?」
 「な、何言ってやがる」
 「いつも会いたい…桜木が見たい、側に居たい、触れたい。会えないと寂しい、つまらない、好きだから」
 一気に言う仙道に、花道は目を瞠る。
 「会うとどきどきする。もっと会いたくなる、触れたくなる、キスしたくなる、桜木が好きだから」
 言い終わるのと同時に仙道の顔が近付き、花道に口付ける。
 「どんどんそう思って、それが俺から溢れて、桜木まで感染すればいいと思ってた」
 「びょ、ビョーキじゃねえぞ」
 「うん…でも、失敗。傘?犬?……桜木までぜんっぜん、届いてなかった」
 軽く溜息を付いて仙道は肩を竦めて見せた。
 「だから、実力行使しよう。もう判ってもらうためにはそれっきゃないと思わない?」
 同意を求める仙道に、花道は微かに危機感を感じて身体を後ろに引く。だが、笑みを浮かべながらじりじりと迫ってくる仙道に押され、後ろにひっくり返りそうになってしまった。
 その背中をがっしりと支えられ、花道はほっとする間もなく、抱え上げられぎょっとした。直ぐ側にある大きなベッドに落とされて訳が判らないなりに、危険だと何かが知らせ慌ててそこから逃げようとする。
 「逃がさないよ。伝わらないなら、他に方法が無い」
 「てめ…ほ、ほんとに本気なのか」
 「ほーら、まだそんなこと言ってるし」
 にやりと笑ってのしかかってくる仙道に、花道はぎゅっと目を閉じて拳を握りしめた。
 「判った!判ったから、退け!」
 「殴って退かせばいい。もう……俺にも止められない」
 今までのからかうような口調とは違う真剣な言葉に、花道は目を見開いた。いつもの笑みも無く熱い瞳が花道をじっと見つめている。
 「好きだ…」
 ゆっくりと仙道の唇が花道の唇に重なる。握りしめられた花道の拳は、長い口付けの間に緊張を解いて開き、その指は仙道の着ているシャツを縋り付くように掴んだ。
 「花道…好きだ」
 「センドー……」
 好きと言われる度に見えない何かに包まれて、どこにも逃げ出せないような感じになる。いや、逃げたくなくなるという感じなのか。暖かくて、穏やかで、いつまでもここに居たくなる。
 再び仙道の唇が花道のそれを覆い、ゆっくりと舌先で辿るようになぶっていく。くすぐったさに僅かに笑みとともに開いた口の中に、今度はその熱い舌が入り込んできて驚く花道の舌を掬い絡ませて吸い上げた。
 「う……」
 口中を縦横に動き回る舌に、花道は息を継ぐことも出来ずに苦しげな呻き声を上げる。それを察して仙道の舌は花道の口から去り、顎から耳元へと動いていった。
 「せ、センドー…」
 耳朶を舌先で舐められ、びくっと肩を竦める。暖かで穏やかだった筈の場所が徐々に別のものに変わっていくような気がして、花道は仙道の名を呼んだ。
 「本気だから、待ってた。でも、本気になりすぎて、もう待てない、花道が欲しい」
 仙道はそう言うと、また花道に口付けた。今度のものはさっきよりもっと激しく狂おしい程に熱烈に花道を求めて深くなっていく。
 息もできずに霞んでいく意識を保つため、花道は仙道の背中のシャツを強く握りしめた。
 「感じてる?」
 「な、何……」
 熱くなってくる自分の身体が信じられない。頭ではこの行為を止めさせろ、仙道を殴って退かせと叱咤しているのだが、動こうとする度に、好きだという低い声が自分を占めて身体から力が抜けていく。
 もうこの言葉は暖かな、穏やかな物ではない。強く自分を求め欲して願っている嵐のようだ。
 「好きだ」
 「せ……んど……」
 圧倒的な熱と力に翻弄され、花道は意識を飛ばしていった。

 暖かい腕の温もりに包まれながら、花道は隣でのうのうと寝ている仙道を見つめた。何故こんなことになってしまったのか、今いち納得出来ないけれど、ここは居心地がいいので取りあえず天才の寛大な心でゆるしてやると、心の中で呟く。
 「何?」
 「お、起きてたんか」
 「隣に花道が居るのに、寝てられないよ」
 にっこりと笑ってしゃあしゃあと言う仙道に、花道は顔を赤くして拳で殴りつけた。痛いなあとぼやきつつ頭を撫でる仙道を今度はぎろりと睨み付ける。
 「てめー彼女が居るのに俺に…好きって言うのか」
 「彼女? 違うって言っただろ。単なるクラスメイトだ」
 「でも…あの傘」
 ちらりと花道はベッドの上から傘が置いてある玄関先を見る。仙道は暫く躊躇していたが、やがて視線を反らせながらぽつりと言った。
 「願掛け…だよ。あの赤い傘差してると、不思議と花道に会えたから。雨が降りそうになると必ずあれを持っていった」
 願掛けと聞いて花道は目が点になる。とても仙道のようにいつも自信満々余裕しゃくしゃくの男がするような行為ではない。
 「て、てめーがそんなこと」
 「するよ、何だって。可能性があれば、ありとあらゆることをして、花道の気を引きたかった。好きだと告げても、男からの告白なんて呆れられるか冗談で済まされてしまうかと思ったから、敢えて花道が俺のこと好きになってくれるまで我慢してたんだ」
 堰を切ったように仙道は今までの想いをロに昇らせ、花道を抱き締めた。
 「誰がてめーを好きだって言った」
 「ここに居てくれるじゃないか。俺の本気受けとめてくれたじゃないか。今更逃げはなしだぜ、花道。逃げようとしたら、一生縛り付けておく」
 「ばーか、俺が大人しくしてるのも作戦のうちだ。なんたって天才だからな」
 掻き口説くように言葉をつづる仙道に、花道は軽く溜息を付いて腕を背中に回し抱き返す。驚いて見る仙道に花道は鮮やかな笑みを見せた。
 「だから、てめーの願掛けや策略にはまって好きになったんじゃねーぞ。俺は俺が決めてセンドーを好きになった」
 「花道」
 信じられないように花道の名を呼ぶ。
 「あの傘、彼女に返しとけよ。そん時、またあの子犬会えっかな、楽しみだな」
 「あ、ああ。返す…よ」
 ふああ、とあくびをして目を閉じる花道に嶺き、仙道は満面に笑みをたたえて愛しいその人を抱き締めた。


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