白いラビリンス


 夏休みも間近に迫ったある暑い日、今日の山海高校ものどかで穏やかに過ぎていく筈だった。しかし、廊下に張り出された一枚の紙が一部の生徒に絶望の悲鳴を上げさせることとなった。
 「あうあ〜っ!」
 「どうしたの、エン」
 がやがやと生徒達が喜怒哀楽を表現している中で、口を開け引きつったまま硬直して張り紙を見ているエンに、マリアがぽんと背中を叩き声をかける。それでも反応しないエンの視線の先を辿ったマリアは、ぷっと吹き出すとにまにましながらエンに言った。
 「ご愁傷様、授業中寝てばっかいるからよ。せっかくの夏休みなのにねえ、ま、せいぜい頑張ってね。高校は落第あるのよ、今からこれくらいクリアしないと、来年もまた一年生やるはめになっちゃうかもね」
 けらけらと笑いながら去っていくマリアに漸く動きを取り戻したエンは、情けない表情のじと目でその後ろ姿を見送っていた。
 張り紙は先に行った試験の結果及び追試と、補習を受けるべき生徒の名前が順位の後ろに書かれてある。その中にはエンは勿論、リュウの名前もしっかりと載っていた。取りあえず自分だけでなくお仲間が居て良かった、とだけは思うことにして、エンは溜め息を吐きながらとぼとぼと教室へ入っていった。
 「大体、ダグオンとして日夜活躍してるってのに、他の一般生徒と同じ扱いってのはないよな。特別に試験免除とかなってくれればいいのに」
 帰宅部のくせに超常現象研究会部室に入り浸っているエンは、ぶつぶつと言いながら渡されたプリントを見ていた。追試は夏休みの補習を受けた後行うとある。この日程では、夏休みの三分の一は補習に追われてしまうではないか。それも、もし宇宙人が現れればパーである。ほんとにもう一度一年生をやらなければならなくなるかもしれない。
 「くっそー」
 「何をぶつぶつ言っている」
 プリントをテーブルの上に置き、組んだ腕を頭の後ろに回して椅子の上に反り返ったエンは、びしりと竹刀を突きつけられてバランスを崩し椅子から転げ落ちそうになってしまった。焦って体勢を立て直し、カイをじろりと睨み付ける。
 「あぶねーだろ」
 「あれ……補習、受けるんですか」
 「わわっ」
 後からやってきたヨクが目ざとくプリントを見つけ、シンも後ろから覗き込んでにやりと笑って言った。
 「ほー、補習に追試ね。こりゃあ大変だ」
 「情けない。普段から真面目に勉学に励んでいればこのようなことにはならないのだ」
 カイが呆れたように言うのを聞いて、エンはぷいとそっぽを向いた。
 「仕方ねーだろ。正義の味方やってんだから」
 「でも、僕は十位以内から落ちたことはありませんよ」
 「私もだ」
 ヨクとカイの言葉に、げっとなってエンは二人を見詰め、そろりと視線をシンに移した。シンは口笛を吹きながら明後日の方を向いている。
 「シンはどうなんだよ」
 「俺?野暮なことは聞くなよ。まあ、追試レベルまで落ちたことはない…とだけ言っておこう」
 エンはシンの言葉に、がっくりと溜め息を吐いてテーブルの上に顎を乗せた。
 「けどよ、補習とか追試とか受けてる時にもし宇宙人が来たらどーすんだよ。説明できないし、そんなんで落第なんて嫌だぜ」
 たとえ校長先生でも試験の時ばかりは、エスケープを認めてはくれないだろう。エンの落第と地球の平和を天秤にかければどちらが重いかは知れたもの。とはいえ、やはり正義の味方が落第というのも格好悪い。
 「ふむ、仕方ない、校長先生に掛け合ってみるか」
 その言葉にエンはがぱっと身を起こし、カイの腕を握り締めて嬉しそうに笑いかけた。
 「ほんとかっ! 頼むぜ」
 「とにかく、真摯に話せば判ってくれるだろう」
 僅かに頬を赤く染め、カイは戸惑ったようにエンを見詰めた。そのまま暫く時が流れる。が、カイは手を離そうとしない。いつまでも握り締めているカイに、エンは怪冴そうな表情を浮かべた。
 「いつまで手取り合ってるんだよ」
 「そうですよ、早く校長先生の所へ行きましょう」
 ヨクとシンに両脇から引っ張られ、カイは渋々手を離した。校長室ではなく裏の畑に行くといつものように校長は野菜の手入れをしていた。つやつやと赤く光るトマトやきゅうりを嬉しそうに見詰めている姿はどう見ても校長という感じではない。
 「校長先生」
 「おや、どうしたのかね、おそろいで」
 流れ落ちる汗を拭いながら立ち上がって訊ねる校長に、カイがどこから説明していいものかと考えつつ、エンの補習と追試のことを話し始めた。
 「勿論、学生にとって一番大切なのは勉学です。しかし」
 「ふむ、それでどうしろというのかね。補習も追試も受けない訳にはいかないでしょう。突発的な事故があったならそれを埋める時間を作らなければならないよ」
 カイの言葉に校長はにこにこしながら一同を見回した。エンの窺うような笑みににっこりと笑いかけ、頷くと校長は言った。
 「補習の代わりに、レポート提出。追試はその後、事故が無い時に特別に行おう。それから、そういうことは早めにやることが一番。夏休みが始まったら直ぐにここで強化合宿をするといい」
 一瞬喜びに顔を輝かせたエンだったが、強化合宿と聞いて首を捻った。校長はごそごそとズボンのポケットから鍵を取りだし、カイに手渡した。
 「君たちの友情で出来るだけ早くレポートが出来るよう手伝ってやりなさい。代筆はいけませんよ。試験範囲をわかりやすい形で纏めれば、レポートを作る段階で試験問題など簡単にクリアできます。あの裏山にコテージがあります。そこを使うといいでしょう」
 では頑張りなさい、と笑って言い、校長は去っていった。渡された鍵を見詰め、カイは軽く溜め息を付きエンに視線を移して笑いかけた。
 「ということだ。良かったな、エン」
 「良いってのかあ、それ」
 「ともかく、これで時間に縛られることなく自由に補習できるということですから、いつ出動があっても大丈夫です」
 あわよくば補習も追試も無しになるかも、と期待していたのに結局はやらなければならないとなってエンはがっくりと膝を突き、腰を下ろした。
 「コテージがあるなんて知らなかったぜ」
 呆れたようにシンが呟き、カイも頷く。一年以上この学園に通っているか、まだまだ謎が多いようだ。
 「エン、夏休みに入ったら着替えと道具一式を持ってここへ来るんだ。いいな」
 「へえへえ」
 「私も泊り込みで手伝おう。逃げることなど考えないことだ」
 嬉しそうににっこりと笑って言うカイに、げっそりとした顔でエンはうなだれる。カイが指導兼見張りなんてことになったら、やるしかないではないか。
 「僕も手伝いますよ」
 にこっと笑ってヨクが言うと、カイは表情を引き締めて僅かに睨むように見詰める。それを軽く受け流すように視線を返し、ヨクはエンの隣に腰を屈めた。
 「丁度研究も区切りを付けなければならなくて、夏休みは暫く学校に泊まろうと思っていたんです。理科系なら得意分野ですから」
 「あっ、俺も、柔道部の合宿ついでに見てやるよ」
 「お前は勉強の面で役には立たないだろうが」
 にこにこと自分の顔を指差すシンに、苦々しくカイが言う。シンはカイの睨み付ける視線をものともせずにヨクと反対側に腰を屈め、エンの肩を抱いた。
 「勉強の合間に骨休めってことで、花火とかやろうぜ」
 「単に自分が遊びたいだけじゃねーのか」
 「ああ、そんなこと言う。友情だよ、ゆうっじょう。……カイと二人きりなんて危ないからな」
 「え?」
 シンがぼそりと呟いた言葉がよく聞き取れなくてエンは振り向いた。その隣でヨクもうんうんと頷いている。二人だけで分かり合っているような様子にエンは眉を蹙め、むっすりと膨れた。
 「何だあ?変だぞなんか」
 「気にするな。楽しい合宿になりそうだぜ」
 「本当です」
 お気楽に笑いかけるシンとヨクの後ろでカイだけは眉根を寄せ、苦い表情を浮かべてエンを見下ろしていた。
 夏休みが始まり、エンは大きな荷物を持って裏山に来ていた。ダグベースと超常現象研究会の部室がある所と丁度三角形の一点になるような場所にコテージはあり、かなり大きいその外面にエンはちょっとびっくりして見上げた。
 「うちの学校って、何でもありだなあ」
 この分では他にも色々と有りそうだと思いながら、エンは庭を回って玄関に向かうとぎょっとして足を止めた。休みだというのにいつもの白い制服を着たカイが竹刀を片手に立っている。この暑い最中よく平気で涼しい顔してられるよ、と呆れながらもエンは近付いていった。
 「よお、お勤めごくろーさん」
 「逃げずに来たか」
 嬉しそうに笑って言うカイに、逃げるかよ、とエンはちょっと睨み付け中に入っていく。ログハウスのような造りのコテージは中も広く、玄関から入って直ぐに居間兼食堂があり、大きな木のテーブルがしつらえてあった。
 「部屋は一階に二つ、二階に三つ全部で五つあるから、一つずつ入れる。好きな部屋に荷物を置いたら直ぐにレポートに取り掛かるぞ。時間が惜しい」
 「そんなに惜しいんなら、帰ってもいいぜ」
 てきばきと言うカイに、エンはむすっとして応える。
 「Don't say four or five」
 いつもの訳の判らない英語もどきを言い、カイはびしりと竹刀で部屋の扉を指し示した。へいへいと諦めてエンは二階の一番奥の部屋へ荷物を置きに入る。部屋の中も結構広く大きな窓からは学園が一望出来た。これで補習じゃなく遊びに来てるんなら最高なのに、と溜め息を吐き、エンは荷物の中から教科書を取り出した。
 突然、ばさばさと音がしてエンは窓の方をはっと振り返った。
 「リュウ…驚かすなよ」
 窓枠に足を掛け、無表情なリュウがじっとエンを見詰めている。エンが何だ、と見るとリュウはひらりと中へ入り近付いて来た。
 「どうしたんだ?」
 「…エン……」
 じっと見ながら近付いてきたリュウはいきなり腕を伸ばすとエンに抱き着いてきた。おいおい、また腹が減った金を貸せ、とか言うんじゃないだろうな、と思っているうちに重みがかかりベッドに引き倒されてしまう。
 「お、おいっ、何だよっ」
 「工ン……」
 何も応えずくるりと身を返したリュウは、エンの身体をベッドに押し付け体重をかけていく。驚いて身動きも出来ない内に、段々リュウの顔が近付いてきてエンは目を閉じてしまった。
 「何をやっている!」
 ばったーんと大きな音がして扉が開かれ、怒りに額に青筋を浮かべたカイが入ってきた。ちらりと目を向けたリュウは、すっと身を難しベッドから降りる。
 「リュウっ、貴様」
 「俺も…補習だ」
 ぼそりと呟くように言うリュウに、カイは怒鳴ろうとした口を閉じた。漸く半身を起こしたエンは、そういえばと思い当たってにやりと笑った。
 「なーんだ。そういやそうだったよな。お前の名前もあったっけ。へへへ、まあお互い頑張ろうぜ」
 「よろしく頼む」
 にこっとエンには微笑みかけたリュウだったが、まだ渋い顔をしているカイには、フッと口端を僅かに上げるような笑みを浮かべただけだった。
 エンに手を差し伸べ起き上がらせると、リュウは下へ降りようと促す。先に降りていくエンの後から出たリュウは、カイの脇を通り過ぎる時に、低い声で呟いた。
 「残念だったな…委員長」
 その言葉にかっとしてカイは微かに頬を赤らめた。
 「あれえ、お前も来たのか」
 リビングの椅子に腰を下ろして持ってきていた雑誌を捲っていたシンは、降りてきたリュウに気付いて驚いたように言った。
 「…ああ」
 「ちぇーっ、仕方ねえ、さっさと始めるか」
 手近な椅子に腰を下ろし、リビングの大きなテーブルに参考書とレポート用紙を広げたエンは、さっそく試験範囲を読みはじめた。こうなったら腹を括って手短に済ませたい。取りあえずレポートさえ出せば、単位は確保できるのだ。追試の結果はまあ、なるようになれ、というところであるか。
 難しい顔でシャーペンを握り参考書と教科書を睨んでいるエンの隣にカイも腰を下ろし、手元を覗き込む。
 「どこが判らないんだ?」
 「…全部」
 むっつりと言うエンに、カイは大袈裟な溜め息を吐いてみせた。カイが自分もペンを取り、一文ずつ丁寧に説明し始めると、エンは僅かに眉根を寄せたが、大人しくレポート用紙にペンを走らせていった。
 「じゃあリュウの方は僕が」
 エンと向き合って座っているリュウの隣にヨクが座り、ちょっぴり不機嫌そうに眼鏡をずり上げる。ちらりとエンを二人して見詰めると、軽く溜め息を吐いて二人とも教科書に向かっていった。
 「じゃあ俺はちょっと柔道部見てくっから。みんな真面目に勉強しなさいよ」
 じゃあねえ、と笑ってシンはコテージから出て行く。なら最初からここへ来なければいいのに、と思いつつエンは何とかカイの説明してくれている公式を、頭の中に留めて置こうと努力を続けていた。
 夕暮れがせまる頃、漸くカイは参考書を閉じ、エンはばたりとテーブルの上に突っ伏した。昼食も簡単に済ませこんな時間になるまで延々勉強し続けたなんて生まれて始めてではないだろうか。頭の中で公式と文法と歴史と科学がぐるぐる渦を巻いている。
 「夕食はどうするか…」
 「さっき冷蔵庫を見たんですが、材料は一通りあるみたいですよ。きっと校長先生が気を利かせて差し入れてくれたものでしょう」
 ヨクも教科書を閉じて疲れたように額のバンダナを押さえながら言った。リュウはいつもと変わらない表情をしていたか、心なし青ざめているような感じである。
 ふむ、と考えこむカイの横でぽーっとしていたエンは、やおら立ち上がるとキッチンの方に向かった。その後に続いてリュウも入っていく。
 一体何をするつもりなのかと気になって後に続いたカイとヨクは、二人がいそいそと冷蔵庫から材料を取り出すのを見て驚いた。
 「エン、何をするつもりだ?」
 「決まってるだろ、飯作るんだよ。もうちょっと待ってなって、俺がとびっきり美味いもん作ってやるから」
 にっこり笑ってエンは取り出した野菜の数々をシンクの中で洗い始めた。その隣ではリュウは黙々と米を磨いでいる。呆然と見ていた二人だったが、そのうちヨクが気を取り直してカイを促しリピングヘと戻っていった。
 「あれ、良い匂いがするぞ」
 まるで犬のようにくんくんと鼻を鳴らしながらシンが戻ってきた。テーブルの上に並べられた料理の数々に驚きながらも嬉しそうに席に着く。
 「どうしたんだ、これ。誰が作ったんだ?」
 「俺達だ」
 最後に味噌汁をお盆に乗せて運んできたエンを見詰め、シンはぎょっと目を見開いた。ヒヨコ柄のエプロンを着けたエンは、椀をそれぞれの前に置くと椅子に腰を下ろす。その前に同じ柄で色違いのエプロンを着け、ゴムで長い髪を後ろに纏めたリュウが座った。
 「お、お前達が作ったってえ?」
 「文句があるなら食うな」
 じろりとシンを睨み付け、エンは頂きますと箸を取る。一同が同じように箸を取ると、シンも慌てて目の前の料理を食べはじめた。
 「うそ、美味え〜っ」
 恐る恐る一口食べたシンは感激してかつかつと食べ、料理は瞬く間に無くなっていった。
 「ごちそうさまでした。とっても美味しかったです。二人ともこんな特技があるとは思いませんでした」
 「うむ、全くだ」
 満足げに箸を置く三人に、エンとリュウは着ていたエプロンを外して放り投げる。怪冴そうにそれを見ている三人に、エンはにやりと笑って言った。
 「作るのは俺達がしたんだから、片付けはお前達がやれよ。皿洗いくらいできるだろ。リュウ、食後の散歩にでも行こうぜ」
 もっともなエンの意見に、渋い顔をしていた三人も溜め息を吐いて食器を片し始めた。それを尻目にエンはリュウを促して外へと出ていってしまう。
 「エン、片付けが終わったら、また補習をするからな」
 「わーってるって」
 ひらひらと手を振り軽く頷くエンに、カイは僅かに眉を顰めた。

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