The night when it noyiced love -1-

 
 四月になったというのに、今日は少し肌寒い。普段なら運動する生徒達の熱気で暑い筈の体育館の中は、沢山の生徒達が居るにもかかわらず開け放った扉から入る風で冷え切っていた。
「さびっ、あーもう早く終わらないんかな」
 ぼそぼそと後ろから聞こえてくる声に、不二はいつもの笑みを僅かに苦笑の形に変えた。
「大きな声出すと聞かれちゃうよ」
「んな後ろまで気にしてないよん。どーせなら扉閉めてやれっつの」
 彼らはかなり列の後ろに並んでおり、その為吹き込む風がダイレクトに当たるのだ。
 菊丸はそうは言ったものの、前方にいる教師がちらりとこっちを見たのを察して口を閉じた。
 長い校長の退屈な話が漸く終わり、新任の教師の挨拶があってやっと生徒達は始業式から解放される。
 身体を猫のように伸ばしながら菊丸は、前を歩いていく大石を見つけ駆け寄っていった。
「別に何か大きく変わるって訳でもないね」
 さして歩調を早めたようには見えなかったが、やはり先を歩いていた手塚の隣に不二は追いつくと、ぽつりと呟く。手塚はそれが独り言なのか、自分に対して言った言葉なのか判断が付かず不二を見た。
 返事を期待していた訳ではないのか、不二はいつもの笑みを浮かべると、それきり黙って部室へ入っていった。
 世間では中三になった日から受験に向かって全力投球の様である。
 ここ青春学園は持ち上がりの高等部があるせいか、その点はのんびりしているものの、外部受験をする者も居るし上に上がるのに全く試験がない訳ではない。
 勉強量も多くなるし、最高学年ということで教師の目も厳しくなる。しかし不二にとってはそれは些細なことだった。今のところ一番大事なテニスというものに変化はない。
 実質一年の後半から手塚と不二の二人はレギュラーの座を不動のものにし、三年にも一目置かれてきた。
 他のメンバーが徐々に揃ってきて現在に至ってもそれは変わらない。
「変わって欲しいのか」
 ジャージに着替え、最後に部室を出た手塚は前を行く不二にさっきの応えを返す。不二は僅かに振り向くと、薄く目を開いて言った。
「まあね。いつまでも君に負けたままじゃ嫌だしね」
 にっこり笑って顔を戻し、不二はコートに入った。負けず嫌いめが、と手塚は心の中で呟いて軽く吐息を付く。
 もっともあのコートに集まる者はみな、多かれ少なかれそう考えているだろう。それはそれで頼もしいんだが、と手塚は眼鏡を指で軽く押さえコートに入ると集合を掛けた。

 青学テニス部に休みはない。春休みも勿論練習だったし、始業式の次の日は新入生の入学式のため二、三年生は休みなのだが隣の区にある学校と練習試合が設定されている。
 始業式でじっとさせられていた反動か、菊丸がコート内で暴れているのを横目に、不二はベンチに座って足をぶらぶらさせている桃城の前に立った。
「明日は残念だね」
「…仕方ないっすよ。自分のせいですから」
 レギュラーなのに怪我のため明日の練習試合から外されて、ずっとむくれた様子だった桃城は、不二に声を掛けられ軽く肩を上げ答えた。
「そうだね」
 あっさり肯定され、桃城は項垂れた。この先輩に、同情心や優しい言葉を期待するのは間違っているとこの一年で理解していた筈なのに、にこにこと近付いて来られてそれだときつい。
「変わると、いいんだけどな」
「何がっすか」
「ナイショ」
 含み笑いを残して去っていく不二を、いつものことだと引きつった笑みで見送った桃城は、ふと顔を上げてテニスコートの向こうにある桜の並木道を見た。
 明日になれば半分は散ってしまうだろう。去年と変わらぬ風景。桃城は入学式の後すぐにここへ来て二人のテニスを目撃し、必ずあの中に入ってやると誓ったことを思い出した。
 不二はあの時既にレギュラージャージを着ていた。桃城が必死に追いつこうと努力しても、誰が挑戦しても涼しい顔で受け流してしまう。もっとも不二だけではなく手塚も同じだったが。
 変化が欲しいというのは、つまり自分にもっと強くなって脅かせてみせろということか。怪我なんかしてる場合じゃないと、遠回しに皮肉も込めてるのだとしたら質が悪い。
 桃城は鼻息も荒く立ち上がると、出ていった。
「あんまり煽るなよ」
「何で?」
「校内ランキング戦が荒れそうだから」
「んー、その方が面白いじゃない」
 常識人の大石は不二に言った言葉にそう返され、苦笑を浮かべた。
 二年の中にレギュラーになれる実力を持った者は桃城と海堂以外居ない。三年のレギュラー陣にも入れ替わりはなく、校内ランキングは最近はいつも同じメンバーで戦っている。
 相手の癖や戦い方も判っている間では、いくらか荒れた方が試合は楽しくなるかもしれない。だからといって部内に波風は立てて欲しくないと、大石は副部長の立場として思うのだった。
「何してんのー、続き続きっ」
 コートの向こうから菊丸が飛び跳ねながら催促する。それに応じるように不二はラケットを握り直し向かい側に入った。
 練習試合は青学の圧倒的勝利に終わった。地区大会から続く夏の全国大会に向けての肩慣らしにもならないと、少々不機嫌だった不二は大石の一言に耳をそばだてた。
 去年もフェンスの向こうから睨んでくる新入生の不遜な眼差しはあった。あの時は少し期待したが、追われる焦りは感じなかった。
 今年も同じ様なタイプの新入生なのだろうか。あの桃城が面白い奴だと言うなら、きっとそうに違いない。
 コートに入ると何気なく辺りを見回したが、新入生達はレギュラー陣を憧れの眼差しで見ているだけで、去年のような熱い射るような視線は感じない。
 桃城の言う越前リョーマはまだ来ていないのかと、僅かに期待を削がれ不二は肩慣らしのために大石の上げるロブを籠に向かって打ち返し始めた。
「あ、すまん」
 手が滑ったのか珍しく大石の上げたロブは大きく後方へ逸れる。走って打ち返せない訳では無かったが、完全にコースアウトなボールなら誰かが拾うだろうと、不二はその行方を目で追った。
 一目で一年と判る小さな身体が視線の先にある。当然その少年がボールを拾うだろうと思っていた不二は、綺麗なフォームでボールを正確に籠に打ち返した彼に、僅かに目を見開いた。
「あんがい簡単だね」
 口端を上げ不敵に言い放った彼が越前リョーマだと、一瞬のうちに不二を含めたレギュラーは理解した。
 桃城や海堂の様にぎらつく目ではなく、猫のように別に何も関心がないという様なリョーマの瞳が不二達レギュラーの姿を掠めるように眺めていく。
 直ぐに帽子の影に隠れ伏せられたその瞳を、もっと間近で見たいという欲求が不二の中に起こった時、二年の荒井がリョーマに突っかかっていった。
 手塚の制裁でリョーマの姿が校庭に消えるまで、不二はずっとその姿を目の端で捕らえ続けた。
「機嫌がよさそうだな」
「そう?」
 一通り練習をこなし、着替えのため戻ろうとする不二に手塚が声を掛けた。
 手塚の仏頂面と不二の微笑み顔はいつもあまり変わりが無く、その喜怒哀楽の変化を見分けるには長い付き合いが必要となる。
「期待が外れたからね」
 期待を裏切られたら普通はがっかりして機嫌が悪くなるのではないのか。常識ならそう思う所だが、手塚は不二の気性を良く知っていた。
「まだ良く判らないけど、多分立派に期待はずれだと思う」
 今の笑顔は本当に嬉しそうだなと、手塚は僅かに驚いて不二を見返した。
「それは、良かったな」
「ランキング戦にあの一年生を入れたんでしょ」
「ん? ああ」
 まだ対戦表は発表していないのに何故知っているのかと、手塚は思ったが、先ほどの古いラケットで荒井と対戦したのを見ていれば誰でも思いつくに違いない。
「同じブロック?」
「いや」
「そう…君も期待をスカしてくれるね」
 今度の笑顔は機嫌が悪い。しかし、いくらリョーマが強いといっても、いきなり三年レギュラーばかりが居るブロックに放り込むのは拙いだろうと手塚も思慮した結果だ。
「ま、いいや。楽しみは先にとっとこ」
 にっこりと笑って不二はそう言うと、まだコートで雑用をこなしている一年達の中のリョーマをじっと見詰めた。
 不二が入ったランキング戦Cブロックは、河村の他は大して強い相手も居ず、始めてから二十分程であっさり終わってしまった。もちろん不二は前日の結果も含めて全勝である。
「珍しく勝負を急いでなかった?」
 隣のコートで同じく二年をあっさり負かした菊丸が不思議そうに不二に問いかけた。いつもなら、余裕でもう少し遊びのようなテニスをするのに。
「そうでもないよ」
 汗一つかかずに笑みを浮かべ、不二はさっさとコートを出ていく。その後ろ姿を不審げに見送ると、菊丸は次の相手である桃城を探しに外へ出た。
 二つ隣のコートの外に桃城を見つけ、菊丸は近付いていく。そのコートでは今からリョーマと乾の試合が始まるところだった。
 リョーマの試合が見られないと残念がる桃城を引き連れコートに戻る途中菊丸は、途中で楽しそうに今離れたコートに向かう不二と擦れ違った。
「あ、不二先輩、越前の試合観戦ですか。いいなあ」
「こら、未練がましいぞ。オレだっておチビちゃんの試合観たいもんね。お、そーか、お前との試合ストレートで十五分くらいで終わらせれば観られるかも」
 のほほんと言う菊丸に、桃城は顔を引きつらせて低い呻き声を漏らした。そんな二人に笑顔を向け、不二はギャラリーの中に加わった。
 まるで大人と子供のような背の高低差に、観ている者はみなリョーマ不利を確信している。不二もいくらリョーマが天才だとはいえ、乾の戦い方を熟知しているため、この試合は難しいだろうと読んでいた。
「あっ」
「スプリットステップ…」
 中学テニス界ではあまり出来る者の無い足運びで、リョーマは徐々に乾を追いつめていった。乾に向けられている表情が、フェンス越しに不二の目にも飛び込んでくる。
 強い者に当たれば当たるほど、帽子の影に隠れたリョーマの瞳は熱く煌めき、相手を射抜く。
 負けん気が強いなんてものじゃない。負けることなど露程も気にせず、ただ相手を打ち倒すことだけ考えている者の強い瞳だ。
 不二は、あの瞳の先に居るのが自分ではないこと微かに苛立ちを覚え、ラケットを持ち替えた。
 強い相手なら身近に手塚が居る。関東大会でも全国でも、多分もっと強い相手は居るだろう。けれど、今欲しいのはあの瞳。
「でたあっ、ツイストサーブ!」
 堀尾たち三人が叫ぶ。ギャラリーたちも、さっきより更に目を見開いてリョーマに見入っていた。
「これは、凄いね」
 ツイストサーブの威力にも驚いたが、今の自分の思考にも驚いて不二は目を瞠った。
 これは…この感情は何だろう。これに言葉を与えるとしたら、闘志?…いや…それではしっくりこない。
「ったく、たいした奴だよ。オレん時よりツイストサーブに磨きがかかってやんの」
 突然後ろからの声に不二は振り向いた。走ってきたのか、試合後だからか息を切らせている桃城は、まるで自分のことのように嬉しそうにリョーマを見ている。
 その様子に心の奥で何かが小さく爆ぜるような気がしたが、不二は表情を崩さず視線を戻した。
 ツイストサーブにいくらかリターンを試みたものの、結局乾はそれを返せず試合はリョーマの勝利で終わった。
「これでレギュラーだね」
「一年生ルーキーか。面白くなってきたぜ」
「ところで君は勝ったの?」
 楽しそうに笑う桃城に、不二は軽く訊ねた。途端に桃城は落ち込む。その姿に不二は何故か溜飲を下げ、にこにこと笑って見た。
「勝ったのはオレだよ。桃、お前挨拶もそこそこに飛び出していくなんて、オレのこと先輩と思ってねーな」
「そ、そんなことないっすよ、英二先輩」
 拗ねたように言う菊丸に弁解し、桃城はその場から逃げるようにコートから出てきたリョーマに駆け寄っていった。
「なんか、機嫌悪い?」
「ん、どうだろ」
 じゃれ合う二人を呆れたように見ながら、菊丸は隣で微かに不機嫌なオーラを纏う不二に尋ねた。
 手塚ほどではないが菊丸も二年から同じクラスだったため、不二の機微は何となく察せられる。さっきまで上昇していた気圧が一気に下降した感じだ。
 でもいつもならこれほど急激な変化を、菊丸に察せられる不二ではないはずなのに。首を傾げつつ不二の視線を追っていた菊丸は、鼻先を通り過ぎた冷たい風に小さくくしゃみをした。
「さみっ。汗が冷えてきた。ったく、あいつも汗を拭きもしないですっ飛んでくるもんだから、こっちまで釣られちゃったじゃん」
 タオル、タオルと呟きながらベンチに向かう菊丸に、不二は薄く笑みを浮かべた。
「変わるかな…」
「南風から西風に変わったけど、って風の話じゃない?」
「変化の『変』て字は、別の字に似てるよね」
 唐突な不二の言葉に、菊丸は目を丸くして見詰めた。疑問一杯の菊丸の視線に、軽く笑って不二はその場から歩き去った。
「…オレまだ不二のこと、よくわかんにゃい」
 ぼそぼそと呟き、菊丸は一番理解しうる人物である大石の元へ、歩いていった。

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