everyday -1-
 
 溶けそうに暑い日差しの中、練習が休憩に入った途端皆一斉に水道のある場所へ走っていく。さほどがつがつしていない者も、用意してあったボトルから水分を補給した。
「おい、お前ら球だしと球拾いしかしてねーだろうが。ちっとは遠慮しろ」
 蛇口を捻って思い切り水を浴びている堀尾の肩を叩き、桃城は呆れたように言った。堀尾は慌ててその場を退き桃城に譲る。
「後輩脅しつけて退かしてんじゃねえよ」
「ああ? そりゃお前だろ」
 ぼそりと呟く海堂に桃城は眉を顰めて反論した。現に海堂の前に水場へ来たカツオは、姿を見るなり逃げ出してしまっている。桃城に言われ海堂は眉根を寄せて顎を突き出した。
「因縁付ける気か」
「だから、それはお前だってーの」
 今にも喧嘩になりそうな二人の様に、どうしようかとおろおろ見守っていた一年生トリオは、汗を拭いつつやってきたリョーマに縋るような視線を向けた。
「何?」
「あ、あれ」
 三人が指差す方を見てリョーマは軽く溜息を付いた。いつものことながら、こうも暑いとヒートアップするのも早いらしい。リョーマは二人の間に足を運び、火花が散るような視線を無視して蛇口に向かった。
「お、おい、越前」
「終わったんなら、さっさと退いてください。邪魔」
 正論だったので二人ともぐうの音も出ず、無言のまま水を被るとその場を離れた。漸く静かになった場所でリョーマは顔を洗うと、前に置いてあったタオルを探って手を伸ばした。
「はい、どうぞ」
 声と共にタオルが手渡される。リョーマは受け取ったそれで顔を拭くと、声の持ち主を見た。この暑さと激しい練習の後だというのに、涼しい顔で殆ど汗をかいてない不二のにこやかな表情が見下ろしている。
「どうも」
「次の土曜日、暇?」
 またか、とリョーマは吐息を付いた。決勝前で例え部活が無い土曜日でも自主練はしたい。暇なわけないじゃないか。そう簡単に言えたら苦労はしないが。
 口に出さないリョーマの心の声を聞いたのか、不二は悄気たような表情で見る。何となく罪悪感を感じてリョーマは小さく頷いた。
 途端に嬉しそうに笑う不二を見て、リョーマはいつも半分後悔するのだが、惚れた弱みだ仕方ない。  ……惚れたっけ?……
 ふとリョーマは記憶を探る。穏やかで優しげな外見を甘く見て、強く反撃できる隙もなく、いつの間にか彼の手に落ちていた。世間的に言う恋人らしきものになったのは最近だけど、その前にちゃんと好き合っていることは確認した筈。まあ男同士だから公言することは無いけど。
「……くん、越前!」
「あっ、え?」
 目の前で手をひらひらと振る不二に視線を合わせる。どうやら物思いに耽ってしまったらしい。心配そうに見る不二に、リョーマは僅かに笑みを見せた。
「暑さで呆けた?」
「別に。それより何、土曜って」
「横浜行こう。地下鉄が通って行きやすくなったから」
 何でいきなり横浜なのかと訊こうとしたリョーマは、不穏な気配にちらりと横目で辺りを窺った。水飲み場には自分たち以外の影は無い。なのに何故こうも見られている感じがするのだろう。
 気のせいかとリョーマは不二に目を移す。だが今度は不二が横を向いて繁みを凝視していた。すっと手を伸ばし、不二は蛇口を捻って水を出す。指先を水が出る口に当てると、繁みに向かうよう流れを作った。
「うわっ、冷てっ。何するにゃ!不二の馬鹿っ、俺は他校のスパイじゃないぞ」
 繁みから飛び出して来たのは菊丸だった。彼以外にも、わらわらと人影が四方に散っていく。中には菊丸の言うように他校の制服も見えた。
「今時分スパイに来る訳はないんだが。まさか立海か」
 濡れた眼鏡を拭き、乾が呟いた。あっと思った時には乾は眼鏡を掛けており、リョーマは見逃したことに舌打ちをする。
「僕らの練習をスパイしに来たんじゃないと思うけどね」
 冷たい笑みを浮かべる不二の言葉に、菊丸は身を縮め、乾はそそくさと練習に戻っていった。練習でないなら何を見に来たんだ、と首を傾げるリョーマに不二は待ち合わせの場所と時間を告げるとコートに戻っていく。
 リョーマもその後に続き、横浜にもテニスコートはあるよなと思いながら歩いていった。

 土曜日、待ち合わせ時間ぎりぎりに駅に駆け込んだリョーマは、手を挙げて挨拶する不二に足早に近付いた。あまり私服の不二を見たことが無いから、いつも学校以外で会うと鼓動が跳ねる。既に何回か会っているのにあまり慣れず、つい視線を逸らしてしまうリョーマだった。
「おはよう、今日も可愛いね」
「はよっス」
 不二の方は全くそんな事はないのか、何時ものように上から下までしげしげと眺めてくるので、リョーマは気恥ずかしくて頬に朱を走らせた。
 電車に乗り込む前に、不二は鋭く辺りを見回した。何をしてるんだろうとリョーマも辺りを見回すが、不審な点はない。
「どうかした」
「ううん、何でも」
 首を横に振るが、何か考えているような不二にリョーマは眉を顰めた。自分と居る時に別のことを考えてるのが何だかもやもやする。胸の奥に澱む何かがリョーマの気に障った。
 暖かい手が手すりに掴まっているリョーマの手に重ねられ、握り締められた。はっとして見上げると不二の困ったような笑顔が目に映る。
「ごめん、もう気にしないから」
「…別に」
 何を気にしていた訳じゃないけど、不二の手の温かさがリョーマのもやもやを消していった。替わりに心臓の鼓動が早くなって胸に木霊していく。周りの視線が気になったが、リョーマは不二の手を外すことなくそのままでいた。
 終点に着いて二人は電車を降りると街へ繰り出す。土曜日の為か街は買い物客や観光客で溢れかえっていた。
 あまり人混みが得意でないリョーマは、閉口して立ち止まる。すっと目の前に手を差し出され、リョーマは目を丸くしてそろそろとその手の持ち主を見た。
「迷子にならないように」
「……やだ」
 強く首を横に振る。しかし不二は笑顔のまま手を差し出し続け、リョーマは根負けして怖ず怖ずとその手を握り締めた。
「じゃ行こうか」
 まるで鼻歌でも出そうな勢いで嬉しげに不二は歩き始めた。仕方なくリョーマも手を繋いだまま歩き出す。道行く人々は都会人らしく他人がどうしようと気にする暇もないのが見て取れて、リョーマをほっとさせた。
 時折店のウィンドウを覗きながら二人は街をぶらぶらと歩いていった。殆ど女性物ばかりの店が並んでいるが、時計や雑賀の店などリョーマの気を引く物も少しはある。不二は目敏くリョーマの好みそうな物を見付け、指差して教えた。
 とある店先に小さな猫の置物を見付け、リョーマは目を輝かせてそれを手に取った。カルピンそっくりなそれは、毛並みまでつやつやとしていて触り心地も柔らかく本物に近い。
「それ、気に入ったの?」
「カルそっくりだから」
 そう言って飽きずに眺めるリョーマの手から不二はそれを取り上げ、奥に入っていった。レジに向かうつもりなんだと見送るリョーマの目に、二人の女の子の姿が映る。彼女らは不二の後ろに付き、何事かはしゃいだ様子で会話していた。
 そういえば、さっきからウィンドウガラスの端に同じような服が映っていたっけ、とリョーマはうっすら思い出す。全く意識してなかったが、彼女らの視線が不二に向かっている様が、脳裏に無意識の信号を送っていたようだ。
 支払いをしている不二に、その二人が話しかけた。何を言っているのかリョーマには聞こえないが、外向きの笑顔で応対する不二に微かな苛立ちを覚える。
 知らず眉間に皺を寄せている自分に気が付いてリョーマは動揺した。視線を逸らし、苛立ちを抑える為店の外に出て大きく息を吐く。まさか妬いてるなんてこと有るわけ無いと、今の景色を頭から消すために別の店へ飛び込んだ。
 どんどん奥へ進み、ついには店を突っ切って反対側の道へ出てしまった。戻らなければとリョーマは嫌がる足を引きずるように踵を返す。
「どうした、迷子かい」
 道を塞ぐようにリョーマの目の前に三人の男が立っていた。見るからに柄の悪そうな男達は、ポケットに手を突っ込み、にやけ笑いを浮かべながらリョーマを取り囲んだ。
 無視して通り過ぎようとするリョーマの腕を一人の男が掴む。
「おいおい、親切で聞いてるのにシカトはねえだろ」
「全くだ。それにここ通るには通行料がいるんだよ」
 下卑た声で三人は笑う。リョーマは素早く周囲を見回し、腕を振り払うと駆け出した。逃げるのは本意ではないが、こんな奴ら相手に真面目に相対するのも馬鹿らしい。
 普段鍛えたダッシュ力で走っていったリョーマは、行き止まりに突き当たって足を止めた。右には扉の閉まった店、左は改装中らしくシートが掛かっている。仕方ないと戻ろうとしたリョーマの前方から先ほどの男達が息を切らせながら走ってきた。
「ざけんなよ、怪我したくなかったら金出せや、坊主」
 どうしてこういう輩は日米問わず同じ事を言うのだろう。もっともアメリカの場合、本当に下手をすれば殺される事もあるから、素直に有り金出すのは一般常識だったが。
 さて、どうしようかとリョーマは思案した。ほぼ交通費しか持ってないから、それを出したとしても奴らは納得しないだろう。三人相手はきついが、突破口を開いて逃げられればと、近付いてくる真ん中の一人の腕を払い、足を蹴飛ばして擦り抜けた。
 が、思いの外素早く別の男が回り込み道を塞ぐ。痛みに悪態を付き、リョーマに蹴られた男は懐からナイフを取り出してちらつかせた。
「何の騒ぎだ」
「トラブルですか」
 行き止まりにあった店の扉が開き、誰かが出てきて声を掛ける。振り返ったリョーマは、何となく見覚えがあるような二人に僅かに目を眇めた。
 二人の内一人はナイフを持っている男に目を留め、眉を顰める。邪魔するなというように、残りの男達もナイフを取り出して凄んで見せた。
「こんな子供相手に凶器を振り回すとはけしからん」
「警察を呼びましょうか」
 男達は二対三という人数に強みを見出したのか、奇声を上げ二人に飛びかかっていった。二人は難なくそれを躱し、うち一人は手に持った紙袋から木刀を取り出して身構えた。
 あっという間に男達の腕からナイフを叩き落とし、木刀の切っ先を突きつける。男達は痛めつけられた腕を押さえ、捨て台詞を吐くと這々の体で逃げ出していった。
「あの、ありがとうございます」
 呆然と見ていたリョーマは、取り敢えず礼を言った。二人はリョーマを見ると、何かに気付いたように目を見開く。
「あんれぇ、青学のルーキーじゃん」
 二人の言葉を代弁したかのように、後方から声が聞こえ、リョーマは振り返った。額に手を当て、眺めるような格好でこちらを見ていたのは立海大付属中二年切原赤也で、その後ろにも二人程興味深げにこちらを見ている者が居る。
「越前リョーマか。一人で来たのか?」
「……えーと、誰だっけ」
 見覚えがあるような無いような目の前の人物にリョーマは訊ねた。途端に切原が吹き出して、腹を抱え笑い出した。
「すげーよ、こいつ。普通次の試合相手忘れるか?」
「ああ……。立海大の…副部長サン」
 切原の言葉に漸くリョーマは思い出した。私服でしかも帽子を被っていないから判らなかったのだ。そういえば、隣のいつも目を閉じている人には見覚えがある。
「真田弦一郎だ」
 むっと眉を寄せ、名乗る真田に再び切原が笑いを零す。真田は切原を睨むと、持っていた木刀を袋に仕舞った。
「何でお前こんなとこにいんの。結構ヤバイとこだぜ、ここらへん。この店あるから仕方なく来てるけど」
 切原は行き止まりの店を指差しながら言った。見ると、その店はどうやらスポーツショップらしい。この面々が来るということは、かなりテニスに関して充実している店なのかと、リョーマは気になって覗き込んだ。
「越前っ」
 切羽詰まった声が聞こえ、リョーマは振り向いた。額に汗を滲ませ息を荒げた不二に、リョーマは目を見開き、ついで気まずげに目を伏せた。

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