Consider -2-
 

「うわー、一杯の人です。流石越前くん、人気あるです」
 最初に見えたのはピンク一色だった。ついで僅かに黒い頭が見え、身体が見えてくる。どこかで聞いたような声だなと、リョーマが首を捻っていると、ピンクの中から壇太一の顔が現れた。
「あんた」
「越前くんが入院したって聞いて、お見舞いに来たです。はい、これ」
 ほんの僅かに緑と白が配色されているが、ほとんどピンク一色のそれはカーネーションとかすみ草の花束だった。
 微かに顔を赤く染めて、太一はリョーマに花束を手渡そうと差し出した。しかし、リョーマが受け取る前に素早く不二が取り上げる。
「ありがとう。君、山吹中の子だったよね。何で知ってるのかな」
 不二の手に渡った花束を残念そうに見ながら、太一は答えた。
「え、えーと、秘密の情報です」
 不二相手に口を割らないとは、見かけに寄らず良い度胸だと感心して一同は太一を見た。太一は不二から視線を外して周りを見回すと、やっと自分が誰と誰の間に立っているのか理解して、顔を青ざめる。じりじりと後ずさる太一の肩に手を置き、カツオ達は慰めるように頷いた。
「ふん、ダッセーな。カーネーションかよ。母の日じゃねえっての。やっぱこれだろ、なあ樺地」
「ウス」
 何時の間に居たんだ、とみんな驚いて扉の方を見た。今度は赤一色が樺地の胸辺りに纏まっている。それを受け取り、跡部はリョーマの前に無造作に差し出した。
 真っ赤なバラの花束は強烈な芳香を放ち、リョーマは噎せて口元を押さえる。慌てて不二が側に寄り、背中を擦った。
「大石、それ、退けて」
 不二に怒鳴られ、大石は跡部の手から花束を取ると、窓辺にそっと置いた。確かに強烈だが花束に罪はない。
「何だよ、花より団子か。それなら今晩、とびっきりのディナーを用意するぜ」
 誰かこの馬鹿を何とかしろと、無言の圧力が忍足にひしひしと掛かる。できるもんならとっくにやっとるわ、と諦め顔で忍足は吐息を付いた。
「あの…何でここに氷帝の部長さんが居るんですか」
「多分、君と同じ理由だとは思うけど」
 おずおずと訊く太一に、大石が答えた。今一つ納得しかねるような表情で、再び太一は訊ねる。
「どうして白衣着てるんですか? お医者さんだったですか」
 誰しも思いながら怖くてその質問には目を瞑っていたというのに、やはり怖い物知らずである。大石は冷や汗を浮かべながら、さあ、と首を竦めた。
「ここに来るとこれ着なきゃ始まらねえだろ」
 そういうもんなんですか、と言いたげに太一は跡部以外の者に目を向けた。だが、誰も関わりたくないようにそっぽを向く。じっと見られたリョーマは、目を僅かに見開くと吐息を付いた。
「うにゃ〜、何でこんなに大勢いるんにゃ。あ、大石、さっき看護士さんに聞いたんだけど、なんでもここ跡部のお祖母さんがやってる…って…」
 病室に入ってきた菊丸は、大勢の人間が居ることに驚いて声を上げ、大石を見つけると得々と話し始めた。大石が慌てて止めようとジェスチャーをするが、気付かず話し続けていた菊丸は、側にいる白衣の男が振り返った顔を見ると、息を飲んで固まった。
「まったくしょうがねえな、お喋り共ばっかりで」
 は、と短く息を吐き、跡部は両手を上げる。なるほど、と一同は納得した。
「越前くん、直ぐに退院しよう」
「え、ええっ!?」
 はしっと手を握り、そのまま拉致してしまうような勢いで話しかける不二に、リョーマは目を丸くする。
「こんな危険な場所、いつまでも居られないよ。僕の息が掛かった病院へ直ぐに転院して」
 それも怖いだろ、とリョーマや一同は突っ込み入れる。
「なんだあ、逃げるのか」
「逃げない」
 跡部の挑発的な言葉に、リョーマはむっと睨み付けた。病院で逃げるも逃げないもないだろ、と再び一同は突っ込みを入れた。
「さあ、病人の前であまり騒ぎすぎるのは良くない。そろそろお暇しよう」
「えー、もう? まだいーじゃん。おチビの入院着姿って、かわいーよね」
 口を尖らせ文句を言う菊丸の言葉に、みんなの視線がリョーマに注がれた。直ぐに診療できるよう、入院着は前を軽く紐で結ぶだけの物で、下はパジャマのようなズボンなのだが、リョーマは面倒なので家から持ってきた短パンしか着ていなかった。
 そのため、ベッドに腰を下ろしているとミニスカートのように膝小僧が出ている。はっと気付いたリョーマは、両手で膝を隠すように身を固くした。
 不二は目を眇め、その発言をした菊丸を睨め付ける。焦った大石は菊丸の背中を押すと病室から出ていった。
「越前、お大事に」
「うわーん、おチビ〜」
「僕たちも、そろそろ帰るね。リョーマ君早く治るといいね」
 カチロー達も不二の目が自分たちに向けられないうちにと、そそくさ帰っていく。残ったのは太一と跡部、忍足の3人となった。樺地はいつの間にか居なくなっている。
 あんな大きな身体で気配を消して動けるとは、流石だなと見当違いなことに感心しつつ、リョーマはまだ帰りそうもない3人を見詰めた。
「てめーは出ていかないのか」
「はいです。先輩からちゃんとお見舞いしてくるように言い付かってます。あ、明日来るそうですから、よろしくです」
 跡部の恫喝にもあっけらかんと答え、太一はにこにことリョーマに言った。毒気を抜かれたようにリョーマは溜息を付き、ベッドに横になった。
「俺、寝ますから」
 掛け布団を頭の上まで引き上げて、リョーマは寝る体勢にはいった。不二は他の者を無視して側にあった椅子に座ると、リョーマを優しく見詰める。
「やれやれ、子猫ちゃんはお昼寝の時間か。また来るぜ」
「それじゃ僕も帰ります」
 舌打ちをして跡部は片手を上げると病室から出ていった。続いて太一もぺこりと頭を下げ、出ていく。不二は一人残った忍足に気付くと、不審そうに眉を顰めた。
「あんたは帰らへんの」
「君に関係ないだろ」
 確かに、と忍足は肩を竦めた。
「自分、心配やったらここに泊まるん?」
「確証が無いからね。それにしても跡部のことを良く知ってるようだな」
「まあ腐れ縁やな。あいつのプライド、エベレストより高いし、夜這いには来ぃへんと思うわ」
 どっちかというと、そっちから来いってタイプだな、と心の中で考えていた忍足は、不二がとっくに自分から興味を無くしリョーマを見ている事に気付くと、頬を引きつらせながら病室を後にした。
「やっと静かになったね」
「先輩、帰っていいよ」
「そんなこと言わないで、もう少し居させて」
 哀しげな声に、リョーマは布団から顔を覗かせ不二を見上げた。嬉しそうに笑っている不二に、騙されたとカッと頬を赤く染め再び布団を被ろうとする。
「ちょっ」
 不二はそれを許さず、リョーマに覆い被さると口付けた。舌先で唇を突かれ、リョーマは渋々口を開く。熱い不二の舌がリョーマの口腔を縦横に嬲り、音を立てて離れた。
「離せって」
 まだ陽が高く、廊下を他の患者や看護士が通りかかる恐れは充分あった。病室は緊急事態に備えて鍵など無いし、個室だからまだしもあるがプライバシーなどという物は無いのだ。
「もうちょっと、リョーマ不足なんだ」
 なんだそれ、と呆れたように力を抜くリョーマの頭を撫で、不二は薄く笑みを浮かべた。綺麗な笑みにリョーマは懐柔されないぞと、顔を背ける。
 不二は微かに眉を曇らせると、そっと手を掛け布団の中に滑り込ませた。羽のように触れる感覚から徐々に目的を持って動く手に、リョーマは始め耐えていたが、顔を戻すと不二を睨んだ。
「何してんだよ、あんた…っ痛…」
「ほらほら、動くと傷に障るよ」
 半分身体を浮かせて手の動きを止めようとしたリョーマは、痛みに顔を歪ませて不二に縋り付いた。不二はリョーマを抱き締め、宥めるように背中を撫でる。
「誰のせいだよ」
「僕のせい、ごめん。リハビリに協力しようかと」
「馬鹿」
 リョーマは痛みに潤んだ瞳で不二を見た。そんな目で見られたらお誘いを受けているようなもんだと、不二は笑みを深くして再び唇を寄せようとした。
「あー、こほん、入るぞ」
 わざとらしい咳払いに二人は扉の方を見た。いつもの格好で南次郎が懐に手を入れ、呆れたように二人を見ていた。
「こんな場所で盛るんじゃねえよ、青少年。人目っちゅーもんを考えろや」
 南次郎の言葉に、リョーマは今の自分の体勢を思い出し、慌てて不二から身を引き離した。残念そうに手の中を見ていた不二は、仕方なく立ち上がるとまた明日来ると告げて病室から出ていった。

 担当医からどんどん動けと指示されたリョーマは、朝から病院内を歩き回っていた。しかし、院内だけでは檻の中の熊のようで飽きが来る。看護士の許可を貰って中庭へ出ると、リョーマは散歩をするようにゆっくり歩き廻った。
 途中ベンチに腰を下ろし、休憩を取る。若いから快復も早いのか、お腹はあまり痛まなくなっていた。後は一刻も早くここを退院してテニスがしたいと、リョーマは天を仰いだ。
「テニスしたい? でも我慢我慢、今はリハビリに専念して」
「……!」
 声もなくリョーマは驚いて隣を見た。ベンチに座っている自分の横で、のほほんとした様子で見ているのはどこかで会ったような人物で。
「こんにちは、越前くん。昨日の花はちゃんと届いたかな」
 目尻を下げて笑う顔に、微かに覚えがあったリョーマは、記憶の層を掘り起こして彼の顔を思い出した。
「…山吹中の…」
「千石清純、思い出してくれたかなー。昨日太一に花束届けさせたんだけど、」
 にやける顔に、リョーマは思い切り不審げな目を向けた。山吹中の千石が、何故自分の入院を知っているのか、あまつさえ見舞いに来るのか。
「あれ、あんただったのか」
「昨日はどうしても外せない用事があって来られなかったんだ。だから今日は部活もほっぽって一番で来たんだよ。君が心配で心配で」
 がし、とリョーマの手を掴み、千石は切々と訴えた。面食らってリョーマはされるがまま、千石の顔が近づいてくるのを見ていた。
「越前くん、お待たせ」
 千石の手を叩き落とし、不二はリョーマを立たせると歩き始めた。無視された格好の千石は、頭を掻きながらそれでもめげずに立ち上がり、二人の後を着いていく。
「ねえねえ、越前くん、カーネーションで良かったかな。自分のイメージとしては君は情熱的なアンセリウムの方が良かったかなと思ったんだけど、あれ鉢植えだと病気が根付くとかで駄目出しされちゃったんだよね。といって、カサブランカは匂いがきつすぎるし、後は花言葉でデンドロビウムなんかも君に合ってると思ったんだ。あ、孤高とかわがままな美人とかって花言葉なんだけどね。君にぴったりじゃない」
 淀みなく流れる言葉に、右の耳から左の耳に素通りさせていたリョーマは、その花言葉にぴくりと反応した。
「我が儘…?」
「やっぱ孤高の美人ってのが一番似合うかナー。うんうん、そうだね、でも内心は情熱的なんだよね。僕は知ってるよ」
 くるりと不二が振り返り、着いてくる千石に冷たく感情を消した貌で対峙した。
「君、越前くんの事を随分観察してるようだね」
「観察だなんて…愛の力だよ」
 照れたように笑う千石に、不二は表情を凍らせた。リョーマは千石の言葉攻撃に辟易して、早々に相手をするのを不二に任せている。
「生憎、越前くんへの愛の力は間に合ってるよ」
「うん、それは良く解るよ。でも、僕はめげない男なんだ。自分で言うのもなんだけど」
「確かに、2度も負けてるにしてはめげてないよね」
 リョーマは桃城対千石、神尾対千石戦を思い出して呟いた。千石は一瞬固まったが、直ぐに冷や汗を浮かべながらも頷いた。
「めげないよー。もう頑張るさ」
 それで昨日は山奥で修行してて、下界に降りてくるのが遅くなったんだ、と大真面目な顔をして言う千石に、相手をしているのが馬鹿らしいと、不二は踵を返した。
 不二に手を引かれて歩きながら、リョーマは千石の言葉に少しばかり興味を惹かれていた。山奥での修行って何をするんだろうと、ちらりと後ろを振り返ってみる。
 嬉しそうに手を振る千石に、リョーマは眉を上げた。
「本気にしないの」
「…うん」
 でも、山奥ではなくとも修行はしていた筈だ。どれくらい強くなっているのか見てみたい。見るだけじゃなくて戦ってみたい。テニスがしたい。
「リョーマくん、気持ちは解るけど傷が開いたらもっとテニス出来るのが遅くなるよ。しっかり治ったらいくらでも相手してあげるから」
「ほんとっスね」
 リョーマは立ち止まって不二の手を引き止めた。不二はリョーマに向き直ると、にっこりと笑い頷いた。
「試合でも、それ以外でもお望みのままに」
「試合だけでいい」
 嬉しそうに笑うリョーマに、不二は身を屈め顔を近付ける。後ろで見ている千石のことなど意識の端にも引っかけず、不二はそのままキスしようとした。
「おーい、越前、元気かー」
「最近の急性虫垂炎の手術はかなりの精度で行われている。1週間以内に退院できる確率は95%」
「……けっ」
 良いところを邪魔された不二は声のした方を見て眉根を寄せた。昨日来なかったメンバーがぞろぞろと連れだってやってくる。
「あれ? 山吹中の千石さん。何でここに」
 走って二人の側に来た桃城は、斜め後方に立っていた千石を見出して首を傾げた。桃城の後ろから、乾、海堂、河村もやってきてリョーマを取り囲む。
「越前、具合はどう? 痛かった?」
 河村は自分が手術を受けたような表情でリョーマに訊ねる。乾は相変わらずノートとペンを持ち、海堂は本当はこんな所へ来たくなかったんだ、とでも言うように半分横を向いていた。
「もう痛くないっスよ」
「それにしても、越前が病気って柄じゃねえよな、柄じゃねえよ」
 楽しそうに笑いながら桃城はリョーマの頭をぐしゃぐしゃと撫でる。リョーマは憮然として桃城の手を押さえた。
「…ったく、病気にかかるなんざ弛んでる」
「人間なんだから、病気にも罹るさ」
 吐き出すように言った海堂を、河村は苦笑しながら宥めた。
「そうだよなー、マムシは人間じゃねえから病気なんぞには罹らねえんだよな」
「なんだと、コラ」
 河村の言葉を引っ張って桃城が揶揄うように指を立てる。海堂はただでさえ鋭い目を更に眇めて桃城を睨み付けた。
「お、やるか」
「ちょ、ちょっと二人ともこんなとこで喧嘩するな」
 一触即発な様子の二人を、河村が間に入って止めようとした。いつものことなのでリョーマは取り立てて感想もなくその様を見ていたが、乾が大きな身体を曲げて耳元に囁いた言葉に、身を硬直させた。
「時に、盲腸の手術の時は、下を剃って『つるつる』にするそうだけど、本当か」
 何故『つるつる』のところだけ強調なのか、と変なところに突っ込みつつ、リョーマは開こうとした口元をひくりと痙攣させた。
「……『つるつる』?」
「…『つるっつる』……」
 今まで睨み合っていた桃城と海堂が確かめるように呟き、顔を赤くさせてリョーマを見詰める。何で顔赤くしてるんだと、疑問に思いながらリョーマは漸く心を落ち着かせて乾を見上げた。
「え…と」
「うん『つるっつるっ』だよ。越前くんのあそこ。もう完璧に近いよね、陽に焼けて無くて白くて綺麗だった」
 周囲が息を飲み、空気が凍り付く。青ざめ、やがて顔を真っ赤に染めたリョーマは、不二に抗議しようと口をぱくぱくさせた。だが、声にならない。
「へえー、見たいな、僕もそれ」
 懲りない男、千石がいつの間にか側にいて、にやつきながら頷いている。一時固まっていた乾も復活して眼鏡をずり上げ、ノートにペンを走らせた。
「何? 恥ずかしいことじゃないでしょ。手術の前に剃らないと傷口に黴菌が入りやすくなるから、するんだよ」
 そんなことは解っている。それを何で不二が知っているのかというのが問題なのだと、みんなは心の中で思った。
「まあ、もともとチビだからそんなに生えてなかっただろうよ」
 物に動じない、不遜不敵がモットーのリョーマだったが、今後ろから掛けられた言葉に、心臓が口から飛び出るような感じになって胸を押さえた。
「跡部…さん?」
 指を差し、ぽっかり口を開けて桃城はリョーマの後ろを見た。みんなの表情から、跡部がどんな格好をしているか想像が付く。
 リョーマは拳に力を込め握ると、金縛りが解けたように足を一歩踏み出し、脱兎の勢いで走り出した。唖然として見ていた一同は、不二の姿も見えない事に気付き、顔を見合わせた。
「まだ走っちゃ駄目なんじゃないかなあ」
「逃げたくなる気持ちもわかるけどな」
 うんうんと珍しく海堂は桃城の言葉に同意した。そう言われて河村は、力無い笑いを発し頭を掻く。
「ところで、跡部くん、何でそんな格好してるんだい。趣味?」
 出遅れた千石がふんぞり返っている跡部の姿を見て、不思議そうに訊ねた。跡部はそれに答えず、不愉快そうに眉を顰めると二人の後を追っていった。
「拙いこと訊いたかな」
「いんや、気にすんな。あいつは何時もああだから」
「ほんっと女王様気質だよなあ。ここの病院も母方だろ?」
「そろそろ戻ってもらわないといけないですよ。部活に支障をきたします」
 千石に答えたのは、宍戸、岳人、鳳の3人だった。病院内の庭に現れた見栄えの良い青少年達に、のんびり散歩していた患者や看護士達が注目する。
「忍足はどうしたんだ。お目付役だろ、あいつ」
 歩きながらぼやく宍戸に、岳人は首を横に振った。
「あの青学のチビに関しては、どーにもこーにもたがが外れてるんだとさ。そっちの天才さんと同じにね」
 呆然と成り行きを見ていた青学一同は、話を振られて我に返り、続いて歩き出す。こんなに大勢で押し掛けたら迷惑なんではないかと、一人常識人の河村は心配してみんなを止めようとした。
「ほい、タカさん」
 持っていたバッグから桃城がラケットを取り出し河村に渡す。途端にバーニングモードになった河村は、氷帝連を蹴散らすように走り出した。
 病室に戻ろうとしたリョーマは、院内に入った所で目の前に立ち塞がる人影に足を止めた。何だと見ると、忍足が両手を広げリョーマを見下ろしている。
「このまま戻ったらあかん。あの連中が一斉に来たら迷惑だ。面会室でケリ付けて…て、なんや涙目になってるやないか。どうかしたん?」
 驚いたように身を屈めると、忍足はリョーマの顔をしみじみ眺めた。リョーマは慌てて拳で目を擦ると、きつい目で忍足を睨み付けた。
「どけ」
「おい……どわっ」
 リョーマに手を伸ばそうとした忍足は、頭と腹に拳を食らって廊下に沈没した。驚愕して目を瞠るリョーマを抱き締め、不二は心配そうに訊ねた。
「大丈夫? リョーマくん」
「てめえ、泣かせるなんてどういうつもりだ」
 忍足は痛みを押さえながら起きあがった。不二と跡部は怒りに燃える瞳で忍足を睨んでいる。あんたらが原因だろうが、と落ちた眼鏡を拾い、忍足は大きく溜息を付いた。
「とにかく、騒ぎが大きくなる前に面会室へ行け。迷惑かけんなや、阿呆が」
 片手で入り口側にある大きめの面会室を忍足は示した。リョーマは一刻も早く一人になりたかったが、仕方なく面会室へ入っていく。当然のように不二と跡部も一緒に入るのを見届けると、忍足はやれやれと肩を竦めた。
「あれ、氷帝の…」
 氷帝一同を蹴散らした所で河村からラケットを取り上げた桃城が、一番に入ってくると忍足を見つけ声を上げた。忍足は黙って面会室を指し示す。
 青学の後ろから来た氷帝メンバーは、忍足の疲れ切った様子に文句を言おうとした言葉を引っ込め、同情するように肩を叩いた。
「君とは一度きっちり話を付けなければならないようだね」
「話すことなんざ何もないが。それで気が済むならやってもいいぜ」
 青学と氷帝メンバーが見守る中、不二と跡部は鋭い視線で相対し物騒な会話を行っている。不二に護られるように立っていたリョーマは、諦めているのか呆れているのか、憮然としたまま視線を床に落としていた。
「あの……」
 どう決着を付けるというのか、はらはらわくわくして見ていた両校メンバーは、後方から聞こえてきた低い声に驚いて振り返った。
「おい、喋るのか、あいつ」
 桃城が目を見張り、後ろに佇む樺地を見て氷帝メンバーに問う。たまには話すが、滅多に自分から口を開くことのない樺地を、氷帝メンバーも吃驚して見詰めた。
「……顔色、良くない、です」
 ゆっくり手を上げ、樺地はリョーマを指さす。え?と不二や跡部に注目していた一同は、リョーマの顔を見詰めた。
「越前くん?」
「気持ち悪い…」
 口を押さえたリョーマの身体がふらりと揺れ、慌てて不二は抱き留めた。いきなり走ったのが拙かったかと、リョーマはぐるぐるする頭でぼんやり思い、不二の服を強く握り締めた。
「樺地、医者だ、病院だ」
「ここが病院だっての。ほら、道開けろ」
 素早く群がる者達を掻き分け、忍足が道を空けると不二はリョーマを抱き上げて歩き始めた。細身で優しげな容姿の不二があっさりリョーマを抱えている姿に、廊下に居る一般人は唖然として見ている。
「ここから部外者は禁止。面会謝絶だ」
「えー、せっかく来たのに何でだよ」
「ふむ、まああの様子じゃ見舞っても返って具合が悪くなるだけだろうな」
「……ふん」
 ぞろぞろと不二の後に続いて行こうとしていた桃城達は、忍足に留められて文句を言うが、乾の言葉に渋々納得して踵を返した。
「おい、忍足、いい加減あいつのお医者さんごっこ、止めさせろよな」
「そうだそうだ。部長のくせに部活ほっぽって、失格だ」
 厳しい口調で言う宍戸と岳人に、忍足は眉を顰め跡部を指さす。そこに居ることを忘れていた氷帝メンバーは口を閉ざし、蒼くなって一歩後ずさった。
「そういう事は、俺に勝ってから言いな。いくぞ、樺地」
「ウス」
 跡部は白衣を翻し、その場を去っていく。残された一同はそれぞれ大きな溜息を付いて、毒気を抜かれたように病院を後にした。

「おっチビ〜、今日もお見舞いに来たよー」
 次の日、再び病院に来た菊丸は、上機嫌で声を掛け病室に入った。だが、室内はがらんとしていてベッドも綺麗に整えられている。
「あ、越前さんは今朝退院しましたよ」
「えーっ」
「随分早いですね」
 驚く菊丸と大石に、通りかかった看護士は首を傾げ苦笑して言った。
「普通なら後数日は入院するんだけど、どうしても退院するってきかなくて。…うちとしてもその方が良かったけど」
 後の言葉は小さく呟かれるように言っていたが、耳聡く聞いてしまった大石は、苦笑いを浮かべ礼を言うと病院から出た。
「そんじゃ自宅の方かな。行ってみようよ」
「暫くそっとしておいた方がいいんじゃないか。色々騒ぎもあったし」
 昨日の顛末を河村から聞いていた大石は、考え深げに菊丸を止める。頬を膨らませ、文句を言おうとした菊丸に、大石は続けて言った。
「それに、不二があのままでいると思うか?」
「……それもそうだにゃ。うーーん、乾あたりなら知ってるかも」
 懲りない奴、と思いながら大石は肩を竦め溜息を付いた。

 小さくくしゃみをしたリョーマを、不二は心配そうに見詰め温かい紅茶を勧めた。夏だというのに窓からは少し冷たい風が吹き込んでいる。
 今朝方不二に拉致されるようにして退院し、この高原リゾートホテルにやってきたのだ。なんでも不二の父親の関連で安く泊まれるらしく、高級リゾートっぽいのに中学生二人でもサービスは良い。
「ここなら邪魔されないだろうし、ゆっくり静養できるよ」
「はあ」
 紅茶のカップを両手で抱え、息を吹きかけて冷ましながらリョーマは曖昧に頷いた。確かに静かで環境は抜群だが、退屈過ぎる。ちらりとテラスから外を見て、リョーマは溜息を付いた。
「駄目だよ、まだ」
 小さく笑いながら不二は窘めた。リョーマの視線の先にはホテル施設のテニスコートがある。恨めしげに見るリョーマの口に、不二は軽く口付けた。
 赤くなって身を退くリョーマに幸せそうに微笑んだ不二は、次の瞬間目を薄く開き、後ろを振り向いた。
「こんな所に逃げ込んでいたとはな」
「……随分と鼻が良い」
「蛇の道はヘビって言うだろ。貴様がするような事はお見通しなんだよ」
 鼻先で嗤い、跡部は二人の側に近づいてくる。
「ねえ、どうでもいいけど、またここで続きやるつもり」
 白けたようにぼそりと呟くリョーマに、不二と跡部は息を止め、目を眇めて見た。それより、とリョーマは目を輝かせ、二人を見詰める。
「せっかくコートがあるんだから、あれで話し付けない」
 もちろん、自分も参加するけど、とリョーマはテニスコートを指さした。不二は眉根を寄せ難しい表情をする。
「あー、それ、賛成!」
「良い所だな、ここは」
「ずるいな、ずるいっすよ。二人きりでこんなとこ来て」
「騒ぐなって」
 賑やかな声に、不二は振り返って見た。険しい貌の額には青筋が見えるような見えないような。
「何故ここが…」
 一渡りみんなを見回した不二は、乾に目を留め冷たく見据えた。
「おチビを独り占めなんてずるいもんねー。トーナメントで決めようよ」
 負けないもんね、と菊丸は不二の殺気ある視線にビビりながらも言う。結局は騒ぎになるのかと、リョーマは大きく吐息を付いて立ち上がった。
「越前は審判だ」
 気勢を削がれてリョーマは大石を睨み付けた。大体副部長なら学校や部活休んでまでここへ連れてくるなと思う。
「早く良くなって部活へ出てくれ。それが一番平和への近道だ」
 自棄になっているような笑顔で大石が続ける。ぽんと肩を叩かれ、リョーマは深々と溜息を付いた。
「大丈夫、負けないから」
 にっこり不二がリョーマに笑いかける。
 確かに大石の言うとおり、早く治した方がいいなとリョーマは天を見上げた。

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