adoration -2-
 

 バスルームでリョーマの身体を清め、買い置きの下着を渡しジャージに着替えさせた不二は、溜息を付きながらキッチンでお湯を沸かしていた。
 あまりに身体に負担を掛け過ぎて、自由に動くことも出来なかったリョーマは黙ってされるがままでいたが、文句の一つも出ないのは相当怒っているのかも、と不安が怒濤のように不二を襲う。
 ココアを入れ、俯いているリョーマの前に出すと、不二は恐る恐るその隣に腰を下ろした。リョーマは口を閉ざしたままカップを取り、冷ますよう軽く息を吹きかける。
「明日、遅いっスよね」
「えっ、あ、うん。式は十時からだから、三十分くらい前に学校に着けばいいかな」
 いきなり問いかけられて不二は焦りながら答えた。非難の言葉や視線を向けられることもなく、リョーマは美味しそうにココアを飲んでいる。
 不二は狼狽しながらも、ほっと息を付いてリョーマを見詰めた。
 リョーマは顔を上げ、不二の方に向けると何故か戸惑うような瞳で見た。
 不二の鼓動が跳ね、抱き締めたくなって思わず腕が伸びる。それをなんとか押し留め、不二はリョーマに微笑んだ。
「泣かないでくださいよ、明日」
 ふっと不敵な笑みを返し、言われた言葉に不二は目を瞠る。
「越前」
「あ、でも、不二先輩の涙って貴重だから見てみたいかも」
「……君の涙も貴重だと思うけどね」
 軽く溜息を付き、不二はリョーマの目元に指先で触れた。
 さっきの名残で少し腫れているそこをそろりと撫でると、リョーマは手で不二の指を捕らえ握り締めた。
「帰る」
 数瞬躊躇った不二だったが、リョーマの指を離すと電話を取ってタクシー会社に掛ける。
 ちらりとリョーマの方を見ると、制服を膝の上に抱えぼんやりと前を見詰めていた。
「また、明日ね」
 タクシーに乗せ、ドアを閉めながら不二は努めて明るく言った。本当は帰したくない。リョーマの想いもまだ聞いていない。受け入れてくれたからといって、期待してはいけない。
 こくりと頷く姿がドアに遮られ、タクシーは走り出した。

 退出を促す音楽が始まると不二は立ち上がった。周りから啜り泣くような音が聞こえ、見回すと女子の何人かは目元を押さえながら列に並びだしている。
 多分、外部へ進学する者達だろう。大体の生徒はこのまま高等部に上がるので普通の卒業式よりは別れの切なさは無い筈だ。
 現に菊丸などは退屈な式に飽きたのか欠伸を噛み殺している。不二はその様に苦笑を浮かべながら前に続いて在校生達の間を抜けるように歩き出した。
 一番近くの列には二年生が並んでいるため、一年の姿はあまり見えない。そっとリョーマの姿を探して不二は視線を巡らせたが見出すことは出来なかった。
「不二、ボタンどうすんの」
「え?」
 こそりと囁く菊丸に不二は首を傾げて見た。講堂から出ると柔らかい日差しが溢れんばかりに生徒達に注がれている。一足先に外に出ていた保護者達が手を振ってそれぞれの子供を迎え、不二も母と父が呼ぶ声に振り返った。
「後でにゃ」
 菊丸も来ていた親を見つけたのか片手を上げると走り出す。不二は首を捻りながらそれを見送ると両親の所へ歩き始めた。
 積もる話もあるだろうと両親は先に帰り、不二はリョーマの姿を探して生徒達が散らばっている校庭に戻っていった。
 まだ沢山の卒業生在校生達が残っており、あちこちで輪が広がっている。
「あれ、不二はまだ無事だったんだ」
 唐突に声を掛けられ、不二はその声の持ち主を見て唖然とした。
 式に出る前は勿論きっちりとしていた制服がぼろぼろになり、前のボタンはおろか袖口のボタンすら付いていない。中に着ているシャツのボタンも、かろうじて一つ留められている他は全滅だった。
「凄い格好だね、大石。追いはぎにでも遭ったの」
「それよりたちが悪いかもな」
 大きく溜息を付いて大石は頭を掻いた。苦笑しながら言う大石の視線の先を見ると、在校生ばかりでなく一緒に高等部に進学する者たちまで、今日の戦果を手にしてはしゃいでいる。
「みんな大丈夫かな」
「今のところ手塚以外はお前だけかも」
 流石に手塚に突進する者は居ないらしい。気を付けろと言ってよろよろ去っていく大石に手を振り、不二はさてと顎に手を当てた。
 このまま突っ切るには時間が掛かりそうだ。かといって誰も居ないような死角を通ると肝心のリョーマを見つけることが出来ない。
 不二は暫く考えた後、人目を避けるように校舎の中に入り、人気のない階段を上がっていった。
 屋上まで行くと話し声など聞こえないことを確認して扉を開く。こんな日に屋上に来る者は居ないだろうと思ったのは当たりだった。
 フェンスの端まで行って校庭を見下ろす。さっきまでは沢山居た生徒達の姿はかなり少なくなっていた。
「まさか…帰った」
 そんな馬鹿なともう一度隅から隅まで見渡すが、目当ての影は見えない。落胆に肩を落とし、溜息を付く不二の肘辺りが小さく引っ張られた。
「ねえ、何見てるの」
 驚いて振り返った不二は憮然として立っているリョーマの姿に目を瞠った。ついで腕の中に引き込み抱き締める。
「ちょっ、不二先輩」
「帰ったかと思った」
「また明日って言ったじゃん。それより何してたんスか、こんなとこで」
 不二の腕から逃れようと僅かに身を捩ったリョーマだったが、むなしい抵抗だと悟ると大人しくなった。腕の中から見上げるリョーマに、つい不二の口元が綻んでしまう。
「探してたんだ、君を」
「こんなとこから見つけられるの」
「君だったら天の上からでも見つけられるさ。それより何処に居たんだい」
 眉を顰めるリョーマの頬にさっと朱が走った。目を伏せ、小さく溜息を付くリョーマを再び抱き締め、不二は離した。
「……待ってたら中に入ってくのが見えたから」
 校庭には出ず、周りが落ち着くまでここに居ようと思って、とリョーマは視線で屋上の扉の影になっている場所を示した。灯台もと暗しとはこのことか、いや下じゃなくて上だけど、と不二は苦笑する。
「行こうか」
 片手をリョーマの方に差し出すと不二は言った。暫くその手を困惑したように見ていたリョーマは、一つ吐息を付くと手を伸ばして握り締めた。
 言葉では表さなくても、繋いでいる手の温かさが雄弁に物語っている。不二は喜びに心を躍らせ、校庭に出た。
「先輩、にやけすぎ」
「そう」
「手、離しません?」
「やだ」
 文句を言っても自ら振り解こうとしないリョーマに、ますます嬉しくなって鼻歌さえ出てしまう。
 大きく溜息を付いて足を止めたリョーマに、やりすぎたかと不二も足を止めた。
「先輩!」
 強い声音に不二は姿勢を正して、俯いているリョーマを見る。疎らになった周りの者も、大きな声に二人に目を留め固唾を飲んで見ていた。
「卒業、おめでとうございます」
 何を言われるのかと身構えていた不二は一瞬驚愕に目を見開いたが、ゆったりと笑みを浮かべた。
「ありがとう」
 繋いでいた手を離し、その手を上げて校門を出る。
「また、ね。リョーマ君」
 はっと目を瞠るリョーマに背を向け、不二は歩き出した。


 眠い目を擦りながらリョーマは学校への道をゆっくり歩いていた。今日は始業式があるだけで授業はないが部活はきっちりある。
 去年の入学式はもう少し遅い時期だったから桜も殆ど散っていたなと思い出しながら、リョーマは門を潜った。
 今年は寒かったせいか、桜の花は満開から散り始めといったところか。
 はらはらと降りかかる桜の花をぼんやりと見上げていたリョーマは、背中をど突かれて前につんのめりそうになった。
「なーに風情に浸ってるんだよ。柄じゃねえな、柄じゃねえよ」
「……桃先輩よりはわかると思うけど」
 痛みに顔を顰め、リョーマは後ろで豪快に笑う桃城を睨み付ける。
 三年になってぐんと背が伸びた桃城は、力も相当付いているようだった。
「馬鹿言うな、俺だって桜の花に想いを馳せることなんざいくらでも」
「桜は桜でも桜餅とか」
 リョーマの言葉に桃城はがくりとこけた。これ以上構うと煩いと、リョーマは放っておいて歩き始める。
「こんのやろーっ、後で覚えてろよ」
 部活で勝負だ、と喚く桃城に背中越しに片手を上げ、リョーマは溜息を付いた。
 今学期からいくら探しても元三年生の姿は見えない。昨年度は部活を引退したとはいえ、校内に彼らの気配を感じていられた。たまに顔を合わせることもあった。
 けれど今は。
「あ、おはよー、リョーマ君。今年から同じクラスだね、よろしく」
 カチローの挨拶に目で頷き、リョーマは席に着くと窓の外を見た。桜並木の向こうに道路が見え、見知らぬ制服を着た者達が歩いている。
 なんと言うこともなくそれを見ているリョーマにつられ、カチローも窓の外を見た。
「あれ、高等部の制服……」
 大きな音にびっくりしたカチローは口を開けたままリョーマを見た。
 思わず椅子を蹴倒す勢いで立ち上がってしまったリョーマは、ばつが悪そうに顔を逸らすと唖然とするカチローを後目に教室を出た。
「ど、何処に行くの。もうすぐ先生来るよ」
「気分悪いから早退する」
「ええっ、リョーマ君!」
 引き留めるカチローに告げ、リョーマは足早に廊下を歩き始めた。学校の外に出てから、自分は何をしているんだろうと自嘲する。
 戻ろうかとも思ったが、今更帰っても余計に教師の印象は悪くなるだろうと、部活まで待つことにした。
 中等部と高等部は少し離れた場所にあるが、こちらから通学してる生徒も居るようで、何人かが歩いていた。
 こんな時間に来るなんて随分ゆっくり登校するんだなと思って見ていたリョーマの前を、母親らしい女性と生徒が通り過ぎていく。
 惹き付けられるようにリョーマはその後を付いていき、やがて高等部の門に入っていった。
 中等部のものよりもっと沢山の桜の木が校庭を縁取り、散りゆく花びらが渦巻いている中をリョーマは茫然と歩いていく。
 時折訝しげな視線を向けられるが、みな式の前の緊張感と期待感で足が地に着かない状況らしく、誰もリョーマに問い質そうとはしなかった。
 一番見事な桜の木の下に辿り着くと、リョーマは初めて足を止めそれを見上げる。
 雪が舞うように花びらが降りかかり、リョーマはその一片を掌に取って見詰めた。
 去年日本に来た時に見た桜はもう少し色が薄かったような気がする。あれは青学に入学する少し前で、日本のテニスのレベルにがっかりしていた時だった。
 リョーマの掌から風が花びらを奪い去った。思い出を噛み締めるほど年寄りでは無いけれど、ふいにまざまざと蘇る去年の出来事をリョーマは目を閉じて思い返していた。


 青学テニス部に入ってからも、あまり力を入れて活動する気にはなれなかった。日本の慣習である年功序列とか先輩後輩の礼とか、母親にかなりしっかり教えられなんとか学校に行っていた。
 親父に言わせればそんなものくそ食らえってことだろうが、問題起こせば即ラケットを取り上げると母親に宣言され渋々通っている。
 実のところ売られた喧嘩を買うのは上等だが、テニス以外は面倒くさいからなるべく波風立てたくない。
 そんな態度が益々相手を苛つかせるのだとしても、持って生まれた性格は直せないし。
 かなり力を抜き加減で部活をしていたリョーマだったが、一癖もふた癖もある先輩達との試合が面白くて部活も満更じゃないと思い始めた。
 手塚に負けてから、本気で強くなりたいと思った。テニスで負けたくない、誰よりも強くありたいと願った。
 テニスで勝つことに貪欲になった頃からあの視線に気付き、それを辿ると飄々としたいつも笑顔を絶やさない、といって本心を見せようとしない不二の顔があった。
 彼の視線はリョーマの意識の隅をつつき、微かに苛つかせた。自分でも認めたくなかったけど、無視は出来なかった。
 今度は何を見せてくれるのかな、という期待に満ちた不二の目は、リョーマが何かする度に一瞬は驚きに見開かれるのだが、直ぐに興ずるものへと変わっていく。
 その目がむかついて、何度か勝負を持ちかけたけどいつもはぐらかされてしまった。
 やっとちゃんと出来ると思って臨んだ試合も、雨で中断され中途半端なまま気持ちは放り出されてしまう。
 勝ち進み、強くなってきたと自負しても、不二の目は変わらずテレビの中のゲームを見ているのと同じような感じでリョーマを見続けた。
 誰に対してもそうなのだと思っていたが、身内である者が傷つけられた時は違っていた。
 容赦のない攻撃と冷たい視線にリョーマは目を瞠った。これがあの不二なのかと。けれど、それも本当の不二では無い。
 苛立ちが過ぎるとそれは目標へ変わった。全国を勝ち進む、負けないという目標は勿論あったが、いつか不二の視線を変えたいと思うようになった。

「あっれえ、おチビじゃない。どしたんこんなとこで」
「菊丸先輩」
 拳を握り締めていたリョーマは声を掛けられて目を開き、振り返った。
 高等部の制服を着た菊丸と大石がびっくりした表情でリョーマを見詰めている。
「ここは高等部だぞ。越前」
「そうそう、あっ、まさか飛び級で一気に高校生になっちゃったとか」
 思いついた菊丸が人差し指を立て言うと、呆れたように大石は首を横に振った。
 飛び級という制度が日本にもあるんだろうかとリョーマはちょっと首を傾げる。
「いえ、別に」
「今日は始業式じゃないのか? こんな所に居るなんて、先生は知ってるのか」
 心配そうに大石が立て続けに訊くと、リョーマは僅かに身を引いた。その様子にどうやらさぼりらしいと気が付いて、菊丸はにんまりと笑い、大石は頭を抱える。
「俺たちが卒業してさびしーから見に来たのかにゃ」
「そんな暢気な事を言ってる場合か。越前、直ぐ戻れ」
「いいじゃん、せっかくだから入学式に立ち会って貰えば」
「英二!」
 怒鳴る大石に菊丸は肩を竦めぺろりと舌を出した。リョーマはもう一歩身を引き、どうしようかと思案する。
「おチビ、居るならもっと目立たないとこに居なよ。終わったら遊びにいこ」
 こそっと言う菊丸に、大石は再び怒ろうとした。が、生徒や父兄達が一斉に講堂に向かう様を見て焦って菊丸の首根っこを掴み歩き始めた。
「入学式が始まる。越前、ちゃんと戻るんだぞ、いいな」
 いくらなんでも自分たちの入学式に遅れるわけにはいかないと、後ろ髪引かれる思いで大石は急ぐ。そんな大石とは裏腹に、菊丸はリョーマに顔を向けると、手を軽く振って去っていった。
 リョーマは大きく溜息を付き、閑散とした校庭を一渡り眺めると再び歩き始めた。

 関東大会の決勝後、不二の視線をあまり感じなくなったのはいつ頃だったか。
 気にしているつもりは無かったけれど、時折偶然目が合うとそれとなく避けられてしまい、それが癇に障った。
 今まであんなに煽っていたのに、自分の気持ちの整理が付けばこっちはどうでもいいのかと怒りを覚え、初めてリョーマは不二のことを先輩としてだけでなく意識しているのだと悟った。
 テニスが上手い、本気にならない、奥底の知れない……掴めない人間、不二周助に嵌れば多分泥の中に埋まるようにずぶずぶと抜け出せない。
 でも、試したくなる。その泥の底にある何かが掴めるかもしれないと。
 とりとめもなく考えながら歩いていたリョーマは、いつしかプレハブ小屋の並ぶ片隅へ来ていた。
 そこを通り抜けるとテニスコートがある。中等部のと変わらないそこには誰もいないのにネットが張ってあった。
 リョーマはフェンスの端まで行き、扉を開けると中へ入ってベンチに腰を下ろした。
 彼に嵌る前に抜け出そうと、極力目を向けないようにした。
 考えたりやらなければならないことは他にも沢山あったから簡単に知らなかった以前に戻れると思ったのに、出来なかった。
 逸らされないように気付かぬ振りをして不二の視線を受け止める。見られているという感覚は心地よかった。
 いつしか、その視線の感触が前と違うことにリョーマは気付いてしまった。
 微熱のような苦しげな想いの隠った瞳に度々ぶつかり、その都度隠そうともせず不二は戸惑ったようにリョーマから視線を外した。
 敵意ではなく、興味でもない、リョーマには初めての意味を伝えるそれ。始めはそれが何なのか理解出来なかった。
 全国大会が終わって三年生が引退した後も、時々感じる視線に、それはテニスとは関係ないのだとやっと解った。
「言えばよかったのに」
 目と目で通じ合うなんて歌やドラマの中でだけだ。はっきり言って貰わなければ、へたをするとずっと気付かなかったかもしれない。
 不二はそれで良いかも知れないが、宙ぶらりんのまま去って行かれるのはリョーマには我慢できなかった。
「嵌れば抜けられないのわかってたんだけど」
 視線の意味を知った時既に片足を突っ込んで仕舞ったのだろう。
 リョーマは吐息を付いて空を見上げた。このコートの側に桜の木は無いのに、風に乗って来たのかピンク色の小さい欠片がふわりと目の前を通り過ぎる。
 その花びらを目で追っていたリョーマは、扉の所に見知らぬ人影を見出して、はっと姿勢を正した。
「おや、その制服は中等部のものですね。ここは高等部のコートですが、迷子ですか」
 ジャージを着て、片手にラケットを持ったその人は面白そうにリョーマを見て言った。丸い眼鏡の中の瞳は見えず、表情が窺えない。
 怒っている訳では無さそうだが、ここは退散した方がいいかとリョーマは立ち上がって出口に向かった。
「お邪魔しました」
「君、越前リョーマ君でしょう。今年入った先輩に会いに来たんですか」
 そういう訳じゃ無い、と否定するようにリョーマは彼を睨み付けた。彼は笑みを浮かべると、扉から退いてリョーマを通した。
「もうすぐ式が終るから来ると思いますけどね。手塚君や大石君は」
 大石はともかく、手塚に見つかったら拙い、とリョーマはぺこりと彼にお辞儀をして足早にコートを離れた。
 三年生がコートへ来なくなり、視線の回数もめっきり減ってリョーマは考える時間が出来た。
 不二がどういうつもりで自分を見ているのか、自分はどうしたいのか。
 懸命に考えて、考え抜いて結論を出すのに年を越してしまった。
 気が付けば三年生が居なくなる時期が目の前で、時間の余裕が無くなってしまった。
 こっちがそんなに考えて、姿を見ればどきどきしてどう行動しようかと焦るのに、不二はただ困ったようにリョーマを見て簡単な挨拶だけで済ませてしまう。
 受験だからと練習試合も断られ、用もないのに電話することも出来ない。
 八方塞がりの状況を打破すべく偶然出会ったチャンスを利用した。
 でも、その機会を利用した試合も、不二の本気を引き出すことは出来なかった。
 テニスに対する本気と、自分への想いを最後まで隠すつもりかと悲しいより悔しくて、怒りが沸く。
 それは、不二が自分を意識しているというのが思い違いで、リョーマを後輩の一人としか考えてないということもありうるという恐怖が、怒りに姿を変えたものかもしれなかったけど。
 ポケットに手を突っ込み、リョーマはぐるっと一回りしてまた元の場所に戻ってきた。
 さっきまでは居なかった高等部の生徒が何人か集まって講堂の方を見ている。
 式が終わったのか、父兄達と造花を胸に付けた新入生達がざわめきながら講堂から出てきた。
 その様子に、卒業式が思い出されリョーマはじっと彼らを見ていた。
 このまま想いを引きずるのは嫌だと、思い切って卒業式の前日不二に二人きりで会いたいと告げた。
 それじゃ後で家に来てと言われ、リョーマは走り出そうとする心臓の動悸を抑えその場に向かった。
 もう時間がないのに、不二は本心を明かそうとしない。このまま会えなくなってしまうのかと思ったら堪えきれなくて、リョーマは想いを自分からぶつけた。
 はっきりと告白した訳じゃないから負けてないと思いながらも、なかなか告げてくれない不二に苛立ち、結局は挑発するしかなくて……やはりこれは負けだろうか。
 その後、挑発が功を奏しすぎたのか、一気に最後まで行ってしまったのは誤算だったけど、行為中の不二の熱い瞳は真剣でリョーマを満たした。
 ふと唇に触れ、あの時の激しい口付けを思い出す。
   『壊しそうだ……』
 壊してくれ、と思った。あと一歩が踏み出せない臆病さを壊して、新しい自分を創りたい。自分だけでなく、不二を取り巻く無意識に作った壁も。そして、不二の本気を手に入れたい。
 ぼんやりと口に手を当て立っているリョーマを、漸く異質なものと認知した教師達が不審げな目で睨んでいた。それに気付き、リョーマは肩を竦め外に向かって歩き始めた。
 そろそろ中等部の始業式も終わっているだろう。桃城は手ぐすねを引いてリョーマを待っているに違いない。
「リョーマ君、何にやついてるの」
 リョーマはびっくりして飛び上がった。恐る恐る振り返るとにこやかな笑顔で不二が立っている。さっきまで姿も気配も無かったのに、いつのまに来ていたのかと、リョーマは微かに顔を引きつらせて見返した。
「別に」
「思い出し笑いっていやらしいよね」
 含み笑いをする不二に、リョーマは顔を赤く染めた。言い返そうにも図星突かれ過ぎで何も言えない。何か言えばもっと深みに引き込まれるのは学習していたので、リョーマは黙ったまま俯いた。
 いきなり手を握り締められ、リョーマははっと顔を上げた。不二の顔が間近にあり、思わず身を仰け反らせる。
「な、何」
「暇そうだね。ちょっと一緒に来て」
 え、え? と訳が分からぬまま、リョーマは手を引っ張られ高等部の中へ戻っていった。周りの視線が集中するが、それにまったく構わず不二はどんどん歩いていく。
 逃げようかとも思ったが、諦めることにしてリョーマは隣を同じ速度で歩き始めた。ちらりと横を窺い、不二の高等部の制服姿を眺める。
 春休み中、何度か会ったがいつも私服で、制服姿は初めて見るものだった。その格好は見知らぬ人のようで、リョーマはどぎまぎして視線を逸らせた。
 手を離され、改めて周りを見るとそこはさっき来たテニスコートだった。そこにはさっきの丸眼鏡の人と手塚、大石が驚いて二人を見詰めている。
「越前、どうしてここに」
「戻らなかったのか? しょうがないなあまったく」
「僕が引き留めたんだ。越前がせっかくお祝いに来てくれたから、直ぐ帰しちゃ悪いと思って」
 不二の言葉に手塚は不審そうに眉を上げ、大石は汗を浮かべてそうなのか、とリョーマに目で問いかけた。
「いいじゃないですか。せっかく来てくれたんだから。久しぶりでしょう、打っていきますか」
 取りなすように丸眼鏡の人が言うと、大石と手塚は顔を見合わせた。今日は入学式だけの予定だったから何も荷物を持っていない。
「今日は挨拶だけのつもりで来たので、申し訳ありません」
 深々と手塚が頭を下げて謝る。こんな低姿勢な部長…元部長は初めて見たと、リョーマは驚いて目を瞠った。
「これから部活があるんで、スミマセン」
 一応リョーマも謝っておく。丸眼鏡の人は笑みを浮かべて頷いた。
「では、失礼します」
「あ、おい、不二っ」
 軽く頭を下げて不二は再びリョーマの手を取り歩き始める。慌てて大石が止めようと声を掛けた。だが、不二は意に介さず足を止めない。
「あの、いいんスか」
「いいのいいの。手塚と大石がいれば大丈夫。ほんとは明日新入生は顔合わせだから」
「じゃ、何で」
 校門を出て漸く不二は止まり、リョーマの方に身体を向けた。
「君を見せたかった。それだけ」
 不二の答えにリョーマは首を捻る。手塚や大石には今更だろうから丸眼鏡の人に見せたかったんだろうが、彼は一体何者なのか。
「ああ、あと二人に対しての牽制。卒業式以来会ってなかったし、離れて分かる心の機微ってのがあるから」
 キビって何だろう、とリョーマは不二を見た。その心が解ったのか、不二は苦笑する。
「リョーマ君、やっとちゃんと僕を見たね」
 カッとリョーマの頬が熱くなった。再び逸らそうとするリョーマの頬を両手で挟み込み、不二は真っ直ぐ瞳を向けた。
「そんなに恥ずかしい?」
「そんなこと、無いっスよ」
 からかうように言われ、リョーマは憮然として否定した。
「良かった。嫌われたらどうしようと思った」
「外見が変わっても、不二先輩は先輩でしょ」
 そりゃ、最初は見慣れ無くてどきどきしたけど、と口の中でリョーマは呟く。不二は真顔になってリョーマをじっと見詰めた。
「じゃあ、好き?」
「す……」
 直球の問いに思わずリョーマは目を丸くする。リョーマは頬に当てられた不二の手を自分の手で取り、握り締めた。
「……こんなとこで言えるかあっ」
 リョーマは脱兎の勢いで駆けだした。周囲の人間がずっと二人を好奇心に満ちた目で見ていたことに気付いていたのだ。確かに壁は壊れてしまっているようだ。でも、一般常識や世間体という壁は、少しは残して欲しいと思うのはリョーマの我が儘だろうか。
「リョーマ君、またね」
 背中にかけられた軽やかな声に、リョーマはがっくりと力が抜けてしまった。あれは絶対判ってやっている。
 やっぱり負けだ。あの時から、悔しいけど。後悔してないけど。
 部活が終わったら不二の家に行って入学祝いに何か奢って貰おう。ほんとなら奢る方だけど、こっちのお祝いは試合で、そして勝つ。
 リョーマは拳を握り締め、学校に戻っていった。

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