Imaging Match -1-


 桜の花が咲くにはまだ早く、といって寒さに震えるでもない風がうっすらと芽吹いた木々の枝を揺らしている。山海高校の裏手の山もそんな季節を迎え、鳥や獣が春を謳歌していた。
 そんな動物たちが居る奥ではなく校舎にほど近い森の中で卒業証書の入った黒い筒を持ち、真剣な眼差しで佇む人影に、一人の少女が近づいていく。
 「…広瀬先輩……お願いがあるんです…」
 声をかけられた時に、一瞬顔を綻ばせた海だったが、それが待っていた人間ではないということが判ると、表情を引き締めて少女に向かい合った。
 「何か…?」
 「…ボタン…いただけませんか?」
 いかにも清楚な感じの少女は顔を赤く染めて海の方をちらりと見上げながら呟いた。海は眉を顰め、軽くため息をついて応えた。
 「申し訳ないが、それはできない」
 「…す、すみませんでしたっ。あ、あの…卒業おめでとうございます」
 「ありがとう」
 海の断りに、少女はさらに顔を赤く染め、ぺこりとお辞儀をしてそれだけいうと、脱兎の勢いで去っていく。さっきから何度目になるだろうそんな状況を、海は苦い想いで見送った。
 「おーお、もてる男は違うねー、さっき二人泣きそうな女の子とすれ違ったけど、そういうことだったんか」
 ひゅーと口笛を吹いてかけられた声に、海は一瞬目を見開き、はっとしたように振り返った。
 「遅い!いつまで待たせる気だ、エン」
 「わりいわりい。ちょっとマリアにとっつかまってて…でも、ボタンくらいあげてもいいんじゃねーの」
 海の着ている風紀員長の制服?にボタンはない。だが、その下に着ているカッターシャツのボタンを欲しいと朝から何人もの少女たちがアタックしていることを炎は知っていた。海のことだから、真面目に付き合う気がない子にあげるのは良くないと思っているのだろうけど、せっかくのイベントに少女たちが可哀想になってくる。
 「そういう訳にはいかん」
 むっとしたように言う海に、最後まで頭固いやつ、と思いながら炎はため息をつき肩を竦めた。その頭の固いやつとのつきあいも今日までである。来年からは海は山海大学に、炎は無事に三年生に進級し道は別々に分かれていくのだ。
 「で、話って何?」
 昨夜、海は大事な話がしたいからと炎をここに呼び出していた。人気のない場所を選んだつもりが、ひっきりなしに訪れる少女たちに正直苛立っていたのだ。
 「来年、おまえは山海大学に進むのだろう?」
 「え?う、うーんと、どうかなー」
 いきなり海に問いかけられ、炎は驚いて見返した。高校三年ともなれば、進学にしろ就職にしろ少しは先を考えていなければならない。が、炎はまだ何にも考えていなかった。
 「進めたらいいなーとは思うけど」
 「なら決まりだな」
 ぽりぽりと頬を掻きながら言う炎に、海はにっこり笑って言った。
 「何が、決まりだ?」
 「おまえの今の学力では到底山海大学に受かるレベルではない。だから、私が家庭教師を務めよう。内申書も良くしなければならないからな、共に暮らせば生活態度も良くなる」
 随分なことを言われている気がして炎は肝心な部分を聞き逃した。
 「何なんだよ〜、おまえが家庭教師だって?そんな雇う金ねーぞ」
 「金などいらん。私は……」
 海は言葉を切り、じっと炎を見つめた。とたんに空気が変わった気がして炎は気を引き締め海に視線を戻した。
 「私はおまえと一緒の大学にいきたいのだ」
 「はあ?何で?」
 「おまえが好きだからだ。このまま卒業して離ればなれになってしまえば、今までのように会えなくなる。そんなことは耐えられん」
 淡々と言う海の言葉に、炎は絶句した。
 「………マジ?」
 「私はいついかなる時も真剣だ。ずっとおまえと居たい。おまえの顔が見たい。離れていると苦しい。それが好きだということではないのか?」
 本気のようだとやっと気づいた炎は、茫然として海を見た。こういう場所でこういうシチュエーションで、まさか男に、それも海に告白されるとは青天の霹靂である。
 「おまえが私の顔など見たくもないほど嫌いだと言うのなら、もう二度と会わない」
 「カイ」
 これも本気だろうということを理解して炎は頭を抱えたくなった。嫌いではない、が、そういう意味で好きかと聞かれたら応えに詰まる。でも、そう言ったらきっと海は本気で二度と顔を合わせないつもりだろう。
 「嫌いじゃないけど」
 「良かった。では、明日からさっそく始めよう」
 「げっ、ちょ、ちょっと待て…っておいっ」
 にっこりと満面に笑顔を浮かべて海はくるりと踵を返した。二度と顔も見たくないとは思わないが、かといって毎日家庭教師と生徒として顔を合わせるのもごめんこうむりたい。炎は慌てて海の後を追い、肩を掴んだ。
 「あのなあ、だからって明日からってのは」
 「そうだな。いろいろ準備もあるし。では後で連絡する。そうだ、これを…」
 いろいろな準備って何だ?と首を捻る炎に、海は制服の上着のジッパーを下げると中に着ていたカッターシャツのボタンを引き千切って差し出した。
 「これはおまえに…」
 「……」
 無理矢理炎の手に握らせると、そのままの格好で悠然と去っていく。唖然として見ていた炎は、改めて手の中のボタンをしみじみ見つめ、大きくため息をついた。
 新学期が始まる一週間前、うららかな春の日差しの中、海は片手に手みやげを持ち炎の家の前に立った。今日炎の両親が家に居ることはリサーチ済みである。やはり、一人息子を外にやるということになれば両親の許可は必要だろう。
 海は自分のやり方に手落ちがないか、もう一度確認しインターフォンを押した。涼やかな女性の声に海は名乗り、玄関へ入っていく。出迎えてくれた炎の母親は、びっくりするはど若く炎にそっくりだった。
 「ごめんなさいね、まだ寝てるの。今すぐ叩き起こしてくるから、待ってて」
 にっこり笑って居間に海を通した母親は、そう言うと二階へ上がっていく。暫くして大きな地響きが天井の方から聞こえ、炎の雄叫びが漏れ聞こえてきた。
 「…ったく、何だよ、こんな朝っぱらから春休みだってのに」
 寝乱れたパジャマ姿で居間に現れた炎に、海の胸はどきりと高鳴った。欠伸しながら海を見た炎は驚きにそのまま硬直した。
 「そんな格好で、お客様に失礼でしょ!」
 声と共に炎は扉の向こうに引っ張り込まれる。ついで、紅茶の入ったカップを盆に乗せ、母親がにっこり笑顔で入ってきた。
 「お構いなく…あ、とお話があるんですが」
 紅茶を置いて出ていこうとした母親を引き留め、海は居住まいを正した。取りあえず手みやげの菓子を差し出し、考えていた言葉を繰り出す。
 「……と言うわけで、一緒に暮らすことを了解してもらえますか?」
 滔々と述べた海の理屈はほぼ完壁で、反対する要素は無かった。母親はただ感心したように聞き入っていたが、表情を緩め笑うと意味深な目で海を見つめ頷いた。
 「ええまあ、結構なお話ですわね。でも、うちの息子にそんなにまで気を遣って下さるなんて…本当に良いお友達を持ってるわ」
 その言葉に海は一瞬ぎくりとして母親の顔を見る。まさか、ほんとの目的を悟られたのかと思ったが、いくらなんでもそんなことはあるまい、と海は僅かに頬を引きつらせながら笑みを浮かべた。
 「何見つめ合って笑ってんだよ、不気味だぜ」
 着替え終えた炎が眉を顰めながら居間に入ってくると、母親の隣に腰を下ろした。テーブルの上に出ている菓子の箱を見つけると手を伸ばすが、母親にはたかれてしまう。
 「私はOKですわ。夫も了解するでしょう。よろしくお願いしますね、広瀬さん」
 「はい。…ありがとうございます」
 ほっとして海は返事を返し、深々と礼をする。何の話か見えない炎は首を捻りつつ二人を見ていた。
 「何?何の話?」
 「エン、まさかこんなに早くねえ……」
 はあ、とため息を付き見る母親にますます訝しげに炎は視線を向けた。だが、母親はそれ以上何も言わずに部屋から出ていってしまう。残された炎はくるりと身を返し、海を睨み付けた。
 「一体なんの話してたんだよ?変な話じゃねーだろうな」
 「ご両親の了解も得た。来週からここに住むことになるから、引っ越しの準備をしておけ」
 大きなカタログを渡され炎はぎょっとしてそれを見た。それは駅前に新しくできたマンションのカタログで、広々3LDKの貸賃物件がメインのものであった。その部屋の一つに大きく丸印が付いている。
 「…おい…まさか…」
 立ち上がって炎は海に恐る恐る声を掛ける。
 「一応、家具調度はこちらで用意しておく。おまえは衣類と学習用具だけ持ってくればいい。来週中に引っ越しは済ませるぞ」
 海が来た理由は家庭教師の件だろうと思っていた炎は、頭をぶん殴られるようなショックに言葉を失って立ちつくした。一緒に暮らす…マンションで…ということは、一、二時間の家庭教師で顔を合わせるどころの話ではない。そんなこと許されるわけが…と考えた炎は、さっきの意味ありげな母親の言葉にさらにショックを受けた。
 「…あんの…くそお袋っ!」
 「自分の母上のことをそんなふうに言うものではない」
 拳を握りしめ、叫ぶ炎に海は眉を顰めて諫めた。大きくため息をついて、がっくりとソファに沈み込む炎の前に膝をつき、海はその両手を握りしめた。
 「私はおまえといつも一緒に居たいのだ。以前のようにほぼ毎日学校で顔を合わせるというわけにいかないのだから、せめて共に過ごす時間を多く持ちたい」
 握りしめた手の甲にキスをして見上げる海に、炎は顔を真っ赤に染めてしまう。あまりの臭さに眩暈がしそうで、炎はぞわぞわと背筋に悪寒が走り抜けた。
 「わ…判った、判ったから手離せっ!」
 「そうか、では来週迎えにくる」
 にっこり笑って手を握りしめたまま海は立ち上がり、炎もつられて立ち上がった。
 「では、また来週迎えにあがりますので」
 「ええ、どうぞよろしくお願いしますわ」
 きりっと挨拶をする海に、そう返す母親を驚いたように炎は見た。完全に面白がっているのが見て取れる。自分の息子をどう思っているのだろうか。
 「格好いいわねえ、広瀬さんて。母さんがもう少し若ければねえ」
 「格好いい、って日本語の意味違ってんじゃねーの。あれは、変な奴っていうんだろ」
 響くほどの音を立て炎の後頭部を殴り、母親はにっこり笑顔で海を見送る。海はもう一度お辞儀をすると歩き出した。


 すっかり設えられた新居に炎を迎え、海はうきうきとした気持ちで居た。いつから好きだと意識し始めたのか定かではないが、解った時にはすっかりはまり込み抜け出せなくなっていたのだ。
 同じ学校に居るうちはいい、だが、卒業して会えなくなると思った途端、目の前が真っ暗になった。自分が男である炎を好きだという気持ちにも驚いたが、それより会えなくなるということの方がショックだったのだ。
 どうすればずっと一緒に居られるだろうと考えに考えてこの方法を思いついた。もしできるなら、結婚して炎を自分のものにしたいのだが、今の日本の法律ではできない。
 思いついてからは、それを実行すべくあらゆる努力をして、一番の難関だろうと思った炎の両親の説得もあっさりと済んでしまった。
 「言っとくけど、俺、家事はなーんにもできないぞ」
 キッチンでお茶をいれている海にぼそりと炎は告げる。あれよあれよというまにここに一緒に住むことになってしまったが、嫌々なのだという意志表示がありありだ。
 「できるようになればいい」
 「はあ?…何でこんなことになっちまったんだか」
 「過ぎたことをいつまでもぐずぐず言ってないで、荷物は片づけたのか?」
 全部おまえのせいだろっ、と口には出さず心の中で叫んで炎は渋々荷物を片づけ始めた。必要な荷物だけを渡され、追い出されるようにして家を出てきた炎は取りあえずクローゼットの中に衣類をしまい込む。あの様子ではすぐに戻れば母親にまた家から叩き出されてしまうだろう。
 あらかた片づいた頃、いい匂いがキッチンからしてきて炎は匂いに惹かれるようにして部屋から出た。海は炎の好みも熟知していたが、それなりにちゃんと栄養を考えた献立で料理を作りテーブルの上に並べていく。
 「すげーな。料理もできんだ」
 「自分のことは自分ですると決めている」
 「へえ、おまえのことだから、男子厨房に入らず、とかなんとか言ってふんぞり返ってると思ったよ」
 感心したように笑いかける炎に、海も微笑みかけ座るように促した。料理はとても美味で、満足げに箸を運ぶ炎を海も嬉しく思いながら食事する。
 「まるで新婚のようだな」
 「ぶっ…」
 ふっと笑って言う海に、炎は思い切り吹き出して咳き込んだ。
 「大丈夫か?」
 「……じゃねーよ。何考えてんだか」
 漸く咳を治め、ぼそりと呟いた炎はちらりと海を見た。僅かに顔を赤く染めている海を見て、釣られて炎も赤くなってしまう。会話も弾まないまま食事が終わり、今日は片づけもあって疲れたからということで勉強はなしになり、早めに寝ようということになった。
 風呂から上がり、寝室とされている扉を開いた炎は、その場で凍り付いたように動かなくなった。 炎は先に上がっていた海が訝しげな視線を向けるのに、やっとの思いで口を開いた。
 「………こ、ここで…寝る…のか?」
 「うむ。本当なら布団の方が良いのだが、そうそう干して畳んでもいられないと思ったのでな。大きくて良い寝台だろう」
 満足げに見て言う海に、炎は意識が遠くなりそうになって額に手を当てた。8畳ほどもある広いフローリングの洋間に、どーんとダブルベッドが置いてあるのだ。淡いブルーで統一された寝室は確かに良い部屋だとは思うが、男二人でダブルベッドはないだろう。いや、もしかしたらキングサイズのベッドかもしれない。
 「俺、リビングのソファで寝る」
 「何を言う。そんなところで寝ていられるものか。良く学び長く遊び、良く寝る、それが学生のあるべき道だ」
 うんうんと頷いて言う海に手を取られて引きずられるようにして部屋に入った炎は、そのままベッドの上に放り投げ出されて慌てて枕を掴んで防御の姿勢をとった。
 「そんな格好で寝るのか? 明日も早い、私が付いている以上、遅刻は絶対に許さんぞ」
 リモコンのスイッチで部屋の明かりを消し、海は掛け布団を引き上げると目を閉じる。そんな海の隣で呆然としていた炎は、一挙に力が抜けてばたりと横になった。
 既に心地よい寝息を立てている海のぼんやりと見える横顔を見ながら、炎は考えすぎだっただろうかと複雑な感情を覚えながらなかなか寝付かれずに大きなため息を付いた。
 ここまでする以上、海の言う「好き」は自分の考える「好き」をぶっちぎりで引き離し、遠くまでいっちゃってるんだろうと思う。流石に海が本気だと理解したが、最後まで付き合うことが出来るか、自分には自信がない、というより分からない。
 これで相手が女の子なら行き着く先は分かるのに。無理なら無理ときっぱり断れない自分も、なかなか変な奴だよなと、炎は小さく自嘲した。

 朝、普通ならまだまだ寝ている時間に海は起きて時間を確認すると、そっと隣で寝ている炎の顔を見つめた。いつも人をまっすぐに見て大きな強い光を持つ黒い瞳は閉じられ、濃い睡毛が頬に影を落としている。
 海は微笑むと起こさぬようにベッドから降り、朝食の支度をするためにキッチンへ向かった。昨日は炎にもできるようになれと言ったけれど、暫くは自分がやらなければならないだろうと覚悟はしていたのだ。それに、自分が作った食事を美味しそうに食べる炎の姿を見るのも楽しいし。
 「いかんな。甘やかしては」
 緩んだ頬を引き締めて、海は食事の支度をあらかた終えると寝室へ向かった。海が掛けた声に全く反応せずのうのうと寝ていた炎も、掛け布団をひっぺがされては起きるしかない。床に落とされた炎は、ぼーっと目の前に居る海を見上げ、やがて事態を把握すると憮然として睨み付けた。
 「あんだよお、まだ時間あんだろ」
 「顔を洗ってこい。食事が冷める」
 目を擦りながら反論しても無駄だと諦めて洗面所に向かう炎を眺め、海は朝食の最後の仕上げを施す。顔を洗ってキッチンへ入ってきた炎は、きっちりとした和朝食に目を見張り、イスに腰を下ろした。
 「俺朝はいつもトーストなんだけど」
 「では、明日はそうしよう」
 「へ、あ、ああ…」
 完壁な朝食に文句のつけようが無く、単なるわがままのつもりで言った言葉にそう返され、炎は焦って箸をとった。このままでは食事で慣らされて…つまりは餌付けである…ずるずると捕まってしまうかもしれないと、炎は明日の朝はなるべく早く起きて自分でトーストを焼く決心をした。
 このマンションの場所から山海高校までは炎の自宅からいくのと同じくらいの時間しかかからない。海の大学までも電車ですぐの場所だ。同じ時間に家を出て、一日目の朝は始まった。

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