海とピンク


 雪の白さが街を覆い尽くし、音も飲み込んでひんやりとした静けさが満ちている。今日一日を重く苦しい感情と想いで過ごしたそれぞれは、何かに導かれるように真理亜の元へ足を向けていった。
 真夜中近くの通りは人の気配も車も無く、真理亜の姿だけがぼんやりと雪の中に浮かんでいた。だが、みんながふと視線を向けた先に、見慣れた赤い上着が鮮やかに目に飛び込んできた。
 驚き、喜び、笑い、泣き、それぞれ感情のままに、ぼろぼろになって真理亜の元にやってきた炎に向かい走っていく。一番先に炎の元へたどり着いた海は、いきなりその首根っこを掴むと抱き寄せた。
 「工ン……」
 ぐっしよりと濡れた海の身体は冷え切っていて、額に張り付いた髪からも何時間も外に居たことが判る。炎は微笑むと冷たい海の肩に手を掛けた。
 「おいおい、お前ってほんとーに悪運強いよなあ」
 「わしは、わしは嬉しいぞーっ!エンっ」
 「そんなに叩いたら、駄目ですよゲキ」
 「……」
 ぴったりと張り付いている海ごと、森や激は炎の背中を叩きこづき回す。黙って微笑みながら見ていた竜も、横から手を伸ばしてそっと髪に触れた。
 「…ただいま……」
 一人ずつに視線を向け、炎は再び見られないかもしれないと思っていた彼らの顔を見つめた。最後の瞬間まで諦めず、必ず真理亜との約束を果たし、ここに戻ってもう一度みんなと会うのだと、決めていた。
 どうやってここまで来たのか記憶は定かではないけれど、強く思えばそれは必ず叶う。炎はみんなにそれぞれ微笑み掛け、最後にまだ顔を見ていない海の頭に手を伸ばした。
 冷たく濡れた髪を撫で、炎は笑みながら海に声を掛けた。
 「水も滴るいい男ってか。いつも整理整頓身だしなみに煩いお前が、なんだよこれは」
 そんなからかうように言っても、海は顔を伏せたまま炎を抱き締め続けている。激のどつきにも離れずにいた海に、森は苦笑を浮かべ肩を叩いた。
 「消えやしないぜ、もう……大丈夫だ、カイ」
 森の言葉にはっと顔を上げた海は、それでも離れることはなく目の前の炎の顔をじっと見つめた。まるで目を離すとどこかへ言ってしまうのではないかというように、ぼんやりとした瞳は炎だけを映し続けている。
 「エン先輩、酷い怪我してませんか?どうやって戻れたんです?」
 他のみんなに遠慮して、ちょっと離れた所から見ていた雷が気付いたように言うと、慌てて翼が炎の腕を取った。
 「ぼろぼろじゃないか、直ぐ手当しないと」
 と言って辺りを見回した翼だったが、この真夜中近い時間に開いている医院などありはしない。この怪我で救急車など呼べば、何か事件にでも巻き込まれたのではないかといらぬ詮索をされてしまうかもしれない。
 暫く考えていた翼は、決めたように顔を上げると炎を見た。
 「僕の家に行きましょう。直ぐ近くですから」
 「そうだな、ヨクの家は医者だもんな」
 納得して頷く森に、医者は医者でも動物専門ですけどと笑って炎に言い、翼はまだ張り付いている海を見た。
 「…カイ、気持ちは解りますが早く手当しないと」
 翼の声も、みんなの不思議そうな視線も感じないように海はただぼんやりと炎を抱き締めたまま見つめている。軽く溜息を付き、炎は自分の身体に回っている海の腕を取った。
 「俺はここに居る。どこにも行かない」
 素直に離れた手を自分の頬に当て、しっかりと海の目を見つめて炎は告げた。判ったのか判らないのか、返事も無く海は立ちつくしている。
 「歩けるか?…よし、俺に掴まれ」
 歩きだそうとしてよろめいた炎を竜と森が支え、肩を貸した。だが、雪道では肩を貸していても歩きづらい。これでは早く治療したくても無理だと、森はいきなり炎を横抱きに担ぎ上げた。
 「うわっ、何すんだよ、シン」
 「怪我人は大人しくしてろって。この方が早いだろ」
 「だ、だったら背負ってくれって」
 「結構軽いな、お前」
 感心したように腕の中の炎を見る森に、顔を赤くして怒鳴りつける。だが、気にした風もなく、森は翼の家への道をすたすたと歩き始めた。
 「マリアさん、わしにおぶさって下さい」
 ほぼ半日雪の中立っていた真理亜も、気が抜けたのと疲れたのとで一歩も動けないでいた。それを見た激はしゃがみ込み背中を向ける。
 「でも……」
 「マリアさんもカイも、そのままでは風邪を引きます。僕の家で身体を乾かして、暖まって下さい」
 鼻眼鏡を指先で押し上げながら断固として言う翼に、躊躇いながらも真理亜は激に負ぶさった。確かにこのままでは動けず倒れてしまうかも知れない。
 「カイ先輩…行きましょう」
 「…カイ、行くぞ」
 茫然と立っている海に遠慮がちに雷は声を掛け、竜は背中を押すように手を当てて歩き始めた。漸く一歩ずつ歩き始める海の目は、炎から離れることはない。
 しんと冷え切り静まった道に、彼らの雪を踏みしめる足音だけが響いていく。通りを曲がった角に、風祭動物診療所の看板が見え、翼が先に立って門を開けみんなを中に招き入れた。
 「こんなに遅くで家族の入心配しないか?」
 「自宅は裏で離れてますから大丈夫です。今、鍵開けますから」
 森の腕の中で訊ねる炎に微笑み掛け、翼は診療所の扉を開いた。大きめの待合室から奥の治療室へ入り、普段は大型犬が乗せられるペッドヘ森は炎をそっと下ろす。さっそく翼は薬や包帯……勿論人間用のものである……を取り出し、雷に手伝うようお願いするとてきぱきと治療し始めた。
 「シン、タオル出してカイとマリアさんに渡して下さい」
 治療しながら言う翼に、森は頷いて勝手知ったる……翼とは幼なじみで、小さい頃はこの治療室に動物達と一緒になって怪我を治療してもらったりしたのだ……引き出しの中から清潔なタオルを取り出し、マリアに渡した。
 [よく拭いて乾かしなよ、マリアちやん。女の子が冷えたら身体に良くないからな」
 [ありがと…シン」
 礼を言って受け取り、頭を拭き始めるマリアから今度は海に視線を移す。相変わらずぼんやりと炎を見つめ続けている海を見て、森は溜息を付いた。
 「ほらほら、拭いて…」
 タオルを受け取ろうとしない海の頭に森はタオルを被せ、力任せにがしがしと拭いた。本当は濡れた服も脱がせて着替えた方がいいのだが、この家に海のサイズに合う服はないだろう。
 「酷い怪我ですね、よく無事で……」
 治療を終え、ほっと一息ついて翼は呟く。にこりと笑い礼を言った炎は、ベッドから起きようとした。
 「駄目ですよ。今夜はここで寝ていて下さい。……ここより待合室のソファの方がいいかな。無理に動いては駄目です」
 きっぱりと言い、翼は森に炎を隣に運んでくれと頼む。自分で歩けると言う炎をひょいと抱え上げ、森はさっさと隣のソファに移してしまった。
 「サンキュ」
 奥から毛布を引っぱり出して掛ける翼に、炎は礼を言った。僅かに頬を赤くして翼は当然のことですと言い、身を起こす。
 「もうすぐ鎮痛剤が効いて来ますから、眠って下さい。さてと、何か暖かい物でも飲みましょうか?」
 「賛成!」
 「あ、僕手伝います」
 翼の言葉に雷が手を挙げた。頷き、治療室の隣の事務室へ翼は人っていく。ひととおりみんなに暖かい飲み物が渡り、それを飲み終えると待合室の床にそれぞれ腰を下ろしていたみんなはほっとしたせいか睡魔に襲われ、激などは低いいびきを立てて眠り込んでしまった。
 壁に凭れたり、家の方からクッションや座布団、毛布など翼が持ってきた物にくるまって次第に全員が眠りにつく。だが、一人海だけは目を閉じてソファに横たわる炎の傍らに腰を下ろしたまま、その顔をじっと見つめていた。
 「…工ン……」
 「んな、情けねえ面すんなよ、カイ…天下の風紀委員長さまが」
 眠っているとばかり思っていた炎の目が開かれ、じっと海の瞳を見つめる。
 「………」
 炎は毛布から手を伸ばして海の頭をぽんと叩いた。途端にはっとして我に返った海は、初めて気付いたように意志の光のある目で炎を見つめた。
 「エン、お前はまったく…無茶を……」
 「あちゃ〜、気付いたらお小言かよ……でもまあ、その方がカイらしくっていいけどな」
 にやりと笑って言う炎に、海は言葉を詰まらせると顔を近づけた。徐々に近付いてくる海の顔に、憂いた顔も綺麗だなあとぽんやり思っていた炎は、それに焦点が合わなくなり自分の唇に何か柔らかい物が触れてぎょっとした。
 冷たいそれはしっとりと唇を覆い、暫くして離れていく。目を丸く見開いた炎の顔に、海は微笑みを浮かべて手を添え、再び顔を近づけた。
 「ん……んっ……」
 今度のそれははっきり口付けと判る。強く吸い、炎の唇を舌先で舐めた後、海は強引にこじ開けた中へそれを滑り込ませた。
 冷たい唇とは反対に、熱い海の舌は炎の口腔を動き回り目当てのものを見出すと絡ませて吸い上げる。抵抗しようにも鎮痛剤が効き、だるい身体では腕で海の身体を押す程度しか出来なかった。それも次第に弱くなり、ついには毛布の上にぱたりと落ちてしまう。
 「は…」
 漸く海の唇が離れた時には、炎の息は熱く上がっていた。
 「…何すんだよ………」
 顔を赤く染めて小さく怒鳴った炎は、何も応えが返らないことに不審を抱いて眉を潜めた。途端に胸に重くのし掛かってくるものに、慌てて下方を見る。
 「おい〜…何だよ、もう」
 自分の胸の上に、安らかな寝息を立てて目を閉じている海を見出し、炎は呆れて天井を見上げた。海は炎の胸に頭を乗せ、不自然な格好のままぐっすりと寝入っている。その幸せそうな顔に、炎は溜息を付き、ついでに欠伸もして再び目を閉じた。
 次に目を覚ました時にはもう海の姿は見えなかった。まだ高いびきを立てている激と、彼を枕にして寝ている学しか見えず、他の姿は無い。
 痛む身体をそっと起こし、炎はソファから立ち上がろうとした。
 「駄目っ! まだ寝てなさい」
 「マリア」
 大きな声で怒鳴りつけられ、炎はびくりと身を諌めた。途端に眠っていた激も飛び起き、正座してマリアの方に向かう。とばっちりを受けて床に転がった学は頭をさすりながら二人を見た。
 「ま、マリアさん。おはようございます」
 「早くないわよ、工ンはともかくあんた達はさっさと起きて戻りなさい。今日は土曜日で診療所はお休みだから良いようなものの、ヨクの家族の人が来たらびっくりするでしょ」
 腰に手を当ててびしびしと言う真理亜に、激は焦って学の襟首をひっ掴み外へ飛び出していく。唖然としてそれを見ていた炎は、真理亜の方へ視線を移した。
 「お、はよう……」
 「早くなんかないって言ったでしょ。エンに殊勝な挨拶されると戸惑っちやうわ」
 ふん、と横を向く真理亜の頬はうっすらと赤く染まっている。炎は苦笑を浮かべると再びソファから降りようとした。
 「駄目ですよ、まだ寝ていて下さい。暫くしたら、姉の車で近くの病院に送ってもらいますから」
 「もう大丈夫だって」
 真理亜の後ろから姿を現した翼に炎はそう言ったが、厳しい顔を横に振られ諦めて横になった。昨日よりだいぶん楽にはなっているものの、やはり傷の痛みは激しい。
 「他のみんなは?」
 「目が覚めた順に自宅へ帰ってもらいました。後で校長先生の庵に集まることになっています」
 あのヒドーを倒した時にマドー達が放った光線で学校は殆ど破壊しつくされてしまい、超常現象研究部の部室だった建物も崩れてしまったのに、校長の庵は無事に残っていた。校長自体も不思議な人物であるが、建物もそうらしい。
 「……カイ…は大丈夫そうだったか?」
 夕べの出来事を思い出して炎は口ごもりながら翼に間うた。翼は眉を潜め軽く溜息を付いて応える。
 「工ンが居なくなってからの彼は…まあ僕らも似たりよったりでしたけど、酷い様でしたからねえ。あんなにショックを受けるのは、多分…」
 「あいつとことん生真面目だからなあ、どうせ、俺が一人で行っちまったのは自分の責任だあ!なんて思って落ち込んでたんじやねーの」
 軽い調子で言う炎に、翼は暫く意味深な視線を向けていたが、ちらりと真理亜の方も見ると、目を閉じて頷いた。
 「そう…かもしれませんね。とにかく、朝僕が起きた時にはもう居ませんでしたよ」
 「えっ」
 驚いて目を見張る炎に、翼はにこりと笑みを浮かべた。
 「君が無事に戻ってきたんですから、そのうち元に戻るでしょう…多分ね。真理亜さん、ちょっと待ってて下さい。姉を呼んできますから」
 「ええ」
 誰よりも早く海が自分の側から離れたと聞いて炎は徴かにショックを覚えた。夕べはあんなにべったりとくっついて、離れようったって離してくれなかったのに。
 「昨日のカイ、別人みたいだった」
 真理亜がぽつんと呟く。自分のことに精一杯で他の人間の感情に鈍感になっていた昨日だったが、それでもいつもの海らしくない様子にはちょっと気付いていたのだ。
 自分を押し退けて炎を抱き締めていた海は、自分と同じくらいの時を街を彷徨うことに費やしていたのだろうと思われるほど濡れていた。意志の強い凛とした瞳は茫洋と見開かれ、炎だけを見ていた。そんな海に、涙を流すだけの自分は何だか子供っぽいようで真理亜はちょっと気後れしていたのだ。
 「マリアも別人みたいだったぜ。泣いちゃって。かわいーったら」
 「な、なによっ変なこと言わないで!」
 拳を握り締め、真理亜は炎の頭を叩く。あいてて、と頭を抱える炎にはっとして真理亜は顔を近づけた。
 「ご、ごめん」
 目の前に真理亜のアップがある。こういうシチュエーションはキスすのに絶好だなあと思った炎は、夕べの海の口付けを思い出して顔を赤く染め逸らした。
 「どうしたの?熱まで出てきたんじゃ」
 「随分じゅんじょーくんなのねえ」
 「姉さん!」
 心配してますます顔を近づける真理亜から離れようと身を逸らす炎に、笑いを含んだ声が掛けられた。はっと二人して扉の方を見ると、キュートな翼似のお姉さまが立っている。隣で呆れたように見ていた翼は、さらにからかおうとしている姉を止めた。
 「病院に行きますけど。ああ、しまったな、激を帰すんじやなかった」
 歩くのが容易ではない炎に、翼は呟いた。彼が居れば車までひょいと担いで連れていくことも出来るだろうが、真理亜と自分では外へ連れていくのも大変だ。
 「はい、掴まって」
 翼の姉は炎の方に近付いて行くと、腕を取り肩に回させて軽々と起きあがらせる。驚いて見ている二人の前を通りかかった彼女は、ちらりと翼を見ると眉を潜めた。
 「ぼーと見てないで、そっちの肩持ちなさい」
 「あ……う、うん」
 慌てて翼はもう片方の腕を取る。だが、ほとんど体重は彼女の方が支え、翼はバランスを取るだけで済んでしまった。

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