Little Hope 2−2

  今日は藤宮はまだジオベースに現れて居なかった。我夢はラーメンの乗ったトレイを持ち、食堂をぐるりと見回して目当ての人間を見つけると嬉しそうに近づいていった。
「ここ、いいですか」
「あ、ああ」
 同じくラーメンを啜っていた北田は驚いて我夢を見たが、頷いて隣を指し示した。
 梶尾ならともかく、自分に一体何の用だろうと北田は一旦箸を置いて我夢を見つめた。今日は梶尾も大河原も別の用事でここには居ない珍しい日なのだ。
「北田さん、車詳しいですよね」
 箸を割りながら我夢は北田に訊ねた。実用一点主義の梶尾と違って、北田は車の趣味に詳しく五月蠅いと瀬沼に聞いてある。梶尾がマコトの車に文句たらたらだったのを覚えていた我夢は、それなら北田に聞いた方が良いだろうと探していたのだ。
「割とな。何だ、買うのか?」
「ええ、欲しいなーって思って」
 にっこり笑ってちらりと上目遣いに見上げる我夢に、北田は、そんな目でおねだりすればきっと買ってくれる人は山ほどいるんじゃないかと内心思ったが、口に出すのはやめておいた。ここには居ないけれど、いつどこで梶尾の耳にそれが入るともしれない。
「どんなのがいいんだ。スピード重視? 居住性、燃費、値段。それ聞かなきゃアドバイスできないぞ」
「安くて早くて燃費がよくてゆったり乗れて安全な車」
 北田は置いていた箸を取って再びラーメンを食べ始めた。暫く二人のラーメンを啜る音が聞こえていたが、北田は食べ終わると箸を袋に入れ、ごちそうさまと置く。
「で、マジでどんな車がいいんだ」
「えっ、マジです…あ痛っ」
 デコピンされて我夢は額を押さえた。
「そんな車があったら俺が欲しいよ」
「何じゃれてるの? 梶尾リーダーが見たら頭から湯気吹くわよ」
 肩を叩かれ、北田は硬直した。何かを含んだ笑顔の稲城が後ろから二人の間に顔を覗かせる。
「じゃ、じゃれてなんかいませんよ」
「そう? ま、いいか。で、何の相談? 」
「車買おうと思って、北田さんに聞いてたんです」
 車か、と稲城は北田から手を離し我夢の隣に腰を下ろした。北田はそそくさとトレイを持って立ち上がる。引き留めようとした我夢は、稲城に腕を捕まれて再び腰を下ろした。
「後でな。確かパンフレットあったと思うから持っていくよ」
 そう言うと北田は素早く席を離れていく。それを聞いて我夢は頷き、多少のびてきたラーメンを食べ始めた。
「何で車欲しいの。別に今必要ないじゃない」
「…必要なんです。どうしても」
 我夢の答えに稲城は暫く顔を見つめた後、にっこり笑って言った。
「彼女でもできた? 」
 我夢は思わず噎せて胸を叩いた。顔を真っ赤にして咳き込む我夢の背中を、稲城は擦った。くすくす笑う稲城の声に、我夢は胸を押さえ顔を伏せたまま上げることができない。
「ごめんね。ほんとだったとは思わなかったから」
「ち、違いますよ」
「自分の好みでもいいけど、そういうことなら彼女好みの車にしておいた方がいいかもね」
 我夢の否定を無視して稲城はそう言うと、ぽんと軽く背中を叩き去っていった。ほんとに違うのに、と我夢はほとんど伸びてしまったラーメンを意地になって食べ終えた。
 食べ終わってから溜息を付き、我夢は稲城の言うことも一理あるかと考え始めた。さんざん世話になったから一回くらいは送る役目が反対になってもいいだろう。藤宮の好きそうな車ってどんなかな、と我夢はあれこれ思い浮かべた。
 仕事を終え我夢は部屋に戻った。今日は一日藤宮はここには来なくて、ほっとしたような寂しいような気持ちを我夢は覚えていた。
「こんなんで寂しいなんてしょうがないな。藤宮に迷惑かけちゃ駄目だってのに」
 拳で自分の額を叩き、我夢がベッドに横になると、ノックの音が聞こえ外から北田の声がする。ここジオベースはエリアルベースと違い、カードキーや暗証番号などの最新セキュリティを使っていない普通の鍵だ。
 慌てて我夢は扉を開くと北田を招き入れた。
「ほら、これだけあれば気に入ったのが見つかるだろう」
「すみません。わ、一杯だ」
 北田は手に一杯車のパンフレットや広告を持っていた。それらを今まで我夢が寝ていたベッドの上にばらまくように広げる。とりどりの色が広がる様は、まるで花が咲いたようにも見えた。
「結構あるんですね」
「だから、ちゃんと自分の意見を言ってもらわないと選べないって」
 我夢はパンフレットを掻き分けると、ベッドの空いた部分に腰掛け楽しそうにパンフレットを眺め始めた。北田は暫く口を挟まず、椅子に腰を掛けそんな我夢の様子を微笑ましく見つめている。
 そのうち我夢の手から除かれたパンフレットがベッドの脇に積み上げられ、空間が大きくなる。何枚か残ったパンフレットを見比べ、漸く我夢は北田の方を見た。
「この辺がいいかも」
「どれどれ」
 北田は椅子からベッドに移動すると、我夢が差し出したパンフレットを見た。意外な顔で自分を見る北田に、我夢はちょっとばつが悪そうに頬を指先で掻いた。
「これ、おまえの趣味か? 」
「え…違います…けど」
 そんなに自分が藤宮を考えて選んだ車は似合わないだろうかと、我夢は再びパンフレットを見る。シックな黒っぽい4WDと、青いスポーティタイプの車はどちらも藤宮には似合いそうだ。
「何でそんなの選ぶんだ」
「それは」
 藤宮のことを言うのは憚られ、我夢は口ごもった。自分の車なのに他人に合わせて買うなんてやっぱりおかしいのかもしれない。
 我夢はもう一度選び直そうと、パンフレットの山に手を伸ばしたが、手を滑らせばらまいてしまった。おまけに支えていた手まで崩れてしまい、ベッドに倒れ込む。やれやれと北田は我夢の上からパンフレットを取り除き始めた。
「我夢」
「えっ、あっ、藤宮」
 扉の方から低く冷たい声が聞こえ、我夢はベッドに腹這いになったまま振り返った。ノブに手を掛けたまま、藤宮はきつい目でこちらを睨んでいる。その目が我夢の上に乗っかるようにしていた北田に止まった。
「あ…う…と、取り敢えず、ちゃんと我夢の趣味で選べよ。じゃ、ま、また来るから」
 北田は自分に向けられた藤宮の殺気を帯びた視線に、冷や汗を浮かべながらそそくさと立ち上がり集めたパンフレットを我夢に渡して部屋を出ていった。
「何をしていた」
「車、買おうかと思って」
 咎めるような口調と視線に、我夢は平静を装って答えた。藤宮は部屋に入り、扉を後ろ手に閉めると腕を組んで我夢を見下ろした。
「別に、必要ないだろう」
「いるよ。いつも誰かに送ってもらうのもなんだし。免許もちゃんと持ってるのにさ」
 我夢の反論に、藤宮の片眉が上がる。ゆっくり近づいてくる藤宮に、我夢は身を縮ませた。藤宮は我夢の側に置かれていたパンフレットを何冊か見ると、そのうちの一冊を選んで目の前に出す。その車は我夢の趣味に近い物だった。
「そっちよりはこれの方がおまえに合う」
「あ、ありがとう」
 素直にパンフレットを受け取って、我夢はそれを胸に抱き込み藤宮を見上げた。藤宮はさっきまでのきつく冷たい視線ではなく、不思議な瞳で我夢を見つめている。その瞳に、さっきまで半分怯えてどきどきしていた我夢の胸の鼓動は、別の意味で高鳴ってきた。
「今日はもう来ないかと思ってた」
「顔が、見たかった」
 藤宮は我夢の方に手を伸ばし、頬に触れた。びくりと竦んで目を閉じる我夢に、藤宮はゆっくり手を引き拳を握りしめる。  
扉が閉まる音に目を開いた我夢は、すでに藤宮が消えてしまった空間をぼんやりと見つめた。そっと藤宮が触れた自分の頬に我夢は指先で触れる。頬も指先も炎を持ったように熱い。  我夢はその指先に口付けた。
 昼食を済ませたラウンジで我夢は、昨日藤宮が選んでくれた車のパンフレットをうきうきと眺めていた。昨日のように藤宮に優しくされると、好きになってくれているんじゃないかと微かに希望が持てる。こんな程度で期待しちゃ駄目だと叱咤しながらも、頬が緩むのは止められない。
「何にやにやしてんだ。おっ、車買うのか」
 強く背中を叩かれ我夢はテーブルの上に突っ伏してしまった。どついてきたのは志摩で、我夢の手から離れたパンフレットを取るとそれを手の甲で叩いた。
「我夢、男ならこんなちゃちいおもちゃなんぞ買うな! もっとこう、がーんとでかくてどーんと押し出しがよくて山だろうが川だろうが砂漠だろうが、がんがん走れる車にしなさい」
「日本に砂漠はありませんよ。それにやたらに河原や山道を走るのは環境破壊の元になります」
「口答えする生意気小僧は、こうだ」
 志摩は我夢のこめかみに拳を当て、ぐりぐりと押しつける。痛みに悲鳴を上げる我夢に、豪快に笑うと志摩は向かい側に腰を下ろした。
「酷いなあ、もう」
 頭を押さえて志摩を涙目で睨んだ我夢は、パンフレットを取り戻すと大事そうに抱え込んだ。後から来た吉田と桑原が、面白そうに笑みを浮かべながら同じテーブルに付く。
「そんなひ弱な腕じゃハンドル取られるだけだしな、それくらいのお子様車の方が似合いだろう」
 吉田の言葉に、もしかしたら藤宮もそういう意味でこの車を選んでくれたのだろうかと、我夢は苦笑いを浮かべた。
「我夢、車買ったらどっかドライブ連れてってね」
 別のテーブルでジョジーとお茶をしていた敦子がくるりと我夢の方を向いて言った。夢中でテレビを見ているから…破滅将来体が一旦去ってから、オペレーターの仕事は随分楽になってるらしい…こっちのことは気にしてないだろうと思ったのに、しっかり観察されていたようだ。
「ダメだよ、アッコ。我夢が車買ったら彼氏のお迎えがなくなっちゃうじゃナイ」
 笑って言うジョジーに敦子は微かに眉を寄せると、不愉快そうな表情で呟いた。
「だから早く買えばっての。女の子じゃあるまいし送り迎えなんて変よ」
「ソッかなあ。私はあの顔好きで見たいから、来て欲しいケド」
 ジョジーの言葉に、我夢は驚いて見つめた。ジョジーは我夢の方に顔を向け、好きなのは顔だけヨと告げる。ほっとしたような、複雑な気分で我夢は再びパンフレットに視線を戻し、今ある貯金の額を計算し始めた。
「ほんっと、サイッテー」
 突然の声に我夢は自分のことを言われたのかと、びっくりして顔を上げた。だが、声の主である敦子は壁に掛けられているテレビモニターを睨んでいる。状況が掴めず、我夢は目を瞬かせテレビを見た。
 ジオベースはエリアルベースと違って日本の地上波、衛星放送など全てキャッチできる。今の時間の民放はワイドショーやバラエティなどをやっているのだが、映っているのはどうやら昼のドラマらしかった。
「いくら復讐のためだからって、こういうやり方で女性を辱めるのって卑怯よ。主役も泣き寝入りしないで反撃すればいいのに」
「でも、この人はこの男がスキだから、反撃なんてしないヨ。それに男の方だってホントはこの人のことスキじゃなきゃ、出来ないと思うんだケド」
 ドラマの中のことなのに、そんなにぷりぷり怒らなくてもいいんじゃないかと思いながら、我夢はテレビを見た。内容はサスペンス風で両親を殺された男が、復讐のために殺した男の娘に近付いていくという話で、今回は男がとうとう牙を剥き出し娘をレイプした所らしい。
 内容を知った我夢は、胸が痛むのを感じてテレビから視線を逸らした。泣くのを堪えて床に跪いている主役の女性と自分が重なって見えてしまう。女と男じゃ、傷つき方も違うのだから重なるなんてことは無い筈なのにと、我夢は痛む胸を押さえて深呼吸した。
「ね、そうダヨね。スキじゃなきゃ出来ないよね」
 ジョジーが首を傾げて振り向いた。我夢に訊いても無駄だと思っているのか、ジョジーの視線は隣のハーキュリーズに注がれている。
「…そりゃまあ…、なあ」
 あからさまに訊かれて流石のハーキュリーズも、ばつが悪そうに頷き合った。その様子にジョジーは片眉を上げる。
「男って、ホントにもう」
 音を立てて敦子は椅子から立ち上がり、ラウンジから出ていく。慌ててジョジーも後に続いて出ていった。
「しかしなあ、実際男の性って奴はどうしようもないからな」
「うんうん、好きだとか関係なく勃つときゃ勃つし」
 女性陣の影が無くなると、途端に吉田と志摩は大きな声で話し始めた。桑原は苦笑するだけで会話には加わらない。
「我夢、お前だって綺麗なお姉さんを見ればその気になっちまうだろ。好きとか以前に」
「えっ、そ、それは」
「無いなんて言ったら絞めるぞ。人間正直にならなきゃいかん」
 志摩にばきばきと指を鳴らされ、我夢は後ろに身を引いた。
「で、でも、あんな風に、憎んでる相手にもその気になれるんですよね」
 我夢は俯いて言った。あれはドラマの中の出来事だったけれど、我夢の身に起こったことは事実だ。藤宮は憎んでるのに…いや、だからこそ我夢を犯したのだ。
「そうだなあ…どっちも情だからな。情が昴まればやっちまうかもしれないな」
 どっちも情という吉田の言葉に、我夢は顔を上げて見る。感慨深い表情を浮かべ、吉田はじっと我夢を見つめていた。
「犯罪者にはなるなよ、男でも女でも強姦は犯罪だぞ。親告罪だけどな」
 にやにやと笑みを浮かべながら志摩は我夢に言うと、反対にやられそうだなと自分で突っ込みをいれて大声で笑う。当たらずとも遠からずな言葉に、我夢は苦笑いを浮かべて立ち上がった。
 藤宮に触れられる度に、その部分が熱くなって胸がどきどきするけれど、その逆に我夢の心は冷たい空気に晒されるように凍ってしまう。
 このまま藤宮に甘えて、側に居てもいいのだろうかという思いはいつも抱いている。いっそ離れてしまえば、この熱さも冷たさも感じなくなるだろうけど、我夢には藤宮の側に居たいという気持ちの方がまだ強かった。
「迷惑、掛けてるよなあ」
 溜息を付きながら我夢は研究室の扉を開いた。研究室には樋口と神山の姿があり、藤宮は見えない。ほっとするような残念な気分で我夢は中に入っていく。
 神山は樋口とデータの束を見ながら検証をしていたが、我夢の姿を見ると笑みを浮かべて軽く会釈をした。



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