パスカルの群 −藤宮−2

   その建物の敷地内に入り、駐車場に車を停め二人は降りた。我夢は持っていた鍵をしみじみと眺め、首を捻りつつ建物の入り口に向かった。
「いらっしゃいませ」
 にこやかにフロントマネージャーに声を掛けられる。藤宮は、口を開けてロビーのシックで豪華な丁度を眺めている我夢の手から鍵を取ると、それをフロントマネージャーに見せた。
「これはどの部屋だ」
「最上階右奥の302号室になります。ただいまご案内いたしますので」
「いや、いい。我夢、行くぞ」
 踵を返し、藤宮はまだきょろきょろと辺りを見回している我夢を促してエレベーターに乗った。高そうに見えたのに三階が最上階とは、空間を贅沢に使っているホテルらしい。人気が無いのは、シーズンオフだからだろうか。
 示された部屋に鍵を差し込むと、扉は滑るように開きゆったりとしたリビングが目に飛び込んできた。白と青で統一された家具や壁紙はセンスが良く、清潔感を感じさせる。カーテンが開けられた窓一杯に青い海が広がっていた。
「うわーっ、いい眺め。オーシャンビューってやつだね。あ、こっちにも部屋がある」
 隣の部屋への扉を見つけ、はしゃいだ声で我夢は入っていった。中でも何か見つけたのか、嬉しそうな声が藤宮の所まで響いてきた。
 藤宮は何故ここの鍵を石室が渡したのか怪訝に思い、辺りを見回してみた。藤宮の視線が優美な曲線を描くサイドテーブルの上に止まり、ゆっくりと近付いていく。
「我夢、ちょっと来い」
「何? こっち凄いよ、家族みんなで寝れそうなくらい広いベッドがあるんだ。ツインなのにもったいないね」
 極めて庶民的なことを言いながら我夢は、隣から出てくると藤宮の側に近付いた。藤宮はテーブルの上から取ったものを我夢に見せる。
「復学許可書? あ、大学のか。確か来週って言ってたっけ。ほんとだ、えーと、今日からだと丁度一週間あるね」
 でも、なんでこんなもんが、と呟きながら我夢は藤宮の手からそれを取ってしみじみと眺めた。藤宮は、これは暗に石室が一週間の執行猶予期間を示しているのかと、顎に手を当て溜息を付いた。ここまでお膳立てされるのは、自分が不甲斐ないからかそれとも単に我夢を甘やかしているのか。
「ってことは、ここやっぱりコマンダーが用意してくれたんだよね。一週間休暇ってことかな。うわー、まさか全額自腹ってことないだろな」
 我夢はやたらとはしゃいだ声を上げ、眉を寄せて独り言を言っている。側にいる藤宮を意識しているのか、その声はわざとらしく聞こえた。
「もしそうなら、俺が払うから安心してくつろげばいい。せっかく用意してくれたんだ。ありがたく使わせてもらおう」
 藤宮はそう言うと我夢を抱き寄せた。身体を竦ませる我夢の頬に口付け、その手から紙を取るとテーブルの上に置き、藤宮は強く抱き締めた。
 今腕の中にあるこの身体も心も、失いたくない。藤宮は、地球のため、我夢のために全てを捨てられたと思っていた。命すらどうでもいいと思っていた。なのにこんなにも欲しいという、欲望が全身を駆けめぐっている。
 石室から与えられた猶予期間に、自分は決心を付けることができるだろうか。一度は決心した筈なのに告白し、失うかもしれないという恐怖に藤宮は怯えていた。
 久しぶりに抱き締めた我夢の身体に、藤宮の身体が素直に反応していく。何度も柔らかい我夢の唇に口付け甘噛みすると、それはゆったりと解け熱い息を吐き出した。
 このまま身体だけでも一つになって、分かれることも出来なくなるほど溶けてしまえたなら。
「藤宮…」
 我夢の声を奪うように藤宮は深く唇を合わせ、貪っていく。藤宮が舌を差し入れ、滑らかな口腔を辿りくすぐると、我夢は眉を寄せ微かに身を震わせた。
 濡れた音を立てながら藤宮はなおも舌を絡ませ、吸い上げる。藤宮の肩口を掴んでいた我夢の手は、それにつれて強くシャツを握り締めた。
「は…ぁっ」
 漸く藤宮が唇を離すと、我夢の膝から力が抜け崩れ落ちかける。それを支え、藤宮はそのまま隣の部屋へ向かった。
 我夢が言うほどの大きさではないが、品の良いセミダブルのベッドが二つ並んでいるうちの一つにその身体を横たえ、藤宮は再び口付けた。
 我夢の両腕が藤宮の首に廻り、たどたしい動きながらも口付けに応えていく。藤宮はその行動に身体の奥から熱が沸き起こるような感覚を覚えた。
 興奮のあまり微かに震える手で藤宮は我夢のシャツを剥いでいく。日焼けしない肩から鎖骨、胸が露わになっていき、藤宮は手のひらでそれを確かめるように撫でていった。
 藤宮の指が乳首を探り当てると、我夢は僅かに身を捩って逃れようとする。それを許さず、藤宮は指先で乳首を押し潰すように回した。
 ぷつりと堅くなっていくそれの感覚を楽しむように、藤宮は弾くように指を動かす。我夢の首元に埋めていた藤宮の耳に、指を動かすたびに短く息を飲む音が聞こえ、更に熱を煽った。
 首筋から鎖骨を唇で辿り、時折強く吸い上げながら藤宮は目的地へゆっくりと移動していく。上下に大きく動く我夢の胸へ辿り着くと、指先での悪戯に赤く充血した乳首に藤宮は軽く齧り付いた。
「ひっ…!」
 びくりと大きく我夢の背が仰け反り、手が藤宮の髪を掴む。けれどそれは抵抗のためではなく、どうしていいか判らないように、我夢は藤宮の髪に埋めた手を握り締めた。
 普段は他人に触られない髪と頭への愛撫のような我夢の手の動きを、藤宮は暫く楽しんでいたが、やがて手を下腹部へ伸ばしていった。
 布の上から既に熱くなっている我夢自身をやんわりと握り締める。揉むように愛撫すると、我夢はむずかるように首を横に振った。
 ベルトとボタンを外し、下着ごと引き下ろして我夢の下半身を露わにする。無意識のうちに閉じようとする我夢の膝を自分の膝で割り、藤宮は腰から狭間へと手のひらを滑らせた。
 半ば勃ち上がっている我夢自身をなぞるように指を滑らせ握り込むと、我夢の手に力が入った。先走りの液を零し始めた我夢自身を、藤宮は緩急つけて愛撫しながら胸への愛撫も続けていく。
 乳首を舌先で転がすと、それに呼応するように我夢自身も藤宮の手の中で熱を増した。
 今までも何度か抱いたことのある愛しい者の身体の、全てを感じ取りたいと藤宮は唇や手で隈無く我夢の身体を愛撫していった。
「…は…ぁ…や、も」
 果てることも許されず身体中を刺激されて、我夢は目尻に涙を浮かべ頭を振って抗議した。肌の感覚が剥き出しにされたのか、藤宮が軽く触れるだけでびくりと震え、熱い吐息を漏らす。
 藤宮が何度か手の中のものを扱くと、我夢は息を飲み自身を吐き出した。しっとりと汗ばみ、全身から力を抜いて横たわる我夢の身体から、残りの服を取り去る。布地が擦れる感触にも感じるのか、我夢は小さく震えた。
 藤宮は我夢の両足を抱え上げ、奥まった部分を曝け出すと、手の中に受け止めた液をそこに塗り込めた。力が抜けていたせいか、その部分は藤宮の指を苦もなく飲み込んでいく。
 だが、二本目はすんなりと入らず、藤宮は一旦指を引き抜いた。ほっとして緊張感の解けた我夢の双丘を押し広げ、藤宮はその部分に唇を押し当てた。
「えっ…やだ」
 我夢の弱い抵抗を無視して、藤宮は襞を解すように舌で潤していく。藤宮は充分潤ったそこにもう一度指を差し入れた。
 二本の指で内を縦横に動かすと、我夢はぎゅっと藤宮の指を締め付けた。藤宮の指がある一点を突くと、我夢の口から声にならない声が上がる。
「ここがいいのか?」
 答えられぬことを承知で訊くと、藤宮はその部分を重点的に攻めながら、その刺激で熱くなり始めてきた我夢自身を口に含んだ。
「や…ぃや…だ」
 藤宮の口の中で我夢自身は急速に成長を遂げる。口全体で扱き、舌で先端をくすぐるように愛撫すると、我夢は藤宮の頭を押しのけようと腕を伸ばした。
 震える我夢の手をそのままにして、藤宮はなおも食い尽くすかのようにそれに舌を這わせた。零れる液を掬うように舐め上げ、口に含んで強く吸い上げながら指を突き入れると、我夢は掠れた悲鳴を上げ藤宮の口中に果てた。
 ごくりと我夢の放ったものを飲み込み、藤宮は手早く服を脱ぐと、足を抱え直して既にはち切れそうになっている自身を指での愛撫で柔らかく解れた部分へ押し当てた。
 充分に解してあったせいか、指より何倍も体積のある藤宮自身でも僅かな抵抗のみで、内に侵入していける。熱い我夢の内部に締め付けられ、藤宮はさほど動かないうちに中に放ってしまった。
 藤宮は荒く息を吐き、同じように肩を上下させている我夢の身体を抱き締め口付けた。我夢の両腕が藤宮の背中に廻り、同じ力で抱き締める。唇を離すと、藤宮は汗で張り付いた我夢の髪を掻き上げ、熱で潤んだ瞳をじっと見詰めた。
 何か言いたげに我夢の唇が微かに動く。声にならない囁きは自分への非難ではないと、藤宮は思いたかった。
「大丈夫か、我夢」
 こくりと我夢は頷き、僅かに躊躇いを見せた後、頭を持ち上げて藤宮の唇に触れるだけのキスをした。驚き目を瞠る藤宮に、我夢ははにかんだ笑みを浮かべた。
 藤宮は思いも寄らない我夢の口付けに、熱が滾りだす。溢れるような想いと情欲とを抱え、藤宮は我夢の内でまた堅くなった自身を動かし始めた。
「あっ…ぁ…」
 藤宮が放ったもので中での動きはスムーズになり、突き上げる度に濡れた音が響く。我夢自身も藤宮との間に挟まれ擦られて、濡れた音を立てていた。
 それに気付いた藤宮は、片手を間に差し入れ我夢自身を掴み自分の動きと同じように擦り始めた。藤宮の背中に廻った我夢の手に力が込められる。断続的に我夢の口から嬌声が漏れ、藤宮が最後に大きく動くと、切ない悲鳴を上げて同時に果てた。
 中から自身を引き抜き、藤宮は涙を浮かべた我夢の目元に口付けを落とす。そのまま我夢の息が整うまで何度もゆっくり髪を撫で続けた。
 漸く息が整ってきた我夢を抱き上げ、藤宮はバスルームに向かった。バスタブにそっと我夢を降ろし、シャワーで汗と汚れを流していく。
「…自分でできるよ」
 我夢は掠れた声で藤宮に言ったが、その言葉とは裏腹に腕は疲れ切って上がらないようだった。藤宮はボディソープを泡立て我夢の身体を洗い始めた。
 時折ぴくりと反応する我夢に熱が上がってくるが、これ以上求めれば歯止めが利かず壊してしまうかもしれないと、藤宮は洗うことに集中していった。
 流石に、内を洗おうとすると必死に我夢は抵抗したが、それを躱して藤宮は指を挿入し白濁した汚れを掻き出した。
 最後に自分も軽く洗い流すと、藤宮は我夢をバスタオルでくるみ、使わなかった方のベッドへ降ろして寝かせた。
「藤宮」
 隣のベッドの始末をするために離れようとした藤宮は、我夢の声に引き留められた。
「なんだ?」
「お腹空いた…かも」
 哀しそうな表情で切なげに何を言うのかと、びくびくしながら訊いた藤宮は、我夢の言葉に拍子抜けして息を吐いた。
 我夢の頭をくしゃりと撫で、藤宮は頷いてルームサービスを取るために電話を掛ける。ついでにぐしゃぐしゃになったシーツや枕を隣のベッドから剥ぎ取ると、ランドリー袋に無理矢理詰め込んでドア付近に置いた。
 電話をしてから気が付いたが、まだ昼を少し廻った時間で、外は陽が降り注ぎ並みに煌めいている。真っ昼間から何をしていたか、あれを見れば判ってしまうなと藤宮は僅かに後悔したが、結局ルームサービスが来た時にそれを持っていってもらった。
 ワゴン一杯に載せられた食べ物を藤宮がベッド脇まで運ぶと、我夢は半身を起こしさっきまでの疲れてだるそうな気配など微塵も感じさせず、目を輝かせた。
「ここで食べるか」
「汚しちゃいそうだけど、平気かな」
 我夢は少し躊躇ったが、そのままワゴンの上のサンドイッチを摘んだ。一口で食べてもう一つ、と手を伸ばした我夢を止め、藤宮はクローゼットの中からガウンを取り出し肩に掛けた。
 バスタオルは既にはだけ、赤い花が散らばる白い肌が藤宮の目には毒だったのだ。我夢は自分の格好に気付いて慌ててガウンを羽織り、照れた笑みを浮かべて再び食べ始めた。
「着替え、買ってこないと」
「ああ、後で下に見に行こう」
 まさかこういう事態になるとは思わなかったので、着替えなどまったく用意していない。多分この手のホテルなら服を扱う店もあるだろう。
 ここで一週間の間に決心しなければならない。最後の闘いの時に決めてあった筈なのに、人間というものは貪欲で手に入れた幸せが壊れることを自分ですら恐れるのかと、藤宮は幸せそうに食事している我夢を見ながら吐息を付いた。

 二人で服を選び、夕暮れの海岸を散歩してホテルのレストランで食事を採った。夜には量子論を語り合い、やがてベッドに潜り込んで肌を合わせる。
 昼過ぎに起きて海に出かけたり、部屋で一日過ごしたり、今までの忙しなさを忘れるようにのんびりと日々を過ごしていく。このホテルは会員制だとかで、二人を興味本位で見る客も居ず、誰からも干渉されないで過ごせた。
 プールサイドのデッキチェアに横になり、ぼんやりと空を眺めている我夢に、藤宮はもう何度目になるか判らない言葉を掛けようとして飲み込んだ。後で、後でと思ううちに期限はもうそろそろ尽きてしまう。
 今度こそと告げようとすると、我夢の方も藤宮に何か言いたげに口を開こうとしていて、お互いに黙ってしまいそのまま時が流れてしまった。そんなことが何度かあって、結局告げていない。
「明後日には戻るんだよね」
 ぽつりと我夢が呟いた。その声がとても寂しそうに聞こえ、藤宮は今こそ言おうと我夢の前に立った。
「久しぶり、元気そうだね」
 その決心をくじくように後ろから明るい声が掛けられ、藤宮は眉間を指先で押さえた。
「ダニエル? どうしてここに」
 我夢は驚いて立ち上がり、藤宮の後ろにいる笑顔のダニエルを見詰めた。ダニエルは手を挙げて挨拶すると、まだ自分の方を向いていない藤宮の肩にぽんと手を掛けた。
「ちょっと渡す物があってね、ヒロヤに」
 その言葉を聞いて、我夢はダニエルから藤宮に視線を移す。藤宮は不機嫌な表情で漸くダニエルの方へ向いた。
「何だ」
「ああ、我夢、一階のラウンジで新作ケーキの試食会があるみたいだよ。何種類かあってアンケート取って決めるそうだから、是非来て欲しいってマネージャーが言ってた」
「えっ、ほんと? わぁ」
 藤宮に答えず、我夢にダニエルはそう言って頷いた。途端にそわそわし始める我夢に行ってこいと言うと、藤宮はテーブルの側の椅子に腰を下ろした。
「で、何だ」
 我夢を追い払ってまで自分に渡すものとは何かと、藤宮はダニエルを見据えて訊ねる。ダニエルは藤宮の冷たい視線をものともせず、にっこり笑うと自分も椅子に座りテーブルの上に封筒を置いた。それ以上何も言わないダニエルに、藤宮はそれを開け中身を取り出した。
「パスポートとビザ。ロスまでの航空券。君は一応要注意人物だからね、取るのにちょっと苦労したよ」
 苦労したと言う割に、全くそうは見えない顔と声でダニエルはそれらを見ている藤宮に言った。アグルとなってからは、まともに飛行機で国々を行き来していない。自家用ジェットを使ったこともあるが、あれはワームホールへ入るためのもので、普通の移動には使用しなかった。
「これは…」
 藤宮はビザの横に最後にダニエルが置いた鍵を手に取った。
「見覚えあるだろ。ずっとそのままになってるよ」
 真面目な顔でそう言うと、ダニエルは黙って腕を組み藤宮をじっと見詰めた。何も言われないことにかえってこれからの行動を問いただされているようで、藤宮は鍵を握り締めた。
「俺は」
「僕はこれを渡しに来ただけだ。これをどうするかはヒロヤが決めることさ」
 ダニエルは取り出したそれらを封筒に仕舞うと立ち上がって言った。はっと顔を上げる藤宮に、ダニエルは軽く微笑みかけ、踵を返して立ち去った。
「あれ、ダニエルは?」
 どれくらい時間が経ったのか、我夢に声を掛けられて藤宮は我を取り戻した。我夢は不思議そうな顔で辺りを見回し、藤宮の顔を覗き込む。
「それ何?」
「あ、ああ、何でもない」
 我夢の手が伸びる前に藤宮は封筒を持つと、立ち上がった。不審な表情をする我夢を片手で抱き寄せ、藤宮は口付けた。
「甘い…」
「だって、ケーキ食べてきたばっかりだから」
 誰が見ているか判らない外でキスされ、我夢は慌てて顔を離し文句を言った。その額に軽く額を合わせ、藤宮は低く囁く。聞き取れないようで首を傾げる我夢の耳元に、藤宮はもう一度同じ言葉を囁いた。
「ずっと、一緒に居よう」
「…うん」
 きっと自分は苦しそうな顔をしていたに違いないと、藤宮は我夢の表情を見て思った。
 口に出した言葉は願い。
 叶うことの少ない望み。
 泣き出しそうな我夢の目元に口付け、藤宮は肩を抱いたまま部屋へ戻った。
 すっかり手に馴染んだ肌を藤宮が堪能するように撫でると、シャワーの水滴を乗せた我夢の背がびくりと反応する。さっきまでさんざんお互いを求め合って、啼いていた我夢の口から熱い吐息が漏れた。
 バスルームから出て半分眠りに落ちかけている我夢をベッドに横たえ、藤宮は熱を冷ますように下着とパンツだけ身につけて窓際に立った。
 カーテンの向こうには夜明け前の海が暗い色を湛えて広がっている。後暫くすれば、それは黄金色に輝いて朝を告げるだろう。
 結局、最後まで告げることはできなかった。そんな自分には朝焼けの明るい光より、今の暗い海の方が似合っている。
 藤宮は重い溜息を付くと、シャツを着て上着を羽織り小さなリュックを手に取った。もう二度と会えない訳ではないのに、こんなにも心が重く苦しい。
 藤宮は我夢が寝息を立てているベッドの側に寄ると、身を屈めそっと柔らかな頬に口付けた。
「藤宮」
 眠っているとばかり思った我夢の目が開き、間近で藤宮の目をひたりと見据えた。藤宮は驚いて硬直し目を見開く。
「僕はずっと迷ってた。ほんとは言わない方がいいんじゃないか、言ったら君を困らせるんじゃないかって…」
 我夢の両手が強張ったままの藤宮の頬に微かに触れる。一度唇を噛み締めると、我夢はにっこり笑った。
「君が好きだ。世界中の誰よりも藤宮博也が好きだ」
 我夢はそう言うと、安心したように目を閉じた。藤宮は呆然と我夢を見詰め、今の言葉を反芻する。次第にそれが心に染み通り、藤宮は沸き立つような高揚感に包まれた。
「我夢」
 呼びかけると我夢の目が開いた。微かに揺れる瞳は、何かを恐れているのか。
 藤宮は微笑み口付けた。
「お前が、好きだ。世界中の何よりも大事に思う」
 我夢の目が驚きに見開かれる。再び藤宮が口付けると、その瞳には喜びが満ちた。
 藤宮はポケットの中から鍵を取り、自分の頬に当てられていた我夢の手に渡した。我夢は何も訊かず、それを大事そうに握り締める。
「じゃあ、またな」
「うん」
 藤宮は軽く我夢の髪を撫でると身を起こし、振り返らずに部屋を出た。

 海は思ったとおりの色を纏っている。藤宮は朝日に眩しそうに目を細めると、リュックを担ぎ直し、波打ち際を歩き始めた。

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