パスカルの群 −藤宮−

   青く透き通る海に白い波が散り、同じように白い砂浜に涼やかな音を奏でている。深く青い海の向こうには、もっと明るい色の空が全てを覆っていた。それ以外の音はしない、誰も居ないその海辺の景色の前にコーヒーカップを置き、藤宮は無機質な椅子に腰を下ろした。
 その景色は四角い画面に括られて、止めない限りいつまでもそれを映し出している。藤宮は机に肘を突き暫くそれを眺めていたが、手を伸ばして電源を切った。
 この部屋には窓が無い。地下深くに作られた基地だから仕方ないし、居候の身分だから文句を言えるはずもない。以前は昼間でも暗い室内に潜み、あれこれと堂々巡りの考えを弄んでいたものだが、今ではあの海と空が恋しい。
 随分変わったものだと、藤宮は薄く笑みを浮かべた。
 怪獣達から集められた光が全身に満ちあふれ、今まで以上のパワーをもってゾグを倒した。闘っている間中、全世界の人々と生き物の願いを感じていた。もちろん、隣で共に闘う我夢の願いと想いも感じながら闘い抜いた。
 その後の大騒ぎはよく覚えていない。大きなパワーを得た反動で二人とも元の姿に戻った後、意識を失ってしまったからだ。すぐさまジオベースに運ばれ、報道陣もシャットアウトして治療を受け、目覚めてから今まで二週間が過ぎたが外には出ていない。
 個室が空いたからと我夢からも引き離され、仕方なく一人で資料を取り寄せ研究を続けている。ジオベース内での行動を制限されている訳ではないのだが、食堂に行く以外は極力部屋の中で大人しくしている方が我夢の迷惑にならないだろうと、藤宮は自重していた。
「藤宮、ごめん遅くなっちゃった。食事いこ」
 廊下を焦って走る音が聞こえたかと思うと扉が勢いよく開き、頬を紅潮させた我夢が入ってくる。「そんなに慌てて来なくてもいい」
「だってお腹空いただろ?」
「それはお前がだろ」
 藤宮の言葉に我夢は少しむくれて見せた。藤宮は笑みを浮かべ我夢を見詰める。こんな軽口をたたき合うことが出来るようになるなんて、ほんの少し前までは考えもしなかったことだ。
 我夢も直ぐに笑みを浮かべ藤宮の腕を取ると、部屋から外へ連れ出した。
 藤宮の方は元テロリストの危険人物だということもあって、世間からは遮断されているが、我夢は二人分の質問や取材を受けているせいか、こうして二人で居られる時間はごく限られている。
 殆ど食事の時間くらいしかないのは、我夢の腹が減ると機嫌が悪くなって、仕事にも世間的にも支障があるからこの時間だけは自由に取らせようという石室コマンダーの裁量か。
 我夢はこの時とばかりに、いろんな事を歩いている最中も藤宮に話しかけた。藤宮はたまに口を挟みながら聞き役を引き受ける。別の人間なら、ただ煩いとしか感じないのに我夢の言葉はどんなくだらないことでも聞きたいと、藤宮は自分に苦笑しつつ思った。
 食堂に入ると我夢は今まで喋っていた口を閉じ、今日のお勧めを一通り熱心に眺め出した。その地球の未来を考えている時と大差ない我夢の真剣な表情や、眉間に寄せられた皺に、藤宮は呆れながらもメニューが決まるまで根気よく隣に立っている。
 藤宮は食べられるなら栄養さえとれれば何でも良くて、たとえばパンとコーヒーとサラダでもいいのだが、二、三回それをやったら我夢に驚かれ、次には怒られてしまった。
 それ以来もっと真剣な顔で二人分のメニューを選んでいる我夢の横で、藤宮は待つということを繰り返している。
 漸く決まったのか顔を綻ばせ、我夢はトレイを取るとカフェテリア式の窓口に、次々に注文していった。
 そのトレイの一つを持たされ、おきまりの場所へ座ると二人していただきますと挨拶をしてから食事を採り始める。以前は他の職員に注目されることもあったが、今では誰も二人を気にする者はいなかった。
「あのさ…ごめんね」
「何が」
 暫く猛然と食べていた我夢が一段落したのかフォークを置くと、ぽつりと呟くように言った。謝られる覚えのない藤宮は、僅かに眉を上げ、俯いている我夢を見詰めた。
「もう、二週間も地上に出てないから、いい加減いやんなっちゃったんじゃないかと思って」
 表に出したことはないが、最近確かにたまには空が見たいと思い始めていたのは事実だったので、勘のいい我夢に悟られてしまったかと藤宮は溜息を付いた。
「確かにそろそろ外へも出たいが、ここでの生活にも不自由はしていない。三食昼寝付き、おまけにお前も居る。悪くはない」
 お前も居る、と藤宮が言ったあたりで我夢の頬が僅かに赤く染まる。本当に、ここでこうしているのも悪くない、こんな我夢をいつでも見られるのなら。
「でも、このままじゃちゃんと話も出来ないし」
「何の話だ」
 口ごもるように我夢が下を向いて話す。促すように藤宮が訊くと、我夢は首を横に振った。
「あー、と、ここじゃ、ちょっと…」
 ちらりと我夢は周りを見回して言った。他の者に聞かれては困る話なのだろう、我夢は吐息を付いて再び食べ始めた。
 部屋を替わってからは、夜互いの部屋に行き来するということもない。ブロックが違うので、夜中には通行が制限されてしまうからだ。
 藤宮は何度か逢いたくて行ったことはあったが、疲れ切った我夢の様子に手を出すことが出来ず、爆睡するその寝顔だけを見て戻ることもあった。
 藤宮にも我夢に言わなければいけない言葉がある。最後の闘いの前に、生きて戻れたら必ず伝えようと決心していた言葉。けれど、今ここにきて微かに躊躇いを覚えていた。
 言うべきなのだろうか、言っても良い言葉なのだろうか。我夢にとって藤宮が告げる言葉は、迷惑な枷にならないだろうか。
 手を止め考え込んでいた藤宮は、我夢の問うような視線に気付いて、煮込んであるハンバーグを口の中に入れた。
「美味いな」
「うん。ここのシェフって超一流だと思うよ。ほんっと美味しいもん」
 にっこり笑って幸せそうに食べる我夢を見詰め、藤宮はこの幸せを破壊するかもしれない言葉を食事と共に飲み込んだ。
 食事も終わってコーヒーでもと考えていた時、我夢のXIGナビが鳴った。最近は滅多にこれを使わなくなっていた我夢は、慌ててそれを開け応えた。
「コマンダーが藤宮も連れて来てくれって。何だろう」
 首を傾げ不安な表情を浮かべながら我夢は立ち上がった。今更上から何か言われたのだろうか。最近漸く自分たちに対する賞賛と非難の渦が治まりかけている。人の噂も七十五日と言われるが、情報化社会の早い流れでは、二週間も経つと次の刺激的な話題にみんな流されて行ってしまう。
 マスコミの目が無くなった途端、手ぐすね引いていた司法関係者が煩く言ってきたのかもしれない。藤宮のやったことは日本の法律では多分騒乱罪か何かに引っかかるだろうが、それよりも助けられた方が大きいはず、と我夢は今更警察が来ても断固戦ってやると拳を握り締めた。
 藤宮は今まで何も言われず、我夢だけが表に立って世間の攻撃を受けていることに疑問を持っていたので、漸くその時が来たかと静かな気持ちでいた。
 メインルームへ入ると、石室と千葉が穏やかな表情で待っていた。今日の担当は敦子だけらしく、他の二人は見えない。堤も居なかった。
「何でしょうか、コマンダー」
 多少固い声で我夢が訊くと、石室は真面目な表情になって対峙した。
「今日付けで君の復学届けを出しておいた。来週から君は元の大学生に戻れる」
 石室の言葉に驚いて我夢は口をぽかんと開け、目を見開いた。我夢がXIGに入ろうと決心した時に出したのは退学届けで、休学届けではない。もう戻れないと思っていた。
「で、でも、コマンダー、僕は」
「大学に戻りたくはないのか?」
「いえ、あの、ありがとうございます。嬉しいです」
 嬉しそうな我夢に満足の笑みを浮かべた石室は、今度は藤宮に対峙した。緊張した面もちで藤宮は次の言葉を待った。
「君には面会したいという申し込みがあった。取材ではなく、友人として話がしたいそうだ。第二応接室で待っている」
 想像していた言葉と違うことを告げられ、藤宮も驚いて石室を見た。
「我夢、案内してやれ」
「はい」
 頷いて我夢は呆然と立っている藤宮の袖を引き、行こうと促した。メインルームから応接室へ上がるエレベーターへ入り、上へのボタンを押すと、我夢は黙ったままの藤宮に話しかけた。
「第二応接って最近ずっと取材の人が入ってるんだ。ジオベースでも一番地上に近いとこで、一般の人が入れる場所なんだよ。…待ってる人って吉井さんかな」
 我夢の呟きに漸く藤宮は、ああと頷いた。玲子なら今までの実績で自分と会いたいと申し込めば、ガードも否とは言えまい。
 第二応接室と書かれた扉をノックして開くと、我夢は藤宮を先に中に入れた。玲子が気付いてソファから立ち上がり、一礼するのに挨拶を返して我夢はそのまま出ていこうとする。玲子はそれを呼び止め、二人に話がしたいからと中へ入るよう言った。
「久しぶり。元気そうで安心したわ」
 笑顔で玲子は藤宮と我夢の二人を見詰めた。自分はともかく、我夢とは取材合戦の中で会っているだろうと藤宮は訝しげに玲子を見た。
「ほんとにお久しぶりです。といっても、まだ二週間しか経ってないですけど。吉井さんは、どうなさってたんですか」
「私たちはあまりにもあなた方に近すぎるから、かえって取材できなかったの。興味本位で『ウルトラマン』だった人間を曝し上げる人たちからすれば、私もその曝し上げられる方の一人だから」
 確かに玲子を巻き込んで、引っ張り回した張本人である藤宮は、眉間を寄せて俯いた。
「私は後悔してないし、自分から進んで巻き込まれたんだから、藤宮くんが責任感じる必要ないわ。これからも必要があれば、どんどん巻き込まれるから」
 悪戯っぽく笑うと玲子は椅子に腰掛けるよう促した。
「高山くんは復学するそうね。おめでとう」
「ありがとうございます」
「藤宮くんは、これからどうするの」
 玲子は間を置かず、直球で藤宮に訊いてきた。それはここに来てからずっと考えていたことだった。償いを求められればそれに応じようと、藤宮は待っていたのだが、誰も何も言ってこない。
「どうもこうも、俺は犯罪者だ」
「アグルだというだけで犯罪者なの? そんなこと、世論だって認めない。それじゃ高山くんも犯罪者になる訳」
 怒ったように言う玲子に、藤宮は顔を上げて見た。アグルとしてではなく、藤宮博也として行った数々の行動は立派に犯罪として立証されると思うのだが。
「そうですよね。藤宮は確かに危ないこともしたけど、でも結果的には人々を救ったんだし、犯罪者なんてとんでもないです」
 我夢も勢い込んで玲子に追従し、藤宮はその後を続けられなかった。困惑する藤宮の前に玲子は車のキーらしいものを置いた。
「それに、過去のことを悔やんでいるなら、現在から未来に直していけばいいの。過去は変えられないけど、未来は変えられる。それはその為の鍵…なんてね」
 言ってから照れたように笑う玲子に、訳が解らず藤宮は眉を顰め見詰めた。一体これでどうしろと言うのだろうか。この地下深い要塞から逃げ出すことは出来ないのに。
 それじゃ、と言って玲子は立ち上がった。話をしにきた筈なのに、まだ五分も経っていない。驚いて見る藤宮と我夢に、用は済んだからと玲子は手を振って部屋から出ていってしまった。
 藤宮はキーを手に取ることを躊躇していた。これが玲子の用意したものなら、また彼女を面倒なことに巻き込んでしまうかもしれない。もう自分のために誰かが傷つくのは嫌なのだ。
「駐車場へ行こう」
 だがそんな藤宮の躊躇いをよそに、我夢はキーを握り締め立ち上がった。藤宮は慌てて部屋から出ようとする我夢の手を引き留めた。
「待て、そんなことをしたらまた」
「大丈夫だよ。駐車場へ行って玲子さんが何を言いたかったか、確かめるだけだから。そのためにわざわざ来てくれたんだから。行かなきゃ、藤宮」
 意志の強い瞳が真っ直ぐ藤宮を捕らえる。藤宮はそれに逆らえず、手を引かれるまま廊下を歩き始めた。
 駐車場は同じフロアにあるらしく、何回かブロックを超えてそれらしき区域に出た。見覚えのあるガードの車が何台か停まっている他、トラックやワゴン車など普通の車も停まっている。その中の一台の前に、石室が佇んでいた。
「コマンダー」
 もうばれたのかと、藤宮は観念して立ち止まった。だが、我夢は一瞬青ざめたものの、直ぐにまた藤宮の腕を引っ張りその前まで歩いていく。
「遅かったな」
「その車のキーはこれですか」
 我夢が石室にキーを見せる。石室はそれに応えず、視線を藤宮に向けた。
「君は、今何がしたい」
 藤宮は石室の言葉に、視線を逸らした。石室はそれ以上何も言わず、藤宮の応えを待っている。藤宮は拳を握り締め、目を閉じた。
「…今、俺がすべきことは」
「すべき、じゃない。自らやりたいことだ」
 やりたかったのは、広大で神秘な海を探求すること。ずっと昔からの夢だった。そしてまだやっていないことは、我夢に本当の気持ちを伝えること。
「海へ、行きたい」
 目を開け、藤宮は沈黙を破った。しっかりと視線を石室に据え、我夢の手からキーを取って一歩ずつ車の方へ近付いていく。止められた時のことは考えないことにした。
 石室は藤宮がドアを開け中に滑り込むのを黙って見詰めていた。キーを差し込み、エンジンを掛ける。その時今まで動かなかった石室は、腕を伸ばすと車の窓枠に手を掛けた。
「忘れ物だ。我夢、これを持っていけ」
 石室はもう片方の手を無造作にポケットに突っ込み、中から何かを取り出すと我夢に投げて寄越した。焦ってそれを受け止めた我夢は、一瞬躊躇した後、石室の笑顔にぺこりと頭を下げると車の横に回り込み、助手席に乗り込んだ。
「俺を逃がしていいんですか」
 不審げに藤宮が訊くと、石室はにやりと笑って言った。
「別に我々は君を軟禁している訳じゃない。保護しているだけだ。もういい大人なのに、危険がなくなっても保護する道理はあるまい。それとも、安全な巣に引きこもって、失敗や拒絶を恐れ今のまま臆病に暮らす方がいいか」
 石室の言葉は心の内をえぐり出すようで、藤宮の胸に突き刺さる。藤宮はハンドルを握る手に力を込め、決心を付けるようにギアをローに入れた。
 駐車場から地上に出るまでの長い通路中、二人は一言も口をきかなかった。藤宮はさっきの石室の言葉を反芻しながら外を目指す。あれは、今自分の心の中にある、我夢への想いを告げるか否かの選択を察した訳ではないだろうが、確信を付いていた。
 いや、もしかしたら知っているのかもしれない。まだ迷っている自分の心を。
 地上の光が見え、外へ出た途端、太陽の眩しさに目を僅かに細める。久しぶりの外、広い敷地の中は閑散としていて報道陣の姿や一般人の姿はまったく見られない。
 警備員は何も言わず藤宮達の車を通した。門を抜け、海岸沿いの道を走らせる。どこへ行くか宛もなく車を走らせていた藤宮は、隣でごそごそと何かしている我夢に信号待ちの時に目を向けた。
「あ、次の信号右ね」
 ずっと黙ったままだった我夢の第一声がそれで、藤宮は僅かに力が抜け青になったのに気付かず、後ろの車にクラクションで注意されてしまった。
「次は左の車線に入って、高速に乗るんだって」
 何かを見て言っているのだろうか、ちらりと藤宮が横目で見ると、我夢は一枚の紙を熱心に見詰めていた。言われるまま高速に入り、出た所は千葉の外れだった。
「もうすぐ太平洋が見えるよ。僕の実家の方と違ってずーっと砂浜が続いてる。海水浴シーズンは終わったから、道も空いてるね」
 他に車も見えず、のんびりとした田舎道を走っていた藤宮は溜息を付いて、嬉しそうに言う我夢に訊いた。
「俺たちはどこへ向かってるんだ。お前の実家じゃないってことは判ったが」
「さあ? コマンダーが投げてきたのは、この地図とこれだけだもん」
 我夢は今まで見ていた紙と、小さい金属片を藤宮に見せた。ちらりと藤宮が見たそれは、鍵のようだった。車のキーではなく、あの形は建物の鍵だろう。家やマンションの鍵にしては随分大きめだったが。
「どこかの家の鍵か」
「うん、多分、この場所だろうね。印が付いてる、随分海の側だけどまさか海の家ってことはないよねえ」
 脳天気に笑う我夢に、藤宮も釣られて笑みを浮かべた。まだ告げる決心は付いていないけれど、こうして二人で海を見られるのはとても嬉しい。
 道は徐々に細くなり、潮の香りが強くなってきた。周りは畑と山でその中にちらほらと民家が見えている。ほんとに海の家じゃないだろうなと思い始めた時、廻りを木々に囲まれまるで谷間のようだった細い道から出て広い道にでた。
 目前に青い海と白い浜が広がっている。その道は先で緩いカーブを描き、行き止まりのようになっている場所に白く高い建物が建っていた。

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