闇の意匠
 

 一護は躊躇していた。
 校門は目の前だが、最近ここからまともに家まで帰れた試しがない。夏休み中尸魂界に居て、漸く戻ってこれたと思ったら新たな脅威が一護を待っていた。
「どうしたの、こんなとこで立ち止まったりして」
「あ、ああ」
 後から来た水色が不思議そうに一護に訊く。一護は、別に何でもないと答えながら足を一歩踏み出した。
「今日も真っ直ぐ帰るんだ」
「……真っ直ぐ帰れたっけ、今まで」
 水色は小さく呟く一護に首を傾げ、再び窺うような目で見た。不審がられても、次の一歩が踏み出せない。気配は感じないが、あいつは霊圧を消すのが抜群に上手くて、今までも一護が事前に知ることは出来なかったのだ。
 やっぱりここは正面突破でなく、卑怯者と思われても裏から出るのが得策かと、一護が踵を返そうとした時、いきなり背中を突き飛ばされ、校門から飛び出してしまった。
「な、何しやがんだ」
「こーんな所でぐずぐずしてないで、行こうよ、一護ぉ。ほらほら、早く」
 一護が驚いて振り向くと、目の前をくるくると回りながら啓吾が上擦った声で言った。ひらひらと手を振り鼻歌でも歌いそうな啓吾に、一護は目を瞠り、隣の水色の方を見た。水色は両手を上げ、軽く溜息を付く。
「どーした、あれ」
「いつものこと、って思ったんだけど、ちょっと様子が違うんだよね。どうやら彼女が出来たみたいで」
 彼女!? と一護は大きな声で叫んだ。惚れっぽくて女の子にちょっかいかけまくり、だが水色と違っていつも玉砕している啓吾に彼女が出来たって、と一護は口をあんぐりと開けて目を見開いた。
「そーなんだよー、清楚で可愛くて、お嬢様なんだー。大親友の一護に紹介しなくっちゃと思って」
 いや、大が付くような親友じゃないし、と一護は手を振った。これが他の友達の彼女なら興味もないが、啓吾を選んだ女性がどんな人なのか、少しは気になる。
「お前は会ったのか」
「ううん。昨日聞いたばっかりで。昨日は僕も用事あったし」
「水色は駄目。取られちゃうと困るし、あ、でも彼女は俺に夢中だから平気か」
 にゃははと気味悪い声で笑う啓吾に、水色は一瞬目を眇めたが、にっこり笑うと頷いた。「僕も同じ年頃の女の子に興味無いし。パスするよ」
 啓吾虐めが趣味な水色があっさり去っていくのを、一護は訝しげに見送ると自分もさっさと帰ることにした。どうやら今日は現れないようだし、平和な一日を過ごせそうだと安心して歩き出そうとした一護は、がっしりと腕にしがみつかれて眉を寄せた。
「一緒に来てくれるよね、ね、一護」
「人の逢い引き…じゃなくて、デートを邪魔する気はねえよ。離せ」
 泣きそうな顔で一護に訴えかける啓吾を振り払おうと大きく手を振るが、益々力を込めてくる。根負けした一護は、息を荒げながら頷いた。浮ついた足取りで先を行く啓吾を見て、一護は深く溜息を付く。何故あそこまで紹介することに拘っているのだろう。滅多に無い、今までに無いことだから証明したいとか。
 やっぱり無事には帰れないのかと、渋々歩いていた一護は、立ち止まった啓吾にぶつかってしまった。
「ほら、あそこが彼女の家だ」
 指差す方向に高い塀に囲まれた立派な屋敷が見えた。一護は少し驚いて目を瞠り、ついで眉を顰めて視線を動かした。
 屋敷の隣に高層ではないが広く大きなホテルが建っている。屋敷と庭で繋がっているのか、仕切となるような塀は見えない。境界線に当たる場所は、手入れされた竹林が風でざわめいていた。
「あのホテルは……」
「凄いだろ、あそこのオーナーの娘なんだって」
 確かに凄い。ホテルの立派さではなく、そこに巣くう禍々しい邪気と霊気に一護は背筋が総毛立った。
 虚なのか悪霊なのか、判別出来ないほどホテルの回りには歪んだ空間がある。啓吾も割と霊力がある方なのに、あれに気付かないのかと一護は汗を浮かべ振り返った。
「啓吾、お前、平気なのか」
「え、何が?」
 にへらと笑う啓吾だが、目は嘘を付けない。泳ぐ視線に、一護は憮然として啓吾の胸ぐらを掴んだ。
「本当のことを言え」
「彼女に頼まれたんだ。あのホテルにお化けが出るから確かめてくれって。悪い噂が立つ前に、本当だったらお払いしてもらうからって」
 一人じゃ怖いから一緒に来て欲しかったんだと謝る啓吾を突き飛ばし、一護は舌打ちをする。そうと分かっていたらコンを連れてきて、さっさと死神になってやるのに。啓吾の目の前でなる訳にはいかない。
 いっそ、全く霊感のない見えない奴ならいいが、啓吾は死神となった自分が見えてしまうらしい。以前、虚と戦う姿を見て夢だと思ったようだが。
「帰って、今晩出直すか」
「待ってください」
 踵を返した一護の後方から涼やかな声が聞こえ、振り返って見た。長い黒髪、切れ長の瞳の和服美少女が門の脇に佇んでいる。あれが啓吾の彼女? と驚愕して立ち尽くす一護の腕を取り、啓吾は門の方へ引っ張っていった。
 尻尾があれば振り千切っているだろう啓吾の目尻は、かなり緩んで下がっている。これだけの美少女なら仕方ないかと思いつつ、一護は僅かに感じた違和感に首を捻った。
「ごめんなさい、我が儘を言って。啓吾さん、来てくださってありがとう」
 中でお待ち下さいと言う美少女に遠慮する間もなく、啓吾に背中を押され一護は中に入ってしまった。外見通りの立派な屋敷だったが、人気はなくひんやりとした空気が満ちている。
 応接間に通された一護は、部屋の隅に埃が溜まっているのを見て、微かに眉を上げた。「今使用人に暇出してるんだってさ。どうも経営が厳しくて、隣のホテルの売り上げが落ちたら大変だって」
 だから俺たちで噂の元を断って彼女を助けよう、と啓吾に両手を握り締められ、一護は閉口して顔を背けた。彼女というのは啓吾の思いこみで、良いように使われているだけじゃないかそれってと言いたいが、今の幸せを壊しては悪いような気もする。
 仕方なく一護は帰るのを諦めて啓吾に付き合うことにした。いざとなったら気絶させて死神となればいい。はしゃぐ啓吾に溜息を付きつつ、一護は窓からホテルの方を眺めた。竹林に遮られ、ホテルは見えなかったが気配は益々濃く感じられる。
「何か理由付けるか」
 どうにかして啓吾をここへ引き留めて置けないかと、一護は頭を掻いて考え込んだ。そうこうしているうちに陽は落ち、啓吾に引っ張られて一護は庭に出る。
 見送る少女に手を振り、啓吾は先に立って竹林の方へ歩き始めた。
 暗く鬱蒼と空を覆う竹の葉に、下の道は尚いっそう薄暗く気味悪い。勢い込んで歩いていた啓吾だったが、徐々に足が遅くなり一護の側に近付いてくる。
「ひっ」
 がさりと草をかき分けるような音と、鈴の音がすると、啓吾は悲鳴を上げて一護に抱きついた。一護もはっとして足を止め、油断無く周囲を見回す。段々近付いてくる鈴の音の方を睨み、一護は身構えた。
「こんばんは、良い夜やね」
 いきなりの声に啓吾は飛び上がり、一護も吃驚してその影を見詰めた。どっかで聞いたような、と思った一護はいきなり光を当てられて目を瞬かせた。手を翳して光を遮り、その方向を見る。
「何でそんなとこにいやがる」
「散歩」
 光は逸れ、やっと見えた人影に一護は声を荒げた。にこにこと笑顔で手を挙げ、陽気に答えたのは一番会いたくない相手だった。
「ふざけんな!」
 怒る一護に心外そうな表情を向け、ギンは首を傾げる。相手が人だと知って、一護の影に隠れていた啓吾は怖々顔を覗かせた。
「自転車? どこかで見たような」
 ギンが乗っている自転車にまず目を瞠り、啓吾は思い出すように首を捻った。人の家の庭に自転車を乗り入れ、楽しげに一護を見ている人物は、確かに以前見たことがあると、啓吾はじっと見詰めた。
「それにしても、こないなとこで会うとは、運命やね」
「何が運命だ。つーか、なんだよその自転車は」
「これ? こないだ一護とおうた時、車汚したやん。だからこれに換えたんよ」
 車を汚したと聞いて一護はあの晩のことを思い出し、顔に朱を走らせた。口をぱくぱくさせ、何か言ってやろうとする一護を、ギンはとても楽しそうに眺めている。
「あーのー、知り合い? 俺もどっかで会った気がするけど」
 歯噛みをして睨んでいる一護と楽しげなギンを交互に見詰め、啓吾は小さな声で訊いた。一護は首を強く横に振り、ギンを無視して歩き始める。いいのかあれ、と後ろを振り向く啓吾に、いいんだと言い捨て一護は足音も荒くホテルに向かった。

 営業している筈なのに何だか薄暗い中へ入り、一護は廊下を歩いていった。この手のホテルは人が集まるだけあって霊も集まりやすい。普通はそんなに悪い霊は居ないが、ここは精神を統一するまでもなくびしびし悪意を感じ取れた。
「啓吾、大丈夫か」
「う、うん。ちょっと気持ち悪いかも」
 霊圧を感じ取る能力が薄い一護にも分かるくらいだ。霊感の強い啓吾は顔を青くして口を覆い今にも吐きそうな声を出した。
 あまりに巨大な霊気がホテル全体を覆っているため、本体の居場所が見つからない。一護がきょろきょろ辺りを見回していると、啓吾が震える手で階段を指差した。
「どうした」
「あっち…感じる」
 階段の上から確かにもっとも強い力を感じ、一護は啓吾に待っていろと言うと向かおうとした。
「あかんよ、一護」
「うわっ」
 一護は思わず大声を上げると飛び退いた。ロビーの方から客達の訝しげな視線が向けられ、一護はギンに詰め寄ると小さな声で恫喝した。
「てめえ、何なんだよ。邪魔すんな」
「行っても無駄やし。いかへん方がいい」
 はあ? と一護はギンの言葉に目を見張った。何を言ってるのか意味は解るが意図が分からず、一護は無視して階段を上がっていく。仕方ないなあと溜息を付きながら後ろから付いてくるギンを、一護は睨み付けた。
「付いてくんな」
「ここに部屋取ってあるから仕方あらへん。なあ、あんなんほっといて、一緒に部屋に行こ」
 にんまりと何か含みのある笑顔を向け、ギンは一護を誘った。前の車レンタルもだが、今回も普通に部屋に泊まっているという状況が理解できない。現世で使える金をどうやって手に入れてるんだ、というかそもそも義骸で泊まったりする必要があるのか。
 まさか、と目を眇める一護に、ギンは更に笑みを深くさせた。
 追求すると怖いし、怒るのも馬鹿馬鹿しいと呆れ、一護は顔を戻して階段を上がることに意識を向ける。
 二階に上がると一護は廊下の奥から流れてくる冷たい空気を感じとって、それを辿るように歩き始めた。廊下の突き当たり、一番奥に古びた扉が見える。他の部屋の扉は近代的な普通のホテル仕様の扉なのに、それだけは木で造られていた。
 ゆっくり近付きそっと取っ手を回すと、一護は扉を勢いよく開いた。
 長い廊下が目の前に延びているのを見て、一護は拍子抜けして力を抜いた。廊下の途中になんで扉が、と不思議に思いながらも一歩向こう側へ足を踏み入れた。
 足下が漸く見えるくらいの暗さで、かなり先の方は暗闇に消え見えない。それでも灯りも無いのに何故ぼんやり見えるんだと思った一護は、片側に窓が続いているのに気付いて近付いた。
 窓からは月明かりが差し込んでくる。外は庭の筈だが暗闇に沈んで見えなかった。もう片方の壁は扉もなくずっと続いている。ホテルのどの辺りなんだと考えながら一護は廊下を歩き始めた。
 歩いても歩いても廊下は終わらない。いくら何でも長すぎだと気付いた一護は、足を止め代行証を握り締めた。
「こんな所で何してるんかね」
 いきなり懐中電灯の明かりに照らされ、一護は飛び上がった。どきどきする胸を押さえながら振り返ると、光を顎の下から当てた老婆の顔が暗闇に浮かび上がって、一護は仰け反る。
「ななな、なんだっ、誰っ」
「なんだね、人を化け物みたいな顔で見て。お前さんどこから来なさった」
 良く見ると顔だけでなくちゃんと身体もある老婆の姿に、一護は大きく息を吐いて汗を拭った。
「ああ驚いた。俺はあっちの扉から来たんだけど」
「ホテルからかね。あそこは鍵が掛かっておった筈じゃが。まあ良い、来なされ」
 踵を返し歩き始める老婆の言葉に、一護は首を傾げた。外から見た限り、渡り廊下のようなものは見えなかったが、こっちはホテルではなく従業員用宿舎になってるのかもしれないと思いつく。
「それにしても暗いな。いくら予算削減って言っても、少しは灯り付けたらいいんじゃね。だからやばそうなもんが居着くってあの子に言った方がいいかも」
 話しかけながら歩いていた一護は、老婆が立ち止まったのに合わせて足を止めた。
「お嬢様にお会いなさったか」
「え、ああ。頼まれたんだ、お化けが出るか確かめてくれって」
 お嬢様ということは、やはりこの老婆は従業員か何かだろうかと一護は思って話した。この老婆に噂の内容を聞いた方が早いかと、口を開きかけた一護は唐突に消えた明かりに言葉を飲み込んだ。
「そうかい、ならもうご報告できるね、戻れたらの話じゃが」
 目の前の老婆の姿がぐずりと崩れ、真っ黒の穴が一護の前に大きく広がった。途端に代行証が大きな警告音を上げ始める。
 遅いんだよと苦く呟き、一護はひらりと後方へ飛び退く。このまま死神となって自分の身体は大丈夫かと、ちらりと考えたが更に広がり向かってくる穴に舌打ちをすると代行証を握り締めた。
 斬魄刀を構え、一護は穴に向け身構える。どこが本体だか分からず、仕方なく霊力を込め打ち込んだ。
 だが、穴はそれを吸い込むだけで何のダメージも受けていない。眉を顰め、本体の在処を探そうと一護は意識を集中させる。
「うおっ」
 穴はぐずぐずと蠢きながら一護に襲いかかり、飲み込もうとした。それを避けていると集中できなくて、仕方なく斬月を振り回しめったやたらに斬りつけた。
 全く堪えていない様子の相手に虚しく斬りかかるのを止め、一護は息を荒げて膝を突いた。一旦引いて本体を見つけだすかと、下がろうとした一護の足首に穴から触手のような物が出て絡みつく。
「あら、またそんなんやられてんの」
「ぎ、ギン」
 呆れたように言うギンに驚いて一護は目を瞠った。ギンは自転車のハンドルに腕を組んで乗せ、その上に顎を乗せている。
「触手好きやねえ、一護」
「ばっ、馬鹿野郎っ、誰がそんなもの好きかってんだ」
 前にもギンの前で醜態を晒したことを思い出し、一護は顔を真っ赤に染めて怒りを爆発させた。その霊圧で触手は千切れ飛ぶ。
 良く出来ましたと拍手するギンをひと睨みすると、一護は思い切り霊圧を高め放った。低く怒声がして穴が僅かに遠のくが、消え去りはしない。やはり本体を叩かなければ駄目かと、一護は意識を凝らした。
「手伝おか」
「いらん」
 一言の元に言い捨てる一護に、ギンは不服そうに眉を上げた。せっかく来たのにとか、一護のいけずとか、見つけられへんくせにとか、ぶつぶつ言い続けるギンに一護の苛々は頂点に達し、まずお前から斬って捨てようかと斬月を向けた。
「ほら、一護」
 ぱっと自転車灯が点き、前方を照らし出す。穴の縁、ほんの小さな目が光を反射して光った。
 一護は床を蹴り、飛び上がるとそこへ向け斬月を振り下ろす。濁った悲鳴が轟き、穴は萎むように消えていった。
「やった…か?」
「一護、はよ戻ろ」
 言われなくてもそうするさと、一護は自分の身体に向かった。今回は啓吾にも見られなくて済んだと安心しながらゆっくり起きあがる。
「お前、建物の中で自転車なんて、どういうつもりだよ」
「役に立つやん。それより、のんびりしとったら落ちるし」
 確かにあの灯りのお陰で本体の場所が分かったのだから礼を言うべきかとも思うが、ギンの態度が気に入らない。それに、落ちるって何のことかと、一護はむっとしてギンを見た。
「落ちるって、何処に」
「川」
 にやりと笑って足下を指差すギンに、一護は驚いて下を見た。床が透け、下を水が流れているのが見える。さらさらと音を立てて床がさっき倒した穴から崩れてくるのに気付いた一護は、慌てて走り出した。
「何でっ、何だ」
「前にも言うたやろ、川はこちらとあちらを繋ぐ道やって」
 知るかよそんなことと怒鳴る一護をひょいと抱え上げ、自転車の荷台に降ろすと、ギンはペダルを強く踏んで走り出した。
 木の扉をぶち破り、ギンは自転車ごとホテルの廊下に飛び出ると、更に走らせる。流石に拙いだろうと一護は青ざめ、ギンの髪を引っ張った。
「止めろって、こんなとこで何考えてんだ」
「小回りが利いて便利やし。一護、ぎゅって抱きついてくれへんの」
 ギンは不満そうに顔を後ろに向け一護を見た。するか、そんなこと、と一護が再び髪を引いた時、目の前に人影がよぎった。
「じ、自転車っ?!」
 驚き叫ぶ啓吾の目の前で漸くギンは自転車を止めた。そこに啓吾以外の人が居ないことを知って、一護はほっと胸を撫で下ろした。こんな非常識な奴と同類に思われてはたまらない。
「化け物は退治したぜ」
 自転車を降りて一護は目を丸くしている啓吾に告げる。啓吾はギンと一護を交互に眺めると、何か言いかけたが、まあいいかと力無い笑みを浮かべた。
「ほな、後で」
「後でも何もねえよ!」
 手を振り自転車に乗って去っていくギンに顔を顰め、一護は怒鳴ると啓吾と共に階下へ降りた。
 ホテルを出てさっきの竹林に向かう途中振り向いて見ると、渡り廊下のようなものは見えず、さっきのはあの虚が造った道なのかと一護は納得した。多分、霊力のある者をおびき寄せ、あの道に引きずり込んで飲み込んだに違いない。
 啓吾が一人で来ていたら、確実に餌食になっていたなと一護は考え、前を歩く彼の肩を宥めるように叩いた。
「あのさ、一護」
 くるりと振り返り、啓吾は真剣な表情で一護に話しかけた。
「な、何だ」
「さっきの自転車に乗ってた人、どっかで会ったことないか」
「あんな変な奴、会ってたら忘れるわきゃないだろ」
 一護の返事に啓吾はそれもそうかと納得した。これが女性だったら忘れるなんて失礼なことしないが、男なら深く詮索することもないだろうと、啓吾は屋敷で待つ美少女のことを思い浮かべて小躍りするような足取りで歩き出した。
 そういえば、ギンが義骸に入って始めて会った時、遊園地で啓吾と顔を合わせてたなと、一護は思い出した。
 二度目は虚に襲われていた時だったから覚えてないだろう。これ以上ギンと一護が会ってる所を見られたら、完全に友達と認識されてしまいそうだ。
「あいつは……敵だ」
 護廷十三隊の隊長として相対した以降、まともに戦ったことは無いが、自分が死神代行として在る以上、いつかはギンや藍染と戦うことになるのだろう。
 向こうはどうやら一護のことを、取るに足りない存在だと思ってるからこんな巫山戯たちょっかいを出してくるんだろうけど、このままではおかない。
 一護は拳を握り締め、今度会ったらぶん殴ると決意して啓吾の後に続いた。
 呼び鈴を鳴らすと、待っていたかのように扉が開き、少女が迎え出た。啓吾がVサインを向けると、少女は晴れやかな笑顔を見せ、中に入ってくれと告げる。いそいそ入っていく啓吾に、一護はもう自分は必要無いなと言って去ろうとした。
「お友達もご一緒にどうぞ。少しばかりですが、お礼に夕食をご用意しました」
 にっこり笑顔で言われ、啓吾にも引き留められて、一護は溜息を付きつつ中へ入った。ひんやりとした家の中は、夜になったからか更に薄暗く感じられる。
「せっかく二人きりになれるのに、何で俺まで」
「いや、だって、その……一人だと心細くて」
「彼女なんだろ?」
 一護の問いに、啓吾は作り笑いを浮かべる。まさか、と眉を上げる一護に、啓吾は両手を合わせて謝った。
「まだ彼女って訳じゃないんだ。この一件でなれるかも〜って感じかな。協力してくれよ、なあ、一護。お化け退治の様子とか、俺わかんないから」
 何で自分が、と一護は目を剥く。だが、確かに虚を倒した時居なかった啓吾に作り話も難しいだろう。
 憮然とする自分に必死にお願いしてくる様に呆れ、大きく溜息を付くと一護はやる気無さそうに頷いた。
「お待たせしました」
 ノックの音と共に扉を開けた少女は、慌てる啓吾を見て首を傾げる。部屋から出る時、小さな声で礼を言う啓吾に、一護は苦笑を浮かべ肩を竦めた。
「それにしても、大きなお屋敷ですね。格式ありそうな」
「ただ、古いだけです。維持が大変で、暗くてごめんなさい」
 啓吾の言葉に少女は薄く笑って返した。途端にでれでれと顔を崩す啓吾を見て、一護は慣れているとはいえ、やれやれと吐息を漏らす。
 それにしても、本当に広い屋敷だと、長く続く廊下を歩きながら一護は感心していた。暗さもあるのか、さっきから結構歩いているような気がするのに、まだ食堂へ着かない。廊下の両側にある扉の数も、もう何枚有ったか分からなくなっていた。
「随分長い廊下だな」
 ぽつりと不審げに呟いた言葉に応えるかのように、少女は立ち止まった。
 すっと横に退き、片手で指し示す扉は凝った模様が彫られた立派な木造で、取っ手も真鍮で出来た大きなものだ。
「どうぞ、お入り下さい」
 笑顔で促され、啓吾は取っ手に手を掛けた。
「待て、啓吾」
 一護はその手を掴んで止めると、怪訝そうな顔をする啓吾に、人差し指を口に当て静かにと制した。
 どこからか、水の流れる音が聞こえてくる。それはさっき虚と戦った場所で聞こえた音と同じような感じで、一護はゆっくり啓吾の手を掴んだまま取っ手から離させた。
「どうかしました?」
「この向こうは川じゃねえのか」
 不思議そうに見ている少女を一護は睨む。訳が解らず、おろおろして二人を見る啓吾を庇うように後ろへ下がらせると、一護は少女に対峙した。
「お前、何者だ」
「い、一護、何言ってんだよ」
 止めようとする啓吾を後方に突き飛ばし、一護は少女に向かっていく。弾き飛ばされた少女は悲鳴を上げると扉に背中を打ち付け、床に座り込んだ。驚いた啓吾は一護を止めようと後ろから羽交い締めした。
「離せ、こいつは人間じゃない」
「そんな訳あるか。やめろって、一護」
 一護が啓吾の腕を振り解いて少女の方に向いた瞬間、首に何かが巻き付いた。息を詰まらせ、首元に手を掛けてそれを取ろうとした一護は、扉が開いていることに気付いて目を瞠った。
 少女の手が取っ手に掛かり、僅かに開いた隙間から黒い何かが首まで伸びている。また触手かよと眉を顰め、一護は手に力を込めた。
「うわっ」
 勢いよく引っ張られ、気が付くと一護は真っ暗な中に倒れていた。起きあがろうとして、身体の重さに気付き見ると、啓吾が白目を剥いて一護に乗っかっている。助けようとしたのか巻き込まれたのか、一護と共にこの空間に入ってしまったようだ。
「やっと食事の時間になった」
 低く嘲笑するような声が前から聞こえる。一護は背中から啓吾を振り落とすと立ち上がって前方を睨み据えた。
 暗さに目が慣れ、ぼんやりと影が浮かんで見える。妖艶な笑みを湛えた少女が闇の中、一護達を嘲るように見詰めていた。
「やっぱりお前、人間じゃなかったんだな」
「人間だったさ……。私もばあやも。せっかくあそこで捕まえたのに、余計な邪魔が入ってしまった」
 最初に感じた違和感はやはり虚のものだったのかと、一護は歯噛みした。ホテルの方の虚の気配でこちらを隠し、霊力の強い人間を捕まえては魂魄を喰っていたのだろう。ホテルの偽りの廊下とここは繋がっていたのか、同じ場所なのかもしれない。
「今度は逃がさない」
 両腕を広げ、少女は力を放出する。それを躱した一護は、呻く声にはっとして振り返った。啓吾の身体が宙に浮かび、闇の雲のようなものに覆われている。苦しそうに喉を押さえる啓吾に、一護は手を伸ばした。
「くそっ」
「ここは私の空間。足掻いても無駄だ」
 いくら手を伸ばしても、駆け寄ろうとしても啓吾には届かない。まるで空間が歪んでいるように自分は動いているつもりでも一歩も移動していなかった。こうなったら啓吾に見られる覚悟で虚を倒すまで、と一護は代行証を握り締めた。
「今助けるからな」
「この者の命が惜しければ、それを捨てろ」
 一護が死神となる前に、少女は薄笑いをして代行証を指差した。躊躇う一護に見せつけるように手を握ると、啓吾は更に苦しげに藻掻き始める。
「本当に啓吾だけでも帰せよ」
 虚のことだから帰すとは思えないが、かといってこのまま啓吾を死なす訳にはいかない。何とか隙を見つけてと考えていた一護は、腕が動かせないことに気付いて愕然とした。啓吾が捕らわれているのと同じような闇の雲が、両腕に枷のように纏わりついている。
 少女の笑いは凄みを増し、口は裂け、更に全てが弾き飛んでまるで蜘蛛のような形の虚が現れた。意識を凝らして周りを見ると、冷たく光るいくつもの糸が空間を走っている。一護は力を込め腕に絡みついているそれを引きちぎろうとした。
「あんまり動いたらあかんよ。余計に絡む」
 逆さまのギンの顔が目の前に現れ、一護は心臓が止まるかと思うほど驚いた。口をぱくぱくさせて言葉のでない一護に、ギンはにやりと笑いかけると手を一閃させた。
 自由になった手で一護は代行証を使い身体から抜け出すと斬月を構えた。
「な、何故だ! お前はっ」
「流石元女の怨念で虚になっただけあるなぁ。やり方がいい感じにえげつないわ」
「感心してる場合かよっ」
 感心したように言うギンに一護は怒鳴ると、斬月を虚へ向け突き出した。虚はするすると逃げ、追いかけようとした一護は糸の網に阻まれ上手く動くことができない。下手に触るとまたがんじがらめになってしまうと、慎重に近付いていった。
 剣を避けながら虚が啓吾に近付いていくのを悟った一護は、させまいと切った糸の端を掴んで飛んだ。
 反動を付けて一気に虚へ近付き、片手に持った斬月を振るう。闇の雲に掴まって宙に浮いていた啓吾の身体は、自由になったと同時に落ちていった。
「ギンっ、啓吾をここから連れ出せ!」
「もっと丁寧に頼んでくれへん」
 不服そうに呟きながらもギンは啓吾をひょいと摘み上げ、姿を消した。これで充分力が発揮出来ると、一護は笑みを浮かべた。
「近寄れないだろう、私の空間はお前なぞに破られない」
「近付く? 必要ねえな」
 一護は霊圧を最大限に上げ、一息に斬月を振り下ろした。
 空間を覆っていた糸は蒸発して虚は真っ二つになり、驚愕の表情で断末魔の悲鳴を上げ崩れ消えていった。
 満足げな笑みを浮かべ、一護は斬月を背に戻す。闇しかなかった空間は、徐々に辺りが分かる程の普通の夜の姿になり、一護は身体に戻ろうと踵を返した。
 だが後ろに抜け出して来た筈の身体が見えない。愕然として辺りを見回した一護は、少し下方に佇むギンが手を振るのに気付いて青ざめた。
 ギンは川岸に立っており、その側には啓吾が蹲っている。ということはと、足下を見た一護は焦って川面に向かって飛び降りた。
 魂の無い身体が川底に沈む前に漸く戻ることが出来た一護は、息を荒げ岸に這い上った。あのまま気付かずに居たら、本当の意味で死神になってしまう。いや、死んで尸魂界に行ったとしても、瀞霊廷に入れるかどうか知らないけど。
「ご苦労さん。だから言うたろ、この下は川やて」
「……分かってるよ」
 自分はともかく、啓吾はちゃんと岸まで運んでくれたんだから、礼を言うべきだろうが素直になれない。ついでに一護の身体も運ばなかったのは、魂魄の方がコトを有利に運びやすいからだ、きっと。
「いやー、一護の身体の方、すっかり忘れてってん。かんにんな」
 頭に手を当てて謝るギンに、マジで忘れてたのかよと一護は目を瞠った。いや、これはただのポーズかもしれない。何だかギンの行為全てが胡散臭くて、本当のところがどこにあるのか一護にはさっぱり解らなかった。
 とにかく、まだ夏の暑さが残っているとはいえ、濡れた服は気持ち悪いしこのままでは風邪を引きそうだ。早く家へ戻ろうと啓吾を起こそうとした一護は、ちょいちょいと肩を突かれて振り返った。
「何だよ」
「風呂入った方がいい。そのまま帰ったら拙いんやない」
「そりゃそうだけど、どこに風呂があるんだよ。着替えも無いし、面倒だからこのまま帰る」
 一護は啓吾の腕を肩に回しながらギンの提案を却下して立ち去ろうとした。途端に荷物を放り出したような鈍い音がして、一護の肩が軽くなる。
 驚いて声を上げる暇もなく、一護はホテルの最上階ベランダに着いていた。手摺りから下を窺うと、啓吾がきょろきょろと辺りを見回しているのが見えた。
「お友達も気ぃついたみたいやし、一人で帰れるやろ」
「ふざけんな!」
「親切で言うてんのに。ここの風呂、泡が勢いよく出て面白いんよ」
 心外だという表情でギンが言うと、一護は眉を顰めて睨み付けた。生身では三階から飛び降りる訳にもいかず、一護はギンを押しのけると窓から部屋の中に入った。
 どうやらスイートルームらしく、ゆったりとしたソファセットのリビングと、隣にはダイニングルームまで付いている。こっちが出口かと開けた扉の向こうには、どどーんと大きなベッドが鎮座していた。
「ほら、あそこが風呂の入り口」
 硬直している一護の背を押し、ギンは中へ入れるとそのまま部屋を突っ切ってバスルームまで連れて行った。
 大きなガラスで仕切られたバスルームは大の男二人で入っても余裕の広さで、シャワー室も別に設けられている。
「お、おい、待て」
「後で食事付き合ってくれへん? さっきお友達助けたげたお礼ってことで」
 ここで何かするつもりかと、心身共に青くなった一護だったが、案に違いギンはそれだけ言うとあっさり踵を返す。暫く逡巡していた一護は、腹をくくってバスタブに湯を入れ始めた。
 濡れたTシャツを首から抜くと、目の前にギンの姿があった。びっくりして飛び退いた一護は足を滑らせ床にしたたかに尻を打ち付けてしまった。
「いきなり出てくんな」
「服、入ってるうちに洗濯屋出してくるわ。すぐ乾くと思う」
 可笑しそうに一護を見ながらギンは説明する。顔を赤く染め、一護はTシャツを投げると一気に下着ごとズボンも脱いでギンに叩きつけた。
 即バスタブに入る一護に、残念そうな視線を向け、ギンは出ていく。やっとほっとして一護は縁に顎を乗せ大きく溜息を付いた。
「何でこんなとこで風呂入ってんだか」
 自分自身に問いかけても納得のいく答えは出ない。ギンをぶん殴ってここから出ていけば良かっただけのことなのに、こうして居るのが不思議だ。
 敵なのに、何故一護を助けるのか。その気になれば、認めたくないけれど多分一瞬で一護は倒されてしまうだろう。今はまだ、対抗できる強さは持っていない。そのうち必ずもっと強くなるけどな、と一護は思いながらまた堂々巡りの考えに耽っていた。
「何で助けるかな」
「それは貸し作って一護の弱みにつけ込みたいから」
 声にならない悲鳴を上げ、一護はバスタブの中で仰け反った。大きく動いたせいでお湯が盛大に溢れ、直ぐ側にいたギンに降りかかる。
「い、いきなり出るなって言っただろーが、ホラー映画かっての」
「濡れてしもた」
「自業自得…って何で入ってくんだよ」
「濡れついでに、風呂入ろうかと」
 にんまり笑ってギンは服を身につけたままバスタブの中に入ってくる。一護は慌てて出ようとするが、湯で滑ってなかなか体勢を立て直せない。そのうちにギンは一護の身体をしっかり拘束していた。
「よせ」
 背けた一護の顎を捕らえ、ギンは口付ける。唇を噛み締めてギンの侵入を拒むが、するりと下肢を撫でられ思わず一護は声を上げた。
 すかさずギンの舌が一護の口中に忍び込み、縦横に蠢いて快感を煽る。押しのけようとする腕は水気で滑り、掴むことが出来なかった。バスルームに響く濡れた音は一護が藻掻くたびに揺れる水面か、それとも舌が触れあう音なのかどちらとも付かず、耳の奥を擽っていく。
 ギンは一護の唇を楽しみながら片手を下腹部に伸ばした。湯の動きで揺らめく叢から目的のものを手に取り、ゆっくりと愛撫を加え始める。徐々にそれが固く熱くなっていくにつれ、口付けの合間に漏れる一護の吐息も熱を増していった。
「この……エロ狐、やめ…ろ、あ、ぁ」
 自身を吐きだした一護を満足そうに見詰め、ギンは強く寄せられた眉間に口付けた。
 破裂しそうになる心臓の鼓動が頭の中に響く。一護は止まらぬ喘ぎを抑えようとしてくらくらと眩暈を感じ何かに掴まろうと腕を伸ばした。
 その腕を捕らえ、ギンは自分の首に回させると、一気に一護を抱え上げた。湯を滴らせながらギンは一護をベッドへ運んでいく。
 背中に当たる柔らかいシーツの感触に一護はぼんやりと目を開いた。のし掛かってくるギンの濡れた髪が、まるでさっきの虚の糸のように見える。それが絡み付き自由を奪われるような錯覚に陥り、一護は再び眩暈を覚えて目を閉じた。


 思い切り殴った腕が痛い。あれから服が戻ってくるまで翻弄された。どうしてあそこまで行ってるのに逃げられないのか、自分でも解らない。もしかしたら、ギンの斬魄刀の能力とか関係あるのかも、とそっちへ責任転嫁したくなる。
 溜息を付きつつ歩いていた一護は、ふと視線を上げた。
 ホテルの隣に鬱蒼とした藪が広がっている。その前に佇む啓吾の姿に、驚いて一護は近付いていった。
「家に帰らなかったのか」
「ああっ、一護! どこに行ってたんだ。随分探したよ。ここ…あの屋敷だよなぁ?」
 一瞬びくりと身を縮こませた啓吾は、一護だと知ると安堵の表情でぼろぼろ泣きながら見返した。啓吾が指差す場所に在った筈の屋敷は、朽ち果てぼろぼろの残骸になっている。 呆然としている啓吾の肩を宥めるように叩き、一護はむじなにでも化かされたみたいだなと空笑いして、帰ろうと促し歩きだした。

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