La Campagna

 ふわふわした気分を遮るように誰かがリョーマの肩を揺すっている。鬱陶しさに眉根を寄せ、それを振り払おうとしたリョーマは、逆に腕を掴まれいきなり現実に戻った。
「せっかく来たのにこんなとこで寝てるなんて、もったいないよ」
  何度か瞬きして目の前の顔を見詰める。困ったように笑みを浮かべ見詰める不二に、リョーマは我に返って姿勢を正した。
  一瞬ここは何処だっけと考え、不二と一緒にディズニーシーに来ていた事を思い出す。朝早くから来て、二人きりの筈が何故か途中で菊丸達に会ったり、氷帝一行と会ったりで煩かったっけ。
「このまま攫ってホテルまで連れ込んじまおうかと思ったぜ」
  隣から聞こえてきた声に、ぎょっとしてリョーマは立ち上がる。ベンチに座っていたリョーマの両隣に不二と跡部が座っていたのだ。不二は跡部をきつく睨み付け、ついで自分も立ち上がってリョーマの腕を取ると歩き始めた。
  さっきまでどこでお昼を食べるか揉めていたのは、どう決着が付いたのだろう。勿論、リョーマは不二に着いていくつもりだったのだが、思いの外跡部との論議にヒートアップしているのを待つうちに寝てしまったらしい。
「ごめんね。つい夢中になっちゃって。お腹空いたでしょ、レストランもいいけど、やっぱり雰囲気は大事だよね」
  不二がこんなにも食事のことで熱くなるとは思わなかった。意外だと思いつつリョーマは首を横に振り、さっき樺地に貰って食べたと不二に告げた。
  振り返ると樺地と跡部の姿は見えなくなっていた。さっき言っていたレストランとやらへ行ったのだろう。どう考えても跡部がキャラクターと一緒に食事を採る姿は想像出来ないし。
  さっき食べたのは美味しかったなと思い返していたリョーマは、目の前にそれと同じ物を突き出され、目を見開いた。
「これこれっ、これ! ギョウザドッグ、凄い人気で美味いってよ」
「なんの、こっちのうきわまんの方が美味しいよっ」
  別の方向から名前の通り浮き輪の形をした物を突きつける菊丸に、桃城は鼻で嗤った。鼻に皺を寄せ菊丸は桃城を睨み付けた。
「こっちの方がボリューム満タン。買ったばかりで熱々だ」
「こっちだって海老がぷりぷりだもんねー」
  火花を散らして睨み合う二人を無視して、不二はリョーマの腕を引き、行くよと促す。ちょっとだけうきわまんに興味があったリョーマだったが、不二の後に続いて歩き出した。
「ああっ、無視して行くなー」
「どっちも似たようなものじゃないのか」
  不二とリョーマを追いかけて行く菊丸と桃城に、呆れながら大石が呟く。答えがないことを不審に思って振り向いた大石は、乾と海堂が口一杯にそれを詰め込んでいるのを見て、驚き後ずさった。
「……たひかに…小腹を満たすには、十分だな」
「そ、そうか…」
  遊びに来ている筈なのに、何故か全然そんな気がしない。まだもぐもぐと口を動かしている乾が差し出すうきわまんを丁重に断り、大石は胃薬の方が欲しいかも、と大きな溜息を付いた。
  坂道を降りて行くと目の前に港のような風景が飛び込んでくる。遠くに大きな船が見え、リョーマはこの港の水は本物の海水なんだろうかと首を傾げた。園の外は見えないが向こう側は東京湾が広がっている筈。
「やっぱり船の中がいいかな。それとも運河の方がいいかな」
  思案している不二に訊ねようと口を開きかけたリョーマは、いきなり後ろから抱きつかれて息を止めた。
「ええー、ショー見ようよ、見ながら食べよーよー」
  リョーマの首筋にぐりぐりと頭を押しつけ、菊丸が騒ぐ。息を詰めていたリョーマは、髪が当たるくすぐったさに肩を竦めた。
「よーよーって子供じゃないんだから。英二、リョーマくんを離せ」
  ぴったり張り付いている菊丸を、不二は額に青筋を浮かべて強い力で引き剥がした。だが、菊丸は未練がましく伸ばした腕でリョーマの身体に掴まり、唇を尖らせる。
「だってだって、せっかくここに来てんのに、ふつーのご飯じゃつまーんない。ケープコッドだったらショー見られるんだから」
「ショーもいいっすけど、あっちのガラス張りのレストランだとミッキーと会えるっすよ。写真も撮れるし、そっちの方が良くないっすか」
  目を輝かせて言う桃城に、あ、それもいいねと菊丸も同意する。どっちも捨てがたい、と迷い悩んで意識を他に向けた菊丸から漸くリョーマを取り戻し、不二は怖いくらいの笑顔で二人に告げた。
「僕らがそんなキャラと一緒に笑ってるところ、想像してみたら」
  言われて菊丸と桃城は目を天に向け、思い浮かべた。リョーマがミッキーやミニーと戯れている所を想像して、二人の顔がにやける。更に笑顔の不二がミッキーと居る所を考えた途端、菊丸は笑みを浮かべながらも顔を青ざめさせ、桃城はいけないものでも見たように口を押さえて横を向いた。
「可愛いと思うけど」
  二人はそんな大それたこと、誰が言ったんだと慌てて振り返る。唇に僅かに笑みを湛え、不二を横目で見ているリョーマを見て、二人は口をぽっかりと開いた。
「……僕が?」
「ちょっと見てみたい、かな」
  こっくりと頷くリョーマに、当の不二さえも頬を引きつらせる。だが直ぐに体勢を立て直し、軽く吐息を付くと仕方なさそうに頷いた。
「じゃ、行こうか。確かにリョーマくんの彼らと戯れる姿は見てみたいし」
  言外にネズミはどうでもいいと匂わせつつ、不二は今来た道を戻り始めた。暫く行くと大きなガラス窓が特徴のレストランが見えてくる。キャラクター達と会える席への列に並ぶと、いつのまに追いついたのか大石や乾達も後ろに付いた。
「こっちにはあまりキャラクターが居ないから、こういう場所で会うしかない訳か」
「いや、最初はそういうコンセプトだったが、今はやはりミッキーマウス達が居ないと寂しいという意見が多くなって、徐々に増えているらしいぞ」
  テニスに詳しいのは当然として、こんな所でもデータを拾っているのかと、リョーマは乾の方を少し驚きの目で見た。海堂は何故かそわそわとして辺りを見回している。
「マリーちゃんなら、もっと入り口に近い方にしか出ないぞ」
  マリーちゃん?と皆が不思議そうに海堂と乾を見る。海堂は硬直し、すぐに顔を赤くして俯いた。出ない、ということは女の子の名前ではなさそうだし。
「マリーちゃんて何?」
「猫のぬいぐるみ」
  訊くでもなく呟いたリョーマの問いに、不二は端的に答えた。びっくりして見上げるリョーマに、不二は微笑んでみせる。
  菊丸や大石はその答えに動揺しつつ、まだ硬直が解けてない海堂を何となく痛ましそうに見た。普段なら率先してからかうだろう桃城も触れては行けない気がして目を逸らす。
「わりぃかよ…猫、だから」
  成る程、海堂は猫が好きだったのか、とリョーマはすんなり納得した。そのマリーちゃんとやらはカルピンに似てるだろうか、見てみたい。
  漸く案内され席に近付いたリョーマは、いきなり立ち止まった不二の背中に突き当たってしまった。何故だろうと前を塞ぐ身体から顔を覗かせると、自分たちが着くだろう席の隣に、見知った顔の一団がこちらを見詰めている。
「なんや、偶然やな。てか、あんなに跡部とぎゃんぎゃん言ってたから、こーゆーレストランに来るとは思わんかったわ」
「そーだよな。意外」
  忍足が皮肉るような笑みを浮かべながら言うと、同意するように岳人がけらけらと笑う。四人がけのテーブルには他に二人座っていたが、小さく頭を下げて挨拶する鳳の隣で宍戸が完全にこちらに背を向けるように無視していた。
「お前らこそ、きゃー、ミッキーっ!…ってタイプにゃ見えないぜ」
  両手を組み裏声で悶えるポーズをする桃城に、忍足はあほらしいというように溜息を付く。岳人は意味ありげに笑いを噛み殺し、自分たちのテーブルに向き直った。
「リョーマくん、こっち」
  不二は隣にリョーマを座らせ、さっさと自分も腰を下ろす。明るい陽が入る大きなダイニングには他にカップルや家族連れ、女性同士のグループなどばかりで、この一帯だけ異色な空気が漂っていた。
  ちらちらとこちらを窺っている若い女性達に、菊丸はにっこり笑って小さく手を振ってみせる。
「ほら、おチビも手を振ってみなよ」
「何で」
  きゃあきゃあと騒ぐ彼女達の方をリョーマは不思議そうに見た。他にもこっちを見ながら、何かをこそこそ言い合ってるグループもある。
「別に愛想振ることはないよ。いくらリョーマ君が可愛いからって、見せ物じゃないんだから」
  リョーマの顎を取って不二は自分の方を向かせ言い聞かせた。途端に、さっきよりももっと大きな嬌声があちこちから上がる。徐々に近付いてくる不二の顔にリョーマは目を瞬かせ、冷や汗を浮かべた。
「充分見せ物だな」
「ふ、不二、こんな所で馬鹿な真似は止めろ」
  冷静に観察する乾の横で、大石は両手を振り焦って止めようとする。菊丸や桃城は不二からリョーマを引き離そうと手を伸ばした。
「不二先輩、食事、冷めちゃいますよ」
  みんなの妨害を物ともせず、まさに唇が付くかという時にリョーマは目を不二の後方に向け言った。
  テーブルの脇でトレイを持ったウェイトレスのお姉さんが、どうしたらいいのかと途方に暮れた表情で突っ立っている。
「どうもすみません」
  代表して大石が謝る。小さく舌打ちをした不二に、やれやれと肩を竦め、リョーマは手から逃れるとテーブルに向き直った。
  時折、みんなの口から、美味い今いちなどの感想が出る以外は静かに食事は進んでいく。 リョーマは取り立てて感想は無かった。美味しいと思ったが、値段的にはどうだろう。支払いは不二がしたのでリョーマには価格相当のものなのか判断がつかない。
  ちらりと横を見ると、不二は普段の表情で料理を口に運んでいたが、少し不満そうに見えた。
「美味しい?」
  視線に気付いた不二が微笑んで訊ねる。リョーマは小さく頷き、笑みを返した。途端に不二の不満げな気配は消え、ほっとしたように笑みを深くする。
「……普通に初心者デートって感じやな」
  頬を僅かに赤く染めるリョーマを見て、隣のテーブルから忍足が茶々を入れた。二人のやりとりに菊丸や桃城は、気付かない振りをしてたのにと忍足を恨めしげに睨み付けた。「あ、来た、来たぞ」
  雰囲気を払拭しようと大石が態とらしくはしゃいで声を上げる。歓声が沸き起こり、ランチの主役達が現れた。
  手を止めたまま、キャラクターを眺め楽しげに笑みを浮かべているリョーマに、不二は手を動かすよう促す。
  言われて一旦は手を動かしたが、直ぐにリョーマは食事するのを忘れ見入った。
「流石の不二も世界的メジャーネズミには負けるんだ」
  笑いを含んだ口調で菊丸が言うと、不二は笑みを浮かべたまま、向き直る。纏うおどろおどろしい空気に、菊丸は僅かに怯んで身を引いた。
「なんだっけ、あれ、得意技の…熊の着ぐるみでも着れば、注目されるんじゃない」
  離れたテーブルから岳人が言うと、皆その姿を想像して笑えばいいのか、戦けばいいのか戸惑った。
「くまのプーさんですか? 手には蜂蜜持って」
「その蜂蜜ポットには猛毒注意って書いてあるんやないか」
「羆だろ? 蜂蜜食べるのか?」
  真面目に受け取った鳳の言葉に、忍足が笑いながら付け足すと、更に真面目に宍戸が問いかける。
  いくらテーブルが違うからって、被害が及ばないとは限らないのにと青学の面々が焦る中、問いかけられた不二はにっこり笑って首を傾げた。
「どうだろうね。好物は鮭だと思うけど」
  だよな、と確認する宍戸に、鳳は苦笑を浮かべた。
「あ、あー、向こういっちまった。次がこのテーブルかな。ほら、越前、来るぞ」
  自分たちが被害のとばっちりを受ける前にと桃城が不穏な空気を振り払うように、リョーマの肩を叩いて意識を向けさせる。
  キャラクター達は不二達のテーブルに付くと一人一人と抱き合っていく。特にリョーマには何故か執拗に抱きつき、大きな頭を押しつけ大げさな身振り手振りで楽しげにパフォーマンスを繰り広げた。
  リョーマも釣られて笑顔になり、抱きつかれるままでいた。キャラクター達は一通り握手したり写真を撮られると手を振って去っていった。
「ぬいぐるみ着てれば公然とハグしてもOKなんだな、だったら羆でも熊でもやりたいかも」
  ぽつりと言った桃城の言葉に海堂が頷き、はっと我に返って咳払いしてごまかした。目敏く見つけた桃城が、海堂は熊じゃなくて蛇なんじゃないかと突っ込む。
  何だと、と怒る海堂と桃城の間に割って入り、大石は宥めた。
「猫居なかったっスね」
  残念そうに言うリョーマに、菊丸は抱きついた。
「今から猫になる。にゃー」
「……てゆーか、それいつもと同じ」
  呆れ顔で呟いたリョーマは、不二が菊丸を退けず目を眇めて自分を見ていることに訝しげに見返した。
「僕もネズミより猫の方が好きだな」
  それは菊丸に対する告白宣言だろうかと、一瞬二つのテーブルの空気が止まる。リョーマも目を見開いて不二を凝視した。
「艶々とした黒い毛並みで、気位が高くて、気まぐれで、でも心を許した人にだけは甘える可愛い子猫」
  意味ありげに笑いを含ませ、不二はリョーマに上から下まで視線を這わせる。不二の行為の意味を理解したリョーマは、頬に朱を走らせ、目を伏せた。
「今、猫耳と尻尾が見えた…気がする」
  目を擦り、桃城は呟いた。海堂もリョーマの猫姿を想像して口許を押さえ、赤くなった顔を背ける。
  驚愕のあまり動きを止めてしまった菊丸からリョーマを取り戻すと、不二はそっと抱き締めた。
「不二、せめて人の居ない所でしてくれ」
「流石天才。俺たちと次元が違うな」
  店内のどよめきに大石は頭を抱え、岳人は感心したように呟いた。
「どういう次元なんだか」
「もたもたしてると俺たちも同類に思われるぞ」
「ですね」
  呆れたように溜息を付く忍足に、宍戸は席を立つと外へ出ようと促す。鳳も頷いて立ち上がった。
「僕らも出ようか」
  不二に腕を解かれ、リョーマは固まっていた身体から力を抜いた。逃げる暇も隙も、考える間も無く抱き締められ意識がすっ飛んでいたらしい。
  大石では無いが、時と場所を選んだ方が、いや、選ぶべきだろうとリョーマはちょっとだけ腹を立て不二の後に続いた。
  抱き締められたのが嫌なのではない。猫に見立てられたのは…ちょっと嫌かもしれない。ただ、こんな所でやらないで欲しいだけだ。だって……
「リョーマくん、怒ってる?」
  少し前を歩いていた不二が振り返り困ったような表情でリョーマを見た。
「別に」
  こんなそっけない言い方では、肯定しているのも同然だと思いながらも、リョーマは目を伏せる。
  不二の手が延びてリョーマの手を握り締め、引き寄せた。
「ごめんね。ちょっと我慢できなくて。まだまだ修行が足りないね」
  顔を曇らせ謝る不二に、リョーマは吐息を付いて首を振る。その様に、嬉しそうに笑顔を取り戻した不二は、更にリョーマを引っぱった。
  また抱き締めるつもりか、と警戒して抵抗するリョーマの腰に腕を回し、不二はくるりと身を返す。
  驚きに見開いたリョーマの目に映ったのは、困惑して微苦笑を浮かべたキャストの男性だった。
  人工の水路に付けられたゴンドラはまだ誰も乗って居ず、ゆらゆらと水面に浮かんでいる。
「さ、早く乗って」
  後ろから不二に急かされ、リョーマは戸惑いながらゴンドラに乗り込んだ。漸く動いたゲストに、案内係はほっとしたように笑みを浮かべ、次のゲストを招こうとした。
「あーっ! ちょっと待てっ」
「あちゃー」
  ゴンドラは二人を乗せただけで乗り場から離れていく。慌てて案内係が手を伸ばそうとしたが、間に合わなかった。
「先輩?」
「すみません、ちょっと足があたっちゃって。ああ、彼らは次のゴンドラに乗るから大丈夫ですよ」
  完璧な笑顔ですらすらと言う不二に、ゴンドリエは怒ることを諦めたのか、小さく溜息を付くと竿を使って動かし始めた。
「危ないですから、座ってください」
「だって、座ろう、リョーマくん」
  普通なら六、七人は乗れるだろうゴンドラには不二とリョーマ、後ろにいる漕ぎ手と前方のガイドだけしかいない。
  真ん中に並んで座り、乗り場の方を見ると、桃城や菊丸が悔しそうに手を大きく振り回していた。
  あんな危ないことしたら、即Uターンで降ろされるのが普通じゃないのかと思いつつ、リョーマは不二に視線を向ける。
  不二は涼しい顔で景色を眺めていたが、リョーマの視線を感じると顔を寄せ、囁いた。
「やっと二人きりになれたね」
「二人きり…じゃないと思うけど」
  漕ぐ人が二人乗ってるし、そんなに陸地から離れている訳でもないので、他のお客の目もある。
「気にしない気にしない。ほら、夕陽が綺麗だよ」
  気にするだろ、と突っ込みかけたリョーマは、あまりに周りが静かな事に気付いて辺りを見回した。
  何故こんなに異様な感じがするのだろうと訝しげに眉を顰めたリョーマは、すれ違ったゴンドラのガイドがあれやこれやと説明しているのを見て、はたと気が付いた。
  夕陽が逆光となって良く見えないが、なんとなく前方のゴンドリエに見覚えがあるようなないような。リョーマが凝視していることに気付いた不二も、眉を顰める。
  説明をしないのは、さっきの不二の行動に呆れているのか怒っているのか。だが、プロなのだから客の行為にそうは反応してはいけないだろうに。
「まさか……」
  不二が呟くと同時に、ゴンドリエは肩を震わせ、笑い始めた。その声にリョーマは目を見開き、口をぽっかりと開いてしまう。
「ようこそ、俺様のゴンドラへ」
  小さな笑いは高笑いへと変わり、くるりと振り向いたゴンドリエは両手を広げ一礼した。やっぱり、とリョーマは声に出さず呟き、眉根を寄せる。
  不二はリョーマの前に回ると、口端を引き上げ跡部を睨み据えた。
「氷帝はアルバイトOKなのか。それにしても、バイトしなけりゃならないほど困窮してるとはね」
「もちろん、こいつはただのゴンドラじゃないからな。跡部家特製だ」
  話が噛み合ってません。というか、特製ゴンドラってなんだ、とリョーマは不思議に思って見た。
  跡部が指を鳴らすと、ゴンドラが微かに揺れ表面が割れ始めた。中からぴかぴかに光る紋章が現れる。
「氷帝の校章?」
「わっ」
  舳先や艫部分には勿論、リョーマは座っていたベンチにも金色に輝くマークを見て、慌てて立ち上がった。
「おっと、嬉しいのは解るが、あまりはしゃぐと落ちるぜ」
  よろけるリョーマを支えようとした不二の手は一歩遅く、跡部が奪ってしまう。あまり暴れるとほんとに落ちそうで、リョーマは仕方なく手で押しのけるだけの抵抗しかできなかった。
「リョーマくんを離せ」
「落ち着けよ」
  鼻で嗤い、跡部は再び片手を高く上げ、指を鳴らした。
  はらはらと薄いピンク色の何かが目の前に降るように落ちてくる。更に大音量のカンツォーネまで聞こえてきた。
  動きを止めたリョーマは、恐る恐る見上げる。橋の上から籠に入った花びらを振りまく樺地の姿を認めて、リョーマは呆然と目を瞠った。
「うっわー、派手だにゃ」
「あれに乗らなくて良かった」
  リョーマ達の乗ったゴンドラを岸から追いかけていた菊丸達は、丁度橋の上から色々やっていた樺地の隣で事の成り行きを見守っていた。
「助けなくていいんですか」
  嫌そうに訊く海堂に、菊丸と桃城は顔を見合わせる。
「……まあ、きっと不二がなんとかする」
「多分、血の雨は降らないだろ」
「それにしても、よく許したな。株主だったのか」
  眼鏡を押し上げながら乾が呟くと、確かに不思議だと大石もゴンドラを眺めた。
  そうでもないようだぞ、と乾は周りを見て呟き、対岸を指差す。
  ここのキャストがそれぞれの服装のまま、樺地に駆け寄っていった。ゴンドラの方も、ゴンドラではなくボートに乗ったキャストが止まるよう怒鳴っている。
  前に回って止めようとするボートの脇をかいくぐり、ゴンドラは巧みな竿捌きで悠々と進んでいた。
  呆れて力を抜いていたリョーマは、跡部が息を吸い込む音に我に返った。何をするのかと思っていると、跡部は大きくはないがそれなりに聞こえる音量で歌い始めた。
  さっきのカンツォーネの続きか、と更に肩から力を落としたリョーマは、ふと不二が静か過ぎることに気付いて目を向ける。
  リョーマと目が合うと、不二はにっこりと笑った。その笑みが何か企んだような物になり、不二は態とらしく何度か瞬きをして目を閉じる。
  暫くして開いた不二は、小さく頷き、また目を閉じた。
  その意味を理解して、リョーマは目を閉じる。跡部はリョーマが聞き惚れているとでも思ったのか、上機嫌で更にサビを歌い上げた。「うわっ」
  跡部が叫ぶと同時にリョーマは腕と腰を引き寄せられる。
「飛ぶよ」
  驚いて目を開いたリョーマは、直ぐ側で笑む不二が言った言葉を理解する前に飛んでいた。
  岸に足をかけた二人はフェンスを掴み、勢いを付けて陸地に飛び降りる。周りから感嘆のどよめきが起こり、拍手まで沸き起こった。「大丈夫?」
「何したんスか」
  一体何が起こったのかと、リョーマは振り返って確認する。頭に花びらを山のように乗せた跡部が、眉間に深い皺を寄せ不二を睨み付けてた。
「さっきの花をね、ちょっと」
  くすりと笑って不二はリョーマの手を取り、走り始めた。
  さっきの花とは樺地が撒いていた花びらだろうか。それを集めて目眩ましにでもしたんだと想像し、リョーマも笑いが込み上げてくる。
  笑い出したリョーマに不二も機嫌良さげに笑みを浮かべ、走り続けた。
  漸く足を緩めた不二は、熱帯のジャングルのような場所へと入っていく。木々の間からぼんやり見えるのは、ピラミッドのようだ。 その建物が突然明るく照らし出され、リョーマは辺りがもう薄暗くなっているのに気付いた。
  歩いている人々は殆ど二人とは逆の方へ向かい、徐々に人影が少なくなっていく。確か、そろそろ水上ショーが始まる時間だ。
  それを見に行かないんだろうかと、訝しげに見上げるリョーマに、不二は意味深な笑みを見せ、更に奥へと入っていった。
  すっかり陽が落ちて暗くなった木々の間にひっそりとあるベンチに招き、不二はリョーマを隣に座らせた。
  あんなにも賑やかだったのに、ここは静かすぎて落ち着かない。一応側に灯りはあるものの、直接照らさず葉に反射した光が淡く二人を取り巻いていた。
「あの…ショー見に行かないんスか」
「僕はリョーマくん見てる方がいいな」
  飛び切りの笑顔を向けられ、リョーマは思わず狼狽え顔を赤く染めてしまう。こんなムードのある場所で、そんな顔で言うなんて反則だと心の中で呟き、リョーマは一旦俯いた。
「リョーマくん」
「俺も、先輩見てる方が…いいね」
  負けず嫌いの気が出て、リョーマはにやりと笑いそう返す。僅かに目を瞠った不二の表情に、してやったりとほくそ笑むリョーマだったが、いきなり強く抱き締められ息を詰めた。
「見てるだけより触れあいたいな」
「ちょ…っ」
  いくら人気がないとはいえ、ここは天下の日本一人出が多いテーマパークだ。誰か通っても可笑しくない。
  不二は藻掻くリョーマをいなしつつ、首筋に唇を落とし手をTシャツの中に差し入れた。這わされた唇の感触に、ぞくりと感じてしまったリョーマは、一瞬肩を竦め身を強張らせた。
「やっぱり、大きな人真似ネズミより、柔らかくて暖かくて、可愛いリョーマくんの方がずっといいな」
  それってミッキー好きに聞かれたら喧嘩になるぞと、差し迫った危機から逃避するようにリョーマは考えた。
「あっ…」
  不二の手はリョーマの胸を撫で回し、ついで下半身に延びていく。
  その手を退けようとしたリョーマの腕を掴み、不二は口付けた。指の間に舌を這わされ、ぴりぴりとした感触から快感が下半身へと流れていく。
「やだ」
「大丈夫」
  熱くなる身体に、リョーマは困惑して首を振った。そんなリョーマを宥めるように不二は力を緩め、抱き締めた手で背中を撫でる。 吐息を付き、落ち着いてきたリョーマの顔を掌で上向かせると、不二は口付けた。
  途端に辺りがぱあっと明るくなる。驚いて離れようとしたリョーマを、不二は許さず後頭部を手で押さえ、更に深く口付けていった。
「良い度胸だな、こんな場所で」
「てゆーか、まさかこんなとこがあるなんてねー」
  周囲から聞き覚えのある声が聞こえてくる。リョーマは藻掻き疲れてぐったりと不二に凭れかかった。
「邪魔しないで欲しいな」
  漸くリョーマから唇を離し、凄みのある表情で不二は周囲を睨め付ける。その顔に空から花火の明かりが降り注ぎ、更に凄惨さを増していた。
「さっさとそいつを離せ」
  こちらもまたえらい形相やな、と菊丸達と反対方向から眺めていた忍足は隣の跡部を見て溜息を付いた。
  不二と跡部の間に散る火花も、空の花と違った趣が
「あるかいな、そんなもん」
  一人ボケ突っ込みをする忍足を、不気味そうに岳人が見上げる。
「せっかくの花火なんだから、もっと綺麗に見える所へ行かないか」
「こっちの方が見物だから、無理だろう」
  あ、やっぱり、と大石は否定する乾を見て肩を落とし、海堂は頭から湯気を出さんばかりにして目を見開いている。
  派手な音を立て、綺麗な光をまき散らす花火の中に浮かぶ不二に、リョーマは意識せぬまま手を伸ばした。
「キレイ」
  思わず口をついて出た言葉に、リョーマははっと我に返って頬を赤く染める。
  不二は一瞬何を言われたのか解らないようだったが、次の瞬間満面の笑顔で再びリョーマを抱き締めた。
「ありがとう」
  幸せそうな二人の姿に、周りはどんよりとした空気に包まれた。
  見てられない、しかし、見てないとどこまで行くか分からない。
  いつまでここに居たらいいのかと思う皆…約1名を除く…の上に、再び花火の賑やかな光が降り注いでいった。

テニプリトップへ