狭間の月
 
 遠くから自分を呼ぶ声がする。ふいに現れた白い顔に細い吊り目、薄ら寒い笑みを浮かべたあいつが呼ぶ名前に、一護は思いきり怒鳴り返した。
「うるせーっ、なれなれしく名前呼ぶなってんだ、この変態キツネっ」
 椅子が転がる大きな音と、びっくりして大きく目を見開いている水色に、一護は我に返って汗をたらたらと流し硬直した。
「あ、済みません、黒崎さん。でも今授業中ですよ、ほら、先生も見てるし」
 にっこり笑い、水色はわざわざ名字を言って前を指差した。誤解だと言い訳しようにも口が強張り言葉が出ない。仕方なく開き直って一護は椅子を戻すとどっかりと座り直した。
 教師は注意しようか迷っているようだったが、一護の怒りの形相に肩を落として黒板に向かう。
 こっそり水色の方を窺うと、一護を全く無視して授業を受けていた。
 これが啓吾だったら放っておくのだが、水色だと後で色々仕返しを受けそうで怖い。多分とっくに怒鳴ったのは自分にでは無いと解っている筈だが、他人の弱みを握って離さない性格だから、しばらくはちくちくと虐められるだろう
 それもこれもあんな夢を見たせいだ。一体なんだって俺が、と一護は吐息を付いた。
「一護、あんた凄い顔で寝てたよ。だから先生も注意出来なかったんじゃない」
 取り敢えず水色に謝り……結局、購買の焼きそばパンで手を打った……やれやれと自分の昼飯を食べていた一護は、呆れたように言うたつきを見た。
 いつも脳天気な織姫が笑みを浮かべながらも、遠慮がちに話しかけて来ないところをみると、相当近寄りがたい状態らしい。
「悪い夢見てたんだよ」
「狐にでも化かされたとか」
 冗談を言ったつもりのたつきは、鋭い目で一護に睨まれ怯んだ。その様子にはっとして一護は溜息を付き、悪いと謝る。
 今から考えるとほんとに化かされたんじゃないかという気がしてきた。ほんの僅かしか会ってないのに、興味が出たとか、好きだとかあり得ない。
 おまけにあんなこと。
 思い出してしまった一護は、思わず持っていたウーロン茶のパックを握り潰してしまった。残っていたお茶が飛び出し、取り巻いていたみんなが低い悲鳴を上げて飛び退く。
「少し頭冷やしたら」
 冷ややかに言う水色に、一護はがっくり肩を落としてパックをゴミ箱に投げ入れると、そのまま屋上の片隅に寄りかかる。教室に戻ろうと促す水色に、ここで寝直してくと告げ、一護は目を閉じた。
 授業が終わる鐘が鳴ると一護は大きく伸びと欠伸をした。午後、授業をさぼって屋上で一眠りしたお陰か、多少眠気は取れている。
 夜になるとあの時のことが蘇ってなかなか眠れないし、眠ったらあの顔が出てきて魘される日々が続き睡眠不足に陥っているのだ。
 忘れようとしてもあの顔と声がちらついて、胸がむかむかする。これをどうにかするには、あいつより強くなってぶっ倒さないと、きっとずっとこのままだ。
 一護は拳を握り締め固く決意したが、倒すにはあいつの居所を掴まなければならないのに、こちらに戻って以来未だ尸魂界から何の連絡もない。ギンがこんなに大胆に現れているのに、何をしてるんだかと一護は空を睨み付けた。
 さて帰るかと教室へ戻った一護は、みんなが集まってなにやら楽しそうに相談しているのを見て、訝しげに眉を顰めた。
「あ、一護も行く?」
「どこへ」
「桜橋にある元ラジオ局。またドン観音寺が来るんだ」
 楽しげに言う啓吾に、一護は眉間の皺を深めた。観音寺はこの街に来すぎじゃないかと、みんな不思議に思わないのだろうか。他の街も良くない霊が居る場所はぼちぼちあるだろうに、この街に執着するのが理解できない。
 自分が居ない間に、夏梨を巻き込んで幽霊退治の戦隊ごっこをしているとかいないとか。訳わかんねーと心の中で呟き、一護は首を横に振った。
「いかねーよ。それにあそこはちょっと前に隣の新しいビルに移動しただけだろ。まだ普通に使ってんじゃないのか。あのおっさんが来るのってラジオの収録なんだろ」
「えー、テレビ局やラジオ局っていったらお化けの宝庫じゃん。そんな夢のないこと言うなよー」
 啓吾を筆頭として皆からブーイングを受け、一護は額に手を当てた。虚にならないような普通の霊ならそんなに害はないが、みんなでよってたかって見せ物にしたりすると怯えたあげく、襲ってくるものもいる。
 そうなると虚化も近い。早めに魂葬してやらないと穴が開ききってしまう。おっさんにはそのへん、きっちり説明したから大丈夫だと思いながらも、一護は微かに不安を覚えて、騒ぎながら道を歩くみんなを見詰めた。
 ほっといても大丈夫という気持ちと胸騒ぎが拮抗し、一護はコンと入れ替わりに死神となって見に行くだけは行ってみるかと足を速め歩き出した。
 道を渡ろうとした直前、目の前に真っ青なオープンカータイプのスポーツカーが停まった。足を止めた一護は、車体から顔を覗かせ手を振る人影に、ぎょっとして身を引く。
 思わず脱兎の勢いで走り出そうとする前に、真っ赤な薔薇の花が一輪差し出され、一護は硬直してそれを見た。
「久しぶり、会いたかった」
「……何の真似だこれは」
 低く地を這うような声で一護はその花を差し出している人物に問いかける。ギンは心外そうに口端を歪めると、すぐにいつもの笑みに戻って言った。
「いややなあ、逢い引きのお誘いやないか。一所懸命勉強したんよ、一護」
「だからなれなれしく名前呼ぶなってんだ。……勉強?」
 一護が問い返すように呟いた言葉に、ギンは何度か頷いてみせる。上から下までギンの格好と、持った花、車を順に見た一護は頭を押さえ大きな溜息を吐くと踵を返した。
「ちょっと待ってや」
「誰が待つか! 大体何の勉強だよ。つーか、また悪ふざけか、俺で遊んでんのか。もう許さねえ、絶対お前を倒してやる」
 鼻息と足音も荒く歩いていく一護に、ギンは苦笑を浮かべ車に戻った。一護の歩みに揃えて車をゆっくり並んで走らせる。
「一護、一護、いっちごちゃーん」
「うるせえっ!」
「あかんよ、こんな町中で大声出しはったら」
 はっと気付いて一護は周囲を見た。まだ学校からそう遠く離れていないここは、生徒達の帰り道で車は少ないが人通りは多い。誰のせいだよ、と睨み付ける一護に笑いかけ、ギンは素早く腕を伸ばした。
 逃げる間もなく、一護は助手席に引っ張り込まれてしまった。ドアが閉まるか閉まらないかで車は急発進し、一護はシートの背に押しつけられる。
「何しやがるっ」
「シートベルト。おまわりさんに掴まらんように」
 食ってかかろうとした一護は、舌打ちするとシートベルトを付けた。ギンは慣れた手つきで車を運転し、どこかへ向かっている。
「なんで俺に構うんだ。あの藍染って奴の部下なんだろ? こんなとこで油売ってないで、仕掛けてきたらどうだ」
「んー、まだその時やないってこと。あんまり言うとネタばらすことになるしな。その辺はヒ、ミ、ツちゅーことで」
 一護は拳を握り締め、ギンを殴った。痛いわー、と涙目で言うギンに、どこまで本気なのかと睨み付ける。飄々として、掴み所がなくどうとでもなりそうな感じだが、尸魂界で聞いたかぎりでは藍染に近い所で一番ヤバイ死神なのは確からしい。
 一護はシートに凭れて眉間を指で押さえ、さっきの胸騒ぎはもしやこれかと溜息をついた。
「お前、免許持ってるのか」
「持ってる思う?」
 訊いた自分が馬鹿だったと思いながら、一護は深くシートに身を沈める。免許はともかく、運転はどこで覚えたのだろう。それにこの車、レンタカーの訳無いし、買った……いや、それは無いなと一護は考えたくないことを思い浮かべた。
 そんな一護の考えを解っているのかいないのか、ギンは上機嫌で車を走らせる。改めて何処へいくつもりなのかと周囲に目を走らせた一護は、繁華街へと行く道筋に目を瞬かせた。
 逢い引きのつもりで勉強したというなら、この先は映画か食事か、学生同士のデートならゲーセンかカラオケってこともあるけどそれはないだろうし、と考えていた一護は通り過ぎたビルの一角に啓吾やたつきの姿を見て振り返った。
「停めろ!」
 一護はギンの腕に手を掛けた。訝しげに見るギンの足下に無理矢理足を突っ込み、ブレーキを踏むと、甲高い音を立て車は止まった。
「うっわ、あっぶないわー。いい子は真似せんようにって注釈入るとこや。どうしたん、一護」
「ああ、悪ぃ」
 おざなりに謝り、一護は車から降りて駆け戻った。みんなの姿は既に無くビルの敷地内に入ったらしい。観音寺のファン達が新しい方のラジオ局を取り巻いて賑やかだが、隣の敷地は対照的にひっそりと暗く静まりかえっている。
 時折ちらちらと漏れる灯りは、誰かの懐中電灯だろう。一護はビルを眺め、禍々しい気配がないか探ろうと目を眇めて見た。
「一護、何してはるん」
「大丈夫……か」
 見回した所に霊達は居ない。車を降りてやってきたギンに説明するのも面倒だと、一護は踵を返した。
「面白いとこやね」
 笑みを浮かべながら呟くギンに、一護は一瞬嫌な感じがしたが、いつもの人を惑わす台詞だろうと足を速め歩き出した。
 無意識のうちに車に戻ってきた一護は、しまったと唇を噛み締める。戻らないでこのまま家に帰れば良かったんだと今更気付いても遅かった。ギンがドアを開け、一護の背を押して中へ誘導する。人通りの多い街中で暴れる訳にもいかず、一護は渋々車に乗り込んだ。
「で、何処へ行くんだ」
「そやねえ、取り敢えずドライブして、夜景の綺麗な場所で薔薇の花束渡してプロポーズ」
 絶対遊んでる、と一護は額に青筋を浮かべ、そっぽを向いた。プロポーズってなんだよ、結婚したいのか? 死神、しかも反逆者で敵な奴が自分と。いやいや、その前に男同士……もっと前に人間と死神って結婚出来るのか。
 止めどない考えが頭の中をぐるぐると渦巻いて、一護は大きく溜息を付いた。だから、こうして考えさせるってところが遊ばれてるってことだよなと、一護はもう考えずギンを無視して外の景色を眺めた。
 オープンカーだから風が直接当たり、気持ちいい。運転してる者のことさえなければ、楽しいドライブなんだけど。
「お前ら、マジで尸魂界とやり合うつもりなのか」
「一護に言われとうないな。霊力が強いだけの人間が、護廷十三隊相手に戦いを仕掛けてきたやないか」
 ぽつりと訊ねた一護の言葉に、ギンは心外そうに答えた。言われてみればそうかもしれない。でも、その原因はギン達にある。いや、半分くらいは浦原か。
「目的が違うだろ。誤魔化すな」
「だから、まだヒミツ」
 にっと笑うギンに、一護は瞬間背筋に悪寒が走った。その首根っこを捕まえて問い質したい思いに駆られるが、未だ力の差があるのは歴然としていて軽く躱されてしまうだろう。
 いつかギンを凌駕する力を手に入れて、このおちゃらけキツネ野郎をぐうの音も出ないほど追い詰めてやると、一護はその場面を想像して口端に笑みを浮かべた。
 車が停まり、一護は現実に引き戻された。目の前には街の光が瞬き、周囲は薄暗い。どうやら川の土手に着いたようだった。
 本気でこんな場所で何かするつもりかと、一護は青ざめる。車から降りようとドアに手を掛けた一護は、ギンに腕を取られ向かい合った。
「そんな怖がることあらへん」
「だ、誰が怖がってるんだよ。またあんなことしやがったら、ただじゃおかねえぞ」
 戦いなら怖くない、というか覚悟は出来てるが、こんな風に迫られる覚悟は出来てない。まだ単に遊ばれてるだけという気がしてむかつくだけだ。
「あんなことって……こう」
 ギンの顔が近付き、一護は思わず目を閉じてしまった。これでは待ちかまえてるようじゃないかと気付いた時には唇が合わされ、ギンは遠慮容赦なく一護のそれを貪っていく。
 振り払おうとする一護の顎を強く押さえ、ギンは歯列をこじ開けて中へ舌を侵入させた。蠢くギンの舌に翻弄され、一護は徐々に意識に霞がかかっていく。
 唇が離れ、大きく息を吐いた一護は、耳元に這わされるギンの舌先にぞくりと身体を震わせた。
「やめろっ」
「嫌やないやろ、悦んでる」
 ギンの言葉に、一護は顔に火がついたように熱くなって背けた。腕を上げ、ギンを押しのけようとするが、びくともしない。なんでだと考える力も段々薄れていく。
「こ……」
 ギンの手が制服の中に忍び込もうとした時、突然代行証が叫ぶような音を上げ始めた。一護は呪縛が解けたように我に返ってギンを突き飛ばす。
「なんや、煩いなあ、それ」
 眉間に皺を寄せ、ギンは一護のベルトに付いている代行証を睨み付けた。一護がそれを掴もうとする前に、今度は携帯が鳴り始める。慌てて取ると、たつきの焦った声が聞こえてきた。
「え? 啓吾が?」
 旧ラジオ局に入ったものの、霊が現れる様子も無くてみんなは外に出たのだと言う。だが、鍵を落としたと啓吾が戻り、その後いくら待っても出てこないのだと、たつきは焦った声で告げた。
『中に入れないんだ、どうしたらいい』
「直ぐ行く」
 たつきに応え、一護はギンに向き直った。不機嫌そうなギンに詰め寄り、直ぐに車をラジオ局に走らせろと怒鳴る。
 一護の気迫に押されたのか、むっつりと黙ったままギンは車をスタートさせた。
 ラジオ局の建物が見えてくると、一護はちらりとギンの横顔を窺う。無表情でハンドルを握るギンを見て、一護は何度か口籠もった後低く呟いた。
「あー、えーと、済まねえな」
「ん? 何で」
 車を停め不思議そうに見るギンに、一護は焦って首を振った。
「え、いやその……」
 良く考えてみれば、無理に連れ廻したのはギンの方だし、不埒な行為に及んだのもあっちだ。怒っているにしたって、自分が悪い訳じゃない。けど、何となくギンの様子に謝ってしまった一護は、腕を組み眉根を寄せた。
「おかしな子やね」
「うるせーよ」
 顔を微かに赤らめて一護は車から降りた。門が少し開いていて、中から小さなざわめきが聞こえてくる。一護が入っていくと、そのざわめきはぴたりと止まった。
「たつき」
「あ、来た」
 たつき達が集まっている入り口に近付いた一護は、さっき見た時は判らなかった重圧感が建物の中からびりびりと発散されるのを感じて眉を顰めた。
「どれくらい経ってるんだ」
「三十分くらい。迷ってるとは思えないんだけどね。携帯が繋がらないんだ」
 水色が両手を上げて困惑したように一護に話した。他の者達もうんうんと頷く。
「探しに行こうと思ったら、なんでかドアが開かなくって」
 さっきは楽々開いたのにと告げるたつきを退けて、一護はノブに手を掛けた。金物を弾くような音がしてノブがゆっくりと回る。今までびくともしなかったのにと驚くたつきに、一護は頷いてそっと扉を開いた。
 途端に中から凄まじい霊圧を感じ、動きを止める。さっき感じた重圧感はこれだったのかと、一護は歯噛みして一旦扉を閉じた。
「俺が探してくるから、みんなここから離れて待ってろ。こんなとこで固まってると、不審者に間違われるぞ」
 でも、と言い募るたつきたちを無理矢理門の外に追い出し、一護は深呼吸すると中へ滑り込んだ。この霊圧の大きさは普通の虚のものではない。大虚かと思い出すが、あれは確か空間を裂いて現れる巨大なものだ。こんなビルの中に居るとは考えにくい。
 水色から借りた懐中電灯を付け、一護は啓吾の気配を探りつつ奥へと足を進めた。
 まだ整理されていないのか、沢山がらくたが置いてある部屋を一つずつ確かめながら歩いていた一護は、遠くであがる悲鳴に、その方向へ向け走り出した。
「啓吾っ」
 開いた扉の向こうで、啓吾は宙に浮かび苦しがっている。その首には触手のようなものが絡まり締め上げていた。
 舌打ちして一護は何か武器になるような物は無いかと周囲を見回す。死神になれば簡単だが、啓吾の目の前では拙いだろう。
 パイプ椅子を見つけ、一護は触手の根元に向け投げた。触手は啓吾を放り出すと、一護の方に伸びてくる。それを振り払い、啓吾の側に駆け寄った。
「おい、しっかりしろ」
「な、なな、なんだよ、あれ……ぎゃ…」
 咳き込み喉を押さえながら啓吾は一護に縋り付いた。啓吾には正体がはっきり見えていないらしい。触手は隙を窺うようにゆらゆらと宙に蠢いている。
 どうしたらいいかと考えていた一護は、突然啓吾が低く潰れたような声を上げたのに驚いて振り返った。
「油断しはったらあかんよ」
 いつのまにか後ろに忍び寄っていた触手を掴み、ギンが笑みを浮かべて立っている。その足下に啓吾が蹲り気絶していた。
「啓吾に何をした」
「邪魔やし、眠ってもらったわ。心配せんかてええよ、怪我はさせてへん」
 触手を握る手に力を込め、ギンは握り潰す。じたばたと苦しむように大きく動いた触手は闇の中へ消えていった。
 啓吾の側に寄り、ギンの言葉を確かめると一護はほっと息を吐く。信用ないなと苦笑いするギンを睨み、一護は闇の中の気配を窺った。
「あれは、大虚か」
「さあ」
 呟く一護に肯定も否定もせず、ギンはにやりと笑った。一護は眉間に皺を寄せ、代行証を手に取ると額に押し当てた。
「おい、俺の身体に変なことすんなよ」
 魂魄の抜けた身体はぐったりと床に崩折れる。ギンはその側にしゃがみ込み、むっとしたような表情で一護を見た。
「魂のない身体に何かしても反応なくてつまらへんやないか」
 そうは言うがギンの言葉は当てにならないと、一護はひと睨みして斬月を構え、闇の中の邪悪な気を持つものへと打ち掛かっていった。
 本体は見えず、闇の中から触手のみが一護に打ち掛かってくる。それらを切り払っていたが、一護は何度斬っても増殖する触手に面倒くさくなって気を溜めると、一息に振り切った。
 空を切り裂く音とともに闇の向こうで悲鳴と怒号があがり、周囲の物が派手に四散する。建物内に響き渡る音があまりに大きくて、一護は舌打ちをした。
 以前虚とやりあった場所はあまり人が居ない所だったが、今回は繁華街の真ん中、隣には人が取り囲む新ラジオ局もある。こっちに人影が無いとはいえ、不審に思った関係者が見に来るかも知れない。短期決戦でやっつけるしかないかと、一護は剣を構え直した。
「うらぁっ!」
 闇の中に飛び込んだ一護は、漸く本体らしき影を見つけ斬りかかっていく。それは普通の虚より幾分小さかった。触手は一体どこからと思った瞬間、虚の背から何本もの触手が一護目掛けて飛んでくる。
 余裕で斬って捨て、一護は本体にとどめを刺すべく柄を握り締め、虚の仮面目掛け振り下ろした。仮面に刃が食い込み、砕け散る。
 軽く息を吐いて下がろうとした一護は、急に何かに足を取られ驚く間もなく逆さまに吊り下げられてしまった。
「なっなんだ、これ」
「小僧、それは俺の擬態よ。死神とは久しぶりの馳走だな、ゆっくりと苦しませてやる」
 砕けた仮面の下に目立たない仮面がもう一つあることに漸く気付いた一護は、歯噛みして斬魄刀で足に巻き付いている触手を切ろうとした。しかし、目に留まらぬ早さで別の触手に両腕を捕らえられ、斬魄刀を落としてしまう。
 胴と首にも触手が巻き付き、じりじりと締めあげた。言葉通り苦しませてから殺そうというのか、虚はわざと一気に力を込めない。一護はせめて片手が抜ければと、霊力を右腕に集め始めた。
「一介の死神にしては、強い力を持っているな。だが、鬼道も使わないとは、わしも舐められたものだ」
「それはそうや。瀞霊廷に乗り込んで護廷十三隊の隊長二人とやりおうて生き残ったんやからな。結構強い筈やで」
 一護の抵抗に面白そうに呟いた虚は、ついで掛けられた声にじろりとその方向を見た。笑みを浮かべたギンが飄々とした様で一護の視界に現れる。
 向かってくる触手を軽く避け、ギンは一護の下まで歩みを進めた。
「お前もただの人間では無いな。死神か」
「死神とはちがうなあ、今は。それより、油断しはったらあかんゆうたろ。これはギリアンよりちょっとましなアジューカスだ。ま、雑魚は雑魚やけど」
 雑魚と言われた虚はギンに向け、触手を今までの数倍放った。周囲の物が消し飛び、埃が立ちこめる。今のギンは義骸だから、まさかやられたのかと目を見開いた一護は、全く無傷で平然と立っているギンにほっとした。
「ギンっ、これを切ってくれ」
「僕に頼み事しはるの? なら、お願いします言うてくれへんと」
 酷薄な笑みを浮かべるギンに、一護は一気に頭に血を昇らせた。途端に右腕に集めていた霊力が大きく跳ね上がり、触手を千切り飛ばす。
 更に他に巻き付いている触手も取り除いて、一護は床に降り立った。斬魄刀を拾うとギンに切っ先を突きつけ怒鳴る。
「誰がお前なんかに頼むかっ! 心配して損したぜ」
「心配?」
 一護は繰り返すギンの言葉に気付かず、怒りを持続させたまま虚に対峙した。
 さっきまで見えなかった触手の動きがゆっくりと見える。霊力を集め、霊圧を込めて今度こそ一護は虚の仮面に斬月を叩き込んだ。
 絶叫を上げ虚は崩れ、消え去った。重苦しかった空気は消え、当たりに静けさが戻ると、一護はやれやれと肩を落とし、自分の身体の方に歩いていった。
 戦いの余波で埃まみれの身体を叩き、やっぱりコンが居ないと不便だなと思いつつ啓吾の側に行くと、まだ意識を取り戻していない。
 霊感がない者に死神も虚も見えない筈だから、説明するのに面倒が無くて良かったと一護はほっと安堵した。
「なあなあ、一護、さっき僕のこと心配してくれはったん」
「うるせーな。そんなんじゃねーよ」
 一瞬でもギンを気遣ってしまったのは一生の不覚かもと一護は忌々しく思い、頭をがりがりと掻いた。
 煩く付きまとうギンを無視して、啓吾の腕を肩に廻し抱え上げると、一護は建物の外に向かう。門の外には心配そうにたつき達が待ちかまえていて、一護と啓吾を見ると走り寄ってきた。
 啓吾を道に寝かせ、一護はその頬を何度か叩く。それでも目を覚まさない啓吾に、水色が思い切り踏んづけた。
「ぎゃっ! いってーな……あ、あれ、俺どうしたんだっけ」
「水色、それ酷すぎねえ。大丈夫か、啓吾」
 一応水色を窘め啓吾に視線を戻した一護は、目の前で手を振り問いかけた。頷いて立ち上がった啓吾は、思い返すように一護をじっと見た。
「一護、怪獣と戦ってなかったか」
 怪獣? と一護は眉を顰めた。もしかして、啓吾には見えていたのだろうか。虚は魂魄以外に霊力の強い生きた人間も襲うことがある。幼い頃、自分が襲われ母が殺されたように。
 首を捻る啓吾に、他の者は頭でも打ったんじゃないかと、顔を見合わせた。一護もそれに合わせ、頭打って幻覚でも見たんだろうと軽くいなした。
「そりゃ大きな音がしてたけど、どっかに引っかかって何か落としたんだろうって」
 たつきは苦笑しながら言い、ふと一護を思案げに見詰めた。一護は冷や汗を浮かべながら、そんなとこだと肯定する。
 多分かなり大きな物音とか閃光とか上がっただろうに周囲は割と静かだ。たつきの説明でみんな納得してるのが不思議だが、そういうことにしておく。
「そういや、観音寺のおっさんは見られたのか?」
「ちょっと前に隣から出てきてこっち見たけど、自分の出る幕は無いとかなんとか言って帰っちゃった」
 水色の言葉に、一護は顔を顰めた。逃げたのか、一護が来ていることに気付いたのか。ちゃっかりしてやがると呟き、一護は吐息を付いた。
「そろそろ行こか」
 後ろから掛けられた声に、びくりと一護は硬直する。ギンのことをすっかり忘れていた一護は、振り返らずみんなに帰ろうぜと声を掛けた。
「いいの?」
「よくあらへんなあ、まだデートの途中やし」
 たつきが声を潜めて一護に訊くと、後ろから答えが返ってくる。デートという単語に一護は脱兎の勢いで駆け出そうとした。が、首根っこをしっかりと捕まえられてしまった。
「離せって」
「言うてみよか、さっきのあられもない格好のこと」
 うわーと叫び、一護は両手をばたばたさせてギンの腕を取りみんなから離れた。
「誤解されるだろうが」
「ほんまのことやん。もうすこぅし見とっても良かったな」
 にんまりと笑うギンに、一護はがっくりと肩を落とした。不思議そうに見ているみんなに先に帰れと手を振ると、仕方なくギンに着いていく。車まで戻った一護は、腹をくくることにした。
 再び車に乗ると、ギンは楽しそうに走らせる。一護は目を眇め、鼻歌でも歌いそうなギンを睨み付けた。
「お前、あの虚のこと、最初から知ってたな」
 そういえば、最初に通りかかった時ギンが呟いていたと一護は思いだして苦々しく訊いた。ギンは答えず、知らんぷりをしていたが、一護の怒りが溜まり始めるのを感じて仕方ないなと小さく溜息を付いた。
「あの場は魂魄が溜まりやすい所や。だからあれは餌場にしとったんやろ。普通の虚と違って少しだけ頭を使うからな」
 わざわざ喰われに行く物好きな人間もおるんやなと嗤うギンの頭を一発殴り、一護は早く言えと怒鳴った。
「上級虚か……」
 大虚のうち一番下のギリアンでさえ手こずるのに、その上や更に上級の虚が出てきたらどうなるのかと、一護はぞっとする。どんなことになっても、一旦代行とはいえ死神となった以上、霊たちや生身の人間を守るつもりだが。
 考え込んでいた一護は、車が停まったのに気付いて我に返った。さっきの土手かと思い辺りを見回すと、欄干とその向こうに黒く揺らめく水面が見える。
 車が通りすぎるのがやっとという施米橋の上に、何故停めたのかと訝しげにギンを見た一護は、いきなり覆い被さられ両腕でガードした。
「な、何すんだ」
「さっきの続き」
「馬鹿言うなっ、こんな橋のど真ん中で」
 場所が変わればやっていいという訳ではないが、橋の上しかもオープンカーで空の下、あんなことをやられてはたまらない。
 じたばたと暴れる一護の両腕に何かを巻き付け拘束すると、ギンはヘッドレストに押しつけた。
「橋はあの世とこの世を繋ぐ道。この前の舟とおんなじやから安心しい」
 頭上に片手で押さえられた腕を振り解こうと藻掻いても、力は強くかかっていないのに外せない。一護は目の前の胡散臭い笑みを浮かべたギンを憤怒の形相で睨んだ。
「安心できるかっ! いいからこれ外せっ」
「できへんな。さっきの吊されてたのがえらい艶っぽかったから、いっかい使おてみよって」
 艶っぽいって何だと目を剥き、一護はせめて自由になる足でギンを蹴り飛ばそうとする。突然シートが倒れ、したたかに頭を打った一護が目を開けた時には、既にギンが両足の間に入り込みがっちりとホールドしてしまった後だった。
「レンタルやからあんまり暴れて傷つけんといて」
「知るかよ」
 怒鳴る一護に笑いかけ、ギンは口付けた。唇を引き結んでギンの侵入を拒んでも、腕を押さえているのとは別の手がTシャツの裾から入り込んでくると、思わずそっちに意識がいって緩んでしまう。
 侵入して縦横に蠢く舌に今度は身体の方が疎かになって、ギンの手が胸を撫でる動きに頭が対処できなかった。
 胸の突起を指先で擦り上げられ、一護は強く目を閉じる。思う様貪っていた唇を離し、ギンは顎から首筋へ舌先を移動していった。
「感じやすくなってる」
「……な訳…ねーだろ」
 ギンの愛撫や刺激に反応すまいと、一護は唇を噛み締め目を閉じたまま横を向いた。くすりと笑ってギンは耳朶を甘噛みし、Tシャツを捲り上げて露わになった突起に唇を寄せると、舌先で転がすように愛撫する。
 一護はぴりぴりと刺激が走って熱が下半身に集まってくるのを感じ、背けた頬が熱くなった。何でこんな風に感じるのか、自分の意志で自由にならない身体が恨めしく、一護はせめてギンが気付かぬよう離れようと背をシートに押しつけた。
「恥ずかしがることない。感じるようにしてるんやから」
 ギンは手を伸ばし、一護の熱くなり始めたそれを衣服越しに捕らえた。途端に痺れるような快楽が走り、一護の意識を溶かしていく。
「今度……死…がみになったら、絶対……ぶっ殺す」
 人間のままだからギンの力に負けてしまうのだと、一護は漏れそうになる喘ぎを押さえ呟いた。ギンは喉の奥で笑い、それは楽しみやと応える。

「一護……一護」
  名を呼ばれ、一護は薄く目を開いた。目の前にあるのは見たことのない光を宿す瞳。それがギンの目だと気付いた一護は、初めて見るもののようにじっと見詰めた。
 胸の所にあった一護の両腕を自分の首にかけ、ギンは腰を動かし始める。仰け反った一護の目に次に映ったのは空に掛かる月だった。
 空間の外にあるように、月はぼんやりと光っている。再びギンに視線を戻そうとした一護は、突然抱き上げられ、ギンと場所を入れ替わるように膝の上に乗せられた。
 下から突き上げられ、一護は呻いた。体重を掛けまいとしても、ギンに腰を押さえられてしまう。痛みではないものが腰から痺れるように沸き起こり、一護は眉根を寄せた。
「月…が」
 体勢が入れ替わったというのに、月が見える。揺さぶられ上を見た一護は、そこにも月があることに気付いた。
「月じゃなく、僕を見てや」
 情欲に掠れた声に、一護はギンを見た。いつも人を小馬鹿にしたように貼り付けている笑みは無く、僅かに上気した顔にあるのは、何故か胸を締め付けられるような笑顔。
 一護はその表情を脳裏から追い出すように目を閉じた。


 代行証を手で弄びながら一護は鬱々と考えていた。あの表情はなんなのだろう。自分に手を出すのは、暇つぶしの遊びだろうにと思うが考えはまとまらない。
 あの後一護を家に送り届け、ギンはまたねと去っていった。二度と来るなと怒鳴ったけれど、死神にもならず報復しない自分の気持ちにも困惑する。
 一護は大きく溜息を付き、代行証を机の上に投げ、ベッドに横になって目を閉じた。

             カレードトップ