霧雨

 雨の音が微かに静かな部屋の中に響いてくる。ガラスの向こうはぼんやりとした霧雨に翳り、時折吹く風が窓に水滴を打ち付けた。
 昼間だというのに部屋の中は薄暗く、明かりでも付けないと本も読めない。だが、蕾は何をするでもなく窓に流れる水滴を見つめていた。
  『…逢えて嬉しいよ……』
 夢の中で逢う永輸樹帝の第九皇子は、優しく療げな笑みで想いを伝える。それを見る度に、自分の胸は痛みと苦しみとを覚えるのだった。それは辛いだけのものではなく、何故か同時に可憐な花の朝露のような甘さにも似て、蕾の心を騒がせる。
 第九皇子の面影に、近しい友人の面影が重なって、蕾は微かに頬を赤く染めた。こんなところでくさくさしているから、こんな変な想いが出てきてしまうんだと、蕾は勢いを付けて寝ころんでいた身体を起こし、外へ出ていった。
 傘など役に立たない細かい雨は、全てを包みぼやかせてしまう。だが、姿は隠せても香りは緑と地の息吹を余計に感じさせていた。
 ポケツトに手を突っ込み、近くの公園まで来た蕾は、雨に濡れて一層美しさを増す花…紫陽花を見て近付いていく。淡い青や紫、赤みがかった白など色とりどりに咲き誇っている。もっとも、紫陽花の色の付いた部分は本当は花びらではなく、萼なのだが。
「雨が嬉しいか…」
「これは花将さま。もちろん嬉しゅうございます。私の姿が一番輝く時ですもの…」
 くすくすと悪戯っぽく笑う紫陽花の花精は、話す度に衣装の模様がゆらゆらと変わっていく。一時蕾に意識を向け笑い掛けていたかと思うと、天を見上げ、飛んでくる蜻蛉を目で追い、と落ち着きがない。花言葉は移り気というのも納得できる。
「でも、嬉しくないという仲間もあるんですよ、おかしいですよねえ、こんなに気持ちいいのに」
「そうか…」
 草花に取って、太陽の光と共に不可欠なのが雨の恵みであるのだから、雨が嬉しくない紫陽花というのは確かにおかしい。どこにその仲間がいるんだと訊いた蕾は、彼女が指さす方向を目指し歩いていった。
 道なりに進んでいくと一件の古い大きな洋館が現れた。錆びて壊れた鉄の門は針金でくくられ勝手に中に入れないようになっている。そこから中を覗くと庭は荒れ放題でとても入が住んでいるようには見えなかったが、表札は付いていた。
 蕾は僅かに躊躇っていたが、ひょいと門を飛び越え中に入っていった。草をかき分け、庭の奥へ入ると、一株だけ赤みを帯びた紫陽花が咲いている。そこに近付こうとした蕾は、誰かに見られている気配を感じて振り返った。
 二階の窓から一人の少年が蕾を見下ろしている。その顔が一瞬第九皇子に見え、蕾は目を見張った。
「…駄目だよ……側にいっちゃ。そこにはお兄ちゃんが寝てるんだから……」
「お兄ちゃん?」
 窓を開けて少年が顔を覗かせた。第九皇子に見えた少年は、蕾の外見とさほど違わない年代で、多少似てはいるが別人である。
 ほっとした蕾は、改めて彼の言葉に疑問を持った。近付くなとは、紫陽花にだろうか。
「そうだよ。ぐっすり寝てるから、起こしちゃだめ。僕がずーっと見張ってるんだ。ずーっと一緒に居られるように」
 ふふと笑って少年は嬉しそうに紫陽花の方を見た。蕾も紫陽花の方を見たが、そこに誰かが寝ている気配は無い。
 蕾は取り敢えず、その場は引くことにして踵を返し外に出た。あの紫陽花の香りには腐臭が混じっている。遠目に見ても花精の姿は確認できなかったし、おかしなことが多い。もう一度、夜になったら確かめに行こうと歩き始めた蕾の上に影が差した。
「いくら君が丈夫だからって、こんな霧雨に濡れていることはないと思うよ」
「東雲…」
 傘を差し掛け、にっこりと笑う友人の姿に、蕾はむっとして眉を潜めた。
「こんな雨など、へでもない」
「でも、濡れっぱなしじゃ、薫どのが心配するだろう。私の家に来て、服を乾かしてから帰った方がいい」
「へでもないと言っているだろうっ!あ、こらっ、人の話を聞け!」
 東雲は蕾の肩を抱き、すたすたと歩き始める。そんな腕を振り払うことなど訳もないのに、蕾は文句を言いながらも東雲について歩き始めた。
「君がこんな天気の日に外に出るなんて珍しいね」
 にこにこと笑いながら言う東雲に、蕾は第九皇子の面影を見出してぷいと横を向いた。まさか、彼とお前のことを考えていたら気が滅入ったとは言いにくい。
「あの家に何か用でもあったのかい」
「…いや…ちょっと気になって」
 服を着替えて出して貰ったお茶を啜りながら蕾は応えた。あの家での出来事を話して聞かせると、東雲も首を捻って考え込んだ。
「あの家は、もうずいふん前から人が住んでいない筈だけど…男の子を見たって?」
「ああ…確かに……」
 東雲の顔を見ていると、第九皇子の顔を思い出す。何故今日はこんなに重なるのだろう、普段は意識をしていないのに。これも天気のせいだと意識を押し込めて、蕾はごくりとお茶を流し込んだ。
「私も行こう」
「…来なくていい」
「君一人じゃ心配だからね」
「来なくていいと言っているだろう!」
「雨もやんだようだし、月が出ているよ」
  いくら怒鳴ろうと一向に応えた様子のない東雲に、蕾はぜーぜー息を荒げ根負けしてしまった。
 いつもこうなのだ。天界の暴れん坊と噂される自分を笑顔と皮肉で負かしてしまう。薫の泣き落としとは別の意味でやっかいなものだ。
 仕方なく東雲を連れてさっきの家まで戻った蕾は、月明かりに浮かぶ庭に咲いている紫陽花の側まで近付いていった。
 霧雨に濡れた紫陽花は普通ならば活き活きとして色も鮮やかに咲いている筈なのに、この花はどこか毒々しい感じがする。気まぐれな紫陽花の花精も、姿が見えない。
「蕾…!」
 いきなり肩を掴まれて蕾は驚いて振り返った。微かに青ざめて東雲が紫陽花の陰の地面を指さしている。そこには白骨と化した人間の指先が地面から現れていた。
「駄目だってば…、お兄ちゃんが起きちゃうよ」
 子供の声に二人は振り返った。さっき窓から顔を覗かせていた少年が不満そうな表情を浮かべて東雲と蕾を睨み付けている。
「あれはお前の兄か?」
「そうだよ、約東なんだもん。僕かお兄ちゃんのどっちかが選ばれて、眠らなきゃいけなかったんだ。花の下でヨウブンになって、キレイになるんだ。カテイのヘイワのためにってママとパパが言ってた」
 蕾は話し続ける少年の言葉に、東雲と第九皇子の宿命を重ね、ごくりと唾を飲み込んだ。東雲も呆然として少年の言葉を聞いている。
「パパもママも喧嘩ばっかりしてたけど、お兄ちゃんが寝てからは喧嘩しなくなったんだ。だから 起こしちゃだめだ」
 くらりと眩景がする。天と地の平和のために犠牲になり続けている第九皇子、立場が違うだけで安穏と生きていていいものかと悩み惑う東雲、その二人のどちらも大切で切り離せないものだと思っているのに、今側に居るのは…
「…君は、お兄さんに逢いたくないのかい?寝ている姿を見てるだけで、いいのか?一緒に笑って話して、遊びたいと思わないのか」
 東雲の低くしっとりとした声が少年に掛けられた。少年は僅かに眉を潜め、東雲を見つめる。
「……もし、君の方がここに眠らなければならなかったら…どう?」
「だって…僕は…」
 苦しげに下を向き口ごもる少年の姿に、苦しむ東雲の姿を重ね、蕾は止めようと手を伸ばし掛けた。だが、東雲は首を振り、少年の下の地面を指し示す。月明かりで自分たちの影はできているのに、少年の下に影は無かった。
「私にも君の気持ちはよく解る…私にも弟がいるからね……私は逢いたいよ、話して遊んで、一緒に居たい…」
 淡々と語る東雲を蕾はじっと食い入るように見つめた。それは世界の理、永輪樹帝でも、大玄大王でもそれを覆すことはできない。
 夢の中でのみ、蕾は第九皇子に逢うことができた。しかし、東雲には逢うことも話すこともできないのだ。
「僕だって…遊びたい……けど、うっうあぁぁっ」
 俯いている少年の後ろに暗い翳りが雲のように沸き起こり、彼を取り巻いた。苦しげに首を掻きむしる少年の姿が見る見る醜い魍魎に変わっていく。
 一声叫んで東雲に飛びかかったそれは、一瞬早く前に立ちふさがった蕾の手で止められた。
「蕾っ」
「花炎祓濯!」
 首根を捕まれた魍魎は、そのまま蕾の放つ炎に灼かれ地面に転がった。二人が見守る中、魍魎の姿は黒い灰となり風に散って、地面に埋まっている白骨と同じほどの骸が残った。
 その指先は、地面から覗いている指を求めるように伸ばされ、触れ合っていた。
「漸く共に居られるようになったね…」
 そう呟くと、東雲はしゃがみ込み、哀しげな笑みを浮かべて二つの手をじっと見つめた。
「いつか、お前も逢えるさ」
 暫く東雲の様子を見守っていた蕾は、ぼそりとそう呟いた。驚いて顔を上げ見る東雲に、徴かに頬を赤らめて蕾はくるりと身を翻す。
「蕾、ありがとう」
「な、何だ!くっつくなっ」
 追いかけてきた東雲が背中から抱きしめ礼を言うと、蕾は焦ってそれを振り解こうとする。だが、東雲の言葉に足を止めた。
「…私には、私にできることをすることが宿命。理を覆すことはできないけれど、嬉しいよ…君の気持ちは、本当に」
「東雲」
 東雲は腕を解くと、蕾を自分の方に向けさせ口付けた。
「できれば目は閉じて貰いたいんだけど…」
 じっと見つめてくる蕾に苦笑して東雲はそう言うと、再び口付ける。抵抗のない蕾を抱きしめ、東雲はゆっくりと甘い唇を味わっていった。
「おとなしいね…」
「…お前はいつも、こんな手で女を騙くらかしているのか」
 冷たい蕾の言葉に、東雲はにっこりと笑って応えた。
「騙したりなんかしないさ…いつでも私は本気だ」
 ふん、と鼻息で応え、蕾は東雲の腕を振り払うと歩き始めた。甘い顔と言葉と態度で女性にもてもての東雲に、いつも透が憤っているのを目にしているから今の言葉にも説得力がない。
「私の部屋に来ないか?独りは寂しい」
「一生独りで寝てろ!」
 そう怒鳴りながらも、蕾の足が家に向いてるのを見て、東雲はふわりと微笑み、隣に並んで歩き始めた。

 あの家には以前両親と双子の兄弟が住んでいたと聞いたのは、次の日警察の事情徴収の場でであった。紫陽花の下からは白骨死体が掘り出され、家の中からも同じ年頃の死体がベッドに横たわっていた。両親は外国へ逃げてしまったらしい。
 そんな話を聞き流して、蕾はロープが張られている紫陽花の側に近付いていった。
「やっと違う色の衣装を纏えるわ。雨も嬉しい、もう寝てなくていいの…ふふふ」
 その紫陽花の花精は蕾に笑い掛け、新品の衣装に身を包み踊るように花の上で舞っていた。                          おしまい


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