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 朝の食堂は何時も活気に溢れざわめいているが、今日は何故かひそひそ話が構行し、静かなのにそのくせ人数はいつもの倍は居るような気がする。
 今も、ちょっと大きめの声を出した人間が慌てて口を押さえ、ちらりとこちらを見て蒼くなっている。その原因は、ここに居る筈のない世界のスーパースター、大空 翼であった。
「へえー、意外に美味しいんだ、ここの食事」
「当たり前だ。誰が管理させてると思う、この寮を」
 にこにこと焼き魚を頬張りご飯を食べる翼に、隣に座っている若島津が応える。げっそりとした表情の若島津は何時もより数倍凄みを増して、周りで話をしている者達への無言の圧力となっている。
「何せ二人が下宿じゃなくて寮に入るって言った途端に、あの人はここの厨房から風呂場から作りなおしちまったんだからな。流石に部屋の方まではできなかったけど」
 翼の前に座っている反町が、行儀悪く箸で若島津を示した。若島津はぎろりと反町を睨み付け、無言で食事を済ませた。
「あ、朝練行くの?俺も……」
「駄目だ。お前、何でここに居るのか判ってるのか? この中に居る間は安全だが、練習場は部外者も入れるんだぞ」
「あ、そっかー」
 そっかー、じゃないだろ、と若島津は溜息を付いて食器の乗ったトレイを持ち立ち上がる。昨晩突然進路予想の全く付かない台風のようにふらふらやってきた翼を、どうにかこうにか無事にここに保護できたのだ。これ以上面倒なことは出来れば避けたい。出来れば、だが。
「反町、今日のトレーニングメニューはお前に任せる」
「ええっ、俺がやるの? 」
「それとも翼の面倒みるか? 俺は構わんが」
「やらせていただきます」
 深々と礼を取って反町は冷や汗を浮かべ、さっさと食器を片づけると外へ飛び出していった。若島津は食べ終わった翼の食器も持ち、カウンターに運ぶと帰る手にはコーヒーを持っている。
 手慣れた行動は何時ものパターンで、一つを翼の前に置くとどさりと椅子に腰を下ろした。
『……どーしてこんな時に、あんたは居ないんです』
 心の中で愚痴をこぼす。昨日今日と日向小次郎は実家に里帰りしていて居ないのだ。さんざん連絡を付けようとしたのだが、家族で旅行に出ているとかでうかつなことに出先の電話番号も聞いていなかった。
『この際、岬でも三杉でもいいから早く来てくれ』
 岬はフランス、三杉はニューヨークに行っている。早くても明日の午後になってしまうだろう。翼のガードは自分一人でも何とかなるとは思ったが、ならなかった時のこの三人の反応が不安だ。
「ごめんね、若島津くん。面倒なことに巻き込んじゃって」
 ふと顔を曇らせて謝る翼に、ずきりと心が痛む。
「とにかく、ここに居る間は手出しできんだろうから、安心してろよ、翼」
「ありがと」
 にっこり微笑まれて若島津は、ちょっぴり幸福になった。周りの状況はともかく、滅多になく翼と二人っきりなのだ。微かに浮かんだ若島津の微笑みに、周囲の会話が一瞬凍り付いたように止まる。
 皆恐い物でも見たように、次にはさーっと波が引くように食堂から出ていき、本当にその場に二人きりとなってしまった。
「で、どうするんだ? 」
「どうしようか? 」
 うーん、と顔を見合わせて考え込んでも浮かばない。昨晩の状態から事態は進展していなかった。

 今年漸く日本でもプロリーグが開幕し、たちまち大人気となったJリーグであったが、まだまだ世界に通用する筈もなく、ワールドカップ予選で敗退してしまった。
 翼達の悲願である日本がワールドカップに出場するには、今大学生であるあの時のライバル達が一斉にプロに入るしか無いのではないか、というのが大方の見方で、大学を中退させてでもうちに入ってくれというお誘いが山のように小次郎や若島津の元にもやってくる。
 大学くらいは出ないと、後のつぶしが利かないじゃないの、と小泉理事に言われるまでもなく二人は当然のように進学したし、卒業までは大学リーグでやるつもりだ。
 他の松山や井沢達もそれぞれ別の大学に進学していてリーグで戦っている。はっきり言って、プロリーグより面白いんじゃないか、というのが事情通の意見だったりする。
 だが、フランスでプロになっている岬やブラジルに渡って大活躍している翼には、億単位の契約金で話を付けようとするチームが多数あった。
 翼は、小次郎達がプロリーグに出るまでは日本に戻るつもりがない、とコメントを繰り返しお誘いを避けている。流石にあんまりブラジルにまで来てやいのやいの言うチームは少なく、あっちに居るだけだったら平和だったのだが。
「翼……?! 」
「こんばんわ、若島津くん」
 新車を買った姉に付き合わされて成田まで交通安全のお守りを取りに行った帰り道、道端でヒッチハイクをしている珍しい姿に、おもしろがった姉が車を横付けしたそこには、思いもしなかった人間が立っていた。
「な、何でこんな所に」
「ちょっと用事があって日本に来たんだけど、成田に着いた途端追っかけ回されちゃって、バスに飛び乗ったのはいいんだけど日本円を持ってなかったんで下ろされちゃったんだ」
 にこにこと事情を告げる翼に、がっくり肩を下ろしながら車の中に入れる。小さなリュックを背負っただけの格好でブラジルから飛んで来たのだろうか。
「あらら、後ろ追っかけてきてるみたいよ」
 運転していた姉がバックミラーを見つつ呟く。えっ、と振り返った若島津は、ものすごい勢いで追いついてくる車に、さっき入った喫茶店に居た男を思い出してぎょっとなった。自分も結構食いつかれている凄腕のスカウトマンだったのだ。
「このまま家までぶっ飛ばしてみる? 」
「姉さん、一週間前に免許取ったばかりだろ。確かこの先にJRの駅があった筈だから、そこで下ろしてくれ」
 なーんだつまらない、と呟く姉にお願いして混雑している駅前に車を向けさせる。信号で追いつかれそうになりながらも隙を見て車から降りた二人は駅に飛び込み、丁度来た快速電車に飛び乗った。
 ほっとして座席に座り、改めて翼をまじまじと見つめる。会ったのは久しぶりだった。幾分痩せたような気がするのは、大人びたせいだろうか。
「どうして日本に?何で連絡してくれなかったんだ。迎えに行ったのに」
「うん」
 返事はしたものの口ごもる翼に、若島津はそれ以上追求せずに黙った。幾つかの駅を過ぎた時、車両を繋ぐ扉を開ける音がして、荒っぽい足音が近付いてくる。
 嫌な予感に振り返るとやっぱり見知った顔の人間とばっちり眼が合って、若島津は素早く翼の手を取り駆け出した。
「あっ、待ってくれ!」
 叫ぶ声を無視して車両から車両へ走り抜ける。途中で止まった駅に飛び降り、中の人間が降りられなかった事を確かめると、ほっと息を吐いた。
「電話で連絡したんだな。これは案に無事に着けるかどうか」
 彼らが次の駅で折り返して戻ってくるかもしれず、自分達が次のに乗ったと考えて待ち受けているかもしれず、若島津は悩んだ結果駅を出てバスに乗り込んだ。時間はかかるがこれでも東京まで出ることはできる。
 もっとも東京へ出れば、翼の顔は知れ渡っているのだから、もっとマークが厳しくなるだろう。どうしようかと迷った結果、途中で降りて東京を迂回するコースのJRを使い、何とかもより駅の一つ手前までたどり着いた。
 ここまでくるのに普通の三倍時間が掛かっている。夜中近くになってしまって余計に人目に付くし、どうせ寮には奴等が張り込んでいるだろう。若島津は寮に電話を掛け、事の次第を反町に連絡すると、人海戦術の強行突破で寮に漸く戻ったのだ。流石の奴等も寮の中にまでは入って来れない。
 そんなこんなでようやっと落ちついたのが夜中の二時過ぎ、それから岬や三杉に連絡を取り、なんとしてでも無事に保護しておかなければただじゃおかないよ、という脅しを聞いてベッドに潜り込んだのは三時を回っていた。
 今朝小泉理事にも連絡を取ったから、少しは何とかなるだろう。だが、油断は出来ない。ここからは出ない方が無難なのだ。
「ね、若島津くん。俺行きたい所があるんだけど」
 一瞬聞かなかった振りをしようと思ったが、真っ正面に顔を向けられにこにこ見つめられては無視できない。若島津はもう一度、ここに小次郎が居ない事を嘆いた。
「せっかく日本に来たんだし、ちょっとでいいから、さ」
 ね、と可愛らしく小首を傾げる。もうすぐに二十歳になろうとしている青年の仕草とは思えない。
「……判った」
 結局勝てない若島津であった。

「じゃ、良い方法があるわ」
 表のマスコミを蹴散らすようにして寮に入ってきた小泉京子は、翼の希望を聞くとにっこり笑って胸を叩いた。その場でスーツのボタンを外し始めた京子を若島津はぎょっとして見つめる。びっくりしたように見ている若島津に、ブラウスのボタンも外し掛けた京子は手を止めて言った。
「若島津くん。何か綺麗なシャツでもジャージでも貸してくれないかしら。流石に男子寮でストリップをするつもりはないのよ」
「え、は、はあ」
 言われるままにごそごそとタンスからカッターシャツを取り出して京子に渡す。驚くほどの早業で着替えた京子は脱いだブラウスを翼に渡した。
「下は無理だけど、上半身なら軽く入るわよね。オーバーブラウスだし。うーん、ちょっと顔も貸してね」
 いそいそとバッグから化粧道具を取り出し、京子のブラウスとスーツの上着を着付けた後翼の顔に化粧を施していく。呆気にとられて見ていた若島津は、どう?と満足そうに微笑む京子から翼に眼を移して絶句した。
「………」
「さて、と。はい帽子。それに着替えのバッグね。これで完璧、いってらっしゃい。服は後で返してくれればいいわ」
「ありがとうございます。小泉さん」
「どういたしまして。すっごく似合うわぁ! 日向くんにも見せたかったわね」
 にこにこと二人で顔を見合わせて笑っている様子が異様に恐いと思うのは、若島津が悪いのではない。それほど似合うのだ。
 くらくらするのを何とか堪え、そーっと寮の駐車場にエスコートしていき助手席に乗せると若島津は車を動かした。
 どうやら表で張っている連中が翼に気付いた様子は無い。ただ、いつもは女っけの伺えない若島津が女連れということで、驚いてはいるようだったが。
 暫くしてもう大丈夫だろうと翼は化粧を落とし、着替える。その頃には目的地に着いていた。車を降りてフェンスに掛けられている鍵を開け中に入っていく。
「翼、その鍵どうしたんだ?」
「三杉くんが、日本に居るときはいつでも自由に使っていいよって貸してくれた」
 武蔵野大学付属の完全私有地にあるサッカー場は、人気がなく閑散としている。東邦付属のサッカー場はマスコミが張り付いているだろうが、ここは盲点なのだろう。翼はさっさと倉庫に向かうと、ポールを取り出して地面に置いた。
「やろう、若島津くん」
「あ、ああ」
 ボールを蹴ると今までの雰囲気とはがらりと変わって、あの時小次郎の猛虎に対する獅子と形容された闘志の炎を纏い、真っ直ぐにゴールを見つめている。そんな翼に、若島津も漸くいつものペースを取り戻し、駆け出すとゴールに入って態勢を整えた。
「いつでもこいっ! 」
「いくよ、若島津くん! 」
 猛然とドリブルで中央から一気にゴールめがけて駆けてくる。その真っ直ぐな、熱い瞳が小次郎を、三杉を、そして自分をも熱く燃え立たせていく。
 若島津の目には、翼の隣を走る岬や、かつての南葛メンバーが見えるような気がした。
「っ! 」
 翼の得意のドライブシュートが打ち込まれ、瞬間反応したものの若島津の指先を掠めてそれはゴールに突き刺さった。ちっ、と舌打ちをしてボールを拾い翼に戻そうとした若島津は、地面に縛る翼の姿にぎくりとなって慌てて駆け寄っていく。
「翼っ!」
「あ、ごめん。大丈夫だよ」
「まさか……足か? 」
 心配げに見守る若島津に、無理に作ったような笑顔を見せ、翼はこくりと領いた。
「しょーがないね。もう持病だから。日本に来たのはこの足をもうちょっと長く使えるようにするためなんだ。みんなで行きたいから」
 みんなでワールドカップへ出る、そして優勝することが夢だった。それは翼だけでなく、あの時戦ったライバル達全員の、きちんと見えているゴールなのだ。
「なら何で直ぐ医者へいかなかった! こんなことしてる場合じゃないだろっ!」
「恐かったんだよ。もう使うなって言われるのが」
 淡々と言う翼に、次第に苛々が募っていく。若島津は翼を抱き上げると、倉庫と隣接している控え室に入っていった。
 そこはさすがに私立の名門だけあってそこらのクラブハウスとは比べ物にならないくらい立派なもので、ソファセットまで置いて在る。その長い方のソファに翼を横たえると、若島津はそっとその足に手を当てた。
「痛むか?」
「今は大丈夫。普通にしてれば平気なんだ。サッカーも騙し騙しやってれば続けられる…けど…それじゃ嫌だから」
 他のことには無頓着な翼だったけれど、サッカーだけは人に負けられないと真剣に勝負してきた。
 サッカーが好きで、それを通じて出会った仲間達が好きで、ライバル達も無くてはならない存在となっていった。だから、全部の力を出しきってやりたい。自分の身体などどうなってもいいから。
 その想いは翼だけには限らない。若島津も小次郎も、みんなその想いは持っているのだ。けれど、翼に人一倍その気持ちが強いのは、自分にはサッカーしかないと思っているからなのだろう。
「馬鹿やろう。独りで全部しょい込むな。恐けりゃ俺も、日向さんだって居るじゃないか。さっさと直しちまえ。絶対使い物にならないなんてことにはさせない」
「若島津くん……」
 若島津は翼をぎゅっと抱き締めた。おずおずと腕が背中に回される感触に力を得て、少し身体を離しそっとロ付ける。
 ほんのりと甘い香りがする唇を味わいながら、若島津は手を背中から腰に撫で下ろした。びくっと翼の身体が跳ね、唇から吐息が漏れる。
「翼……」
 耳元に囁き、若島津は手を翼の背中に回し強く抱き締めた。
「翼くんっ! 」
「何やってるんだっ! 若島津っ」
 身体全部の毛が逆立つような絶叫に、若島津は硬直して動きを止めた。その間に若島津の腕から翼の身体がかっさらわれていく。
「大丈夫?翼くん。まったく油断も隙もありゃしない」
「……み、岬。三杉……何時の間に」
「連絡貰って直ぐチャーター便で飛んで来たんだ。医者に行ってるかと思えば居ないから、ここだろうと当たりを付けてきたんだが」
 凍り付くような三杉の視線に、若島津は冷や汗を流す。だが、岬が翼といちゃいちゃしている様子を目の端に捕らえ、三杉はぎろりとそちらを向いた。
「岬くん、さっさと翼くんを医者の所へ連れていかないと。僕が予約してあるから」
「そうだね。翼くん、はい、手貸すから、大丈夫? 」
 翼に手を貸して歩かせる岬の様子に三杉の目がきりりとつり上がる。呆然とする若島津を後目に、二人は火花を散らしながら翼を挟んで外に出ていった。
「付き合ってくれてありがとう、又後でね」
 最後ににっこり笑って言ってくれた言葉だったが、若島津はただ二人の視線の鋭さに力無く笑って手を振るだけだった。

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