affection -3-
 
 何とか朝練は出たが、昨夜殆ど眠れなかったせいで出来はさんざんだった。それでも何とか出来たのは、用事があるとかで不二が姿を見せなかったからだろう。リョーマは昼食をさっさと済ませると校庭の隅、一番過ごしやすい場所へ行って足りない睡眠を補うことにした。
「朝の用事って何だった」
「え、ああ、くだらない用件だった」
 聞き覚えのある声に、リョーマは目を開いた。丁度自分が寝転がっている場所から死角になっている木の陰で菊丸と不二が会話をしている。
「……二組の子だよね。また振ったの」
「またって人聞き悪いなあ。向こうだって本気じゃないし、僕も興味ないから」
 心臓の鼓動が暴走し始める。胸を押さえ息を凝らして二人に自分のことが分からないよう、リョーマは身を潜めた。別に隠れる理由はないのだが、出て行くタイミングを掴めなかったのだ。
「ほんと不二って興味ない人間はどーでもいいよね。その顔や態度でごまかしてるけど。あの子が本気じゃないって何で分かるのさ」
「何? もしかして好きなの、英二。…名前なんだっけ、あの子」
 菊丸は大きく溜息を付き、やれやれと両手を上げた。不二の声は淡々と続いていく。
「もし本気だとしても、僕にそれが伝わらなければ同じ事だ。付き合っても直ぐにぼろが出る。ちょっと興味があって遊ぶにしてもつまらないよね」
「遊ぶって……つまらないとかそういうんじゃないだろ。好きか嫌いか。不二ってば本気で好きになったこと無いのか」
 憤慨した声で訊く菊丸に、不二は暫く沈黙する。リョーマはその間、何故か早く大きくなる鼓動に戸惑いつつ動けないで居た。
「これからなるかもしれないけど、今はまだ」
 鈍い痛みがリョーマの胸を覆う。訝しげに痛む胸の上のシャツを握り締めたリョーマは、視線を感じて顔を上げた。
「うわ、おチビっ、今の聞いてた」
「こんな所で昼寝?」
 焦る菊丸を後目に、不二は平然とした表情でリョーマを見詰めた。胸の痛みは一際激しくなり、頭まで痛くなってくる。何故痛むのか、この喉元に込み上げる苦しさは何なのか、解らずリョーマはただ不二を睨み付けていた。
「興味……遊びで、あんなことするのか」
「否定はしない」
 その答えにリョーマは大きく目を見開き、不二を見た。暗く激しい失墜感に足下が覚束なくなる。不二の表情は平静で普段と変わりない。ただ僅かに開いた目は、不可思議な彩でリョーマを見詰めていた。
 視界が揺れだし、目頭が熱くなる。それを抑えるように強く目を閉じ、リョーマは脱兎のごとくその場から駆け出した。
 後ろから菊丸の声が聞こえたが、それを振り払い、リョーマは教室へ走り込んむ。午後は授業など耳に入らず、ずっと机に伏せていた。
 部活に出ると菊丸が何か言いたげな表情でリョーマに近寄ってくる。リョーマは菊丸の掛けた声を無視して不二に近付いていった。
「俺と試合してよ」
「いいよ……」
 結局決着はテニスで付ける方法しかリョーマには思いつかなかった。胸を締め付ける重さや痛み、そんなものをどうすれば払拭出来るのか、他に何も思いつかない。
 今日は竜崎が居ないお陰で二人を止める者は居ない。唯一制止しようとした大石は、リョーマの纏う真剣さに渋々頷いた。
「本気で行くから」
「いつでもどうぞ」
 練習をしていたレギュラー含め、みんなリョーマの静かなる激昂に息を飲み静まりかえってコートの中の二人を注目した。
 一つのサーブ、返すレシーブ、ラリーは続きボールは二人の間を行き来してラインを繋げる。テニスならやり方も自分の心も精神も、思った通りに扱える。激情を力に変えて、苦しみを楽しさに変えてボールを打てた。
 今、この心の奥から出てこようとする何か、痛みをもたらすものも変えられればいいのに。でなければ消滅させられたら。
 試合は益々ヒートアップし、二人ともに大業を繰り出し始めた。余裕でリョーマの相手をしていた不二の額にもうっすら汗が滲み出てくる。
「なんか、あの雨の試合の続きみたい」
 ぽつりとカチローが感想を呟いた。ごくりと生唾を飲み、堀尾やカツオも同意するように頷く。だが、レギュラー達はあの時より更に激しい試合内容に、二人の葛藤を勘付いていた。
「何だか楽しそうだな、不二は」
 ノートに書きながら乾がふと呟く。目を離せず試合を見ていた菊丸は、微かに目を眇め顎に手を当てた。
「おチビは……苦しそう」
「えー、二人の試合五分でしょう、どう見ても。いやむしろ越前の方が押してると思うっすよ」
 憤慨して否定する桃城に、菊丸は眉を上げ、どう言ったらいいのか分からないというような顔で口を引き結んだ。確かに傍目にはリョーマが激しく攻めているように見える。
「凄いな、越前。でも、ちょっと飛ばしすぎじゃないか」
 少し不安そうに河村が言うと、同じ事を思ったのか大石が、そろそろ止めた方がいいだろうかと思案して菊丸を見た。
「止めらんないんじゃない」
 吐息を付いて菊丸は頭を振った。今止めても解決にはならない気がする、と菊丸は不二を見た。何となく不二がリョーマに何をしたか解るような気がする。リョーマが何故怒っているのかも。ならばとことんリョーマの気が済むまでさせるしかないだろうと、菊丸は考えた。
「くっ」
 いくら自分が激情のまま攻めても不二は淡々と返してくる。瞳はあの時と同じ真剣さだが、それだけだ。不二の平静さをどうにかして崩し、認めさせたい。
 何を?と自分の心に浮かんだ想いにリョーマは僅かな眩暈を覚えた。困惑するリョーマの目にボールを返す不二の、微かに上がった口角が映る。
 途端にそれの意味を解して目の前が赤く燃え上がり、リョーマは瞬間手が疎かになった。
「危ないっ!」
 誰かの叫びがリョーマの耳に届く。それが思考に回る前にリョーマの意識は真っ白に飛び散った。

『捨てちゃったんだ』
『壊れたから。もう興味無くなったし』
 菊丸の問いに答え、不二は軽く肩を竦めている。リョーマからは背中しか見えずどんな表情をしているか分からない。
「不二先輩」
 何度呼びかけても不二はこちらを向こうとしない。リョーマは業を煮やして手を伸ばし、不二の腕を掴んだ。
『……』
 僅かに振り向いたその顔は、凍り付いた能面のように無表情でリョーマを見下ろしていた。ガラスのように透明な瞳には自分の姿が映っているのに、見えていないようだ。視線が自分を通り越していることに、胸に穴が空いたような空虚感がリョーマの身を包み込む。
『子供みたいだな、不二は。もう飽きちゃった?』
『今度は簡単に壊れないのがいいな』
 薄く笑いながら言う不二が徐々にぼやけてくる。掴んでいる筈の腕が存在を消し、リョーマの手は空を掴んだ。

 茫然と白い空間を凝視していたリョーマは、自分の掌に視線を移し目を閉じた。
 誰かが髪に触れている。柔らかな感触が髪から額に流れ、暫くその場に留まった。リョーマは重い瞼をゆっくりと開くと、額に当てられている手を掴んだ。
「大丈夫? 頭痛くない?」
 リョーマが掴んだ手は額から去り、代わって心配そうな顔が覗き込んでくる。何度か瞬きをして目の前の顔を見たリョーマは、はっとして手を離した。
「な…俺、何で」
「僕のリターン、避けた弾みで転倒して、頭を打ったんだ。先生は軽い脳震盪だから少し寝てれば治るって」
 状況を思い出してリョーマは恥辱に頬を赤く染めた。普通なら何でもないコースだったのに、避けそこなって転ぶなんて。
「どうしてあんたが居るんだよ」
 こういう場合、診ているのは養護教諭か副部長の大石だろう。探すように辺りを見回すリョーマに、不二はタオルを持って立ち上がった。
「先生は用があるって帰った。大石には僕が診てるからって言ったんだ」
 ということは、ここには自分たちだけしかいないのかとリョーマは気付いて微かな不安を覚えた。起きあがろうとするリョーマを制し、不二は濡らしたタオルを額に乗せる。
「まだ寝ていた方がいい」
「大丈夫」
 タオルを手に取り、リョーマは強い目で不二を見詰めた。さっきの恥辱もまだ冷めないのに、これ以上弱った自分を見られたくなかった。
「僕の所為だからね。帰りも送るよ」
「あんたの所為じゃない。一人で帰れる」
 不二を押し除け、リョーマはベッドから足を下ろし立ち上がろうとした。しかし、不二に両腕を掴まれ、びくりと反応してしまう。否が応でもあの時のことが思い出され、微かな恐怖を振り払うようにリョーマは昂然と顔を上げ、不二を睨み付けた。
「ね、楽しかった?」
 唐突に訊かれ、リョーマは目を見開いて不二を見た。口元に湛えられた微笑に、リョーマは怒りとも何とも覚束ない苦みを感じ眉を顰める。
「僕は君との試合楽しかった。また途中で終わって残念だ。ほんと、君って興味尽きない人間だね」 胸がじりじりと焼け付くようだ。何故こんな言葉で心が痛むのか。リョーマの意志で操作できない心の領域を、浸食するように何かが滲み出て表面に現れようとしている。
 心を覆いねじ伏せようにも、見詰める不二の瞳が煽って誘発する。
「興味とかって…何様のつもりだ」
 自分を空気のように無視したあの瞳を思い出して、リョーマは震撼した。興味を満たしたら不二は去っていく。そんな考えが脳裏に浮かび、リョーマは愕然としてしまった。
 離れようが去ろうが、自分には関係ない筈だ。むしろあんなことを二度とされないよう、決着を付けたいと思っていたのに。
「だって興味持つのは当然だよ。好きだからさ」
「俺はっあんたなんか大嫌いだ!」
 思わず口をついて出た言葉にリョーマは息を飲んだ。そして不二の言葉に驚愕する。今、なんと言った? 聞き間違いだろうか。
「そうか…。僕が嫌い? そうだね、憎んでる」
 不二は確かめるように囁いた。リョーマは不二の口元に浮かぶ笑みに訳が分からず混乱する。嫌いと言われて笑むのは何故だ。それより、好き? 自分を?
 混乱の極みに達し、リョーマは事態を打開しようと身を捩らせ不二の手から逃れようとした。不二はあっさり腕を放したかと思うと、リョーマの背に手を回し強く抱き締めてきた。
 身体が熱くなり、リョーマは狼狽する。胸の中にも渦巻く熱さは不二の言うように憎悪なのだろうか。わからない。
「何で……」
「嫌いでもいい。僕を見てくれるから」
 耳元に低く聞こえた囁きに、リョーマは呆気に取られて瞠目した。腕の力は強いけれど、振り解けない程じゃない。でも、リョーマは身じろぐのを止めた。
「何それ、意味わかんないよ」
 息を深く吸って、吐いて、心を落ち着かせる。耳に響く血の巡る音が徐々に静まり、心臓もきちんとしたリズムを刻みだした。合わされた不二の胸の鼓動も分かるまで言葉を噤んでいたリョーマは、顔を上げると真意を窺うように見詰めた。
「無関心より憎悪がいい。君は直ぐ別のものに心が行ってしまうから」
 不二は腕を離し、片手をリョーマの頬に寄せると淡く微笑んだ。
「それは不二先輩の方だろ。壊れたら捨てるくせに」
 何のことだと不二の片眉が微かに上がった。リョーマは自分が自覚無く言った言葉に、再び血が逆流するのを感じて顔を伏せようとした。
 それを許さず、不二はリョーマの顔を手で固定し額をくっつける。焦点が合わないのに、不二の瞳だけは吸い込まれるような力を持ってリョーマの瞳に映った。
「捨てないよ。結構物持ちはいいんだ。嫌がられても手放したりしない」
 口付けられ、リョーマは目を閉じた。
 嫌な筈だ。こんなことは気持ち悪くて、変で、強要されるのも力で屈服させられるのも、絶対許せない。
 リョーマは力無く下げていた腕を上げ、拳を握り締めた。唇が離れ、見詰める不二を睨め付ける。不二は口元に笑みを湛えたまま静かに見返した。
「嫌いだ」
「……うん」
 拳を振り上げ不二の顔へ向ける。風を切って放たれたそれは、不二の顔に触れる寸前でぴたりと止まった。不二の髪がふわりと揺れる。
「殴っても、あんたを喜ばせるだけか」
「越前」
 苦笑いを浮かべ、リョーマは呟いた。不二は困惑したように目を揺らめかせ、リョーマの名を呼ぶ。顔を背け目を合わせようとしないリョーマに、不二はまた名を呼んだ。
「無視、し続けたらどうする」
「もっと酷いことするかもね。憎悪で身が焦げるくらいに」
「趣味悪すぎ」
 軽い力で拳を不二の腹に打ち込み、リョーマは脇を擦り抜け歩き出す。唖然としている不二に顔だけ振り向き、リョーマは薄く笑った。
「送ってくれるんでしょ。早く帰ろう」
 応えを待たずリョーマはさっさと保健室から出た。

 興味を無くされるのを怖れているのは誰だろう。
 今はそんなもの無視していよう。
 背後から近付く足音を耳にしながら、リョーマは振り返らず前を見て歩き出した。

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