温泉へ行こう!−6−


 腕を引かれて浴場へやってきた梶尾は、寝不足だったせいか、夜ほどの動揺もなく裸になり露天風呂へ向かった。
 目の前が低い崖になっていて、向かい側の山と下の川が一枚の絵画のように見えている。風呂場の脇から自然に落ちている小さな滝が湯船に白い飛沫を上げていた。
「これは、なかなかだな」
「でしょ。やっぱり綺麗だ」
 自分が見つけたような言い方で嬉しそうにはしゃぐ我夢に、梶尾はやっと目と意識をはっきりさせて見た。朝日と湯気に煌めいて我夢の笑顔が何倍も綺麗に見える。
 そんな風に思ってしまう自分に微かに呆れながら、梶尾は湯の中にゆったりと身体を伸ばした。我夢もその隣に足を伸ばす。そして藤宮も梶尾の反対側に身を沈める。
 暫くのんびりゆったりとした空気が流れ、我夢は漸く温泉に来たなあと、大きく息を吐いた。
「早く平和がくればいいのに」
 ぽつりと隣で呟く我夢の頭を、梶尾はくしゃりと撫でた。こんなふうに、森や川を眺め風に吹かれていると余計にそう思えるのだろう。静かで風の音とせせらぎの音しか聞こえない中、我夢と二人きり(正解は三人)で平和を願うなんて贅沢だなと、梶尾はにこりと微笑んで見つめた。
 が、自分が我夢の頭を撫でているのと同様に、藤宮が肩に手を置いているのを見て、梶尾はむっとする。しかし、せっかく静かに雰囲気を堪能しているものをぶち壊すこともないかと、堪えた。
「おお! 良い眺めだな。なんだなんだ、三人でしっぽりして、男同士じゃ空しいぞ。せっかく男前が揃ってるんだから、女の一人二人ゲットしてこいや」
 静けさをぶち壊したのは、いつものようにハーキュリーズの志摩だった。その後ろから朝っぱらから煩いぞ、と結構趣味人の吉田がどつきながら入ってくる。梶尾は慌てて手を離し、隅の方に寄った。
「そんなこと言ったって、女の人泊まってないんですよ。どうするんですか」
「その辺のキツネやタヌキに化けさせろ」
 志摩の大真面目な言葉に、我夢と梶尾は絶句して見つめた。そのうちに、起き出してきた者たちが、ぞくぞくと露天風呂へやってくる。梶尾は我夢を促して露天風呂から出ると、昨日着ていた服に着替えた。
「あれ、もう入ったん? 随分早いな」
「マコトたち、これから? 今はちょっと入らない方がいいと思うよ」
 やってきた三人に我夢は苦笑を浮かべて浴場の方をちらりと眺めた。脱ぎ捨てられているスリッパの数を確認して、三人は顔を見合わせ溜息を付く。どうやらとことん、一緒になってしまうようだ。
「しょうがない、もう少し後にしようか」
「でも、朝食に間に合わなくなんない」
「大丈夫だろ。朝八時くらいまでは待ってくれるさ」
 それもそうかと三人は踵を返した。
「夕べ、寝られなかったんですか?」
すっとマコトは梶尾の隣に並び、小声で訊ねる。その目には非難の光が僅かに浮かんでいた。
「お、俺は何もしてないぞ」
「語るに落ちるとはこのことですね。別に何かしたんですかとは訊いてないですよ」
 にやりと笑い、マコトはそう言うと藤宮に目を移す。だが、藤宮は三人をまったく眼中にせず、にこにこ話しかける我夢を見つめていた。
「まあ、あいつと一緒で何かある訳ないですけどね。協力してどうこうするとも思えないし」
「き、協力って…」
「三人プレイって世間にはありますからねえ」
 涼しい顔でとんでもないことを言って去っていくマコトに、梶尾は呆然として立ちつくした。顔を赤く染めている梶尾に、我夢が不思議そうな表情で顔を覗き込んだ。
「梶尾さん、逆上せたんですか? 顔赤い」
「あ、ああ、ちょっと長湯はあまりしないからな。それより、散歩にでもいくか」
 ごほごほと咳で誤魔化し、梶尾は我夢に応えた。我夢はまだ怪訝そうに見ていたが、頷くと玄関ロビーの方へ歩き始める。
 だが、ロビーまで来た我夢はぴたりと足を止めて横を見た。そこには良くある土産物が並んでいる。ただ、大きな観光旅館ではないため、それほど数は多くはなさそうだったが、湯気を上げている蒸籠が我夢には大いに気になるようだった。
「ちょっと見ていきましょう」
「え」
 梶尾が止める間もなく我夢は足早にショーケースの方へ向かっていった。仕方ないと梶尾と藤宮も後を追っていく。
「うっわあ、美味そう!」
 我夢は蒸籠の中を覗き込み、感嘆の声を上げた。そこにはうす茶色の田舎饅頭が蒸かされている。お見せの人はにっこり笑い、どうぞと試食用に小さく切られた饅頭を差し出した。
 我夢は嬉しそうにそれを摘んで口に入れる。ほろりと崩れる餡と周りのふかふかした皮が絶妙のハーモニーを奏で…などという御託はともかく、朝が早くて風呂に入りお腹が空き空きだった我夢は、続いてあちこちの土産物を試食し始めた。
「おい、我夢。あんまり喰うと朝飯食べられなくなるぞ」
「大丈夫ですよ。甘いもんは別腹ですから。これも美味しいですよ、梶尾さんもどうですか?」
 別腹っていったって、まだ本腹の方を喰ってないじゃないかと梶尾は呆れ顔になる。
「美味いな」
 わっと梶尾は一歩飛び退いた。いつの間にか藤宮が饅頭をまるまる一個手に持って、食べていたのだ。
「ああっ、藤宮ずるい! 何食べてるんだよ」
「買った」
 ひょいともう一個取り出し、我夢に餌付けをするように差し出す。我夢は非難の目で見ていたが、目の前に蒸かしたての饅頭を差し出されて、まるで尻尾を振る子犬のような表情を浮かべ藤宮を見つめた。
「ありがとう」
「こら、我夢」
 なんですか? と振り返った我夢の頬は、今度はまるで頬袋に餌を詰め込んだハムスターのようにも見えて、梶尾は怒る気力も失せ頭を抱えてああもういいと手を振った。
「あ、梶尾さん。こんなとこに居たんですか」
 店の外から大河原の声が聞こえ、北田と共に入ってきた。これから風呂へ行く途中なのか、タオルを手にしている。
「二日酔いの薬、要ります?」
 頭を抱えているのを見て、北田が心配そうに訊く。梶尾は、別に頭が痛い訳じゃないと言って、ちらりと藤宮と我夢の方を見た。
「大河原さん、北田さん。これからお風呂ですか? 」
「ああ。そろそろ吉田さんたち、上がる頃だからな」
 まだ食べている我夢に納得して、北田は苦笑を浮かべ大河原を促して出ていった。大河原はちょっと未練げに梶尾を見ていたが、ぺこりとお辞儀をして去っていく。あの二人も梶尾さんとお風呂入りたかったのかなあと、我夢は口をもぐもぐさせて見送った。
「でも、いつも一緒に入ってるんだろうし…」
「何?」
 ぼそりと呟く我夢に、梶尾が訝しげな目を向ける。何でもないですと言って我夢は、そろそろ朝食出来てる頃でしょうと歩き出した。
 さんざん試食した後ですぐ朝飯喰うってのかと梶尾は呆れ顔で、またどうぞと愛想良く言う店員に頷き慌てて後を追った。
 朝食の席は何故かサトウ達とは別に、三人分分けて用意されていた。旅館の人が気を利かせたのか、はたまた藤宮が手を回したのか判らなかったが、我夢は一瞬逡巡したものの席に着いた。
 普通の旅館の朝食といった感じのおかずが並んでいるが、久しぶりに自宅で食べるような焼き魚やおひたしに、結構感激して我夢は早速箸を付けた。梶尾と藤宮も黙々と食べている。そこへ、風呂から上がったのかまだ浴衣姿のまま吉田たちが現れどっかりと座った。
「ビール一本付けてくれ」
「お、お銚子の方がいいな」
 ご飯をよそいにやってきた仲居さんに、吉田と志摩が声を掛けた。これ以上まだ飲むのかと呆れた顔で見ていた我夢に、にんまりと笑って志摩が近付いてくる。何事かと身構えた我夢だったが、志摩は梶尾の顔をじーっと見つめると強く肩を叩いた。
「梶尾ちゃん、目が赤いよ。さては、夜中に抜け出して女将さんのとこにでも夜這いに行ったか」
 肩を叩かれ、そう言われた梶尾は思わず喉にご飯を詰まらせてしまった。慌ててお茶を飲む梶尾の背中を我夢が、大丈夫ですかと叩く。
「そんな訳ないでしょう。まったくどういう邪推ですか。これは…」
「…これは?」
 にまにましながら訊く志摩に、梶尾は憮然として何でもありませんと言い、いいからあっち行って下さいと手を振った。
「ほんとだ、目が赤いですね。どうしたんですか」
 我夢も梶尾の顔を覗き込んで訊ねた。間近に我夢の顔が現れ、我夢は箸を止めてしまう。
「枕が代わると寝られないって言ってたけど、ほんとに寝られなかったんですか? せっかく手握っててあげたのに」
 我夢の爆弾発言に、和気藹々と朝食のおかずを肴に飲んでいた面々が硬直する。風呂を終えて入って来かけたサトウ達も、異様な空気に足を止めていた。
「が〜む〜!」
「わーっ、何で怒るんですかっ。梶尾さん、やめて下さいよ!」
 梶尾は箸を置くと我夢の首をわしっと掴み、頭を拳でぐりぐりと小突いた。じたばたと暴れる我夢は、何故梶尾が怒っているのか理解できず、イタイイタイと叫んでいる。
「それくらいにしてあげて下さい」
「あんまり暴れると、埃立ちます」
 梶尾の後ろから冷静な声で北田が話しかけ、大河原が涙声でフォローする。梶尾はぱっと手を離すと、何事も無かったようにまた食事を始めた。
「けほっ、酷いや、梶尾さん」
「我夢、これ以上騒ぎを起こすな。何も言うな飯を食え」
 漸く事態を察してやってきたマコトが的確なアドバイスを与え、隣のテーブルの前に座った。我夢は不服そうな顔をしていたが、周りの凍った空気と好奇の目に、渋々箸を付け始める。食べ始めると今までの騒ぎをすっかり忘れたように、我夢は美味しそうに他のことには目もくれず一心に食べ始めた。
「帰りも一緒なのかな…」
「多分な」
「…怪獣でも出てきてくれれば」
 物騒なナカジの言葉に、マコトとサトウは慌ててその口を押さえた。せっかくのんびりゆったり静かな温泉旅行が、なんでこうなってしまったのだろう。
 一人満足そうな我夢を見つめながら、三人はこっそり溜息を付いた。

 ちゃんちゃん

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