普通の人なら寒さに身を縮めて風をやり過ごしながら忙しげに歩く道を、背筋をぴんと伸ばしまっすぐ前を向いてリズム良く歩いている。すれ違う女性は一様に目を見張り暫くその者の顔に見とれていた。
「広瀬くん、今日の新年会でるんでしょ?」
「ああ、顔を見せるだけでいいと言われたから」
 息を白く吐き出しながら、前を歩く海の肩をぽんと叩いて声を掛けたのは、同じゼミを取っている前田藍だった。
 海のあんまり乗り気ではなさそうな表情にくすりと笑みを浮かべ、藍は並んで歩き始める。美人と言うより可愛らしいという顔立ちの彼女と海が並んで歩く様は、お似合いの恋人同士に見えるのか、先ほどまで羨望の目で振り返っていた女性たちの目に微かに嫉妬の色が浮かんでいる。
「私もあんまり長居したくないんだ。便乗して帰らせて貰うわね、いいでしょ? 」
 にっこり笑って言う藍に、海は僅かに困惑して頷いた。確か、彼女にはしっかり恋人がいる筈であるから、自分目当てに近づいて来ている訳では無いだろう。本当に単に早く帰りたいだけなのかもしれない。
 今朝、今日は午前中だけ講義があるというのにいつまでも寝ている炎を叩き起こして大学まで連れて来たとき、別れ際強く「今日は早く帰ってこい」と言われたのだ。
 それはこっちの台詞だろうが、と言いかけた時には炎は脱兎の勢いで講堂へ走り込んでしまっていた。自分は2限目からの講義なので図書室で調べ物をして今出てきた所である。彼女にそう聞かれるまで、今日新年会があることなどすっかり忘れていた。
 まあ、顔を見せるだけですぐ帰れば、そんなに遅くなることはない。どういうつもりか判らないが、多分また何かねだろうとでも言うのだろう。学生2人がマンションで独立して暮らして行くには結構お金がかかるが、両親に負担は掛けられないとずいぶん倹約していて年末年始もあまり豪勢なことはできなかった。
 バイトはしているようだが、それでも足りなくなってねだってくることがある。ちょっと遅いがお年玉でもせびろうというつもりなのだろう。
「広瀬くんて、随分表情変わるのね…」
「え?」
「何考えていたんだか知らないけど、嬉しそうになったり眉顰めたり…判った、恋人のことでも考えてんでしょ」
 藍の言葉に海は微かに頬を赤らめる。その様子を見て藍は、あらあらもしかしてほんとにそうなの、と口元を押さえて笑った。
「ふふ、じゃあまた後で」
 言うだけ言うと藍は道を分かれて手を振り去っていった。海はやれやれとため息を付き、次の講義へと向かった。


 午前中の講義が終わった炎は、愛用の自転車で近所のスーパーへ走っていった。財布を握りしめ、かごを腕に持ち真剣にあちこちの冷蔵ケースを覗いている。
 一通り夕飯の材料を買った炎は、きょろきょろと辺りを見回し知ってる人間の姿がないことを確認するとお菓子づくりの材料売場へさっと近づいていった。メモを見ながら材料をかごに放り込んでいく。
「…こんなもんでいいんかなあ……」
 お菓子はおろか、ご飯だってまともに作ったことのない炎は、メモ通りに材料を仕入れても今いち不安で目をうろうろと置かれている材料の上に走らせた。
「何やってんの?こんなとこで」
「うわあっ!…ま、マリア…」
 ぽんと背中を叩かれて炎は飛び上がった。びっくりして見ているマリアに、判別の付かない言葉をもごもごと言うと炎はダッシュでレジに走っていく。唖然としてそれを見送った真理亜は、炎が眺めていた棚を見て首を捻り呟いた。
「お菓子の材料?……趣味変わったのかしら…」
 レジを済ませた炎は、買い物袋を抱え一刻も早くスーパーから離れようと自転車を走らせた。息を切らせて自分たちの住むマンションまで来ると階段を駆け上がり、部屋へ入る。
 はー、と息を吐いてダイニングテーブルに腰を下ろした炎は、バッグから一冊の大きな本を取り出すと、ぱらぱらとめくって目的のページを広げた。
 そこに出ている写真は大きな美味しそうなケーキである。暫くじーっとそれを眺めていた炎は、よっしゃと腕まくりをするとエプロンを取り出し身につけた。
 昨日突然ケーキを作ろうと思い立ったのは、今日が海の誕生日だからだ。ほんとなら何かプレゼントを買えばいいのだが、海は何が欲しいのか見当も付かないし、小遣いもあまりない。ならば、いつもいつも家事他一切海にやってもらっているのだから、今日くらいは自分がやってやろうなどと思いつき、ついでにバースデーケーキなんかも作ってみようかなどと思ってしまったのだ。
 昨日翼の家で作り方を教わって…翼のお姉さんはなんだかとっても嬉しそうに教えてくれたのだが、海の写真と引き替えに…今日が2度目の挑戦である。
 昨日の今日だから多分大丈夫、などと根拠のない自信を持って作り始めた炎は、慣れない作業に粉にまみれ、砂糖と卵で手はべたべた、ベーキングパウダーを入れすぎたと慌てて取ったら、中身も余分に取ってしまって量が少なくなったりと、あらゆる失敗をしながらなんとか型に流しオーブンに突っ込んだ。
 はああ、と脱力して時計を見るともう6時に近い。夕飯のおかずは刺身の盛り合わせと冷凍唐揚げくんという手抜きだが、その分ケーキに力を入れればいいやと、盛りつけに使ういちごを洗い始めた。


 新年会の会場は大いに盛り上がっていた。普段滅多に顔を出さない海と藍が揃って出席しているのだから、それを目当てにいつもは来ない連中も来ている。
「おお、広瀬、まあ飲め!」
「いえ、まだ未成年ですから」
 すっかり赤い顔で酒を勧める教授に、やんわりと海は断った。顔を見せるだけでいいと言われて出席したのだが、さっきから帰ろうとすると強引に引き留められる。普段のコンパではなく、新年会だからだろうか、みんなのピッチもいつもより早いようだ。
「あれ、広瀬くん確か今日誕生日じゃなかった?」
 藍の言葉に、海はそういえばと思い出した。うっかり忘れていたが、今年は二十歳の誕生日、酒もたばこも選挙権も与えられる年齢なのだ。
「じゃあ遠慮するな。解禁になったんだろ、それとも私の酒は飲めないというのかね」
「…いただきます」
 断る口実が無くなって海は仕方なく杯を受け取った。酒を飲んだことがない訳ではないが、量をこなしている訳でもないので、お猪口に一杯の熱燗だけで喉の奥がカーっと火照る。
「ちゃんと飲めるじゃないか、ほらもう一杯」
 嬉しそうに言う教授に再び注がれて海は内心吐息をつきながら飲んだ。それを見ていた周りの連中、特に女性たちが次々に注ぎに来る。一人だけ断る訳にはいかず、律儀に注がれるまま飲んでいた海は、次第に身体中が熱くなってきてしまった。
「済みません…ほんとにもう、いいですから…」
 ふと藍の声が耳に入り、海は先刻の約束を思い出して彼女の方を振り返った。藍の顔色はあまりよくない。海は立ち上がると自分のコートと藍のコートを取り、彼女の方に近づいていった。
「広瀬?」
「済みません、そろそろ帰ります。彼女を送っていきますから」
 きっぱりと言い切る海に、引き留めようとしたみんなも口を閉ざした。しかし、藍と海がどういう関係なのかと、興味津々のように二人を見つめている。
「失礼します」
 外へ出ると冷たい風が火照った顔に気持ちよく流れていく。ふう、と大きく息を吐き藍は海に、にこりと笑い掛けた。
「ありがとう」
「あ、いや…ちょっと遅くなってしまった。すまない」
 時計を確認すると、既に10時を回っている。こんな遅くなるつもりはなかったのに、いつの間に時間が過ぎたのだろう。藍は首を振ると、海から離れて一人で帰ろうと歩き始めた。
「恋人は迎えに来ないのか?」
「…来ないわ……あの人は…。大丈夫一人で帰れるから」
 ふっと表情が暗くなり、ぽつりと呟く藍の手を海は思わず取っていた。驚いて振り向く藍に、海は送っていくと言ってそのまま歩き始める。
「大丈夫だって…あ…」
 海の腕を振り解こうとした藍は、勢い余ってふらふらと歩道に座り込んでしまった。かなり酔っているようで、身体にきているらしい。海は再び彼女の手を取ると、有無を言わせずタクシーを停めて乗り込んだ。
「…いいの?早く帰るんじゃなかったの?」
「後で連絡を入れるから、気にするな。そんな酔っぱらった君を一人で帰すわけにはいかない」
 藍に言いながら海は炎のことを考えたが、こんな場合は仕方がないと、タクシーの運転手に行き先を告げた。


 10時を告げる時計の音に、炎はじーっとそれを睨み付けた。睨んだからといって時間が止まる訳でも、早まる訳でもないが、何かに当たらなければ腹の虫は収まらない。
 料理は温めればいいだけになっている(もっとも、冷凍食品だからあたりまえだが)。奮闘の末に作り上げたケーキは暖かい室内に置いてあったせいか、元から飾り付けのクリームの形が変だったのがちょっと溶けて余計に変な形になっている。でも味は保証付きさと、誰にでもなく呟いた炎は、再び時計を睨み付けた。
 急にゼミの調べ物が入ったとしても、遅すぎる時間だ。もしかして事故かと思って大学に問い合わせてみたけれど、そんな報告はされてないとのことだった。
 一緒に食べようと思ったから、ずっと我慢していたけど腹の虫は限界を通り越している。我慢するのも待つのも嫌いなのに、なんでこんなことしてるんだろうとテーブルに突っ伏した耳に聞こえてきたのは11時を告げる時計の音。
 いくらなんでも、もう帰ってくるだろうと耳を澄ませて廊下を歩いてくる足音を聞く。けれど聞こえてくるのは、下の階の住人が時折扉を閉める音だけ。
「ちくしょー、カイのばっかやろー…早く帰って来いよお…」
 呟きは時計の針が進む音に混じり、一体となって消えていった。


「せっかくだからお茶でも飲んでいって」
 ふらふらと揺れる藍をマンションの部屋の中まで送り、ソファに座らせて戻ろうとした海は急に強く腕を引かれて引き留められた。
「…一人暮らしの女性の家に、恋人でもない男がいつまでも居ては誤解されるだろう。早めに寝た方がいい」
「……今日、早く帰りたかったのは、彼と出会った記念日だったからなの。今日お祝いしようねって言ってたのに、午後急に仕事が入っていけなくなったって連絡がきて…喧嘩しちゃった」
 くすりと笑いながらも藍の目は涙ぐんでいる。なんと言っていいか困ってしまった海に、藍はごめんなさいと謝ると、冷蔵庫から高そうなシャンパンを取り出して袋に入れ渡した。
「送ってくれてありがとう。こっちこそ、私とこんなところに居たら、あなたの恋人に誤解されちゃうわね。もう平気」
 平気といいながらも、辛そうな藍に海はなかなか部屋を出る踏ん切りが付かなかった。が、突然電話が鳴り、それを受けた藍の瞳が明るく輝き出すのを見て、海はそっと外へ出ていく。多分、恋人からの謝罪の電話だろう。海はタクシーを拾いマンションを後にした。
 もう寝ているだろうと足音を響かせず廊下を歩き、鍵を開けて部屋に入った海は、煌々と明かりの付いている中に仁王立ちしている炎を見つけて目を見張った。
「すまない、遅くなってしまった。もう寝ているかと思ったのに」
「早く帰れって言っただろうっ!カイの馬鹿野郎っ!」
 いきなり怒鳴られて海はむっとする。確かに遅くなったのは悪かったが、いつもならカップラーメンでも食べてさっさと寝ているのに、今日に限って待っていたのはやはり小遣いをせびるためかと、海は相手にせずにコートを脱ぎながら自分の部屋に入ろうとした。
「カイ、聞いてんのかっ!」
「だから謝っただろう。はずせない用事ができたんだ。話は明日聞くから、今日はもう寝よう」
「食事は…?…酒くせえ……」
「食べてきた。新年会で…そう今日は私の二十歳の誕生日だからとみんなが酒を勧めるんで断れなかったんだ」
 炎の目が見開かれるのを見て、海はふっと自嘲気味に笑った。
「忘れていたのか?まあ無理もない、自分も今日まで忘れていたから…エン?」
 ぐっと唇を噛みしめて拳を握り、俯く炎に海は怪訝そうに声を掛けた。
「……ああ、そうかよ…俺は覚えていたさ……だから…だから……」
 炎の言葉に海は驚いて手を伸ばした。だが、炎は身を引き、海を悔しそうに今にも泣きそうな目で睨み付けた。
「エン…」
「はは…は…俺ってばっかみてー。一人で浮かれてさ……も、いいや、ねよーぜ」
 そんな顔を見られたくなくて炎は片手で顔を覆うと、ダイニングへ入って扉を閉めた。おなかが空いたのを通り越してもう食欲もない。食べてもらえなかったケーキを処分しようと皿に手を掛けた炎は、その手を握りしめられてはっと振り向いた。
「これは…お前が作ったのか?」
 答える前に海は手を離して指を溶けたクリームの中に突っ込んだ。ひとすくい指に取り、ぺろりと口に含む。
「た、食べるなよっ!もう溶けてどろどろで美味くないんだからっ」
「いや、とても美味しい……すまなかった、ほんとうに。私は鈍感で気が利かなくて、お前を傷つけてしまった…」
 海は背中から炎をぎゅっと抱きしめた。暖かくて強い腕の感触に、炎の凍り付いていた心が解けていく。
「……誕生日おめでとう、カイ」
 ぽつりと言った炎の言葉に合わせるように時計の音が12時を告げる。海は炎の身体を自分の方に向けると、深く口付けた。


つづきはまたのちほど……

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