affection -2-
 
 どれくらい時間が経ったのだろうと、リョーマはぼんやり目を開き首を巡らせた。窓際に立つ人影に、焦って起きあがろうとしたリョーマは、身体に走る痛みに呻いてしまう。
「雨、上がったよ。台風の目かな、雲の切れ間かもしれない」
 今まで有ったことがまるで無かったように、不二はいつもと変わりない口調で告げた。リョーマは顔を顰めながらゆっくり起きあがると、自分の身体を見る。きっちり制服のシャツとズボンが着せられている様に、リョーマは本当は今の出来事は夢だったんじゃないかと思ってしまった。
 けれど、両手首に薄く残っている跡を見てこれが現実だと思い知る。身体の奥に残る痛みや重さも目が覚めたからといって消えなかった。
「まだ、髪は乾かないな」
「何で」
 窓から近付いてきた不二は、リョーマの髪をひと掬い指に取ると確かめるように呟いた。リョーマは頬に朱を注ぎ不二の手を叩き払った。
「濡れたままじゃ風邪引くから。着替えさせたんだけど」
「そういうことじゃなくって、何であんな事したんだ」
 激昂するリョーマに不二は考え込むように顎に手を当てた。まるきり悪びれない様子の不二に、リョーマは怒りが沸き立ってくる。
「一つ、暖かくなるにはあれが最適だと思った。二つ、君に興味があった。三つ、触れたらどうなるか確かめたかった」
「何だよそれ、意味わかんない」
「僕もちょっと驚いてる。考えはあったけど実行できるとは思わなかった」
 リョーマの拳を避け、不二は真面目な表情で応えた。呆れと怒りの混ざった感情を押さえきれず、リョーマは再び力の出ない拳を不二に向ける。その腕を取られ、リョーマは不二の胸に抱き込まれてしまった。
「離せっ」
「送っていくよ。まだふらふらしてるから危ない」
 いいと言うリョーマに構わず不二は、片腕に身体を抱き込むようにしながらもう片方の手で二人分のバッグを持ち部室から出た。
 確かに雨は上がっているものの、まだ暗い雲の中で稲妻が時折光っている。直ぐにまた雨が降り出しそうな天気だ。本格的な台風被害は明日になるだろう。
 道の途中でタクシーを止め、不二はリョーマの家に向かわせた。仕方なく乗り込み黙っていると、不二はリョーマの手に上から自分の手を重ねてくる。慌てて振り払い強い目で睨むと、不二は吐息を付いて微笑した。
 家に着くと何も言わず飛び降りて、玄関に向かう。料金を払っていないが知るものか、とリョーマは怒りを抱えたまま扉を乱暴に閉めた。
 明日不二に会ったらどんな顔をすればいいのか、まだ怒りの収まらないリョーマはシャワーを浴びながらじっと拳を見詰め考えていた。会えば何も言わず殴りかかってしまうかもしれない。普段なら何かされても仕返しはテニスでするだろうが、今回ばかりは手が先に出そうだ。
 流れる湯の道筋に紅い跡を見出してリョーマは低く呻き、拳を壁に打ち付けた。何故もっと抵抗できなかった。何故不二の手に翻弄され快楽を得てしまったのか。この怒りは不二に向けられたものだけじゃなく逃れられなかった自分へのものも含まれていると、リョーマは頭の隅で自覚していた。
「何で……」
 低く呟き、リョーマは全て流れ去ってしまえばいいとばかりにシャワーの勢いを強めた。

 教室の窓に強く風が吹き付ける。雨も断続的に降ったりやんだりしていて、時折豪雨となるそれは授業の声を掻き消してしまった。
「あー、今日は昼で終了。各自気を付けて帰宅するように」
「やったーっ」
 4時間目の授業終了と共に教師が告げると、待ってましたと堀尾が声を上げ飛び上がって喜んだ。そこまであからさまではないものの、他の生徒達も一様にほっとしたような表情でお互い顔を合わせている。
 リョーマは溜息を付くとバッグを手に取り立ち上がった。台風のお陰で朝練は無し、もちろん放課後の部活も無しになってしまった。正直半分ほっとしている。まだ不二と会って平然としていられる自信は無い。
 テニス以外どんなことでも無関心でいられたのに、昨日から頭を占めるのはあの行為の意味と怒りだ。多分、テニスで不二を負かせば忘れられる筈だ、きっと。
「あ、リョーマくん、お昼食べて帰らない?」
 廊下でカチローとカツオに会い、リョーマは面倒そうに首を振ろうとした。だが、堀尾に背中を押され食堂へと向かわされてしまう。
「今帰っても家に誰もいないし、お昼食べそこなっちゃうんだよな。お前もつき合えよ」
「何で俺が」
 いいからいいからと連れてこられた食堂に一歩入ったリョーマは、こちらに背中を向けている人影にびくりと足を止め凝視した。
「先輩達も早退なんか」
 堀尾の大きな声に気が付いたのか、人影が振り返る。見慣れたいつも絆創膏を貼ってある頬の持ち主と、そのペア、そして。
「俺たちも終わり。部活やりたいけどにゃー、昨日もちょっとしか出来なかったし」
 既に食べ終わったのか食器の載ったトレイを持って菊丸と大石が立ち上がる。まだ食べているらしい隣の人物に声を掛け、リョーマ達の方へ向かってきた。
「あれ、不二先輩は一緒じゃないんですか」
「不二は自宅で食べるって言ってもう帰ったよ」
 え、とリョーマが数回瞬きをして見返すと、そこに居たのは何故不二に見えたのか分からない程全く違う生徒だった。緊張していた身体から力が抜けていく。
「お前達、食べたら早く帰れよ。……ああ、越前」
 はい、とよい子の返事をして行こうとするカチロー達の後ろに付いていたリョーマに、大石は声を掛けた。何だろうとリョーマは立ち止まり振り返って見る。
「何すか」
「昨日あまり長く居なかったろうな。珍しく不二がもう少し残るって言うから信用してたんだが」
 リョーマの鼓動が跳ね上がり、握り締めた拳に嫌な汗が滲む。それを気付かれぬよう顔を俯けると、リョーマは小さく首を横に振った。
「直ぐ帰りました」
「そうか、ならいいんだが」
 リョーマの変化に気付かず、大石は手を上げ食堂から出ていく。リョーマは大きく息を付くとカチロー達の待つ席に着いた。
「そういえば昨日不二先輩残ってたね」
「そうそう、珍しいよね、残って練習だなんて」
「なんか必殺技でも編み出してたんじゃねーの」
 そんな訳無いだろうとカツオとカチローが苦笑して堀尾を見る。リョーマにも同意を求めようと視線を向け、俯いている様子に驚いたように声を掛けた。
「どうしたの、具合でも悪い?」
「別に」
 取ってきた掛け蕎麦に箸を付け、リョーマは黙々と食べ始めた。何となく機嫌の悪そうなリョーマに三人は顔を見合わせ、自分たちも食事を取り始める。
 あらかた食べ終わった時、思い出したようにカチローが箸を止め呟いた。
「不二先輩、もしかして待ってたのかも、リ…」
 大きな音を立て、リョーマは椅子から立ち上がった。これ以上彼の名前を聞きたく無い。びっくりして見詰める三人に視線を合わさず、小さくごちそうさまと言うとリョーマは食器を持ってその場から離れた。
「んー良い天気。やっと練習できるな」
 台風一過、夏らしい青空の下で青学メンバーは関東大会決勝のため練習を開始した。桃城の言葉は全員の心の代弁だったが、ただリョーマだけは半分同意、半分は重い気分のまま練習を始める。
 ちらりと隣のコートを窺ったリョーマは、いつもの穏やかな笑みに出会って慌てて視線を逸らした。「越前、コートに入ってサーブアンドボレー練習だ」
 大石に言われ、リョーマはライン際に向かう。ボールを何度か弾ませ向かいのコートを見たリョーマは、思わずそれを取り落とした。
「どうしたの、越前」
 いつの間にか相手側は桃城ではなく不二になっていて、リョーマを不思議そうに見ている。唖然としていたリョーマはボールを拾い、気を取り直してサーブを打った。
「越前、調子悪いのか」
 ボールはコートから大きく逸れて脇で見ていた大石の懐に飛び込んだ。心配そうに訊ねる大石に首を振ると、リョーマは続けてサーブを打つ。ボレーを打つために素早くネットに付いたリョーマは、目の前で飄々とサーブを拾う不二の姿を目にして、あっさり打ち返されたボールをスルーしてしまった。
「くそっ」
 舌打ちしてリョーマは再びライン際へ向かう。背後から微かに笑う気配がして、リョーマは足を止め振り返った。
「久しぶりだから本調子じゃないのかな。一昨日、以来だものね」
 一昨日の部分が強調されたように聞こえるのは自分が意識しているからだろうか。カッと頭に血が上り、リョーマは思い切り不二に向けサーブを打った。ツイスト回転のそれはコートに跳ね返り不二の顔を掠めて後方に飛んでいく。
「越前っ、普通のサーブで打てよっ」
「スミマセン。でも、それくらい先輩なら軽く打ち返せるでしょう」
 驚いて見ていた大石が注意すると、挑発するようにリョーマは不二に言った。不二は笑みを浮かべたまま軽く頷いて構える。
 何でそんな風に笑って見ていられるんだと、くすぶっていた怒りが益々大きくなったリョーマは、再びサーブを打った。手元が狂ったそれはコースを外れ、不二の顔めがけ勢いよく飛んでいく。このままではぶつかるかと思った時、不二はラケットを前に出し燕返しでボールを打ち返した。
「越前!」
 燃える瞳で不二を睨み付けていたリョーマは、大きく息を吐くとラケットを置いて自らグラウンド二十周を宣言しコートから出た。
 これ以上相手をしていたら、自分のテニスまで狂ってしまう。確かにあのことは天地がひっくり返る程ショックだったが、ここまで引きずるとは思わなかった。暴力の一種として受け止めテニスで意趣返ししてしまえば楽になると思っていたのに、自分自身の基盤であるそれまで不二の視線で狂ってしまうなんて。
 走り終えたリョーマがコートに戻ろうとすると、入り口で不二が両腕を組みフェンスに凭れ立っていた。目に入れないよう無視して通り過ぎようとするリョーマの腕を素早く取り、不二は引き留める。「僕のせいかな」
 問いかけに答えず、リョーマは無視して腕を振り払おうとした。けれどしっかり掴まれ、多少の力では解けない。ここで暴れたらまた大石が不審がるだろうと、リョーマはきつく不二を睨み付けた。「自分の胸に聞いてみたら」
 リョーマの答えに不二は目を眇め、胸に手を当てて黙り込んだ。本当に胸に聞いているのかと、リョーマは目を丸くして不二を見詰めた。
「まだ身体が本調子じゃないなら、暫く休んだ方がいい」
「そういう問題じゃないだろっ。あんなことしておいて」
「嫌だった?」
「あったりま…ぇ…」
 不二の悪びれない態度にリョーマはつい大声で怒鳴ってしまった。一斉にみんなが二人の方を振り返り、何事かと眉を顰める。
「どうしたんだ、もめ事か」
 大石が飛んで来て二人を交互に見詰めた。リョーマは不二の手を引き剥がし、俯いたまま騒がせた詫びを言うとコートに戻っていく。その後ろ姿を不二が物思うような瞳で見詰めるのに、大石は首を捻りつつ溜息を付いた。
「勘弁してくれよ。大事な時なんだから」
「大丈夫だよ。問題ないさ」
 安心させるようにっこり笑う不二に、つられるように大石も笑みを浮かべる。激情を抑えるよう呼吸を整えたリョーマは、不審げに見る桃城相手に練習を再開していった。

「不二先輩と何かあったんか」
「別に」
 練習後、いつものように桃城と共に帰宅の途についていた時そう聞かれ、リョーマは即答した。何度か聞こうとして躊躇っていた桃城の様子に、多分いつか聞かれるだろうと心構えをしていたから、普段通りに言えたと思う。
「別にって、お前」
 納得いかないのか鼻白んで言う桃城に顔を向け、微かに笑って見せる。
「この前の練習試合、いつ続き出来るかって話になっただけっス」
 雨に中断され決着が付かなかった試合。あれから何度か試合形式の練習はあったものの、不二相手には無かったなと思い返して桃城は少しだけ納得した。
「越前て不二先輩のこと良く見てるし、氷帝戦で火がついたか? 不二先輩の実力ってあまり見ないし、あの後の部長の試合も凄かったけど、部長が凄いのは当たり前っつーか解ってる。いや解ってるつもりでもあれは凄かったけど」
 取り留めなく話していた桃城は、着いてこないリョーマに気付いて足を止めた。怪訝そうに振り返り呼びかける。
「……俺が、見てる…?」
「ん? 何を見てるって」
 漸く歩き出し追いついたリョーマの呟きに、桃城は首を捻り聞き返した。リョーマは顔を上げ、桃城に真剣な表情で訊ねた。
「不二…先輩を」
「え、あー、いや、何か気付いたら見てるってーか」
「見てないっスよ」
 言下に否定され、桃城は眉を顰め口をつぐんだ。確かに数えていたわけでも見張っていた訳でも無いから、たまたま何度か目にしたというだけかもしれないが、そんなに否定する程のことだろうか、と桃城は視線だけでリョーマに問いかける。
「ま、そーかもしれねーな。俺の気のせいか」
「何か食べていかないっスか」
 リョーマの頑固さを良く知っている桃城は、それ以上問いつめても仕方ないかと、吐息を付いて同意し歩き始めた。
 桃城と別れ自宅へ戻ったリョーマは、ベッドに転がりテニス雑誌を手にしたがぼんやりページを捲りながら別のことを考えていた。
 桃城の言葉が蘇る。自分が良く不二を見ていると言っていた。そんな訳無いと否定しても、半分は認めてしまっている。
 でもそれは興味深いテニスをするからだ。まだ力の全てを見せてないからだと、リョーマは自分に言い聞かせるように思った。彼にそれ以外の興味など無い。決して不二があの時言ったような意味は持って無い。
 不二の自分に対する興味とは何だったのだろう。あんなことをする理由があったのだろうか。暖めるだけなんていうふざけた言い訳は本気の言葉なのか。それとも。
 いつの間にかどんどん不二のことを考えてしまっている自分に気付き、リョーマは雑誌を放り投げ腕で目を覆い隠した。
「ムカツク」
 やっぱりあの時殴っておけば良かったと、リョーマは苦い想いを飲み込んで呟いた。いくら衝撃が大きかったとはいえ、何度か反撃の機会はあったのに出来なかったのは何故だ。
 自分が解らない。
 リョーマは大きく溜息を付き、起きあがってじっと暗くなる室内を見詰めていた。

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